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佐藤琢磨の情報 (さとうたくま)
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【11月25日】今日誕生日の芸能人・有名人

佐藤琢磨の情報(さとうたくま) レーシングドライバー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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佐藤 琢磨さんについて調べます

■名前・氏名
佐藤 琢磨
(読み:さとう たくま)
■職業
レーシングドライバー
■佐藤琢磨の誕生日・生年月日
1977年1月28日 (年齢47歳)
巳年(へび年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
東京出身

(昭和52年)1977年生まれの人の年齢早見表

佐藤琢磨と同じ1977年生まれの有名人・芸能人

佐藤琢磨と同じ1月28日生まれの有名人・芸能人

佐藤琢磨と同じ出身地東京都生まれの有名人・芸能人


佐藤琢磨と関係のある人

小林可夢偉: 1ストップ勢での上位浮上は小林ひとりであり、2007年の佐藤琢磨以来、2人目となる完全日本製パッケージでポイント獲得をした。


北川えり: 最終戦日本グランプリで、初入賞となった佐藤琢磨を熱心に応援するあまり、中継中に絶叫する。


ナレイン=カーティケヤン: 2000年も引き続き参戦し佐藤琢磨に次ぐシリーズ4位の成績を残した。


小林可夢偉: その後は終始ジェンソン・バトンに猛追されるもそのまま3位でゴール、日本人としては2004年アメリカGPでの佐藤琢磨以来8年ぶり、鈴鹿では1990年鈴木亜久里以来22年ぶりとなる、日本人3人目のF1GP表彰台登壇者となった。


鈴木亜久里: これは2004年アメリカGPで佐藤琢磨が3位入賞するまで、長い間アジア人ドライバーとして唯一のF1における表彰台だった。


武藤英紀: しかし、5位を走行していた200周レースの186周目のレースリスタートで武藤は6位を走行していた佐藤琢磨と接触し、両者はそろってリタイアに終わった。


アンソニー=デビッドソン: B・A・Rのテストドライバー仲間の一人だった佐藤琢磨が2004年のレギュラードライバーに昇格したため、デビッドソンも繰り上がりでサードドライバーへと昇格、金曜のフリー走行に参加してしばしばタイムシート上位に食い込み注目を集めた。


漆原大晟: 同大学でのチームメイトには2学年先輩に笠原祥太郎、3学年後輩に桐敷拓馬、佐藤琢磨がいた。


アンソニー=デビッドソン: 2000年度イギリスF3においてシリーズ3位ながらも英オートスポーツ誌で2000年度最速ドライバーとして評価されるなどして2001年イギリスF3で最有力候補とされていた佐藤琢磨のチームメイトに自ら志願。カーリン・モータースポーツと契約したのは佐藤琢磨がいたからだと後に語っている。そして参戦初年度ながら、チームメイトの佐藤琢磨に次ぐランキング2位を獲得。


井出有治: チームメイトは佐藤琢磨で、史上初の日本人ドライバー2人のチームメイト参戦であった。


リチャード=ブランソン: また、2005年に日本人ドライバーの佐藤琢磨のスポンサーとなったことを皮切りに、フォーミュラ1へのスポンサーを開始し、2009年には、イギリスに本拠を置く「ブラウンGP」へスポンサーとして参加した。


アンソニー=デビッドソン: チームメイトは佐藤琢磨


井上二郎: 世界最速レース インディ500「佐藤琢磨 栄光への戦い」語り(2019年3月24日)


桐敷拓馬: このドラフトでは同学年の佐藤琢磨も福岡ソフトバンクホークスから育成13位指名を受けた。


ナレイン=カーティケヤン: しかし、チーム設立・存続の大前提である佐藤琢磨はもちろん、セカンドドライバーのアンソニー・デビッドソンについても、同チームが供給・支援を受けるホンダF1のニック・フライCEO、及びホンダ本社の意向により交代は不可とされ、スパイス・グループによる支援も流れ、カーティケヤンの加入は実現しなかった。


鈴木亜久里: 2年目の2007年は前半戦に佐藤琢磨が2度の入賞を果たす躍進を遂げた。


ジャック=ビルヌーブ: 2003年は若手イギリス人ドライバーのジェンソン・バトンが新加入し、バトンが着実に結果を残していくとチームの支持がバトンに移り、最終戦日本GP直前にはチームが翌年のレギュラーシートを佐藤琢磨に与えると発表すると、ジャックは急遽参戦を取り止め、そのままチームを去った。


福井威夫: 2008年5月21日、恒例の年央会見でスーパーアグリF1チーム撤退後の佐藤琢磨のワークスホンダへの起用について、「2輪でも4輪でも日本人を乗せて欲しいという声は必ずあるが、我々は決して日本だけを見ているわけではない。このコメントは、佐藤琢磨がF1参戦を果たした際に「琢磨はホンダの夢である」と語った当時のスタンスとは異なる。


村田晴郎: 2017年の「インディ500」において佐藤琢磨が初優勝した際も実況を担当した。


小林可夢偉: なお小林はヨーロッパのフォーミュラ・ルノー選手権においてシリーズチャンピオンを獲得した最初の日本人であり、ヨーロッパのフォーミュラカー選手権において日本人ドライバーがタイトルを獲得したのは2001年度に金石年弘・佐藤琢磨・福田良がそれぞれドイツ・イギリス・フランスのF3選手権でシリーズチャンピオンとなって以来のことであった。


ジャンカルロ=フィジケラ: 2002年には古巣ジョーダンに復帰し(F1デビューした佐藤琢磨の最初のチームメイト)、4度の入賞で7ポイントを獲得した。


小林可夢偉: また2004年第7戦ヨーロッパGPの佐藤琢磨以来、8年ぶりの日本人予選フロントローも獲得した。


きんきら☆きん: 共/青木美沙子、浅野忠信、有本ゆみこ、五十嵐圭、太田莉菜、乙葉、加藤夏希、鹿島沙希、girl next door、神田うの、木口千佳、氣仙えりか、木戸美歩、清川あさみ、熊谷ゆかり、黒崎えり子、河野純子、国生さゆり、小島藤子、虎南有香、小日向えり、小山典子、さくらまや、佐田真由美、佐藤琢磨、関根和美、TAO、ダイアモンド☆ユカイ、高木万平・心平、高杉さと美、土屋アンナ、てんちむ、中原佳美、双木昭夫、原田真里子、日菜あこ、舟山久美子、bump.y、真島茂樹、松井珠理奈、松岡里枝、マロン、松島花、水川あさみ、水木一郎、misono、三原勇希、三船美佳、武藤敬司、望月海羽、ももいろクローバーZ、桃華絵里、安めぐみ、山口裕子


脇阪寿一: 教え子の一人に佐藤琢磨がいる。


小林可夢偉: 前戦の雪辱を果たし、第3戦中国GP、第4戦トルコGP、第5戦スペインGPまで3戦連続で10位入賞を記録し、日本人F1ドライバーの中で最もポイント獲得している佐藤琢磨の記録「44ポイント」と並んだ。


ジェンソン=バトン: チームメイトは佐藤琢磨(正確には前年最終戦、日本GPから)。


中野信治: 2019年から鈴鹿サーキットレーシングスクールの四輪部門(SRS-Formula・SRS-Kart)のVice Principal(副校長)を務める(Principal(校長)は佐藤琢磨)。


アンソニー=デビッドソン: 第2戦マレーシアGPでは、病気で欠場した佐藤琢磨に代わり、3年ぶりにレースに参加することができたが、レース序盤にエンジントラブルでリタイアを喫し、大きなチャンスを逸してしまった。


原田哲也: 同じくモナコに住居がある佐藤琢磨とは、家族ぐるみでの付き合いをする仲だという。


谷古宇剛: 佐藤琢磨物語〜No Attack,No Chance〜(週刊少年サンデー2006年44号)


佐藤琢磨の情報まとめ

もしもしロボ

佐藤 琢磨(さとう たくま)さんの誕生日は1977年1月28日です。東京出身のレーシングドライバーのようです。

もしもしロボ

卒業、引退、事故、父親、母親、家族、離婚、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。佐藤琢磨の現在の年齢は47歳のようです。

佐藤琢磨のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

佐藤 琢磨(さとう たくま、1977年1月28日 - )は、日本のレーシングドライバー。東京都出身。

2002年から2008年までF1、2010年からはインディカー・シリーズに参戦。2017年にアジア人(日本人)として初めて最高峰である「インディ500」で優勝し、2020年に2度目の制覇。

身長:164cm、体重:59kg。血液型:RH+ A型。マネジメント契約先はスポーツビズ。

「琢磨」と下の名前で呼ばれる事が多い。英語圏での愛称は“Taku”。早稲田大学人間科学部中退。

2012年より中日本自動車短期大学客員教授を務め、2019年より鈴鹿サーキットレーシングスクールの「SRS-Kart」「SRS-Formula」のPrincipalに就任。

和光学園高等学校卒業後、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現・スポーツ科学部)に入学。10歳の時に鈴鹿サーキットで初めてF1を観戦したことからモータースポーツに対して強い憧れを抱きつつも、19歳までは自転車競技に身を投じていた。部の無かった高校に部を立ち上げ、顧問一人部員一人で競技開始。94年、インターハイ優勝。95年、インターカレッジ、2位。同年の国体、6位。96年、全日本学生選手権優勝などの記録を残している。

1996年、ホンダと鈴鹿サーキットがフォーミュラカーを用いたレーシングスクール、鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)を設立したことを知ると、モータースポーツの世界に飛び込むことを決心。大学を休学して、まずはカートを始め、モータースポーツ歴わずか半年で競争率10倍の難関を突破してSRS-Fへ入学した。他の上位の受講生達と同じく時には講師陣を上回る速さを見せた。1997年首席で卒業

前年のSRS-Fを首席で卒業して獲得したスカラシップにより、1998年は無限×童夢プロジェクトから全日本F3選手権へのデビューを果たすが、2戦に出走した後、シーズン半ばに渡英する。この時期、合わせて中谷明彦が主宰するドライビングアカデミー「中谷塾」も受講し、こちらも首席で卒業している。

ただし渡英当時、琢磨は日本で道路交通法違反による免許取消処分を受けていて、モータースポーツライセンスの前提として有効な運転免許の所持を要求する日本自動車連盟(JAF)管轄下のレースに出走することができなくなっていたとされる。このため、当時の所属チームであった童夢社長の林みのるなど複数の関係者が「琢磨がレース活動を継続するためには海外のレースに活路を求めるしかなかった」と指摘している。

イギリスでは、F1関係者も注目するイギリスF3で失敗すれば二度と取り返すことができないと考え、まずはF3より格下のジュニア・フォーミュラであるフォーミュラ・ボクスホールJr.にダイヤモンド・レーシングより参戦し、その後に満を持してカーリン・モータースポーツより2000年と2001年にイギリスF3選手権にフル参戦。

2000年前半はミスやクラッシュが目立っていた。また、チームのミスもあり冴えない結果に。しかし、スタートとタイヤが冷えた状態やウェットコンディションでのドライビングは他のドライバーを圧倒する場面も見られた(2000年マカオGP初日ウエット状態でのフリー走行で2位以下を2秒引き離してのトップタイムをマークした。予選2位、決勝リタイア)。2000年の後半は2000年王者であるアントニオ・ピッツォニアをも引き離し、2000年度イギリスF3においてシリーズ3位でシーズンを終えた。また、イギリスの週刊誌オートスポーツで2000年度最速ドライバーとして評価されるなどして、2001年イギリスF3チャンピオン最有力候補とされた。

2001年には前評判通り日本人初のイギリスF3チャンピオンを獲得し、国際F3レース(マールボロマスターズ、マカオGP)も制してF3ドライバーとして世界の頂点を極めた。

また英オートスポーツでF3、2シーズンでイギリスF3+国際F3+スポット参戦フランスF3の通算19勝を挙げて、F3史上最も成功したドライバーとして紹介された。

1998年:フォーミュラ・ボクスホールJr.参戦、フォーミュラオペル・ウィンター3位

1999年:イギリスF3ナショナルクラス3勝、マカオ・エリクソンチャレンジ優勝

2001年10月に、ホンダエンジンを搭載するジョーダンのレギュラードライバーとして2002年シーズンのF1に参戦することが決定し、史上7人目の日本人フルタイムF1ドライバーとなった。初めてレーシングカートに乗ってから僅か5年でF1のシートを獲得するのは奇跡に近い快挙であると言われた。しかし、この年のジョーダンチームは前年に多くの主要なエンジニアが流出したうえ、2001年シーズンまでのメインスポンサーであったベンソン&ベッジスが支援を縮小したことなどから資金不足に陥った。シーズン中のテストもままならない状況で、入賞は日本GPでの決勝5位・2ポイントのみに留まったものが予選・決勝共にチームメイトのジャンカルロ・フィジケラに引けを取らないパフォーマンスを見せ、翌2003年はジョーダンで2年目を迎える予定だったが、ホンダがエンジン供給先をB・A・Rに絞りジョーダンから引き上げたため、事実上解雇される。それに伴い、B・A・Rのテストドライバーとして移籍する事になる。

2003年シーズンは、翌2004年以降のレギュラードライバー昇格のオプション付でリザーブ兼テストドライバーとしてB・A・Rに移籍。リザーブドライバーとしてレースに全戦帯同し、レースの合間にテスト走行をこなすこととなった。最終戦日本GPでは、翌年のシートを失うことが確実になっていたレギュラー・ドライバーのジャック・ヴィルヌーヴがモチベーションを失って急遽参戦を取り止めたために代役で出走。約1年ぶりの実戦となったが、6位入賞を果たす。この入賞で獲得した3ポイントによってB・A・Rはコンストラクターズランキングでザウバーを逆転した。また、この年にはF1以外の活動として、自転車選手だった経歴を活かして「ツール・ド・フランス」の一般参加部門である「エタップ・ド・ツール」にもゲストとして出場している(アキレス腱痛により途中リタイア)。

2004年シーズンはB・A・Rのレギュラードライバーに昇格。この年のマシン「B・A・R 006」が速さを見せ、各レースで上位争いに加わっていく。

このシーズンは、スペインGP、アメリカGP、ハンガリーGPにおいて予選3位を記録するなど速さを見せ付ける。しかし、前半戦においては、マシントラブルなどでリタイヤしたレースがいくらかあり、ポイント獲得の機会を失う場合もあった。

しかしその状況でもヨーロッパGPで日本人初のセッションリーダー(予選1回目)、フロントロー獲得、ラップリーダーを記録。さらにアメリカGPで日本人最高位タイの3位フィニッシュを果たした。

この年のB・A・Rは、チームメイトのジェンソン・バトンが2位表彰台を4回、3位表彰台を6回獲得するなど、非常に力強い戦闘力を保持し、フェラーリに次ぐコンストラクター2位を獲得した。

この年にイギリスからモナコに移住した。

2005年シーズンは前年とは打って変わって苦難の連続であった。開幕のオーストラリアGPでは最後尾スタートから決勝14位に留まり、巻き返しを期したマレーシアGPではウイルス性の発熱により欠場の憂き目にあった。第4戦サンマリノGPでは5位入賞でシーズン初ポイントを獲得したはずがマシンの重量不足でレギュレーション違反の裁定を下されリザルトを取り消された。加えてB・A・RはスペインGP、モナコGPの2レースの出場停止処分を科されたため、ほとんどまともにレースができないままシーズン序盤を浪費してしまった。後半に入るとバトンが復調していくのに対して琢磨の調子は戻らず、最終的にドライバーズポイントはハンガリーGPでの8位入賞による1ポイントのみと、デビュー以来最低の成績に沈んだ。

2005年は琢磨はもとより、B・A・Rというチーム全体が混乱したシーズンとも言えたが、サーキット以外の部分でもそれは収まらず、琢磨自身もそれに巻き込まれていった。ウィリアムズに移籍するはずだったバトンが突如残留。もうひとつのシートについても、ルーベンス・バリチェロのフェラーリからの移籍が決定していたことから、2006年シーズンのB・A・Rでのレギュラードライバーの座を失うことになる。

B・A・Rを離脱した2006年シーズンは複数チームからのオファーを受け、一時はウィリアムズと契約間近にあったが、ウィリアムズが2007年よりトヨタエンジン供給を受け、ホンダドライバーである琢磨との契約がネックとなり交渉は破談となったが、元F1ドライバーの鈴木亜久里がオーナーを務め、ホンダがエンジンを供給する新規参戦チーム スーパーアグリF1チームから参戦することとなった。

新規参入チームのうえ、前半戦はホンダエンジンこそ搭載しているものの基本的には4年落ちのアロウズのシャシーを現行レギュレーションに合致するように改良した「SA05」を使用していたために、チームメイトの井出有治と共に後方集団からも大きく離されて最下位を走ることが殆どだった。

ニューマシンのSA06を導入した当初も他チームからは離されていたが、マシンの熟成が進むと戦えるようになり日本GPではMF1レーシングの前でチェッカーを受けた。さらに最終戦ブラジルGPでは、チーム最高位の10位という結果を出すと共にチームメイトの山本左近とのダブル完走を果たした。

2007年シーズンも同チームからファーストドライバーとしてエントリーし、イギリスF3時代のチームメイトであるアンソニー・デビッドソンとともに新型マシンの「SA07」をドライブする。

新型マシンであるSA07の戦闘力はSA06とは比較にならないほど高く、オーストラリアGPの予選ではチーム創設後初のQ3進出を果たし、予選10位を記録した(デビッドソンは11位)。その後のレースでもワークスホンダと同等以上の成績を収めており、第4戦スペインGPでは、終盤に給油システムの不具合で緊急ピットインし順位を落としたフィジケラを振り切り8位でチェッカーを受け、チームに初ポイントをもたらした。また、これは完全日本製パッケージ(日本のコンストラクター・日本人ドライバー・日本製エンジン・日本製タイヤ)で記録した、初のチャンピオンシップ・ポイントであった。第6戦カナダGPでは、荒れたレース展開の中でまずラルフ・シューマッハを、さらにタイヤを傷めてペースの上がらないフェルナンド・アロンソもオーバーテイクし6位でフィニッシュした。

シーズン後半はチームの資金不足で開発が進まずSA07はライバルとの競争から後れ始め、ポイントは取れないものの第11戦ハンガリーGP〜第17戦ブラジルGPまで7戦連続の完走を果す。

2008年に入るとスーパーアグリF1チームの資金難が深刻化。ホンダが発表した参戦リストにチーム及び琢磨の名前がなく、2008年シーズンに参戦できない状況に陥ったが、開幕直前の3月10日に当座の資金の目処を付けて参戦を表明し、ファーストドライバーとしてエントリーした。しかし資金難によりマシン開発がほとんどできておらず、前年後半のような戦闘力の劣るマシンでのレースを余儀なくされた。開幕戦オーストラリアGPでは予選でQ2進出もできず、決勝もトラブルでリタイアした。だが、次戦のマレーシアGPからは予選のパフォーマンスは優れないものの、決勝では完走した。

5月6日、スーパーアグリF1チームがF1からの撤退を表明したため所属チームを失った。その後、ル・マン24時間レースやALMS、インディなどからオファーを受けるも全て断り、あくまでF1レギュラーシートを獲得する方向で交渉を進めていた。当時の琢磨自身もF1を引退する考えはまったくないことを表明していた。イギリスの月刊誌F1 Racingが行った歴代ドライバー100傑では、唯一の日本人ドライバーとして78位と評価された。

8月26日、来季F1復帰を目指しスクーデリア・トロ・ロッソとの交渉に入ったことが発表された。その後琢磨とセバスチャン・ブエミが9月17日からスペイン・ヘレスにて行なわれたテストに参加し、来期のレギュラードライバーとしてのテストを行った。シーズン終了後の11月17日及び18日の午前中にも再びテストに参加し、初日は全体トップ、2日目も午前中限定では全体トップのタイムを記録した(2日目全体のトップタイムは午後にレッドブルから出走したセバスチャン・ベッテルに更新された)。12月10日、11日にもヘレスで行われたテストに参加し、2日ともセバスチャン・ブエミに次ぐ2番手タイムをマークした。

2月6日、2008年の3回のテストの後、レギュラードライバー決定を待っていた琢磨だったが、トロ・ロッソは2009年のドライバーラインナップをセバスチャン・ブエミとセバスチャン・ボーデの2人に決定し、トロ・ロッソ、及びレッドブル・レーシングとのテスト兼リザーブドライバーとしての交渉も不成立に終わった。

2009年7月3日にイギリスのボーリューにある国立自動車博物館で2004年に琢磨がドライブしたB・A・R 006が披露された。これは、第9戦アメリカグランプリにおいて自身初めての表彰台を獲得した時のマシンであり、新たに博物館の収蔵品に加えられることが決定したことによる。この披露会には琢磨自身も参加した。

オフシーズンにおいては、2010年より参戦する新規チームであるロータスF1チーム、及びグラビティによる買収で新体制となるルノーF1との交渉が行われていたが、これも実現することは無かった。また、2010年からのF1参戦を目指していたステファンGPのドライバー候補にも挙がっていた。

2008年のスペインGPが、F1における琢磨最後のレースとなった。

2月18日、東京でKVレーシングよりインディカー・シリーズに参戦することを発表した。また、F1復帰交渉に関して、ルノー、スクーデリア・トロ・ロッソ、ロータス、ステファンGPと交渉を行ったことも明らかにした。

2月24,25日にはバーバー・モータースポーツ・パークで合同テストが行われた。インディでの実質初テストにもかかわらず、11チーム21人の内、24日は7位、25日は6位でテストを終えた。

シリーズが始まると、9月19日にツインリンクもてぎで行われた第16戦インディジャパン300で、オーバルコースにおける自身最高順位である12位で完走した。

この年は予選では何度か上位につけたが、全17戦中8戦しか完走できなかったことなどもありランキング21位(最高位9位)でシーズンを終えた。

10月10日に行われたF12010年日本グランプリにおいてロータス・78のデモ走行をした。

2010年と同じく、KVレーシングからインディカー・シリーズに参戦することを2月4日に発表した。

3月27日に、セントピーターズバーグで開幕戦が行われたが、そこで自己ベストとなる5位入賞を果たした。第4戦サンパウロでは予選10番手からスタートし、雨の中で他者のクラッシュやマシントラブルなどで3位まで順位を上げたが、14周で日曜日のレースは赤旗中断となり月曜日に延期に。翌日再開されたレースではスタート直後に雨が降りだす展開の中で前を行く2台を交わしてトップに浮上し自身初のリードラップを記録、23周に渡ってトップを走行した。しかし、34周目からのフルコースコーションでチームはピットしない作戦を選択。レース中にフルコースコーションがあと一度でも出されれば給油なしで走りきれるという判断だったが、チームの思惑に反してその後フルコースコーションは出されず、給油のためにピットして順位を下げたことなどもあり最終的には8位でゴールした。

開幕4戦のロードやストリートでのレースが終わり、シリーズがオーバルのレースになっても前年を上回るパフォーマンスを見せ続けた。第5戦インディ500では予選でチーム最上位の10位獲得も決勝では序盤でクラッシュによりリタイア。第6戦テキサスでは第1レースでオーバル自己最高の5位に入り、第7戦ミルウォーキーでも8位に入る。第8戦アイオワの決勝では終盤にアウトラップでバンプに乗り上げるミスをし、リタイアを喫して19位に終わったがインディカー・シリーズで日本人初となるポールポジションを獲得している。屈指の難易度を誇る第11戦ミッドオハイオにて4位フィニッシュ。ベストリザルトを更新した。

しかしそれ以降は下位に沈むレースが増え、シングルフィニッシュも第12戦ニューハンプシャーの7位のみとなる。総合ランキングはチームメイトのトニー・カナーンの5位に対し、13位に留まった。

2月3日、この年よりインディカー・シリーズフル参戦を表明するレイホール・レターマン・ラニガン・レーシング(RLR)に移籍することが発表された。 開幕戦セントピーターズバーグでは一時ラップリーダーになるも電気系トラブルでリタイアに終わる。第3戦ロングビーチでは3位でファイナルラップに入るもライアン・ハンター=レイと接触しスピン、シーズンで初めて完走出来たものの8位に留まった。第4戦ブラジルのサンパウロではエンジン・トラブルのため前日の予選に出走できず、最後尾から一つ前の25位からのスタートとなるも、巧みなピット戦略も駆使した驚異的な追い上げで自己最高の3位となり初の表彰台に上がる。

自身3度目のインディ500では、19番手スタートからポジションを上げ119周目にラップリーダーに立つ。その後31周をリードしつつトップ集団に留まる走りを見せる。199周目にはスコット・ディクソンを抜いて2位に上がる。そのまま先頭のダリオ・フランキッティの真後ろ(2位)でファイナルラップに入り、ターン1にフランキッティと並び進入した。しかしフランキッティが残したスペースは狭く、インの白線を踏まされバランスを失いスピンしたマシンはウォールに接触、日本人初優勝はならなかったが自己ベストの17位でレースを終えた。

続く第6戦デトロイトでは縁石で弾んだマシンがコントロールを失いウォールに追突、第7戦テキサスはターン3でアンダーステアが出てウォールに接触、第8戦ミルウォーキーは周回遅れのジェームズ・ジェイクスにラインを開けてもらえず接触、3戦連続でリタイアに終わった。第10戦アイオワではマシンのセッティングが決まらず、この年試験導入された予選レースでも奮わず24番手スタートとなった。決勝では序盤に追い上げるが上位陣には遅れを取り、完走は出来たものの3周遅れの12位でフィニッシュした。

第11戦トロントでは11番手スタートから一時5位まで浮上する。しかし終盤ブレーキにトラブルが発生、マシンは持ちこたえたが最終順位を9位まで落とすことになった。第12戦エドモントンではシーズン最高の予選4番手、3番手スタートを獲得、決勝でも上位を維持し53周目に2位までポジションを上げた。その後リーダーのエリオ・カストロネベスを追走するがプッシュ・トゥ・パスの残量で勝るカストロネベスを相手にオーバーテイクには至らず0.8763秒差の2位でフィニッシュ。自己ベストを更新し、武藤英紀と並ぶ日本人ドライバー最高位タイを記録した。年間ランキングは14位(全戦参戦17名)。

また、インディカーとスケジュールが重ならない日程で、日本国内のレースにスポット参戦した。フォーミュラ・ニッポンにはチーム無限より3戦に出場。FIA 世界耐久選手権の第7戦富士6時間にはLMP1クラスのOAKペスカローロより参戦した。

1月10日、A.J.フォイト・エンタープライズとの契約が発表される(A.J.フォイトは前年のインディ500でのファイナルラップでのチャレンジを見て獲得を決めたという)。序盤2戦はマシントラブルやドリンクシステムのトラブルでピットでの給水を余儀なくされたことなどが響きそれぞれ8位、14位に終わる。

第3戦ロングビーチでは4番手グリッドであったが、決勝直前の最終プラクティスでトップタイムを記録すると、スタートでまずウィル・パワーを抜いて3番手に上がり、23周目には前年のこのレースで佐藤に接触した因縁を持つライアン・ハンター=レイを抜き去り2位、その後のピットでダリオ・フランキッティを抜いてトップに立つ。その後は一度もトップを譲ることなく圧倒的な速さを見せつけ、インディカー・シリーズ(CART、チャンプカーを含む)の歴史において、また、スーパーフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン以前を含む)を除くトップフォーミュラの歴史において日本人として初めての優勝を飾った。続く第4戦サンパウロでも、残り1周の時点までトップを快走したが、最終ラップでジェームズ・ヒンチクリフに逆転を許し、2位に終わる。それでもこの2位入賞により、佐藤は総合順位首位に浮上した。

しかし第5戦のインディ500では、前年のような見せ場も無く決勝13位に終わった。続く第6戦以降においては、第9戦ミルウォーキーでの決勝7位が唯一の決勝一桁順位となり、それ以外のレースでは自身のミスやマシントラブルで尽く決勝下位に沈んだ。特に10月6日の第18戦(ヒューストン)においては、最終周でデブリを拾ってコントロールを乱し、ダリオ・フランキッティ、E.J.ヴィソとの接触事故を起こす。特にフランキッティの車体は宙に舞いフェンスに激突、脊柱と右足首を骨折する大けがとなり、飛び散った破片で観客14人が負傷するなど、大きなクラッシュとなった。フランキッティの怪我は競技に戻れるまでには治癒せず、このレースをもって引退することとなった。

結局のところ、琢磨は初優勝を飾ったシーズンであったにもかかわらず、第4戦の総合順位首位から最終戦の総合17位(全戦参戦21名)にまで転落し、昨年・一昨年にも及ばない総合順位で終了してしまった。

同年11月には、翌年より本格的なシリーズ展開が予定されているフォーミュラEのワンメイクマシンである「SRT_01E」の開発ドライバーに起用されることが発表された。

2014年シーズンもAJフォイト・レーシングで参戦した。開幕戦のセントピーターズバーグではポールポジションを獲得し(決勝は7位)、幸先の良い出だしとなったかに見えた。

しかしこれ以降は、第7戦のデトロイト・レース2でポールを再び獲得したことを除くと、第13戦までの決勝最高位が9位(第4戦インディアナポリス)という不振に陥ってしまう。完走すらままならず、第8戦から第13戦まで6戦連続リタイアも喫している。第14戦トロント・レース2でようやく決勝5位に入り、終盤2戦(第17・18戦)では決勝4位、6位となっている。しかし、総合順位を挽回するには時すでに遅く、前年を更に下回る総合18位(全戦参戦21名)に終わった。

9月に北京で行われたフォーミュラEの開幕戦に鈴木亜久里率いるアムリン・アグリ・フォーミュラEチームよりスポット参戦をした。

AJフォイト・レーシングで3年目のシーズンを戦った。決勝最高位は2位、総合14位(全戦参戦18名)

AJフォイト・レーシングで4年目のシーズンを迎える。これは、オーナーのAJフォイトを除くドライバーではチーム最長である。 シーズン終了後、チームがシボレーに移籍、チームも琢磨を残留させる意向であったがホンダとの契約もありチームを離脱、アンドレッティ・オートスポーツに移籍した。

5月28日、自身8度目となるインディ500では、予選で日本人過去最高の4位に付けた。決勝ではスタートに出遅れたものの65周目にトップに出る。その後ピットミスで10位まで下げるが徐々に順位を上げていき、196周目にエリオ・カストロネベスをかわしてトップに出るとそのままチェッカーフラッグを受け、日本人初のインディ500優勝を達成した(アジア人としても初)。

インディカー・シリーズ参戦124戦目の快挙は、自身のオーバルトラック初勝利でもある。この快挙にチームオーナーであるマイケル・アンドレッティやこの年インディ500にスポット参戦したチームメイトのフェルナンド・アロンソ、更に前年まで所属したA.J.フォイト・エンタープライズのクルー達(ビクトリーレーンに向かうピットレーン上で、ここのクルー達とハイタッチをかわしている)やA.J.フォイトからも祝福を受け、日本国内でも道頓堀グリコサインが優勝を祝うサインを表示するなど琢磨の優勝を祝福した。

日本国政府も「日頃のたゆみない精進によって、モータースポーツにおいて数々の記録を打ち立て、極めて優れた業績を挙げた」として、8月4日付で内閣総理大臣顕彰を授与した。その後もシングルフィニッシュを記録し、シリーズチャンピオンも期待されたが、後半戦以降は精彩を欠いた。それでも自身最高の総合8位を記録している。

2017年9月20日、アンドレッティがシボレー移籍を匂わせたこともあり、2018年シーズンをRLRに移籍して戦うことを発表。RLRには2012年以来6年ぶりの復帰となる。

開幕前にISMレースウェイで行われた合同テストでは、チームメートのグラハム・レイホールと共に全セッションで最速タイムを独占した。

シーズン開幕戦となるセントピーターズバーグではファスト6に残り予選6位を獲得するが、レースでは中盤にスコット・ディクソンと接触し後退、12位フィニッシュとなった。その後もシーズンを通して戦略面や接触により後退するレースが度々あり、連覇を狙ったインディ500でも序盤に周回遅れのジェームス・ディヴィソンと接触しリタイア、総合32位となった。

第11戦アイオワでは5位走行中の292周目に前方でスピンしたエド・カーペンターと接触。琢磨にダメージはなかったものの、カーペンターの部品が散乱しイエローコーションが提示される。この時点で琢磨より上位にいたジョセフ・ニューガーデン、ロバート・ウィッケンスは再スタートを予測しピットイン。しかし再スタートはなくイエローチェッカーとなり、順位が繰り上がったことで琢磨が3位表彰台を獲得した。

第16戦ポートランドでは予選20番手となるも、スタート直後のイエローコーション中にピットで燃料を継ぎ足し、その後のピットストップを他車より1回減らす作戦を採る。これが見事に功を奏し、自身3度目、ロードコースでは初の優勝を果たした。

9月16日、シーズン最終戦終了直後に、インディカー参戦10年目となる翌年のこのチームへの残留が発表された。

レイホール移籍2シーズン目(チーム在籍通算3シーズン目)のシーズン。

第3戦のバーバーでレイホール復帰後初、通算8度目のポール・ポジションからスタート、ピットタイミングによる順位変動以外は先頭を走り続け、通算4勝目を自身初のポール・トゥ・ウインで飾った。

インディ500でも一度は周回遅れになりながらも挽回し3位になるなど、ランキングも上位に位置し中盤戦を迎えたが、中盤戦はテキサスでポールポジションを獲得した以外は目立ったリザルトを残せずにタイトル争いからは後退。

そして、第14戦のポコノではスタート直後にアレクサンダー・ロッシと接触。その後、5台を巻き込む多重クラッシュとなった。TV解説を含め、このアクシデントについて他のドライバーたちや元ドライバーからも琢磨の非を問う声が多く上がり、SNSでも琢磨を糾弾する声が上がった。しかし、レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングは琢磨のオンボード映像をインディカーに提出し潔白が証明される。琢磨を批判した人たちも次々と批判発言を撤回した。

苦境を乗り越えて迎えた続く第15戦のゲートウェイでは、スタートで出遅れその後に周回遅れにもなるものの、ピットタイミングとイエローコーションのタイミングで幸運に恵まれ、残り43周の再スタートをトップで迎える。そのままトップを維持したファイナルラップではエド・カーペンターと0.0399秒差の大接戦を制し、通算5勝目を初のシーズン複数勝利で飾った。また、この勝利によりロード・ストリート・オーバル・ショートオーバルというインディカーで開催される4つのコースタイプ全てで勝利を挙げたドライバーとなった。

ポイントが2倍となる最終戦ラグナ・セカで21位完走に終わり、2017年のランキング最上位更新はならず、9位でシーズンを終了した。

引き続きレイホール・レターマン・ラニガン・レーシングより参戦。

COVID-19による影響でシーズン開幕が6月に延期される。その間にインディカー公式が呼びかけiRacingを用いて開催された「インディカー・iRacingチャレンジ」に第4戦もてぎより参戦。GAORA SPORTSでその模様が中継され、自宅にシミュレーターを設置し参戦する様子が放映された。

無観客で行われた開幕戦テキサスはワンデーイベントとなった。練習走行では6位を記録するも、予選ではアウトラップのターン1でNASCAR用に塗布されたPJ1 TrackBite上を走行し、グリップを失いスピン。外側ウォールにクラッシュしてしまう。チームはバックアップカーのセッティングを懸命に行うも、決勝前の車検時間に間に合わず決勝の出走を断念し、琢磨自身インディカー初の決勝DNSとなった。

8月16日、第7戦インディ500の予選で日本人過去最高の3位、初のフロントロースタートとなった。8月23日の決勝では堅実な走りを見せ、185周目にメインストレートでスコット・ディクソンをパスしてトップに立った。残り5周となったところでチームメイトのスペンサー・ピゴットがクラッシュし、イエローコーションのままチェッカーフラッグが振られた。自身2度目のインディ500優勝、所属チームを16年ぶりの制覇に導いた。

レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングより参戦。連続4年目(通算5年目)の同チームからの参戦となった。この年は1ケタ順位での完走こそ多かったものの、最高位はデトロイトレース1の4位にとどまり、ランキングは11位。このシーズン限りでチームを離脱した。

2022年はデイル・コイン・レーシング(リック・ウェア・レーシングとの共同チーム)へ移籍、フル参戦する。17レース中トップ10以内での完走が4レースのみ、最高位はゲートウェイでの5位でランキング19位に終わり、この年のみでチームを離脱した。

2023年1月17日、インディカーにおける名門中の名門とも言えるチップ・ガナッシ・レーシングへ移籍、インディ500を含めたオーバル全5戦のみながら参戦が発表された。

この年は再度レイホール・レターマン・ラニガン・レーシングに所属し、インディ500のみにスポット参戦。予選10位、決勝14位となった。 2024年3月19日、LONG BEACH MOTORSPORTS WALK OF FAMEに顕彰される。

かつてF1でもタッグを組んでいた鈴木亜久里のチーム、アムリン・アグリからフォーミュラEの初戦にスポット参戦する。結果はリタイアに終わったが、ファステストラップを獲得、2ポイントを得る。 フォーミュラEでの最初のファステストラップ獲得者となった。

父親は弁護士の佐藤和利、母親は元舞台女優。

2005年7月31日に自身の公式サイトで、長年にわたって彼を支えてきた「パートナー」である女性(のちに婚姻)との間に子供が生まれる事を報告。12月23日に男児が誕生し父親になった。2008年9月30日に第2子となる女児が誕生した。その後は家族を日本に置いてアメリカで活動。

2017年11月16日の「週刊新潮」において、フリーアナウンサーの内藤聡子と2010年より7年間にわたり不倫関係を続けていることが報道された。妻には2012年の夏に既に発覚しており、代理人を通じて離婚調停が行われているという。琢磨自身も事実関係を認め、公式ブログにて「このような事態を招いてしまったことは、ひとえに私の弱さが原因だったと思っています」と謝罪した。

息子の佐藤凛太郎もレーシングドライバーで、レーシングカートを経て2023年からは父・琢磨が校長を務めるホンダレーシングスクール鈴鹿(HRS-Suzuka)に進んだ。2024年はHRS-Suzukaと並行してFIA-F4選手権にPONOS RACINGから参戦する。

1977年1月28日 - 東京都新宿区戸山に生まれる。

1987年 - 鈴鹿でF1日本GPを観戦し、アイルトン・セナに感激。モータースポーツに憧れを持つ。

1989年4月 - 町田市立町田第二中学校に入学。陸上競技部に所属。

1992年4月 - 町田市の私立和光高等学校に入学。

1992年初春 - 自転車競技を開始。地元のサイクルスポーツ店「たかだフレンド」のクラブに参加する。

1993年8月 - シマノ鈴鹿ロードレースで自転車レースデビュー。

1994年3月 - 高校に自転車競技部がなかったため、担任を顧問に独力で部を立ち上げる(部員は琢磨本人だけ、後に廃部)。

1994年8月10日 - 第45回インターハイの自転車競技ポイントレースで優勝。

1995年4月 - 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現・スポーツ科学部)に特別選抜枠で推薦入学。自転車部に所属。

1995年9月 - 全日本大学対抗選手権の自転車競技で2位。

1996年4月 - 早稲田大学人間科学部を休学。

1996年6月 - 第37回全日本学生選手権の自転車競技男子4km速度競走で優勝。

1996年初夏 - アルデックス・ジャパンでカートレーシングを開始。

1997年 - 鈴鹿サーキット・レーシング・スクール・フォーミュラ(SRS-F)に入学。

1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西でシリーズ1位、カート地方選手権FA-2関東・東でシリーズ3位。

1997年10月 - 中谷明彦主宰の中谷塾(ドライビング理論アカデミー)を受講、首席卒業

1997年12月23日 - SRS-Fを首席で卒業。全日本F3選手権参戦のスカラシップを獲得。

1998年3月 - 無限×童夢チームから全日本F3選手権に参戦。

1998年7月 - 無限×童夢チームから離脱。早稲田大学人間科学部を退学し渡英。ストラトフォード・アポン・エイヴォンで寄宿生活を始める。

1998年7月26日 - イギリスのフォーミュラ・ボクスホールJr. Rd9,10(スネッタートン)に参戦。(ボクスホールはオペルの子会社)

1998年10月 - イギリスのフォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズに参戦。シリーズ3位。

1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップに参戦。イギリス選手権で2位。(1999年のレースエンジニアはジョディ・エジントン[1])

1999年3月 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズに参戦。シリーズ6位。

1999年3月 - most improved driver of the yearを受賞。

1999年7月 - ダイヤモンド・レーシングからイギリスF3選手権ナショナルクラスに参戦。6戦中3勝を挙げる。

1999年11月20日 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝。

2000年3月 - カーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。当時日本人史上最多の4勝、シリーズ3位。

2000年3月 - フランスF3選手権にスポット参戦し、優勝。

2000年12月 - ジョーダン・無限-ホンダのテストに参加。F1初ドライブ。

2001年1月 - B・A・Rホンダのテスト・ドライバーに就任。

2001年3月 - 前年に引き続きカーリン・モータースポーツからイギリスF3選手権に参戦。12勝で日本人初のイギリスF3チャンピオンに輝く。

2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジで優勝。

2001年8月 - マールボロマスターズF3で優勝。

2001年10月 - 2002年ジョーダン・ホンダのレギュラードライバーとしてF1参戦発表

2001年11月18日 - マカオGP・F3レースで日本人として初の優勝。

2002年3月 - ジョーダン・ホンダからF1世界選手権に参戦。シリーズ15位。

2002年10月13日 - 日本GPにてF1初入賞(5位)。1997年ハンガリーグランプリの中野信治の6位入賞以来となる5年ぶりの日本人の入賞。

2003年1月 - 2003年B・A・Rホンダのリザーブ兼テストドライバーに就任。

2003年10月12日 - ジャック・ヴィルヌーヴのチーム離脱を受け、F1日本GPにスポット参戦し6位入賞。シリーズ18位。

2004年3月 - B・A・RホンダからF1フル参戦に復帰。

2004年4月3日 - バーレーンGPで1994年片山右京に並ぶ予選日本人最高位タイ(5位)を記録。

2004年5月8日 - スペインGPで予選日本人最高位を更新(3位)。

2004年5月29日 - ヨーロッパGPで予選日本人最高位を更新(2位)し、日本人初のフロントロー獲得。翌日日本人初のラップリーダーも記録した。

2004年6月20日 - アメリカGPで日本人最高位タイ(3位)。F1の表彰台に上った日本人ドライバーは、1990年日本GPで鈴木亜久里が3位に入って以来、2人目。

2005年7月31日 - 同年12月中旬に第一子誕生の予定を発表(この後、婚姻届出)

2005年9月20日 - 2006年のB・A・Rホンダのドライバー体制が、ジェンソン・バトン、ルーベンス・バリチェロの2人となることが正式に決定。これを受けた日本GP前の記者会見で、琢磨はホンダが技術支援して2006年に新規参入するチームからオファーを受けていることが明らかに。その後そのチームは鈴木亜久里が代表を務めるスーパーアグリF1であることが判明した。

2006年2月15日 - スーパーアグリF1へ移籍することが発表された。

2007年5月13日 - 第4戦スペインGPでチーム創設後初のポイント(8位・1ポイント)を獲得した。

2007年6月10日 - 第6戦カナダGPで6位入賞を果たし、3ポイントを獲得した。

2008年5月6日 - スーパーアグリF1チームの撤退により、シートを喪失。

2010年2月15日 - KVレーシングよりインディカー・シリーズに参戦することを発表。

2010年4月12日 - オンラインレーシング・シミュレーション「iRacing.com」のアジア市場進出に向けINTERUSHとのタイアップを発表。

2011年6月24日 - インディカー・シリーズ第8戦アイオワの予選で、自身初のPPを獲得(日本人初)。翌日の決勝はリタイア。

2011年7月23日 - インディカー・シリーズ第10戦エドモントンの予選で2度目のPPを獲得(翌日の決勝は21位)。

2012年2月3日 - レイホール・レターマン・レーシングに移籍することが発表された。

2012年4月29日 - インディカー・シリーズ第4戦サンパウロの決勝で、予選25番手ながらも追い上げて3位に入賞する。日本人で初めてF1世界選手権とインディカー・シリーズ両方のレースで表彰台に上った。

2012年7月22日 - インディカー・シリーズ第11戦エドモントンの決勝で、2位入賞し自己最高成績(日本人最高位タイ)を更新。

2013年4月21日 - インディカー・シリーズ第3戦ロングビーチ決勝で、日本人初優勝を記録。

2017年5月29日 - インディカー・シリーズ第6戦インディ500決勝で、日本人初のインディ500優勝を記録。

2018年9月3日 - インディカー・シリーズ第16戦ポートランド決勝で、自身3度目の優勝を記録。

2019年4月7日 - インディカー・シリーズ第3戦アラバマの予選で8度目のPPを獲得。翌日の決勝でポール・トゥ・ウィンを果たし、自身4度目の優勝を記録。

2019年8月24日 - インディカー・シリーズ第15戦ゲートウェイ決勝で、自身5度目の優勝を記録。

2020年8月23日 - インディカー・シリーズ第7戦インディ500決勝で、2度目のインディ500優勝を記録。

第19回チャレンジサイクルロードレース A-2J 優勝 1゚09′04″87 (1994年(平成6年)3月20日・修善寺サイクルスポーツセンター)

男子4km速度競争 - 5分2秒30(1995年7月7日・石川県内灘町)

男子1km速度競争 - 1分9秒298(1995年9月1日・青森県八戸)

男子フライング200m - 11秒442(1996年9月25日・静岡県修善寺)

 : 今シーズンの順位。(現時点)

1997年 - カート地方選手権FA-2関東・西 シリーズ1位

1997年 - カート地方選手権FA-2関東・東 シリーズ3位

1998年 - 全日本F3選手権にスポット参戦 (チーム:童夢) (マシン:ダラーラF398無限)

1998年 - フォーミュラ・ボクスホールJr.(イギリス)

1998年 - フォーミュラ・オペル・ウィンターシリーズ 3位(チーム:ダイヤモンド・レーシング)

1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロカップ シリーズ2位

1999年 - フォーミュラ・オペル・ユーロシリーズ 6位

1999年 - イギリスF3スカラシップ参戦 (チーム:カーリン・モータースポーツ)

1999年7月 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) 3勝

1999年11月 - マカオGPエリクソン・フォーミュラ・チャレンジで優勝

2000年 - イギリスF3選手権(ナショナル・クラス) シリーズ3位 (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)

2000年6月 - ヨーロッパF3選手権(ポー)リタイア /予選24位

2000年7月 - フランスF3選手権スポット参戦で優勝

2000年8月 - マルボロ・マスターズF3(ザントフールト)28位 /予選2位

2000年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)リタイア /予選2位

2001年 - イギリスF3選手権 シリーズチャンピオン (チーム:カーリン・モータースポーツ) (マシン:ダラーラF300無限)

2001年6月 - ヨーロッパF3選手権 リタイア /予選4位

2001年7月 - F3インターナショナル・インビテーション・チャレンジ(シルヴァーストーン) 1位 /予選1位

2001年8月 - マールボロ・マスターズF3(ザントフールト) 1位 /予選1位

2001年9月 - エルフF3マスターズ(スパ・フランコルシャン) 3位 /予選2位

2001年11月 - マカオGP・F3レース(ギア・サーキット)1位 /予選2位

太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

(key)

 : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。

太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

 : 決勝レース中に多重クラッシュが発生し、この影響でダン・ウェルドンが死亡する事態となる。そのためレースはクラッシュが発生した11周目を以て中止となった。

(key)

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太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

佐藤琢磨 『GO FOR IT! Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04076-0

佐藤琢磨 『佐藤琢磨2002F1ダイアリー:GO FOR IT! 2』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04083-3

佐藤琢磨 『佐藤琢磨2004F1ダイアリー:GO FOR IT! 3』 二玄社 2004年 ISBN 4-544-04096-5

佐藤琢磨 『佐藤琢磨2005F1ダイアリー:GO FOR IT! 4』 二玄社 2005年 ISBN 4-544-40004-X

佐藤琢磨 『佐藤琢磨2006F1ダイアリー:GO FOR IT! 5』 二玄社 2006年 ISBN 4-544-40012-0

佐藤琢磨 『佐藤琢磨2007F1ダイアリー:GO FOR IT! 6』 二玄社 2007年 ISBN 4-544-40023-6

佐藤琢磨 『FORMULA TAKUMA』 講談社 2008年 ISBN 978-4063788822

原富治雄 『AURA Takuma Sato』 二玄社 2002年 ISBN 4-544-04130-9

西山平夫 『君が代が聴きたい:佐藤琢磨とホンダF1の戦いを追って』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-29739-9

西山平夫 『続・君が代が聴きたい:佐藤琢磨とホンダF1の戦いを追って』双葉社 2005年 ISBN 978-4575298406

『F1CLUB特別編集 佐藤琢磨-優勝へのカウントダウン。』 双葉社 2004年 ISBN 4-575-47684-6

^ 佐藤琢磨、NACの客員教授に正式就任 - オートスポーツ・2012年4月11日

^ 鈴鹿サーキットの若手レーサー育成機関「SRS-Kart/Formula」新体制発表会。Principalに佐藤琢磨選手が就任 - Car Watch・2018年11月7日

^ “佐藤琢磨”. F1キンダーガーデン. 2010年5月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。

^ 松本浩明『佐藤琢磨 終わらない夢』三栄書房、2011年、p.30、ISBN 9784779611414

^ F1 : 琢磨、「F1をやめるつもりはない」

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^ 松本浩明『佐藤琢磨 終わらない夢』三栄書房、2011年、pp.43 - 44、ISBN 9784779611414

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^ 佐藤琢磨、来季レイホール復帰発表。「戻ってこられて本当に嬉しい」 - motorsport.com・2017年9月20日

^ 佐藤琢磨、レイホール・レターマン・ラニガンとの契約を更新。2019年もインディカー参戦へ - AUTOSPORT web・2018.09.17

^ “【順位結果】第104回インディ500予選総合結果/琢磨は3番手と躍進 | 海外レース他 | autosport web”. AUTO SPORT web (2020年8月16日). 2020年8月24日閲覧。

^ “第104回インディ500詳報:無観客を忘れさせるスペクタルなバトル。勝負所を制した琢磨が2度目の栄冠”. autosport web (2020年8月24日). 2020年8月24日閲覧。

^ “インディ500勝利の佐藤琢磨をボビー・レイホールが大絶賛「息子もいい走りをしていたが、琢磨は2度目の制覇だ」”. autosport web (2020年8月24日). 2020年8月24日閲覧。

^ 佐藤琢磨、インディカー13年目はデイル・コインから参戦「デイル氏のインディ500優勝への想いに魅力を感じた」,AUTOSPORTS WEB, 2021年12月9日

^ すべてはインディ500をもう一度勝つための決断。佐藤琢磨とチップ・ガナッシ・レーシングの最強タッグが誕生A,UTOSPORTS WEB, 2023年1月17日

^ LEGGE, SATO TO BE INDUCTED INTO LONG BEACH MOTORSPORTS WALK OF FAME!

^ 佐藤琢磨 ロングビーチ・モータースポーツ・ウォークの殿堂入りが決定佐藤琢磨 オフィシャルサイト 2024-03-20

^ “インディ王者「佐藤琢磨」が「内藤聡子」と7年不倫 本人認める”. デイリー新潮 (新潮社). (2017年11月15日). https://www.dailyshincho.jp/article/2017/11151700/?all=1 2017年11月16日閲覧。 

^ “この度の報道につきまして”. 佐藤琢磨 公式ブログ (2017年11月15日). 2017年11月16日閲覧。

^ 佐藤凛太郎インタビュー:「父と同じ道を進みたい」琢磨の息子がPONOS RACINGからFIA-F4デビュー - オートスポーツ・2024年5月5日

^ “佐藤琢磨氏が、iRacing.comのアジア市場進出に向けINTERUSHとタイアップ”. Interush Racing (2010年4月13日). 2010年5月2日閲覧。

モータースポーツ

F1ドライバーの一覧

アンドリュー・ギルバート=スコット(佐藤のマネージャー、元レーシングドライバー)

ロジャー安川(インディカー・シリーズでのスポッター担当)

スーパーH₂O - アサヒ飲料と佐藤の共同開発によるスポーツドリンク

公式ウェブサイト(日本語) (英語)

所属事務所スポーツビズによるプロフィール

佐藤琢磨 公式ブログ Powered by LINE - ウェイバックマシン(2016年5月31日アーカイブ分)

佐藤琢磨 (@TakumaSatoRacer) - X(旧Twitter)

佐藤琢磨 (@takumasato_official) - Instagram

アメリカ合衆国の旗 ボビー・レイホール

アメリカ合衆国の旗 デイヴィッド・レターマン

アメリカ合衆国の旗 マイク・ラニガン(英語版)

アメリカ合衆国の旗 カール・ホーガン

(15) アメリカ合衆国の旗 グラハム・レイホール

(30) ブラジルの旗 ピエトロ・フィッティパルディ

(45) デンマークの旗 クリスチャン・ルンガー

(75) 日本の旗 佐藤琢磨

(24) オーストリアの旗 フィリップ・エング / フィンランドの旗 ジェッセ・クローン(英語版) / ブラジルの旗 アウグスト・ファルフス / ベルギーの旗 ドリス・ヴァントール

(25) アメリカ合衆国の旗 コナー・デ・フィリッピ(英語版) / イギリスの旗 ニック・イェロリー / ベルギーの旗 マキシム・マルタン / ドイツの旗 レネ・ラスト

アメリカ合衆国の旗 ボビー・レイホール

アメリカ合衆国の旗 マイク・グロフ(英語版)

ブラジルの旗 ラウル・ボーセル

アメリカ合衆国の旗 ブライアン・ハータ

イタリアの旗 マッシミリアーノ・パピス

スウェーデンの旗 ケニー・ブラック

アメリカ合衆国の旗 ケイシー・メアーズ(英語版)

アメリカ合衆国の旗 ジミー・バッサー

メキシコの旗 ミチェル・ジョルディン・ジュニア

アメリカ合衆国の旗 バディ・ライス

アメリカ合衆国の旗 ロジャー安川

ブラジルの旗 ヴィトール・メイラ

アメリカ合衆国の旗 ダニカ・パトリック

アメリカ合衆国の旗 ポール・ダナ

アメリカ合衆国の旗 ジェフ・シモンズ(英語版)

アメリカ合衆国の旗 スコット・シャープ

アメリカ合衆国の旗 ライアン・ハンター=レイ

イギリスの旗 アレックス・ロイド

スペインの旗 オリオール・セルビア

イギリスの旗 ジェイ・ハワード(英語版)

ベルギーの旗 ベルトラン・バゲット

イギリスの旗 ピッパ・マン

イギリスの旗 ジェームズ・ジェイクス

イギリスの旗 マイク・コンウェイ

イタリアの旗 ルカ・フィリッピ

アメリカ合衆国の旗 スペンサー・ピゴット(英語版)

アメリカ合衆国の旗 サンティノ・フェルッチ

イギリスの旗 ジャック・ハーベイ(英語版)

主要タイトル一覧

2004年(英語版) アメリカ合衆国の旗 バディ・ライス

2020年(英語版) 日本の旗 佐藤琢磨

1992年 アメリカ合衆国の旗 ボビー・レイホール

アメリカ合衆国の旗 マイケル・アンドレッティ

アメリカ合衆国の旗 マルコ・アンドレッティ (NTT IndyCar No. 98)

アメリカ合衆国の旗 マイク・カーブ&キャリー・アガジャニアン(英語版) (NTT IndyCar No. 98)

アメリカ合衆国の旗 ブライアン・ハータ (NTT IndyCar No. 98)

オーストラリアの旗 ライアン・ウォーキンショー(英語版) (Supercars No.2 and No.25)

26. アメリカ合衆国の旗 コルトン・ハータ

27. アメリカ合衆国の旗 カイル・カークウッド(英語版)

28. スウェーデンの旗 マーカス・エリクソン

98. アメリカ合衆国の旗 マルコ・アンドレッティ

1. イギリスの旗 ジェイク・デニス

17. フランスの旗 ノーマン・ナト

26. イギリスの旗 ルイス・フォスター(英語版)

27. ニュージーランドの旗 ハンター・マケレア(英語版)

28. イギリスの旗 ジェイミー・チャドウィック

29. アイルランドの旗 ジェームス・ローJr.(英語版)

2. オーストラリアの旗 ニック・ペルカ(英語版)

25. オーストラリアの旗 チャズ・モスタート(英語版)

スペインの旗 フェルナンド・アロンソ

アメリカ合衆国の旗 マイケル・アンドレッティ

アメリカ合衆国の旗 カート・ブッシュ

イギリスの旗 マイク・コンウェイ

スコットランドの旗 ダリオ・フランキッティ

アメリカ合衆国の旗 ロビー・ゴードン(英語版)

アメリカ合衆国の旗 ブライアン・ハータ

アメリカ合衆国の旗 ライアン・ハンター=レイ

ブラジルの旗 トニー・カナーン

コロンビアの旗 カルロス・ムニョス

アメリカ合衆国の旗 ダニカ・パトリック

日本の旗 武藤英紀

日本の旗 佐藤琢磨

カナダの旗 ポール・トレーシー

カナダの旗 ジャック・ヴィルヌーヴ

イギリスの旗 ダン・ウェルドン

イギリスの旗 ジャスティン・ウィルソン

イギリスの旗 ステファン・ウィルソン(英語版)

フランスの旗 ロマン・グロージャン

カナダの旗 デブリン・デフランチェスコ(英語版)

主要タイトル一覧

1995年(英語版) カナダの旗 ジャック・ヴィルヌーヴ

2005年(英語版) イギリスの旗 ダン・ウェルドン

2007年(英語版) スコットランドの旗 ダリオ・フランキッティ

2014年(英語版) アメリカ合衆国の旗 ライアン・ハンター=レイ

2016年(英語版) アメリカ合衆国の旗 アレクサンダー・ロッシ

2017年 日本の旗 佐藤琢磨

1995年 カナダの旗 ジャック・ヴィルヌーヴ

2004年 ブラジルの旗 トニー・カナーン

2005年 イギリスの旗 ダン・ウェルドン

2007年 スコットランドの旗 ダリオ・フランキッティ

2012年 アメリカ合衆国の旗 ライアン・ハンター=レイ

アメリカ合衆国の旗 チップ・ガナッシ

4 ケイマン諸島の旗 キフィン・シンプソン(英語版)

8 スウェーデンの旗 リヌス・ルンドクヴィスト(英語版)

9 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

10 スペインの旗 アレックス・パロウ

11 オーストラリアの旗 マーカス・アームストロング

01 フランスの旗 セバスチャン・ボーデ / オランダの旗 レンガー・ヴァン・デル・ザンデ

2 ニュージーランドの旗 アール・バンバー / イギリスの旗 アレックス・リン

アメリカ合衆国の旗 エディ・チーバー

オランダの旗 アリー・ルイエンダイク

アメリカ合衆国の旗 ロビー・ゴードン(英語版)

アメリカ合衆国の旗 マイケル・アンドレッティ

ブラジルの旗 マウリシオ・グージェルミン

アメリカ合衆国の旗 ブライアン・ハータ

アメリカ合衆国の旗 ジミー・バッサー

イタリアの旗 アレッサンドロ・ザナルディ

コロンビアの旗 ファン・パブロ・モントーヤ

フランスの旗 ニコラ・ミナシアン

メキシコの旗 ミーモ・ギドリー(英語版)

アメリカ合衆国の旗 トニー・スチュワート

ブラジルの旗 ブルーノ・ジュンケイラ

アメリカ合衆国の旗 ジェフ・ワード

スウェーデンの旗 ケニー・ブラック

南アフリカ共和国の旗 トーマス・シェクター

イギリスの旗 ダレン・マニング

オーストラリアの旗 ライアン・ブリスコー

イギリスの旗 ダン・ウェルドン

イギリスの旗 ダリオ・フランキッティ

アメリカ合衆国の旗 グラハム・レイホール

アメリカ合衆国の旗 チャーリー・キンボール

ブラジルの旗 トニー・カナーン

アメリカ合衆国の旗 セージ・カラム

コロンビアの旗 セバスチャン・サーベドラ

イギリスの旗 マックス・チルトン

アラブ首長国連邦の旗 エド・ジョーンズ(英語版)

スウェーデンの旗 フェリックス・ローゼンクヴィスト

スウェーデンの旗 マーカス・エリクソン

アメリカ合衆国の旗 ジミー・ジョンソン

日本の旗 佐藤琢磨

主要タイトル一覧

2000年(英語版) コロンビアの旗 ファン・パブロ・モントーヤ

2008年(英語版) ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2010年(英語版) イギリスの旗 ダリオ・フランキッティ

2012年 イギリスの旗 ダリオ・フランキッティ

2022年(英語版) スウェーデンの旗 マーカス・エリクソン

1996年 アメリカ合衆国の旗 ジミー・バッサー

1997年 イタリアの旗 アレッサンドロ・ザナルディ

1998年 イタリアの旗 アレッサンドロ・ザナルディ

1999年 コロンビアの旗 ファン・パブロ・モントーヤ

2003年 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2008年 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2009年 イギリスの旗 ダリオ・フランキッティ

2009年 イギリスの旗 ダリオ・フランキッティ

2009年 イギリスの旗 ダリオ・フランキッティ

2013年 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2015年 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2018年 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2020年 ニュージーランドの旗 スコット・ディクソン

2021年 スペインの旗 アレックス・パロウ

2023年 スペインの旗 アレックス・パロウ

2024年 スペインの旗 アレックス・パロウ

83 ブラジルの旗 アイルトン・セナ

84 デンマークの旗 ジョン・ニールセン

85 ブラジルの旗 マウリシオ・グージェルミン

86 イギリスの旗 アンディ・ウォレス

87 イギリスの旗 マーティン・ドネリー

88 イタリアの旗 エンリコ・ベルタッジア

89 オーストラリアの旗 デビッド・ブラバム

90 ドイツの旗 ミハエル・シューマッハ

91 スコットランドの旗 デビッド・クルサード

92 スウェーデンの旗 リカルド・リデル

93 ドイツの旗 ヨルグ・ミューラー

94 ドイツの旗 サッシャ・マーセン

95 ドイツの旗 ラルフ・シューマッハ

96 アイルランドの旗 ラルフ・ファーマン

97 フランスの旗 ソエイル・アヤリ

98 スコットランドの旗 ピーター・ダンブレック

99 イギリスの旗 ダレン・マニング

00 ポルトガルの旗 アンドレ・クート

01 日本の旗 佐藤琢磨

02 フランスの旗 トリスタン・ゴメンディ

03 フランスの旗 ニコラ・ラピエール

04 フランスの旗 アレクサンドル・プレマ

05 ブラジルの旗 ルーカス・ディ・グラッシ

06 イギリスの旗 マイク・コンウェイ

07 イギリスの旗 オリバー・ジャービス

08 日本の旗 国本京佑

09 イタリアの旗 エドアルド・モルタラ

10 イタリアの旗 エドアルド・モルタラ

11 スペインの旗 ダニエル・ジュンカデラ

12 ポルトガルの旗 アントニオ・フェリックス・ダ・コスタ

13 イギリスの旗 アレックス・リン

14 スウェーデンの旗 フェリックス・ローゼンクヴィスト

15 スウェーデンの旗 フェリックス・ローゼンクヴィスト

16 ポルトガルの旗 アントニオ・フェリックス・ダ・コスタ

17 イギリスの旗 ダニエル・ティクトゥム

18 イギリスの旗 ダニエル・ティクトゥム

19 オランダの旗 リチャード・フェルシュホー

20 マカオの旗 梁瀚昭

21 マカオの旗 梁瀚昭

22 マカオの旗 鄭頴聰

23 イギリスの旗 ルーク・ブラウニング

24 アメリカ合衆国の旗 ウーゴ・ウゴチュクウ

アイルランドの旗 エディ・ジョーダン

イギリスの旗 ゲイリー・アンダーソン

イギリスの旗 イアン・フィリップス

イギリスの旗 ダレン・デイビス

イギリスの旗 アンドリュー・グリーン

イギリスの旗 マーク・スミス

イギリスの旗 マイク・ガスコイン

イギリスの旗 ボブ・ベル

イギリスの旗 ジョン・デイビス

イギリスの旗 ジェームス・キー

オーストラリアの旗 サム・マイケル

イギリスの旗 ポール・クルックス

イギリスの旗 ティム・ホロウェイ

日本の旗 羽下晃生

イタリアの旗 アンドレア・デ・チェザリス

フランスの旗 ベルトラン・ガショー

ドイツの旗 ミハエル・シューマッハ

ブラジルの旗 ロベルト・モレノ

イタリアの旗 アレッサンドロ・ザナルディ

イタリアの旗 ステファノ・モデナ

ブラジルの旗 マウリシオ・グージェルミン

ブラジルの旗 ルーベンス・バリチェロ

イタリアの旗 イヴァン・カペリ

ベルギーの旗 ティエリー・ブーツェン

イタリアの旗 エマニュエル・ナスペッティ

イタリアの旗 マルコ・アピチェラ

イギリスの旗 エディ・アーバイン

日本の旗 鈴木亜久里

イギリスの旗 マーティン・ブランドル

ドイツの旗 ラルフ・シューマッハ

イタリアの旗 ジャンカルロ・フィジケラ

イギリスの旗 デイモン・ヒル

ドイツの旗 ハインツ=ハラルド・フレンツェン

イタリアの旗 ヤルノ・トゥルーリ

ブラジルの旗 リカルド・ゾンタ

フランスの旗 ジャン・アレジ

日本の旗 佐藤琢磨

アイルランドの旗 ラルフ・ファーマン

ハンガリーの旗 ゾルト・バウムガルトナー

ドイツの旗 ニック・ハイドフェルド

イタリアの旗 ジョルジオ・パンターノ

ドイツの旗 ティモ・グロック

インドの旗 ナレイン・カーティケヤン

ポルトガルの旗 ティアゴ・モンテイロ

スウェーデンの旗 トーマス・ダニエルソン

イギリスの旗 ジョニー・ハーバート

イギリスの旗 マーティン・ドネリー

イタリアの旗 パオロ・バリッラ

フランスの旗 ジャン・アレジ

スウェーデンの旗 リカルド・リデル

イタリアの旗 エマニュエル・ナスペッティ

イギリスの旗 エディ・アーバイン

ドイツの旗 ハインツ=ハラルド・フレンツェン

イタリアの旗 ヴィンセンツォ・ソスピリ

イギリスの旗 デイモン・ヒル

191

192

193

194

195

196

197

198

199

EJ10

EJ10B

EJ11

EJ11B

EJ12

EJ13

EJ14

EJ15

EJ15B

セブンアップ

富士フイルム

SHOEI

フィリップス

ペプシ

    日本GP限定

    ブラウン&ウィリアムソン

      バークレイ(英語版)

      サソル

      京商

      ベータ(イタリア語版)

      トタル

      ベンソン&ヘッジス

      マスターカード

      ドイツポスト

      DHL

      ソブラニー

      イギリスの旗 クレイグ・ポロック (共同創設者)

      イギリスの旗 ロン・メドウズ

      イギリスの旗 ジェフ・ウィリス

      イギリスの旗 ポール・クルックス

      ブラジルの旗 ジル・ド・フェラン

      イギリスの旗 クレイグ・ウィルソン

      イギリスの旗 アンドリュー・ショブリン

      イギリスの旗 ジョック・クリア

      イギリスの旗 ジェームス・ボウルズ

      日本の旗 小松礼雄(HRD UK)

      イギリスの旗 エイドリアン・レイナード

      オーストラリアの旗 マルコム・オーストラー

      イギリスの旗 アンドリュー・グリーン

      日本の旗 和田康裕(英語版)

      日本の旗 中本修平

      日本の旗 橋本健

      日本の旗 木内健雄

      日本の旗 田辺豊治

      イギリスの旗 デビッド・リチャーズ

      イギリスの旗 ニック・フライ

      カナダの旗 ジャック・ヴィルヌーヴ

      ブラジルの旗 リカルド・ゾンタ

      フィンランドの旗 ミカ・サロ

      フランスの旗 オリビエ・パニス

      イギリスの旗 ジェンソン・バトン

      日本の旗 佐藤琢磨

      イギリスの旗 アンソニー・デビッドソン

      日本の旗 福田良

      ブラジルの旗 エンリケ・ベルノルディ

      イギリスの旗 アダム・キャロル

      イギリスの旗 ジェームズ・ロシター

      南アフリカ共和国の旗 アラン・バンデルメルベ(英語版)

      ブラジルの旗 ダニロ・ディラニ(英語版)

      01

      002

      003

      004

      005

      006

      007

      ブリティッシュ・アメリカン・タバコ(ラッキーストライク・555(英語版))

      新日本石油

      レイバン

      SUPER H2O

      NGK

      NTN

      ショーワ

      イギリスの旗 ブリティッシュ・アメリカン・タバコ

      イギリスの旗 レイナード

      イギリスの旗 ホンダ・レーシング・ディベロップメント (HRD)・日本の旗 本田技術研究所 [栃木研究所]

      イギリスの旗 プロドライブ

      日本の旗 鈴木亜久里

      イタリアの旗 ダニエル・オーデット

      オーストラリアの旗 マーク・プレストン

      イギリスの旗 ピーター・マックール

      イギリスの旗 イアン・トムソン

      イギリスの旗 ロブ・ニューマン

      イギリスの旗 ベン・ウッド

      イギリスの旗 グラハム・テイラー

      イギリスの旗 ジェリー・ヒューズ

      スペインの旗 アントニオ・クケレラ

      カナダの旗 トリグベ・ランゲン

      日本の旗 佐藤琢磨

      日本の旗 井出有治

      フランスの旗 フランク・モンタニー

      日本の旗 山本左近

      イギリスの旗 アンソニー・デビッドソン

      SA05

      SA06

      SA06B

      SA07

      SA08A

      イギリスの旗 ホンダ・レーシング・ディベロップメント

      日本の旗 本田技研工業

      日本の旗 本田技術研究所

      日本の旗 エー・カンパニー

      日本の旗 スーパーアグリ・カンパニー

      日本の旗 ARTA

      本田技研工業

      新日本石油

      ブリヂストン

      サマンサキングス

      セイコー

      オートバックスセブン

      アデランス

      日清食品

      フォーリーフ

      ライフカード

      パイオニア

      NGK

      キノトロープ

      スピーカバス

      タカタ

      ロダック

      メトリス

      プロキシム

      OMP

      フジテレビジョン

      青木愛

      伊藤みき

      岩崎恭子

      上村愛子

      江草仁貴

      大西将太郎

      荻原健司

      荻原次晴

      狩野舞子

      亀山つとむ

      木村沙織

      小谷実可子

      迫田さおり

      佐々木則夫

      千葉真子

      勅使川原郁恵

      寺川綾

      廣田遥

      本田武史

      三井梨紗子

      本橋麻里

      八木沼純子

      和田一浩

      新井真季子

      荒川晴菜

      池添謙一

      池田大亮

      右代啓祐

      江畑幸子

      大津祐樹

      大場美和

      カレン・ロバート

      北村響

      才藤歩夢

      笹原優美

      佐藤琢磨

      田嶋鉄兵

      田南部夢叶

      中山楓奈

      濱田真由

      藤井かすみ

      古川奈穂

      星野純子

      三浦桃香

      見延和靖

      宮田成華

      宮脇花綸

      村岡桃佳

      村田嵐

      脇本雄太

      ロコ・ソラーレ

      阿波野秀幸

      大神雄子

      加藤陽一

      寺廻太

      中田久美

      長谷川誠

      水鳥寿思

      吉原知子

      岩本憧子

      大久保勇利

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      東京都区部出身の人物

      1977年生

      存命人物

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2024/11/24 21:06更新

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佐藤琢磨と同じ誕生日1月28日生まれ、同じ東京出身の人

船橋 梨子(ふなばし りこ)
1986年1月28日生まれの有名人 東京出身

船橋 梨子(ふなばし りこ、1986年1月28日 - )は、日本のタレント、グラビアアイドル、レースクイーン。東京都出身。 趣味は近代世界史(特に第一次世界大戦)について調べる事。 駅伝観戦が好き…

望月 優子(もちづき ゆうこ)
1917年1月28日生まれの有名人 東京出身

望月 優子(もちづき ゆうこ、本名:鈴木 美枝子、旧姓:里見、1917年1月28日 - 1977年12月1日)は、日本の女優、映画監督、政治家。参議院議員(1期、日本社会党)。 神奈川県横浜市出身。…

三田村 春奈(みたむら はるな)
1991年1月28日生まれの有名人 東京出身

三田村 春奈(みたむら はるな、1991年1月28日- )は、日本の女優である。 東京都出身。ダブルアップエンタテインメント所属。 趣味は歌、映画鑑賞、舞台鑑賞、脚本作成 身長155.6cm 血液…

花島 喜世子(はなしま きよこ)
1910年1月28日生まれの有名人 東京出身

絵画モデル 花島 喜世子(はなしま きよこ、1910年1月28日 - 没年不明)は、日本の女優、歌手である。カジノ・フォーリーに始まるエノケンこと榎本健一の歴史に公私ともに寄り添ったことで知られる。…

井上 光央(いのうえ てるひさ)
1932年1月28日生まれの有名人 東京出身

井上 光央(いのうえ てるひさ、1932年1月28日 - )は、毎日放送出身のフリーアナウンサー。 東京都出身で巣鴨育ち。東京都立小石川高等学校を経て、早稲田大学第一政経学部卒業後、1955年に新日…


本城 直季(ほんじょう なおき)
1978年1月28日生まれの有名人 東京出身

本城 直季(ほんじょう なおき、1978年1月28日 - )は、日本の写真家。東京都生まれ。東京工芸大学芸術学部写真学科卒業、同大学院芸術学研究科メディアアート専攻修了。 大判カメラのアオリ(ティル…

水島 よう子(みずしま ようこ)
1975年1月28日生まれの有名人 東京出身

水島 よう子(みずしま ようこ、1975年1月28日 - )は、日本の声優、タレント、ナレーター。本名は渡辺 恭子。 オフィスカノンに所属し、業務提携ナレーターとしてムーブマンにも所属していたが、現…

齊藤 真紀(さいとう まき)
1979年1月28日生まれの有名人 東京出身

齊藤 真紀(さいとう まき、1979年1月28日 - )は、日本の声優。東京都出身。フリー。 代々木アニメーション学院在学中、その素質を三ツ矢雄二に見い出され、劇団アルターエゴに入団。 テレビアニ…

小平 有希(こだいら ゆうき)
1981年1月28日生まれの有名人 東京出身

小平 有希(こだいら ゆうき、1981年1月28日 - )は、日本の女性声優。東京都三鷹市出身。賢プロダクション所属。賢プロダクション所属の声優による絵本の読み聞かせをする「けんけんぱーく」のメンバー…

岩坪 理江(いわつぼ りえ)
1963年1月28日生まれの有名人 東京出身

岩坪 理江(いわつぼ りえ、1963年1月28日 - )は、日本の元女性声優。東京都出身。 現役時代はぷろだくしょんバオバブ、ア・ミューに所属していた。 幼少の頃から声楽とピアノを習っていたことか…


白山 修(しらやま おさむ)
1958年1月28日生まれの有名人 東京出身

白山 修(しらやま おさむ、1958年1月28日 - )は、日本の男性声優。放映新社所属。東京都出身。 アンダー・サスピション ※テレビ東京版 ウインドトーカーズ エイリアス エイリアン2 グラディ…


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佐藤琢磨と近い名前の人

佐藤 健_(政治家)(さとう たけし)
1967年10月21日生まれの有名人 長野出身

佐藤 健(さとう たけし、1967年〈昭和42年〉10月21日 - )は、日本の政治家、自治・総務官僚。長野県飯田市長(2期)。 長野県飯田市出身。長野県飯田高等学校、東京大学法学部卒業。1991年…

佐藤 健_(俳優)(さとう たける)
1989年3月21日生まれの有名人 埼玉出身

放送文化基金賞演技賞2015年『天皇の料理番』 佐藤 健 / Satoh Takeru 佐藤 健(さとう たける、1989年〈平成元年〉3月21日 - )は、日本の俳優、YouTuber。Co-La…

さとう 珠緒(さとう たまお)
1973年1月2日生まれの有名人 千葉出身

さとう 珠緒(さとう たまお、1973年〈昭和48年〉1月2日 - )は、日本の女優、タレント。本名:佐藤 珠緒(読み同じ)。血液型:A型。現在はライトハウスと業務提携。千葉県船橋市出身。武蔵野外語専…

佐藤 泰三(さとう たいぞう)
1924年4月15日生まれの有名人 千葉出身

佐藤 泰三(さとう たいぞう、1924年(大正13年)4月15日 - 2013年(平成25年)1月21日)は日本の政治家。自由民主党元参議院議員(3期。津島派)。医師(産婦人科)。 1924年4月 …


佐藤 直子_(女優)(さとう なおこ)
1960年4月29日生まれの有名人 福島出身

佐藤 直子(さとう なおこ、1960年4月29日 - )は、福島県出身の女優。身長157cm。東京学芸大学教育学部卒業。既婚。オフィススリーアイズ所属。 この節の加筆が望まれています。

佐藤 友紀_(女優)(さとう ゆうき)
1973年12月10日生まれの有名人 神奈川出身

佐藤 友紀(さとう ゆうき、本名:古田友紀、旧姓:佐藤、1973年12月10日 - )は、神奈川県出身の女優。夫は写真家、アートディレクターの古田亘。 所属はヒラタオフィス。身長162cm。体重45…

佐藤 友紀_(野球)(さとう ともき)
1979年6月26日生まれの有名人 兵庫出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 佐藤 友紀(さとう ともき、1979年6月26日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)。 2001年から2005年までの登録…

佐藤 博_(実業家)(さとう ひろし)
1929年2月10日生まれの有名人 東京出身

佐藤 博(さとう ひろし、1929年2月10日 - 2013年1月13日)は、日本の経営者。TDK社長、会長を務めた。 東京都出身。1952年に日本大学旧工学部を卒業し、同年に東京電気化学工業(のち…

佐藤 博_(ミュージシャン)(さとう ひろし)
1947年6月3日生まれの有名人 鹿児島出身

佐藤 博(さとう ひろし、1947年6月3日 - 2012年10月26日)は、日本のシンガーソングライター、ピアニスト、キーボーディスト、シンセサイザープログラマー、作曲家、編曲家、レコーディング &…


佐藤 千晶_(タレント)(さとう ちあき)
1983年5月11日生まれの有名人 東京出身

5月11日生まれwiki情報なし(2024/11/25 05:27時点)

佐藤 健太郎_(フリーライター)(さとう けんたろう)
1970年5月8日生まれの有名人 兵庫出身

佐藤 健太郎(さとう けんたろう、1970年〈昭和45年〉5月8日 - )は、化学を専門分野とする日本のフリーランスサイエンスライター。国道愛好家としても知られる。2012年(平成24年)4月まで、東…

佐藤 健太郎_(サッカー選手)(さとう けんたろう)
1984年8月14日生まれの有名人 三重出身

佐藤 健太郎(さとう けんたろう、1984年8月14日 - )は、三重県出身のプロサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー(MF)。 順天堂大学蹴球部では中盤の主力選手として活躍(同期は小宮山尊信…

佐藤 修_(アナウンサー)(さとう おさむ)
1959年5月20日生まれの有名人 北海道出身

佐藤 修(さとう おさむ、1959年5月20日 - )は、日本の大学教授・フリーアナウンサー。東北放送(TBC)に在職した。後年より、スポーツ部長も歴任した。 北海道札幌市東区出身。笠谷幸生、金野昭…

佐藤 修_(ボクサー)(さとう おさむ)
1976年12月16日生まれの有名人 兵庫出身

佐藤 修(さとう おさむ、1976年12月16日 - )は、日本の元プロボクサー。兵庫県神戸市出身。元WBA世界スーパーバンタム級王者。現役時代は協栄ボクシングジム所属。神戸国際大学附属高等学校卒業。…


佐藤 亮一_(実業家)(さとう りょういち)
1924年1月3日生まれの有名人 東京出身

佐藤 亮一(さとう りょういち、1924年(大正13年)1月3日 - 2001年(平成13年)1月7日)は、新潮社の第4代社長。東京府出身。 第一東京市立中学校(後の東京都立九段高等学校)を卒業し、…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「佐藤琢磨」を素材として二次利用しています。

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