もしもし情報局 > 1966年 > 9月19日 > 野球選手

野村謙二郎の情報 (のむらけんじろう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【4月3日】今日誕生日の芸能人・有名人

野村謙二郎の情報(のむらけんじろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

野村 謙二郎さんについて調べます

■名前・氏名
野村 謙二郎
(読み:のむら けんじろう)
■職業
野球選手
■野村謙二郎の誕生日・生年月日
1966年9月19日 (年齢58歳)
午年(うま年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
大分出身

(昭和41年)1966年生まれの人の年齢早見表

野村謙二郎と同じ1966年生まれの有名人・芸能人

野村謙二郎と同じ9月19日生まれの有名人・芸能人

野村謙二郎と同じ出身地大分県生まれの有名人・芸能人


野村謙二郎と関係のある人

杉永政信: 打者堂林翔太の高いバウンドの三塁ゴロが二塁転送された際、二塁塁審の杉永は一塁走者の田中広輔をアウトと判定、ベンチを飛び出した広島の野村謙二郎監督が帽子を投げつけ抗議したが判定は変わらず、遅延行為を理由に退場処分とした。


江村将也: 試合後、前田が死球によって左手首を骨折していた事を知った江村は、翌日の練習前に広島ベンチへ赴き野村謙二郎監督に謝罪。


田村勤: 駒大では3学年先輩に河野博文と横田真之、1学年先輩に新谷博、1学年後輩に野村謙二郎、3学年後輩に関川浩一がいた。


竹下潤: 駒大では同期の若田部の他、3学年先輩に野村謙二郎、1学年先輩に関川浩一、1学年後輩に鶴田泰と田口昌徳、3学年後輩に高木浩之と河原純一と本間満がいた。


太田誠: 1997年に野村謙二郎がFA権を取得した際、メジャーリーグ球団からオファーがきていたが、電話を使って五時間にわたり説得。


佐々岡真司: 2006年、前年の野村謙二郎の引退により、チーム最年長選手となる。


上岡良一: 翌1987年、3年時の大学選手権準々決勝で山内嘉弘と2年生酒井光次郎両投手擁する近畿大を5-2(延長12回)、準決勝で野村謙二郎や鈴木英之、鈴木望擁する駒澤大を5-1で制し、決勝では志村亮・鈴木哲両投手や大森剛擁する慶応大に2-3で敗れた。


新谷博: 駒大では3学年先輩に白井一幸、2学年先輩に横田真之と先述の河野、1学年後輩に田村勤、2学年後輩に野村謙二郎と鈴木英之(現・関西国際大学硬式野球部監督)がいた。


関川浩一: 駒大では3学年先輩に田村勤、2学年先輩に野村謙二郎、1学年後輩に竹下潤と若田部健一、2学年後輩に鶴田泰と田口昌徳がいた。


ブラッド=エルドレッド: 2013年での退団が濃厚だったが、野村謙二郎監督(当時)が強く要望して残留が決まった為、野村を「ケニー(Kenjiro→Kenny)」と呼んで慕っていた。


今村猛: 偵察要員としての起用のつもりであったが、監督の野村謙二郎が公認野球規則・6-10(b)に明記されている「指名打者は相手チームの先発投手に対して、少なくとも一度は、打撃を完了しなければ交代できない」というルールを失念し、今村はオリックス先発の木佐貫洋が降板しない限り最低1打席は入らなければならなくなった。


松永幸男: 4年時の1987年、第36回大会1回戦では4年新井富夫投手や3年野村謙二郎らの駒澤大に2-9で敗退した。


山内泰幸: 翌2006年には、山本浩二が広島監督辞任に伴い同局の解説者に復帰し、現役を引退した野村謙二郎も解説者に加わり、人的な余裕が出来たこと(2人とも、池谷同様日本テレビ兼任)、二軍コーチへの異動に伴いコーチ業に専念するため番組を降板している。


梵英心: 野村謙二郎を新監督に迎えた2010年は、小窪とのポジション争いが注目される中、オープン戦では打率.227と振るわなかったものの、両リーグ1位の8盗塁を記録し、開幕を2番・遊撃手で迎える。


緒方孝市: 4月22日の対ヤクルト戦で野村謙二郎監督が判定を巡って5分以上の抗議で遅延行為で退場になった際には、監督代行として指揮を執った。


新井宏昌: 辞意を明らかにした際には、「昨年まで(の野村謙二郎監督の下で)は楽しくやることができた。


水谷実雄: 「このメンバーなら、優勝せんといかん」と厳命を受け、野村謙二郎、江藤智、前田智徳、緒方孝市、金本知憲を育て、1991年のリーグ優勝に貢献。


緒方耕一: 1990年には腰痛で長期離脱した篠塚和典の穴を埋める活躍で初の規定打席到達を果たすと共に33盗塁で野村謙二郎と並び初のセントラル・リーグ盗塁王を獲得したが、日本シリーズで一塁に駆けこんだ際にアキレス腱を故障。


菊池涼介: なお、指名の直後には、自身と同じ内野手出身で当時の一軍監督・野村謙二郎が現役時代に着用していた背番号「7」を希望していたが、背番号は「33」となり、2015年に変更を打診された際も現在の番号を着用している。


金森隆浩: 初奪三振:同上、9回裏に野村謙二郎から


川口和久: 左打者には主にアウトコースに投げて三振を取りに行ったが、野村謙二郎との対戦をきっかけに意表を突くためインコースにも投げるようになった。


田中広輔: レギュラーシーズンの一軍公式戦全143試合でフルイニング出場を果たし、広島の遊撃手による一軍公式戦でのフルイニング出場は、1986年の高橋・1994年の野村謙二郎に続いで3人目であった。


津田恒実: バックを守る野村謙二郎をして「津田さんの気持ちが乗り移ったような投球だった。


大森剛: オリンピック選手19人のうち大学生は野村謙二郎、笘篠賢治、大森の3名だった。


藤田太陽: シーズン最終戦でプロ初先発するも、4回を投げてエディ・ディアスと野村謙二郎に本塁打を打たれるなど被安打8, 5失点だった。


天谷宗一郎: 初出場:2004年8月20日、対読売ジャイアンツ22回戦(広島市民球場)、8回裏に野村謙二郎の代走で出場


内田順三: 広島コーチ1期目は一軍時代の1984年にリーグ優勝・日本一に貢献し、二軍時代には小早川毅彦・緒方孝市・野村謙二郎・江藤智や前田智徳・金本知憲らの育成に力を注ぎ、赤ヘル野球の攻撃陣を支えた。


谷繁元信: 地元の広島東洋カープからも熱心に誘われていたが、カープの1位指名は野村謙二郎であった。


正田耕三: 1990年は1番・遊撃手の野村謙二郎に続く2番・二塁手を務め、6月1日の対読売ジャイアンツ(巨人)戦で牽制球を受けて帰塁した際に右肩板を損傷し登録を抹消された が、10日で復帰した。


ダルビッシュ有: 9回表に新井貴浩と野村謙二郎に2者連続本塁打を打たれて完封は逃したが、プロ初勝利を挙げた。


野村謙二郎の情報まとめ

もしもしロボ

野村 謙二郎(のむら けんじろう)さんの誕生日は1966年9月19日です。大分出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

結婚、ドラマ、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。野村謙二郎の現在の年齢は58歳のようです。

野村謙二郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

野村謙二郎のノムケンCHANNEL

野村 謙二郎(のむら けんじろう、1966年9月19日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、野球解説者・野球評論家。日本プロ野球名球会副理事長、広島大学スポーツセンター客員教授も務める。

ソウルオリンピック 野球 銀メダリスト。

1966年9月19日、大分県佐伯市で生まれる。小学校1年の時に投手として野球を始め、小学校から高等学校まで投手を務めた。小学校と中学校では最高学年で主将を務める。野村は後年に「投手としては、少年時代から右の本格派で、ストレート、カーブ、スライダーを武器にしていました」と当時の思い出を振り返っている。また、野村から見て伯父に当たる八木孝がかつて広島東洋カープに在籍していた元プロ野球選手であったことから、小学校時代から毎年のように広島のキャンプを見学していた。周囲からは「県や市の1番では満足するな」と言われていたため、野村は常に高い目標を持って練習していたという。

大分県立佐伯鶴城高等学校へ進学すると、俊足を生かすために右打ちから両打ちに転向した。3年夏は大分大会の準決勝戦で敗れ、3年間とも春と夏の全国大会には出場できなかった。同期のチームメイトに若林重喜がいた。

駒澤大学に進学すると、当時の監督太田誠にセンスを見込まれ打者に転向し、外野手になる。当時は鉄拳制裁も決して珍しくない厳しい指導の一方で、1年の時は左翼手もしくは右翼手としてプレーし、リーグ戦に起用されている。2年時の春季リーグ戦からは中堅手のレギュラーになり、同年の秋季リーグで初めて中堅手としてベストナインに選ばれる。3年時の春季リーグ戦では大石大二郎(亜大)が記録した17盗塁を塗り替える18盗塁のシーズン記録を達成し、2季連続でベストナインに選出された。また、3年時には日米大学野球とアジア野球選手権大会で日本代表に選ばれ、この頃からプロ入りを意識するようになった。秋季リーグ戦では二塁手にも挑戦したため、二塁手としてもベストナインに選ばれている。

4年時には主将を務めた。同時に再び日米大学野球日本代表に選ばれる。のみならず、春季リーグ戦で22年ぶりに東都大学野球リーグ通算記録を更新する52個目の盗塁を決めるなど駒大の完全優勝の原動力となり、満票で最高殊勲選手とベストナインに選出された。駒大では2学年先輩に新谷博、1学年先輩に田村勤、同期に鈴木英之、1学年後輩に鈴木望、2学年後輩に関川浩一、3学年後輩に竹下潤と若田部健一がいた。また、4年時には大韓民国で開催された1988年ソウルオリンピックで大森剛(慶大)と同期の笘篠賢治(中大)ら3人の大学生選出選手の一人として野球日本代表に選ばれる。ちなみに笘篠とは後にプロでもチームメイトになった。このオリンピックではレギュラーに良い選手が揃っていたため、野村は主に代打で起用され、決勝戦を含む3試合で9打数、2安打の成績を残す。決勝戦の対アメリカ合衆国戦では途中代打出場。この時、右打者としてライト前ヒットで1安打を放つも、一打逆転の場面ではジム・アボット投手に抑えられた。

大学での通算成績は、89試合出場、325打数103安打、打率.317、10本塁打、48打点、52盗塁。他にはベストナイン4回の受賞経験がある。なお、春の全日本大学選手権には3年時の1987年と4年時の1988年の2度出場。3年時の大会は、松永幸男投手擁する九州東海大や流経大を下したが、3年上岡良一投手擁する東北福祉大に敗れ準決勝敗退。4年時の大会は、3年有倉雅史投手擁する日体大に敗れ2回戦敗退。一方、秋の明治神宮大会には1年時の1985年(第16回大会)と2年時の1986年(第17回大会)の2度出場。いずれも愛知工大の西崎幸広投手の前に敗れたが、2年時の大会では準優勝を果たしている。大学野球界屈指の野手という評価を得て、石毛宏典2世とも呼ばれ、1988年のドラフト会議では重複指名が予想されていた。結果として広島東洋カープから単独1位指名を受け、プロ入りを果たした。広島は同郷の川崎憲次郎も1位候補として検討していたものの、スカウトマンたちの強い推薦もあって野村を指名した。担当スカウトマンは渡辺秀武で、契約金6000万円、年俸600万円で入団契約を結んだ。背番号は「7」に決まった。

1989年4月9日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)では代走として一軍で初出場し、同年5月4日の対ヤクルトスワローズ戦では6回裏に中本茂樹から一軍での初安打となる中前適時打を放つ。この年は大学時代にも守った経験がある左翼手でプレーした。最優秀新人賞は同期でオリンピック以来の友人の笘篠に譲った。

1990年からは、前年オフにロッテオリオンズへ移籍した高橋慶彦に代わって、遊撃手のレギュラーとなる。オープン戦では失策が多く、公称70kg(当時)より細い外見から来るパワー面の不安なども懸念されていたが、シーズンに入ると攻守に活躍し、4月15日の対読売ジャイアンツ戦では3回裏に宮本和知から一軍での初本塁打となる右越えソロ本塁打を放つ。また、オールスターゲームに初めて選ばれ、第2戦では2番・遊撃手として先発出場した。シーズンでは33盗塁を記録し、自身初のタイトルとなる盗塁王を獲得した。

1991年は全試合出場を果たしただけでなく、31盗塁で2年連続となる盗塁王を獲得。170安打を放って最多安打を獲得し、リーグ4位の打率.324を記録した。また、自身初となるベストナインに選ばれるなど、チームのリーグ優勝の大きな原動力となった。9月10日の対中日ドラゴンズ戦では同点適時打を放った上に好守備も見せ、勝利したチームは首位に立って、そのままリーグ優勝を果たした。この試合は終了後の幸福感も含めて、現役時代で最も印象に残っていると言う。対西武ライオンズとの日本シリーズでは第7戦で最終打者となって日本シリーズ優勝を逃した(工藤公康を相手に三振)ものの、チームトップの打率.333を残してシリーズ優秀選手に選ばれている。この年には年俸が5300万円(推定)となるなど、球団事務所から高い評価を受け、12月7日には2年間交際していた女性と結婚した。

1992年は日米プロ野球の日本代表に選ばれた。1993年には14試合連続安打を記録して、4月に月間MVPに初めて選ばれ、オールスターゲームでは第2戦で優秀選手賞を受賞する。その一方で、シーズンは打率が.266と低迷した。同年は6月3日まで3番を打ち、翌日以降は1番を打っている。

1994年から7年間、広島の主将とチームリーダーを務め、首位打者宣言をしてシーズンに臨んだ。シーズン当初は2番だった打順も6月9日には1番に戻り、2度目の最多安打(タイトル制定はこの年から)と3度目の盗塁王を獲得。球団の遊撃手では1986年の高橋慶彦以来2人目となるフルイニング出場を果たした。年俸はチームメイトの前田智徳には及ばないものの、4500万円の大幅増の1億800万円となり、初めて1億円の大台を突破した。11月には秋季キャンプへの参加を免除されて奥歯の虫歯を集中的に治療し、かみ合わせが改善してインパクト時に力を集中出来るようになった。また、内角球への対応を改善するためにグリップ位置を上げて強く振り切るなど、フォームを改造している。

1995年4月18日に長男が誕生。ヘルメットに長男の名前を書き込んで励みとし、5月には自身2度目となる月間MVPを受賞した。6月3日の対巨人戦では初登板の河原純一から初回先頭打者本塁打を放った。9月1日まで全試合1番で先発出場を続け、9月2日以降は3番に定着。9月22日には当時歴代5位のスピード記録となる857試合目で1000安打を達成した。シーズン後半は腰や背中に痛みを抱えて帰塁が出来ず、盗塁数が減少したが、10月6日の対ヤクルト戦で30盗塁に到達。最終的に史上6人目となるトリプルスリー(打率.315、32本塁打、30盗塁)を記録した。打率.3145はロバート・ローズの.3150と5毛差でリーグ3位、32本塁打はチームメイトの江藤智に次ぐリーグ2位だった。また、守備面の評価も高く、自身初のゴールデングラブ賞を受賞。年末には史上最高(当時)となる1億7000万円で契約を更改し、5年後に金本知憲が抜くまで野村をチーム最高年俸とする不文律が生まれた。同年の契約更改では、主将やチームリーダーとしての働きや、高津臣吾や西山一宇などライバルチームの抑え投手からサヨナラ打を放ったことから、球団事務所からはチームでは最高の貢献度だったと評価されている。

1996年は開幕から7試合で1番として起用されるが、前年に盗塁王を獲得した緒方孝市の存在もあり、4月途中からは主に3番を務めた。7月6日の対ヤクルト戦で二盗を試みた際に左足首を負傷し、担架で運ばれて退場、翌日から3試合を欠場した。歩行にも支障を来たす骨折と疑われたが、球団事務所からは捻挫と発表されて、痛み止めの薬を飲みながら出場を続けた。監督の三村敏之は休養を考えたが、控えに有力な遊撃手がいないことと、野村本人が出場を直訴したことで出場を続けさせた。しかし、左足首を庇ったことで負担がかかり、両足の太腿やふくらはぎにも痛みが広がり、9月に入ると全力疾走出来ない状態になった。チーム成績も負傷前の45勝24敗からその後は26勝35敗と急激に悪化し、この負傷が巨人のメイクドラマを許す原因になったとも言われている。負傷のため、個人成績は芳しくなかったが、年末にはチームを引っ張る働きを評価されて、2000万円増の年俸1億9000万円で契約を更改し、選手会長に就任した。

1997年のオフにフリーエージェント権を獲得。その中で各チームの監督たちは遊撃手の後継者として、野村の獲得を強く望んだとされる。また、アリゾナ・ダイヤモンドバックスとタンパベイ・デビルレイズからのオファーがあった。野村自身も長年メジャーリーグ挑戦の夢を持っていたが、大学時代の監督だった太田からの「自分のための人生だ。ただ、広島と日本プロ野球界のために生きるのもまた人生だぞ」という助言もあり、広島に残留することを決意し、日本人選手では13人目、球団初の2億円プレーヤーとなった。

1998年にソウルオリンピックでチームメイトだった笘篠がヤクルトから移籍し、野村とチームメイトになる。そのことによって、笘篠の刺激を受けた野村は自身のプレーに磨きをかけたという。この年は主に1番を務め、チームで唯一の全試合出場を果たしたが、年俸は現状維持で契約を更改した。1999年5月19日には、当時歴代4位のスピード記録となる1289試合目で1500安打を達成した。9月にはオリンピックアジア最終予選で日本代表に選ばれたが、この年は股関節を痛めたことが原因で5月から欠場が多くなり、レギュラーシーズン中盤には三塁手や二塁手としての先発出場が増えた。8月からは遊撃手に戻ったものの、これ以降、度重なる怪我に泣くこととなる。

2000年には三塁手の江藤智が巨人に移籍し、開幕前のキャンプからは江藤の穴埋めとして三塁手に取り組んだが、同年4月8日の対阪神戦で一塁まで走った際に左足膝裏の肉離れ(実際には筋断裂)を起こし、全治3週間と診断された。5月3日には一軍に復帰したものの、症状が酷かったので、7月24日の精密検査で左足の筋力が右足の筋力の約半分まで落ちていることが分かり、自身初の出場登録抹消を受けて後半戦は欠場した。8月には同じく故障した前田智徳や緒方と一緒に戦列を離れ、アメリカ合衆国のピッツバーグにわたってリハビリテーションに専念した。同年はプロ入り後最低の打率.240、2本塁打、1盗塁に終わっている。

2001年、野村が戦列を離れている間に、遊撃手は東出輝裕、三塁手は新井貴浩がそれぞれレギュラーの座を獲得したため、野村は二塁手に転向し、そのレギュラーの座を木村拓也と争うことになった。開幕前のキャンプ中の2月8日に守備練習で左太腿を痛めてオープン戦は2試合の出場になり、開幕戦は初めて不出場となった。同じ二塁手のエディ・ディアスが打撃好調だった一方、緒方の故障で新井が右翼手に回り、5月9日以降に野村は再び三塁手のレギュラーの座をつかんでいる。

2002年4月末に右太腿を痛めて約1か月間の二軍生活が続き、後半は代打や守備固めで主に起用され、出場試合数が100試合を切ると同時に打率も.211と低迷したが、遊撃手のライバルである東出にも守備面などで積極的にアドバイスを送っていた。

2003年3月29日の対ヤクルト戦で守備の際に左内腹斜筋に全治3週間の挫傷を負い、4月2日に出場選手登録を抹消された。シーズン終盤には右太腿痛もあって、戦列を離れることが長くなり、オフには野球協約の上限を上回る33%減の1億円で契約を更改した。なお、同年7月に山本浩二の監督続行が決まった際には、オーナーの松田元が次期監督候補が野村であることを明言している。

2004年1月に黒田博樹と一緒にアメリカ合衆国のアリゾナで自主トレーニングを行い、怪我の防止のためのインナーマッスル強化や股関節の柔軟性向上などに取り組んだが、6月19日の対ヤクルト戦で三塁ゴロを処理した際に右膝を痛めて出場選手登録を抹消されるなど、同年も怪我に泣いた。年末には現状維持で契約を更改している。

2005年は、年齢的な衰えと守備の負担軽減のために一塁手にも挑戦し始め、開幕前のキャンプの紅白試合では捕手も務めた。同年の1月から記録達成に向けて、周囲の期待が高まっていた。5月には故郷の大分県佐伯市内の某所6ヶ所やそごう広島店にカウントダウンボードが設置され、6月に入ると、広島ガスのインフォメーションプラザで入団からの軌跡を辿る写真展が開催された。残り4本で迎えた6月21日からの地元6連戦では大分県佐伯市の大手前公園で250インチの野外スクリーンにより、パブリックビューイングが行われている。6月23日の対ヤクルト戦(広島市民球場)の4回裏に川島亮から通算2000安打を達成、東都大学野球出身選手では史上初。これを記念して、広島県から県民栄誉賞が贈られた他、広島電鉄が記念のパセオカードを発行している。それ以降は代打の切り札としての出場が多くなり、9月16日に同年限りでの現役引退を表明した。シーズン最終戦である10月12日の対横浜ベイスターズ戦が引退試合となり、満員の観客に野村の背番号の「7」が入ったポスターが配布された。引退試合では1番・遊撃手として先発出場したが、試合の途中からは大学で守った経験がある中堅手に回った。引退セレモニーのスピーチで、「今日集まってる子供たち、野球はいいもんだぞ。野球は楽しいぞ!」という言葉を残した。なお、球団事務所からはこの背番号「7」を永久欠番とすることを打診されたが、野村自身が断り、背番号「7」にふさわしい選手が現れるまでの永久欠番預かりになっていた。その結果、2013年から堂林翔太が背番号「7」を引き継ぐことになった。また、球団事務所の幹部は2009年の新球場オープンに合わせて、野村を監督として招聘する方針をこの時点で打ち出していた。

引退後は2006年から2009年まで広島テレビ放送、日本テレビ放送網、スポーツニッポンで野球解説者を務める一方、2007年の開幕前のキャンプでは広島の臨時コーチとして守備・走塁を指導した。

2008年にはカンザスシティ・ロイヤルズの開幕前のキャンプに臨時コーチとして、白井一幸と一緒に招待されている。同年の北京オリンピック野球競技では解説者としてジャパンコンソーシアムの中継に参加し、10月には第2回WBCの日本代表監督選定会議に若い世代の代表として出席した。初回の会議の後には、現役監督・コーチ以外から選ばれることになるのではないのか、との見通しを語っていたが、次回会議の結果を受けて、原辰徳が代表監督に選ばれている。

2010年から、11年連続でBクラスに低迷する広島の監督に就任した。監督・コーチ歴はなかったが、NPBの監督としては格安とされた前任のマーティ・ブラウンの年俸(40万ドル)を大きく上回った。就任会見では「優勝を目指します。選手にもそう言う気持ちで、Aクラスを目指すと言うのはやめてもらいます」と話し、広島県広島市内の病院で行われた講演会では「優勝したら『普通のことをやったまでです』と言うつもりです」と宣言した。

前年まで成績が奮わなかった梵英心、廣瀬純とオープン戦で活躍した天谷宗一郎、野村自身がアメリカ合衆国でのコーチ研修中に惚れ込み、駐米スカウトマンの反対を押切り、獲得したジャスティン・ヒューバーを開幕からレギュラーに固定した。梵と廣瀬は自己最高の成績を残したが、天谷と長打力を期待されたヒューバーは結果を残すことが出来なかった。この年の先発メンバーのパターンは95通りにも上り、レギュラーシーズンを通して打線を固定出来なかった。チーム犠打数は球団史上最多の140個、チーム盗塁数も過去15年間で最多の119個と機動力が改善し、1試合平均得点は5年ぶりに3点台を脱却して4.1点になった。守備面でも前年リーグ最下位の100個だったチーム失策数が同3位の82に改善した。

投手陣ではコルビー・ルイスの退団が前年12月に急遽決まった。開幕前のキャンプからレギュラーシーズン序盤にかけて大竹寛、横山竜士、マイク・シュルツ、永川勝浩などの主力の故障が相次いだ。特に大竹については、故障直後は慎重な調整を行っていたにもかかわらず、復帰を急がせて再故障させるなど、選手の体調管理面での批判が多かった。また、中継ぎ投手の起用法にも疑問が投げかけられた。前田健太はチーム史上初の投手成績で三冠を達成したが、チーム防御率は前年の3.59から5年ぶりに4点台後半(4.80)へ、前田健を除くチーム防御率は5.33となり、過去最大の悪化幅(1.21)を記録した。同様に失点が162増の737、四死球は137増えて524個、被本塁打も54多い171本と、いずれも最大幅の増加を記録し、「球団史上最悪の『投手力の後退』」と評された。

最終的なリーグ成績はチーム史上ワースト2位タイとなる84敗(58勝)を喫し、2年連続の5位に終わった。しかし、この年に不調だった投手陣に秋季キャンプでは過酷な練習を課すことを予告するなど、翌年に向けて意欲を見せた。12月7日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載された。

2011年は9月上旬までAクラスを争っていたものの、そこから一気に失速し、リーグ成績は前年と同じ5位に終わった。セ・パ交流戦では10連敗を喫し、その間に50イニング連続無得点という交流戦でのワースト記録を樹立した。

6月26日の対中日ドラゴンズ戦では3回裏に中村恭平のゴロの判定を巡って、審判たちへの暴力行為で退場処分を受けた。翌日、加藤良三コミッショナーより2試合の出場停止処分を受ける。代理監督は高が務めた。

2012年のレギュラーシーズン前半は、阪神の失速も手伝って1997年以来、15年ぶりの前半のAクラス(3位)で折り返した。しかし、9月に8連敗を含む6勝17敗1分と失速し、ヤクルトとの3位争いから脱落し、最終的なリーグ成績は4位、15年連続のBクラスとなった。

2013年も継続して指揮をとり、4年連続のレギュラーシーズン負け越しとなるも、1997年以来16年ぶりのAクラス(3位)となり初のクライマックスシリーズ進出を果たしたが、ファイナルステージで巨人に敗退し、日本シリーズ出場を逃した。

2014年は2年連続で巨人、阪神との優勝争いとなり、9月26日に広島が対阪神戦(甲子園)に敗れたことで巨人の優勝が決まるが、同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出が決定。阪神との2位争いとなるが、シーズン最終戦の10月6日の対巨人戦(マツダ)にも敗れ、3位が確定。10月8日に球団に監督辞任を申し入れ、了承された。進出の決まっていたクライマックスシリーズの指揮を執り監督生活を終えた。この年の勝利数74は球団史上2番目に多い勝利数となった。

再び日本テレビ・広島テレビの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家に復帰。

2015年2月、ボストン・レッドソックスからオファーを受け春季キャンプの臨時コーチとして就任することになった。

2017年4月、広島大学大学院教育学研究科の大学院入試(社会人特別選抜)に合格(教科教育学専攻健康スポーツ教育学専修)。2019年3月、同科(博士課程前期)を修了。

2022年6月、広島大学スポーツセンターの客員教授に就任した。

野村は最多安打3回、最多得点2回、トリプルスリー、通算2000安打を達成するなど、特に現役時代前半は広島のリードオフマンとして大いに活躍した。当時の公称は176センチメートル、75キログラムと、特に体格に恵まれていたというわけではなかったが、それまで主にスラッガータイプの選手が達成していたトリプルスリーを成し遂げた時には、地道なトレーニングによる筋力強化を高く評価されている。野村がプロで実働10年間だった遊撃手での通算打率.293は1,000打席以上ではセントラル・リーグ最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった。思い切りの良い打撃を持ち味とし、賛否両論はあったものの、1番打者として起用されても初球から積極的にストライクを打ちに行った。

深夜のメジャーリーグのテレビ中継を欠かさず見ると言う「メジャーリーグ・フリーク」だったこともあり、ダイナミックなプレーを意識し、三塁打のクロスプレーにはこだわりがあった。なお、俊足を活かすため高等学校の入学と同時に両打ちになったが、目標としていた左打ちには当初はならなかった。バットはミズノテクニクスの名和民夫の作品を使用していた。

プロ入り後はスイッチヒッターとしてやっていくつもりだったが(広島入団当初は両打ち登録だった。)、プロでは当初から左打ちに絞っている。

野村は俊足を誇る選手として名を馳せた。大学時代は東都大学野球リーグでの最多盗塁記録を残し、4年の春には完全盗塁を達成するなど、プロ入り前から走塁技術は高かった。4年の時にはベース1周で13秒8の好タイムを残している。プロ入り後も1989年には4月12日に初盗塁を記録し、5月末までに盗塁企図10に対して成功8と早くから技術が通用している。プロでも通算3回の盗塁王を獲得している。野村も入団から10年間で234盗塁、42三塁打を記録したが、現役時代後半は度重なる脚の故障のために走力が落ち、代走を送られるケースが増えた。

野村は小学校から高等学校までは投手だったが、大学で外野手になりプロ入り2年目の年から内野手になった。またプレーでの思いやりを重視し、特にプロ入り1年目の年は正田耕三との連係プレーを徹底的に練習した。打球が飛んで来る回数や併殺、中継に絡む機会が多いため、打者が打つ瞬間以外は常に360度全方向に注意していた。

広島がかつて本拠地としていた広島市民球場は土のグラウンドだったため、イレギュラーバウンドが多く、平常心を保ち、腰を落としてしっかり捕球することを心がけた。なお、自分の肩が強くないと考えてスローイングを課題に挙げ、ダッシュなどでカバーすることを意識していたという。必ずしも守備の名手という印象を持たれていないが、1990年代前半にはレンジファクターでリーグトップの数値を複数年にわたって記録(1992年、1994年、1995年)するなど、打球をアウトにする能力は高かった。

グラブについてはプロ入り2年目の年から同じグラブを7年間も使うほど強いこだわりを持ち、同じタイプのグラブを使った後輩には井生崇光や甲斐雅人、石橋尚登などがいる。この野村のグラブをベースにしたグラブを江藤と東出が使用し、木村拓也も野村のグラブを参考にしていた。

野村は選手時代の経験を生かした広島伝統の「走る赤ヘル野球」を標榜し、俊足の選手を積極的に上位打線に起用してチーム盗塁数を大幅に増加させ、ブラッド・エルドレッドら外国人との積極的なコミュニケーションの評価は高い。その一方で左右病と揶揄される、相手投手の利き腕によって打順を大幅に変える采配が指摘されることも多かった。この傾向は、予告先発制度が導入された2012年度以降で顕著である。野村のこの采配は、相手投手との相性や自軍の選手の状態に関係なく、積極的に行っているため打順が固定出来ないという批判が目立った。

野村が2022年8月に古田敦也の冠番組である『フルタの方程式』で語ったところによると、「初回からバントするのって何でだろうなと思う」とバント(特に送りバント)が嫌いであるという。投手心理を考えるとプレイボール直後に先頭打者を出したのに2番打者で1アウトを自ら献上するのは理解できないとのこと。野村の主張によると、ある程度プロ野球のエンターテインメント性は考えてバントを嫌っているという。同放送内で、このようなバント嫌いは高校時代までバントばかりの非力な打者であったことによるトラウマではないかと指摘されている。ただし監督時代においては、自軍の先発投手の質次第では先手を取って攻めようと送りバントを行うこともあったため、当時完全に否定しているわけではなく終盤に決勝点を取るためのバントもある程度肯定していた。

愛称はノムケン。小学校からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。1994年からは主将やチームリーダーとしての素質を認められ、フリーエージェント権の取得時には球団事務所も指導者としての期待をかけて、チームの残留を望んだ。

球場外でのトレーニングの時も他の選手に目を配り、若手だった東出や新井が不振に苦しんだ時期には励ましを送っていた。新井は野村について「心から頼れて、とても信用できるんです」と語っている。また、金本知憲がトリプルスリーを記録した際には、経験者としてアドバイスを送り、落ち着きを取り戻させた。

外国人選手と定期的に食事会を催し、常に英語でコミュニケーションをとっている。英語は2006年から2008年にカンザスシティ・ロイヤルズで臨時コーチを務めた際、独学で学んだ。野村は「単語だけで文法はむちゃくちゃ。恥ずかしがらない勇気で通じますよ」と語っており、心をオープンにして外国人選手から信頼を集めており、2014年の本塁打王エルドレッドは「ケニー(野村監督)のアドバイスのおかげ」と野村に感謝している。

姉に元宝塚歌劇団70期生の秋月志保、弟に元社会人野球選手(投手)で日本石油や駒澤大学、環太平洋大学でコーチや監督を務め、2019年の日米大学野球選手権大会日本代表コーチの野村昭彦がいる。

広島市出身で幼少時からカープファンであった柳田悠岐(ソフトバンク)も、憧れの選手に野村の名前を挙げている。

実際に現役を引退したのは2005年だが、2年前の2003年に1度現役引退を申し出ていた。しかし、当時監督だった山本浩二に2000安打まで約150本と迫っていたことを理由に引き止められ、2005年に2000安打を達成し、引退した。

サッカー日本代表監督・森保一とは、広島市南区内の同じ団地に住み、自宅は歩いて2分のところにありそこから30年来の友人。

各年度の太字はリーグ最高

2011年、出場停止2試合(6月28日と6月29日の対阪神タイガース戦=1勝1敗)は通算成績に含まない。その期間の代理監督は高信二。

盗塁王:3回(1990年、1991年、1994年)

最多安打:3回(1991年、1994年、1995年)※正式タイトル制定は1994年。

ベストナイン:3回(1991年、1995年、1996年)

ゴールデングラブ賞:1回(1995年)

日本シリーズ優秀選手賞:1回(1991年)

月間MVP:2回(1993年4月、1995年5月)

優秀JCB・MEP賞:2回(1994年、1995年)

JA全農Go・Go賞:1回(好走塁賞:2004年4月)

IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1995年)

セントラル・リーグ会長特別表彰:1回(2005年)

大分県佐伯市民栄誉賞(1996年3月15日)

広島県民栄誉賞(2005年)

初出場:1989年4月9日、対阪神タイガース2回戦(広島市民球場)、7回裏にロデリック・アレンの代走として出場

初盗塁:1989年4月12日、対横浜大洋ホエールズ2回戦(横浜スタジアム)、7回表に二盗(投手:欠端光則、捕手:市川和正)

初先発出場:1989年5月4日、対ヤクルトスワローズ6回戦(広島市民球場)、7番・左翼手として先発出場

初安打・初打点:同上の試合で6回裏に中本茂樹から中前適時打

初本塁打:1990年4月15日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、3回裏に宮本和知から右越えソロ本塁打

1000安打:1995年9月22日、対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)、5回表にデニー友利から右越え2点本塁打を放ち達成 ※史上181人目(857試合での達成は歴代9位)

100本塁打:1996年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、8回表に山本昌から右越えソロ本塁打 ※史上187人目

1000試合出場:1997年4月16日、対読売ジャイアンツ2回戦(広島市民球場)、1番・遊撃手として先発出場 ※史上340人目

1500安打:1999年5月19日、対阪神タイガース8回戦(米子市民球場)、5回裏に井川慶から左前安打 ※史上77人目(1289試合での達成は歴代5位)

1500試合出場:2001年8月26日、対阪神タイガース24回戦(阪神甲子園球場)、6番・三塁手として先発出場 ※史上133人目

150本塁打:2001年10月6日、対中日ドラゴンズ28回戦(広島市民球場)、4回裏に小笠原孝から中越えソロ本塁打 ※史上119人目

300二塁打:2005年4月1日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回表に佐藤宏志から右中間へ二塁打 ※史上42人目

2000安打:2005年6月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(広島市民球場)、4回裏に川島亮から左前安打 ※史上33人目

250盗塁:2005年7月1日、対読売ジャイアンツ7回戦(東京ドーム)、8回表に二盗(投手:高橋尚成、捕手:阿部慎之助) ※史上37人目

トリプルスリー:1回(1995年)

シーズン150安打以上:7回(1991年、1992年、1994年 - 1998年) ※歴代4位タイ。

5年連続シーズン150安打以上(1994年 - 1998年) ※歴代5位タイ。

4年連続リーグ最多内野安打(1991年 - 1994年)

通算初回先頭打者本塁打:21本 ※歴代10位。

通算初回先頭打者初球本塁打:7本 ※歴代1位。

シーズン初回先頭打者初球本塁打:3本 ※歴代2位。

2試合連続初回先頭打者本塁打(1997年8月21日 - 8月22日)

1試合3犠飛(1996年6月30日) ※日本タイ記録。

3試合連続三塁打(1990年4月8日 - 4月11日)

20試合連続安打(1994年8月3日 - 8月25日)

10試合連続得点(1995年5月13日 - 5月26日)

オールスターゲーム出場:8回(1990年、1991年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年)

7(1989年 - 2005年)

77(2010年 - 2014年)

『野村の考え。やる気にさせる組織の作り方』(2017年4月7日、宝島社) ISBN 978-4800265906

『変わるしかなかった。』(2015年2月、ベストセラーズ) ISBN 978-4-584-13627-0

『広島カープの血脈』(2016年9月24日、KADOKAWA)山本浩二との共著 ISBN 978-4046017932

『広島カープ最強伝説の幕開け』(2016年11月10日、宝島社新書)大野豊との共著 ISBN 978-4800262110

進め!スポーツ元気丸(広島テレビ=コメンテーター、2006年 - 2009年、2014年12月21日 - )

DRAMATIC BASEBALL(日本テレビ<広島テレビローカル放送含む>=解説者)

テレビ宣言→旬感★テレビ派ッ!(現・テレビ派、広島テレビ=スポーツコーナー)

グラン釣 リングでトリプルで釣りい 野村謙二郎 瀬戸内を釣る(2023年12月28日、広島テレビ

ラジオ日本マリーンズナイター(RFラジオ日本=ゲスト解説)

ラジオ日本ジャイアンツナイター(RFラジオ日本=ゲスト解説)

エキサイトベースボール(TBSラジオ = 2015年4月22日「巨人×広島」にゲスト解説として出演)

CBCドラゴンズナイター(CBCラジオ = 2015年6月27日「広島×中日」にゲスト解説として出演)

森林メモリアルヒルズ(2018年) - イメージキャラクターも務める

^ 2022年11月23日の47NEWSインタビューで、『僕が小学校から高校まで投手をしたことがあると一部のインターネット上で紹介されているようですが、それは弟(野村昭彦)のことじゃないですか。僕は野球を始めてから、ずっとショートですよ。』と語っている。

^ 広島市でいう団地は、山を切り崩して造成された一戸建て住宅が建ち並ぶ区域のことを指す。

^ 「日本プロ野球名球会の組織概要」『日本プロ野球名球会オフィシャルサイト』。2022年12月10日閲覧。

^ 「元カープ監督の野村謙二郎さん、広島大の客員教授に」『中国新聞』2022年6月1日。2022年6月13日閲覧。

^ 『週刊ベースボール』ベースボール・マガジン社、2004年4月26日号、P.34

^ 「トリプルスリー達成も「バットに何か細工してる?」と怪しまれた、広島一筋17年プレーの野村謙二郎さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(9)」『47NEWS』2022年11月23日。2022年11月23日閲覧。

^ 『読売新聞』、1988年11月25日付朝刊、P.19

^ 『週刊ベースボール』、2004年4月26日号、P.35

^ 朝日新聞、1984年7月25日付朝刊、P.19

^ 『読売新聞』、1986年11月5日付朝刊、17面

^ 『読売新聞』、1987年5月30日付朝刊、14面

^ 『読売新聞』、1987年10月30日付朝刊、16面

^ 『読売新聞』、1988年5月28日付朝刊、18面

^ 別冊宝島、1545号、2008年、P.67

^ 別冊宝島、1545号、2008年、P.70

^ YouTube 古田&一茂 2人が語るお互いの凄さとは? 松井秀喜&立浪和義伝説も!【ザ・伝説の野球人大全集】にて古田敦也がオリンピック秘話として語る

^ 『週刊ベースボール』、2001年5月7日号、P.41

^ 『読売新聞』、1988年11月18日付朝刊、P.19

^ 『読売新聞』、1988年12月2日付朝刊、P.19

^ 『週刊ベースボール』、1990年5月28日号、P.36

^ 『週刊ベースボール』、1989年12月18日号、P.138

^ 「1990年NPBオールスターゲーム 公式記録」『日本野球機構』。2021年4月7日閲覧。

^ 『週刊ベースボール』、2006年1月2日号、P.102

^ 『週刊ベースボール』、2001年5月7日号、P.42

^ 『読売新聞』、1991年12月6日付朝刊、19面

^ 『朝日新聞』、1991年12月11日付夕刊、P.2

^ 『読売新聞』、1992年9月22日付朝刊、P.20

^ 『読売新聞』、1993年5月8日付朝刊、P.19

^ 『読売新聞』、1993年7月22日付朝刊、P.21

^ 『朝日新聞』、1994年4月17日付朝刊、P.25

^ 「広島、25年ぶり日本S進出!CS歴代最高打率“神ってる”田中がMVP」『サンケイスポーツ』2016年10月16日。2021年4月7日閲覧。

^ 朝日新聞、1994年12月20日付朝刊、広島地方面

^ 『読売新聞』、1995年9月25日付夕刊、P.3

^ 『読売新聞』、1995年7月18日付朝刊、P.21

^ 『読売新聞』、1995年6月7日付朝刊、P.15

^ 『朝日新聞』、1995年10月7日付朝刊、P.28

^ 『週刊ベースボール』、2001年5月7日号、P.43

^ 『読売新聞』、1996年2月6日付朝刊、P.19

^ 『朝日新聞』、1996年10月12日付夕刊、P.3

^ 『朝日新聞』、1996年09月27日付朝刊、広島地方面

^ 『朝日新聞』、1996年12月20日付朝刊、P.23

^ 『週刊ベースボール』、1997年3月24日号、P.41

^ 「【6月23日】2005年(平17) 満身創痍…野村謙二郎 ようやくたどり着いた2000本安打」『スポーツニッポン』。2015年10月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。

^ 『週刊プロ野球データファイル』2011年8号、ベースボール・マガジン社、P.21-22

^ 『週刊ベースボール』、2004年4月26日号、P.37

^ 『朝日新聞』、1998年12月11日付朝刊、P.25

^ 47NEWS (2022年11月23日). “トリプルスリー達成も「バットに何か細工してる?」と怪しまれた、広島一筋17年プレーの野村謙二郎さん プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(9) | 47NEWS”. 47NEWS. 2024年9月1日閲覧。

^ 『週刊ベースボール』、2001年5月7日号、P.40

^ 読売新聞、2002年10月4日付夕刊、P.2

^ 『読売新聞』、2002年9月23日付朝刊、P.24

^ 『中日新聞』、2003年4月2日付朝刊、P.25

^ 『毎日新聞』、2004年2月27日付朝刊、P.5

^ 『産経新聞』、2004年12月11日付朝刊、P.25

^ 『読売新聞』、2005年5月12日付朝刊、大分地方面

^ 『読売新聞』、2005年6月21日付朝刊、広島地方面

^ 『毎日新聞』、2005年6月21日付朝刊、大分地方面

^ 『読売新聞』、2005年7月10日付朝刊、P.32

^ 『朝日新聞』、2005年7月22日付朝刊、広島地方面

^ 『朝日新聞』、2005年10月13日付朝刊、P.30

^ 「野村、集大成 気迫の二塁打」 カープ情報.中国新聞 2005年10月12日.2014年5月15日閲覧.

^ 『中日新聞』、2005年9月17日付朝刊、P.23

^ 『毎日新聞』、2007年2月15日付朝刊、P.23

^ 『読売新聞』、2008年5月3日付朝刊、P.20

^ 『朝日新聞』、2008年10月16日付朝刊、P.18

^ 『朝日新聞』、2008年10月28日付朝刊、P.34

^ 「楽天にとって野村監督は格安だった?日米の有名監督を徹底査定する!」『Number Web』2009年11月25日。2021年4月7日閲覧。

^ 「ブラウン監督契約合意 年俸、出来高を倍増」『中国新聞』2008年10月26日。2008年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。

^ 「野村謙二郎 新監督 就任記者会見」『広島東洋カープ公式サイト』2009年10月14日。2009年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。

^ 「「野村監督『優勝を目指す』原田病院の講演会で熱く」」『週刊西広島タイムス』2010年1月8日。2010年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。

^ 中国新聞 カープ情報 2010年9月22日記事.

^ 【検証】野村カープ元年<下>野手陣の光と影 中国新聞 カープ情報 2010年10月15日記事

^ 【検証】野村カープ元年<中>長期離脱 中国新聞 カープ情報 2010年10月14日記事

^ 状態重視し柔軟起用を 中国新聞 カープ情報 2010年7月6日記事

^ 「二宮清純「プロ野球の時間」 : 第406回 前田健太に真のプロ根性を見た」『SPORTS COMMUNICATIONS』2010年9月28日。2021年4月7日閲覧。

^ 【検証】野村カープ元年<上>歴史的な投壊 中国新聞 カープ情報 2010年10月13日

^ 「広島・野村監督、投手陣強化へ“投げ込み”増やす」『スポーツニッポン』2010年10月16日。2013年11月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。

^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト

^ 「野村監督退場 一塁塁審を両手で突き飛ばす」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2011年6月27日。2013年11月8日閲覧。

^ 「広島・野村監督の続投決定 1年契約で就任4年目へ」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2012年10月23日。2013年11月8日閲覧。

^ 「広島 V逸も2年連続CS決定 藤浪から3得点はCSへ収穫」『スポーツニッポン』2014年9月27日。2021年4月7日閲覧。

^ 「広島 痛恨の逆転負けで3位転落 CS本拠地開催ならず 阪神2位確定」『スポーツニッポン』2014年10月6日。2021年4月7日閲覧。

^ 「野村謙二郎監督 退団のお知らせ」『広島球団公式サイト』2014年10月8日。2014年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月7日閲覧。

^ 「前広島監督の野村氏 アシスタントでRソックスキャンプ参加」『スポニチ Sponichi Annex』スポーツニッポン、2015年2月22日。2015年11月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月5日閲覧。

^ 『Sports Graphic Number』1993年1月20日号、文藝春秋、P.40

^ 『読売新聞』、2006年8月29日付朝刊、P.3

^ 『読売新聞』、1988年5月27日付朝刊、P.18

^ 『週刊ベースボール』、1989年6月12日号、P.34

^ 『週刊ベースボール』、2009年8月3日号、P.24

^ 「“守備の華”遊撃手で最高の選手は?」『Number Web』2010年1月22日。2021年4月7日閲覧。

^ 大久保泰伸「契約打ち切り“危機”から広島“最強助っ人”に 大砲エルドレッドを支えたもの」『Full-Count』2017年7月2日。2017年7月3日閲覧。

^ 『週刊ベースボール』、2012年12月10日号

^ オーダーの組み方と理想の2番打者論を 古田敦也・野村謙二郎・真中満が語る 【監督バイブル】 フルタの方程式 2022/08/30 (2022年8月30日閲覧)

^ スポーツ報知 2013年10月14日付紙面

^ 「春の珍事では終わらせない!広島14年ぶり貯金6 首位堅守」『スポーツニッポン』2014年4月18日。2014年5月15日閲覧。

^ 「環太平洋大・野村監督退任、後任に元西武安藤信二氏」『日刊スポーツ』2018年11月20日。2019年7月2日閲覧。

^ 「侍ジャパン大学代表決まる、明大・森下暢ら24人」『SANSPO.COM』2019年6月23日。2019年7月2日閲覧。

^ 「後半2019年9月2830地区大会記録誌 (PDF)」『Rotary』2019年、58頁。2022年7月17日閲覧。

^ 土地・業者選びのポイント 広島市の住宅団地事情(シリーズ「広島の団地」)、住宅団地の活性化に向けて - 広島市公式ホームページ

^ 「サンフレ森保監督「カープと頑張る」」『デイリースポーツオンライン』神戸新聞社、2012年1月20日。2012年2月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月4日閲覧。

^ 「森保監督、サッカーW杯前の散髪は広島で「ポイチカット」 元カープ監督の野村さんら、ゆかりの地からエール」『中国新聞デジタル』中国新聞社、2022年11月4日。2022年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月4日閲覧。

^ 「森保監督「一生の後悔」 元カープ野村さんが明かす秘話」『日本経済新聞』日本経済新聞社、2022年11月1日。2022年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月4日閲覧。

^ 「阪神 史上初!引き分けコールド CSファーストS球団初突破」『スポーツニッポン』2014年10月13日。2022年3月25日閲覧。

大分県出身の人物一覧

駒澤大学の人物一覧

広島東洋カープの選手一覧

個人年度別成績 野村謙二郎 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)、The Baseball Cube

選手情報 - 週刊ベースボールONLINE

野村謙二郎 (@nomura_kenjiro_) - Instagram

野村謙二郎 - YouTubeチャンネル

石本秀一 1950 - 1953

白石勝巳 1953 - 1960

門前眞佐人 1961 - 1962

白石勝巳 1963 - 1965

長谷川良平 1965 - 1967

根本陸夫 1968 - 1972

別当薫 1973

森永勝也 1974

ジョー・ルーツ 1975

古葉竹識 1975 - 1985

阿南準郎 1986 - 1988

山本浩二 1989 - 1993

三村敏之 1994 - 1998

達川晃豊 1999 - 2000

山本浩二 2001 - 2005

マーティ・ブラウン 2006 - 2009

野村謙二郎 2010 - 2014

緒方孝市 2015 - 2019

佐々岡真司 2020 - 2022

新井貴浩 2023 - 現在

金田正一

稲尾和久

小山正明

米田哲也

梶本隆夫

皆川睦雄

村山実

鈴木啓示

堀内恒夫

山田久志

江夏豊

平松政次

東尾修

村田兆治

北別府学

佐々木主浩

高津臣吾

工藤公康

野茂英雄

山本昌広

岩瀬仁紀

黒田博樹

上原浩治

藤川球児

平野佳寿

山内一弘

榎本喜八

野村克也

長嶋茂雄

広瀬叔功

張本勲

王貞治

江藤慎一

土井正博

高木守道

松原誠

柴田勲

大杉勝男

藤田平

衣笠祥雄

福本豊

山崎裕之

山本浩二

有藤通世

若松勉

谷沢健一

加藤秀司

門田博光

大島康徳

新井宏昌

秋山幸二

駒田徳広

立浪和義

鈴木一朗(イチロー)

清原和博

古田敦也

野村謙二郎

石井琢朗

松井秀喜

田中幸雄

前田智徳

金本知憲

松井稼頭央

小笠原道大

稲葉篤紀

宮本慎也

小久保裕紀

アレックス・ラミレス

中村紀洋

谷繁元信

井口資仁

和田一浩

新井貴浩

福留孝介

荒木雅博

青木宣親

阿部慎之助

鳥谷敬

内川聖一

福浦和也

坂本勇人

栗山巧

大島洋平

1957 豊田泰光

1958 中西太

1959 杉山光平

1960 近藤和彦

1961 塩原明

1962 岩下光一

1963 王貞治

1964 K.ハドリ

1965 林俊彦

1966 長嶋茂雄

1967 D.スペンサー

1968 柴田勲

1969 足立光宏

1970 黒江透修

1971 黒江透修

1972 長嶋茂雄

1973 高田繁

1974 山崎裕之

1975 中沢伸二, 外木場義郎

1976 B.ウイリアムス

1977 福本豊

1978 若松勉

1979 水谷実雄

1980 木下富雄, 山根和夫, 平野光泰

1981 平田薫, 江川卓, 河埜和正

1982 大田卓司, スティーブ, 中尾孝義

1983 田淵幸一, テリー, 中畑清

1984 山本浩二, 高橋慶彦, 福本豊

1985 R.ゲイル, 真弓明信, 長崎啓二

1986 清原和博, 石毛宏典, 津田恒実

1987 石毛宏典, 秋山幸二, 槙原寛己

1988 清原和博, 森山良二, 郭源治

1989 岡崎郁, 香田勲男, 阿波野秀幸

1990 渡辺久信, 辻発彦, 伊東勤

1991 工藤公康, 渡辺久信, 野村謙二郎

1992 石毛宏典, 秋山幸二, 飯田哲也

1993 飯田哲也, 高津臣吾, 潮崎哲也

1994 桑田真澄, H.コトー, 辻発彦

1995 T.ブロス, 池山隆寛, 高津臣吾

1996 大島公一, 鈴木平, イチロー

1997 石井一久, 稲葉篤紀, 池山隆寛

1998 斎藤隆, 石井琢朗, 駒田徳広

1999 工藤公康, 永井智浩, 城島健司

2000 仁志敏久, 村田真一, 高橋尚成

2001 岩村明憲, 石井一久, 真中満

2002 清原和博, 上原浩治, 斉藤宜之

2003 井口資仁, 城島健司, 桧山進次郎

2004 A.カブレラ, 和田一浩, 谷繁元信

2005 渡辺俊介, サブロー, 李承燁

2006 ダルビッシュ有, F.セギノール, 森本稀哲

2007 山井大介, 森野将彦, 荒木雅博

2008 中島裕之, 平尾博嗣, 鈴木尚広

2009 亀井義行, D.ゴンザレス, 小谷野栄一

2010 内竜也, 清田育宏, 大島洋平

2011 杉内俊哉, B.ファルケンボーグ, 和田一浩

2012 長野久義, 阿部慎之助, J.ボウカー

2013 田中将大, 銀次, 内海哲也

2014 柳田悠岐, D.サファテ, 武田翔太

2015 明石健志, R.バンデンハーク, 武田翔太

2016 A.バース, 西川遥輝, 中田翔

2017 柳田悠岐, 内川聖一, 濵口遥大

2018 森唯斗, 柳田悠岐, 中村晃

2019 高橋礼, A.デスパイネ, 松田宣浩

2020 M.ムーア, 中村晃, 柳田悠岐

2021 高橋奎二, D.サンタナ, 杉本裕太郎

2022 吉田正尚, 山﨑福也, 塩見泰隆

2023 森下翔太, S.ノイジー, 山本由伸

2024 筒香嘉智, A.ジャクソン, A.ケイ

1950 金山次郎

1951 土屋五郎

1952 金山次郎

1953 金山次郎

1954 吉田義男

1955 本多逸郎

1956 吉田義男

1957 飯田徳治

1958 岡嶋博治

1959 岡嶋博治

1960 中利夫

1961 近藤和彦

1962 河野旭輝

1963 高木守道

1964 古葉竹識

1965 高木守道

1966 柴田勲

1967 柴田勲

1968 古葉竹識

1969 柴田勲

1970 東条文博

1971 高田繁

1972 柴田勲

1973 高木守道

1974 中塚政幸

1975 大下剛史

1976 衣笠祥雄

1977 柴田勲

1978 柴田勲

1979 高橋慶彦

1980 高橋慶彦

1981 青木実

1982 松本匡史

1983 松本匡史

1984 高木豊

1985 高橋慶彦

1986 屋鋪要, 平野謙

1987 屋鋪要

1988 屋鋪要

1989 正田耕三

1990 緒方耕一, 野村謙二郎

1991 野村謙二郎

1992 飯田哲也

1993 緒方耕一, 石井琢朗

1994 野村謙二郎

1995 緒方孝市

1996 緒方孝市

1997 緒方孝市

1998 石井琢朗

1999 石井琢朗

2000 石井琢朗

2001 赤星憲広

2002 赤星憲広

2003 赤星憲広

2004 赤星憲広

2005 赤星憲広

2006 青木宣親

2007 荒木雅博

2008 福地寿樹

2009 福地寿樹

2010 梵英心

2011 藤村大介

2012 大島洋平

2013 丸佳浩

2014 梶谷隆幸

2015 山田哲人

2016 山田哲人

2017 田中広輔

2018 山田哲人

2019 近本光司

2020 近本光司

2021 中野拓夢

2022 近本光司

2023 近本光司

2024 近本光司

1994 野村謙二郎

1995 野村謙二郎

1996 A.パウエル

1997 L.ロペス

1998 石井琢朗

1999 R.ローズ

2000 R.ローズ

2001 石井琢朗

2002 清水隆行

2003 A.ラミレス

2004 嶋重宣

2005 青木宣親

2006 青木宣親

2007 A.ラミレス

2008 内川聖一

2009 A.ラミレス

2010 M.マートン

2011 M.マートン

2012 坂本勇人, 長野久義

2013 M.マートン

2014 山田哲人

2015 川端慎吾

2016 菊池涼介

2017 丸佳浩, J.ロペス

2018 D.ビシエド

2019 大島洋平

2020 大島洋平

2021 近本光司

2022 佐野恵太, 岡林勇希

2023 牧秀悟, 中野拓夢

2024 長岡秀樹

1950 白石勝巳

1951 平井正明

1952 平井正明

1953 平井三郎

1954 広岡達朗

1955 吉田義男

1956 吉田義男

1957 吉田義男

1958 吉田義男

1959 吉田義男

1960 吉田義男

1961 河野旭輝

1962 吉田義男

1963 古葉毅

1964 吉田義男

1965 吉田義男

1966 一枝修平

1967 藤田平

1968 黒江透修

1969 藤田平

1970 藤田平

1971 藤田平

1972 三村敏之

1973 藤田平

1974 藤田平

1975 三村敏之

1976 三村敏之

1977 河埜和正

1978 高橋慶彦

1979 高橋慶彦

1980 高橋慶彦

1981 山下大輔

1982 宇野勝

1983 高橋慶彦

1984 宇野勝

1985 高木豊

1986 高橋慶彦

1987 宇野勝

1988 池山隆寛

1989 池山隆寛

1990 池山隆寛

1991 野村謙二郎

1992 池山隆寛

1993 池山隆寛

1994 川相昌弘

1995 野村謙二郎

1996 野村謙二郎

1997 石井琢朗

1998 石井琢朗

1999 石井琢朗

2000 石井琢朗

2001 石井琢朗

2002 井端弘和

2003 二岡智宏

2004 井端弘和

2005 井端弘和

2006 井端弘和

2007 井端弘和

2008 鳥谷敬

2009 坂本勇人

2010 鳥谷敬

2011 鳥谷敬

2012 坂本勇人

2013 鳥谷敬

2014 鳥谷敬

2015 鳥谷敬

2016 坂本勇人

2017 田中広輔

2018 坂本勇人

2019 坂本勇人

2020 坂本勇人

2021 坂本勇人

2022 中野拓夢

2023 木浪聖也

2024 長岡秀樹

1972 バート

1973 藤田平

1974 河埜和正

1975 藤田平

1976 山下大輔

1977 山下大輔

1978 山下大輔

1979 山下大輔

1980 山下大輔

1981 山下大輔

1982 山下大輔

1983 山下大輔

1984 平田勝男

1985 平田勝男

1986 平田勝男

1987 平田勝男

1988 立浪和義

1989 川相昌弘

1990 川相昌弘

1991 川相昌弘

1992 池山隆寛

1993 川相昌弘

1994 川相昌弘

1995 野村謙二郎

1996 川相昌弘

1997 宮本慎也

1998 石井琢朗

1999 宮本慎也

2000 宮本慎也

2001 宮本慎也

2002 宮本慎也

2003 宮本慎也

2004 井端弘和

2005 井端弘和

2006 井端弘和

2007 井端弘和

2008 井端弘和

2009 井端弘和

2010 梵英心

2011 鳥谷敬

2012 井端弘和

2013 鳥谷敬

2014 鳥谷敬

2015 鳥谷敬

2016 坂本勇人

2017 坂本勇人

2018 田中広輔

2019 坂本勇人

2020 坂本勇人

2021 坂本勇人

2022 長岡秀樹

2023 木浪聖也

2024 矢野雅哉

1950 岩本義行, 別当薫

1953 中西太

1983 簑田浩二

1989 秋山幸二

1995 野村謙二郎

2000 金本知憲

2002 松井稼頭央

2015 山田哲人, 柳田悠岐

2016 山田哲人

2018 山田哲人

30 前田祐吉

40 伊藤義博

50 小林秀一

1 武田一浩

14 鈴木哲

上岡良一

益田明典

17 山内嘉弘

18 志村亮

21 渡辺正和

19 古田敦也

23 田中学

3 山路哲生

4 加藤豊

5 長嶋一茂

6 野村謙二郎

7 大森剛

矢作公一

10 猿田和三

8 加藤健

11 大豊泰昭

22 大塚孝二

24 中村大伸

30 鈴木義信

31 山中正竹

32 太田誠

12 伊藤敦規

14 高柳出己

15 上原勝男

16 萩原健吾

18 鈴木哲

19 渡辺正和

21 内田敏弘

22 石井章夫

23 古田敦也

1 西正文

2 長嶋一茂

3 若井基安

5 飯田孝雄

6 野村謙二郎

8 磯部寿夫

10 筒井大助

20 中島輝士

25 金久保隆治

24 宮里太

27 鶴岡昌宏

松田博明

伊藤義博

竹内昭文

上岡良一

志村亮

湯舟敏郎

葛西稔

小林昭則

酒井光次郎

長谷川滋利

金賀孝

瀬戸輝信

大川清

小川泰生

渋谷寿成

十河章浩

野村謙二郎

山路哲生

大森剛

長谷高成泰

新宅則和

笘篠賢治

福田英彦

大塚孝二

内匠政博

山崎繁孝

30 鈴木義信

31 川島勝司

32 山中正竹

11 潮崎哲也

12 渡辺智男

14 鈴木哲

15 菊池総

16 吉田修司

18 石井丈裕

19 野茂英雄

20 古田敦也

22 應武篤良

1 西正文

2 葛城弘樹

3 米崎薫臣

6 野村謙二郎

9 小川博文

10 筒井大助

28 大森剛

8 中島輝士

21 前田誠

25 松本安司

27 笘篠賢治

30 鈴木義信

31 川島勝司

32 山中正竹

11 潮崎哲也

12 渡辺智男

14 鈴木哲

15 菊池総

16 吉田修司

18 石井丈裕

19 野茂英雄

20 古田敦也

22 應武篤良

1 西正文

2 葛城弘樹

3 米崎薫臣

6 野村謙二郎

9 小川博文

10 筒井大助

28 大森剛

8 中島輝士

21 前田誠

25 松本安司

27 笘篠賢治

30 大田垣耕造

33 林裕幸

34 野村収

35 長崎慶一

11 高橋薫

12 森憲久

15 石川雅規

16 山田秋親

18 松坂大輔

19 杉浦正則

20 川越英隆

23 小池秀郎

21 阿部慎之助

22 的場直樹

27 古田敦也

1 平馬淳

2 工藤賢二

3 松中信彦

4 高橋賢司

6 初芝清

7 野村謙二郎

8 沖原佳典

9 阿部真宏

5 井出竜也

10 梶山義彦

24 飯塚智広

25 鷹野史寿

26 赤星憲広

1位:野村謙二郎

2位:佐藤裕幸

3位:畝龍実

4位:近藤芳久

5位:江藤智

6位:千代丸亮彦

VIAF

日本

CiNii Books

CiNii Research

日本の野球選手

広島東洋カープ及び広島カープの選手

盗塁王 (NPB)

NPBオールスターゲーム選出選手

名球会

野球日本代表選手

オリンピック野球日本代表選手

日米大学野球選手権大会日本代表選手

日本のオリンピック銀メダリスト

野球のオリンピックメダリスト

日本の野球監督

広島東洋カープ及び広島カープの監督

野球解説者

駒澤大学硬式野球部の選手

大分県立佐伯鶴城高等学校出身の野球選手

広島大学の教員

広島大学出身の人物

大分県出身のスポーツ選手

日本の男性YouTuber

元NPB選手のYouTuber

1966年生

存命人物

外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年4月

野球に関する記事

プロジェクト人物伝項目

ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

VIAF識別子が指定されている記事

NDL識別子が指定されている記事

CINII識別子が指定されている記事

CRID識別子が指定されている記事

ISBNマジックリンクを使用しているページ

2025/04/02 01:35更新

nomura kenjirou


野村謙二郎と同じ誕生日9月19日生まれ、同じ大分出身の人

梶原 昂希(かじわら こうき)
1999年9月19日生まれの有名人 大分出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 梶原 昂希(かじわら こうき、1999年9月19日 - )は、大分県大分市出身のプロ野球選手(外野手)。右投左打。横浜DeNAベイスタ…

近藤 隆正(こんどう たかまさ)
1941年9月19日生まれの有名人 大分出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 近藤 隆正(こんどう たかまさ、1941年9月19日 - )は、大分県津久見市出身の元プロ野球選手である。ポジションは投手、右投右打。…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


野村謙二郎と近い名前の人

野村 啓司(のむら けいじ)
1948年6月9日生まれの有名人 京都出身

野村 啓司(のむら けいじ、1948年〈昭和23年〉6月9日 - 2024年〈令和6年)3月12日)は、関西を中心に活動していたフリーアナウンサー。元・毎日放送(MBS)アナウンサーで、同局からの定年…

乃村 健次(のむら けんじ)
1970年7月23日生まれの有名人 岡山出身

乃村 健次(のむら けんじ、1970年7月23日 - )は、日本の男性声優。岡山県出身。青二プロダクション所属。 倉敷市立茶屋町小学校から倉敷市立東陽中学校を経て岡山県立倉敷天城高等学校を卒業。 …

野村 靖_(政治家)(のむら やすし)
1931年10月1日生まれの有名人 徳島出身

野村 靖(のむら やすし、1931年(昭和6年)10月1日 - 2017年(平成29年)5月22日)は、日本の政治家。阿南市長。徳島県阿南市出身。徳島県立新野高等学校卒業。 1950年、徳島県立新野…


野村 吉三郎_(経営者)(のむら きちさぶろう)
1934年6月10日生まれの有名人 大分出身

野村 吉三郎(のむら きちさぶろう、1934年(昭和9年)6月10日 - )は、日本の経営者。元全日本空輸社長・会長。大分県出身。 1959年(昭和34年)4月 早稲田大学第一法学部卒業後、全日本空…

野村 貢(のむら みつぐ)
1956年11月21日生まれの有名人 北海道出身

野村 貢(のむら みつぐ、1956年11月21日 - )は北海道室蘭市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 札幌大学を経て、フジタ工業に所属。また、日本代表として国際Aマッチ12試合に出場した。 …

野村 泰治(のむら たいじ)
1922年11月20日生まれの有名人 東京出身

野村 泰治(のむら たいじ、1922年〈大正11年〉11月20日 - 2002年〈平成14年〉8月4日)は、日本放送協会(NHK)、及び東京放送(TBSテレビ = 局契約)アナウンサー。 中央大学法…

野村 華苗(のむら かなえ)
1971年5月31日生まれの有名人 神奈川出身

野村 華苗(のむら かなえ、本名:稲垣華苗【旧姓:野村】 1971年(昭和46年)5月31日 - )は、元テレビ朝日アナウンサー。 神奈川県横浜市出身。 法政大学女子高等学校、法政大学法学部政治学…

野村 真季(のむら まさき)
1975年12月2日生まれの有名人 神奈川出身

野村 真季(のむら まさき、1975年12月2日 - )は、テレビ朝日のエグゼクティブアナウンサー。 三人姉妹の三女として、神奈川県横浜市で育つ。神奈川県立市ケ尾高等学校、東京女子大学現代文化学部を…


野村 秀雄(のむら ひでお)
1888年1月8日生まれの有名人 広島出身

野村 秀雄(のむら ひでお、1888年1月8日 - 1964年6月20日)は、日本のジャーナリスト、放送経営者。朝日新聞社代表取締役、熊本日日新聞社社長、第8代日本放送協会(NHK)会長を歴任。広島県…

野村 正育(のむら まさいく)
1962年2月10日生まれの有名人 滋賀出身

野村 正育(のむら まさいく、1962年2月10日 - )は、NHKのエグゼクティブ・アナウンサー(局次長待遇)。現在はNHK放送研修センター・日本語センター出向。 滋賀県立膳所高等学校、京都大学法…

野村 優夫(のむら まさお)
1969年10月24日生まれの有名人 神奈川出身

野村 優夫(のむら まさお、1969年10月24日 - )は、日本放送協会 (NHK) のチーフアナウンサー。 神奈川県茅ヶ崎市出身。浅野高等学校、早稲田大学卒業。大学を卒業後、1992年にNHKに…

野村 裕美(のむら ゆみ)
1970年3月8日生まれの有名人 出身

野村 裕美(のむら ゆみ、1970年3月8日 - )は、日本でタレント活動をしていた女優。野村 ゆみ名義やのむら ゆみ名義でも活動していた。本名は竹田 裕美(たけだ ゆみ)。活動当時は太田プロダクショ…

野村 麻衣(のむら まい)
1990年3月30日生まれの有名人 栃木出身

野村 麻衣(のむら まい、1990年3月30日 - )は、日本の女優、タレント。 栃木県小山市出身。YOUGO TRUST所属。元所属事務所はDig esT(ディグエスト)。『悪い芝居』所属。 2…


野村 奈央(のむら なお)
1999年8月10日生まれの有名人 愛知出身

野村 奈央(のむら なお、1999年〈平成11年〉8月10日 - )は、日本のタレント・女優である。女性アイドルグループ・AKB48の元チームKドラフト研究生である。愛知県出身。 2015年 3月…

野村 沙知代(のむら さちよ)
1932年3月26日生まれの有名人 東京出身

野村 沙知代(のむら さちよ、1932年〈昭和7年〉3月26日 - 2017年〈平成29年〉12月8日)は、日本のタレント。所属事務所は株式会社エフエンタープライズ(東京都千駄ヶ谷)。 元プロ野球選…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
野村謙二郎
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

FLAME Travis Japan 猿岩石 WEST. HEADS カスタマイZ まなみのりさ BABYMETAL A.B.C-Z フェアリーズ 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「野村謙二郎」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました