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司馬遼太郎の情報 (しばりょうたろう)
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【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

司馬遼太郎の情報(しばりょうたろう) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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司馬 遼太郎さんについて調べます

■名前・氏名
司馬 遼太郎
(読み:しば りょうたろう)
■職業
作家
■司馬遼太郎の誕生日・生年月日
1923年8月7日
亥年(いのしし年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
大阪出身

司馬遼太郎と同じ1923年生まれの有名人・芸能人

司馬遼太郎と同じ8月7日生まれの有名人・芸能人

司馬遼太郎と同じ出身地大阪府生まれの有名人・芸能人


司馬遼太郎と関係のある人

宮本輝: 2010年(平成22年) - 『骸骨ビルの庭』で第13回司馬遼太郎


池宮彰一郎: 1992年に小説『四十七人の刺客』を発表して以降、池宮彰一郎のペンネームを用いて歴史小説を著したが、2002年に司馬遼太郎作品との類似問題により活動をほぼ停止した。


鷲田小彌太: 『司馬遼太郎


後藤正治: 大佛次郎賞、司馬遼太郎賞、河合隼雄物語賞選考委員。


小熊英二: 五十嵐仁は、言及基準が不明瞭だとして「いささか意外な感じ」として、新しい歴史教科書をつくる会の台頭がおこったとき、彼らによって「利用」され、大きな影響を与えたのが、“司馬史観”だったが、司馬遼太郎が登場することは少なく、人名索引では3ヵ所にしか出てこない。


花岡大学: 司馬遼太郎は新聞記者時代から花岡と交友があり、エッセイ等で花岡と司馬の文学にたびたび言及している。


銀河万丈: 司馬遼太郎短篇傑作選(ナレーション)


渡辺俊幸: 司馬遼太郎の功名が辻(1997年)


辻原登: 2019年現在、三島由紀夫賞、川端康成文学賞、日経小説大賞、司馬遼太郎賞、読売文学賞、大佛次郎賞、群像新人文学賞、金魚屋新人賞、ハヤカワ「悲劇喜劇」賞選考委員。


磯貝勝太郎: 『司馬遼太郎の幻想ロマン』集英社新書 2012


枝野幸男: 同年6月に超党派の若手有志議員による政策勉強会「司馬遼太郎哲学研究会」の呼びかけ人となり発足させた。


藤島泰輔: ペンクラブからは有吉佐和子・司馬遼太郎・立原正秋などが脱会、理事だった安岡章太郎や阿川弘之が辞意を表明するなど、運営に大きな混乱を起こした。


桐野夏生: ペンネーム「桐野夏生」は、司馬遼太郎の小説『翔ぶが如く』の桐野利秋、大庭みな子の『浦島草』の夏生という女性の名前から取った名前で1984年のロマンス小説デビュー作から使っているが、男性と混同する名前は困ると言われ「桐野夏子」というペンネームを使った時期があった。


磯貝勝太郎: 2001年、『司馬遼太郎の風音』で尾崎秀樹記念大衆文学研究賞(評論・伝記部門)受賞


乃木希典: 戦後の昭和40年代前半に、中曽根康弘が運輸大臣在任中に、昭和天皇への内奏で、刊行間もない司馬遼太郎の『殉死』に書かれている逸話は本当でしょうかと尋ねたところ、おおむねその通りであるとの返答を得たという。


杉浦圭子: 『司馬遼太郎「アメリカ素描」を行く』(ナレーション、2003年1月4日)


田辺聖子: また古典文学の流れから歴史小説にも活躍の場を広げ、同じ大阪出身の歴史小説家である司馬遼太郎とも親睦を結んでいるほか、自身も江戸時代の俳諧師・小林一茶の生涯を描いた『ひねくれ一茶』で吉川英治文学賞を受賞している。


谷沢永一: 『司馬遼太郎の贈りもの』全5巻 (PHP研究所、1994-2001、のち2巻目まで文庫)


土方歳三: 司馬遼太郎『燃えよ剣』


陳舜臣: 一学年下に司馬遼太郎(蒙古語科)、俳人の赤尾兜子(中国語科)がおり、司馬遼太郎とは生涯親密な関係を持った。


海音寺潮五郎: それに結末を与えたのが、弟子とも言うべき司馬遼太郎の『翔ぶが如く』である。


陳舜臣: 『歴史の交差路にて - 日本・中国・朝鮮』(司馬遼太郎、金達寿共著)講談社 1984 のち文庫


岩崎弥太郎: 司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこの時の土佐藩後藤象二郎とクニフラー商会(文中ではキネプル)とのもめごとを取り上げている。


結束信二: 1965年に放映された『新選組血風録』をきっかけに、原作者の司馬遼太郎との交流が終生続いた。


長谷川勝彦: 司馬遼太郎と城を歩く(NHK)


上川隆也: 燃えよ剣(2004年、明治座・5月公演、原作:司馬遼太郎、脚本:鈴木聡、演出:ラサール石井) - 土方歳三 役


檀ふみ: 司馬遼太郎の功名が辻(1997年、ANB) - 千代 役


武田鉄矢: 高校時代に読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響からバンド名に「海援隊」と名付けるほど、坂本龍馬を敬愛しており、龍馬役や龍馬に関連する人物の役をすることがある。


藤岡信勝: 湾岸戦争を契機に、「一国平和主義」を脱し、司馬遼太郎の著作や渡米体験を通じて冷戦終結後の新しい日本近代史観確立の必要性を感じたという。


金子信雄: また、同世代の司馬遼太郎、池波正太郎とも親交があった。


司馬遼太郎の情報まとめ

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司馬 遼太郎(しば りょうたろう)さんの誕生日は1923年8月7日です。大阪出身の作家のようです。

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年表、特徴などについてまとめました。現在、卒業、趣味、父親、事件、結婚、離婚、再婚、ドラマ、退社に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

司馬遼太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

司馬 遼󠄁太郎(しば りょうたろう、1923年〈大正12年〉8月7日 - 1996年〈平成8年〉2月12日)は、日本の小説家、ノンフィクション作家、評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。位階は従三位。本名は福田 定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼󠄁(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」からきている。

大阪府大阪市出身。産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞。歴史小説に新風を送る。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがある。『街道をゆく』をはじめとする多数の随筆・紀行文などでも活発な文明批評を行った。

1923年(大正12年)8月7日、大阪府大阪市南区難波西神田町(現在の浪速区塩草)に、薬局を経営する父・福田是定(薬剤師)、母・直枝の次男として生まれた。兄がいたが2歳で早世し、姉、妹が一人ずついる。乳児脚気のために3歳まで奈良県北葛城郡當麻町(現・葛城市)の母の実家に里子に出されていた。

1930年(昭和5年)、大阪市難波塩草尋常小学校(現・大阪市立塩草立葉小学校)に入学。性格は明るかったが、学校嫌いで、悪童でもあったようである。母の実家の周りには古墳が多く、土器のかけらや石鏃などを拾い集めていた。また、当時の少年たちには特別ではなかったのであるが、大陸の馬賊に憧れていた。後に戦車隊の小隊長となることでこの夢は結実した。

1936年(昭和11年)、私立上宮中学校(現・上宮高等学校)に進学。入学後の成績は300名中でビリに近く本人も驚いたらしいが、慌てて勉強をしたら二学期には上位20位に入ったという。井伏鱒二の『岩田君のクロ』に感銘を受ける。3年生から松坂屋の横の御蔵跡町の図書館に通うようになり、大阪外国語学校卒業まで本を乱読するようになる。古今東西のあらゆる分野の書物を読破し、しまいには釣りや将棋などの本まで読んだという。阿倍野のデパートでは吉川英治の宮本武蔵全集を立ち読みで読破した。いつも立ち読みばかりするので頭にきた売り場の主任が「うちは図書館やあらへん!」と文句を言うと、「そのうちここらの本をぎょうさん買うたりますから…」と言ったそうである。また、半ば趣味として山登りを好み、大阪周辺の名山は大抵踏破している。高等学校への受験に際して、家計の都合で私立学校への進学は許されず、官立のみと父親から釘を刺されていた。

1939年(昭和14年)、中学生だった司馬にも日中戦争や第二次世界大戦が影を落としており、上宮中学の配属将校から学校教練を受けている。ある日の教練の、配属将校による当時の日本軍の主力小銃三八式歩兵銃の説明で、「よその国の小銃は機関銃のように連発式になっているが、日本軍の三八式歩兵銃はボルトアクション式のライフルであり、一発ずつしか撃てない、しかし、よその国はバラバラと撃てるが、これでは心が入らない。わが国のほうが心に念じ、一発必中になって狙えるからいい」との説明があったと著作に記述し、これが司馬少年の心に強く印象付けられたとされている。しかし、1939年に「機関銃のように連発式」の自動小銃が正式採用されていたのはアメリカ軍のM1ガーランドだけで、これも1939年の初めにはまだ7,715丁しか生産されておらず、数の面では製造開始年は三八式歩兵銃と変わらないボルトアクションライフルのスプリングフィールドM1903小銃が主力小銃であり、1941年12月の真珠湾攻撃による日本とアメリカの開戦時には、508,000丁(日産2,000丁)の大量発注も行われていた。また、ドイツ国防軍のKar98k、イギリス軍のリー・エンフィールド、ソ連労農赤軍のモシン・ナガン M1891/30など、当時の列強国の主力小銃は三八式歩兵銃と同じボルトアクションライフルで、これらの小銃は第二次世界大戦が終わるまで各国歩兵の主力装備として運用されており、日本軍の小銃だけが時代遅れのボルトアクションだったというのは事実誤認である。

司馬少年は学校が嫌いで、図書館と本屋さえあれば人間はそれでいいと考えていたが、仕方なく通学し学校で社会訓練を受けているうちに、中国人と朝鮮人に好感を抱くようになった。好きになった理由は、「彼らは非常に人間というものを感じさせた」からであったとしている。やがて、司馬にとっての恩人である中国と戦争をしている日本が嫌いであるという感情が芽生えることになった。しかし、それは実際は日本も大好きという感情の裏返しであるアンビバレンスな状態であったと自己分析している。

1940年(昭和15年)に旧制大阪高校、翌年には旧制弘前高校を受験するも不合格。1942年(昭和17年)4月に旧制大阪外国語学校蒙古語部(現・大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)に入学。入学時に校内食堂で上級生が新入生に催す歓迎会では、上級生が木刀、竹刀を振り回し下駄を踏み鳴らして『こらーっ!』と怒鳴りながら入り、訓辞や軍歌指導を行なった。その際に司馬は見事なガマの油売りを一席やったが、これは彼の性格の明るさを表す一端である。当時の学生の大半がそうであったように語学は嫌いであったが読書は依然として好み、ロシア文学や、司馬遷の『史記』を愛読。2年上に庄野潤三(英語学科)、1年上に陳舜臣(印度語学科)、同期に赤尾兜子(中国語学科)らの「創作グループ」がいたが、その輪には加われなかった。当時の司馬は、色白でふっくらした童顔であったが、旧制高校に憧れて下駄履きで登下校したという。教室へは「オース、オース」と声をかけながら入り、生徒間で人気があり人が集まる中心にいた。授業でもよく発言をした。食事はよく食べ朝飯を5杯おかわりするのが常であった。「中庸の徳」が座右の銘であったという。

1943年(昭和18年)11月に、学徒出陣により大阪外国語学校を仮卒業(翌年9月に正式卒業となる)。兵庫県加東郡河合村(現:小野市)青野が原の戦車第十九連隊に入隊した。軍隊内ではかなり珍しい「俳句の会」を興し、集合の合図には一番遅れて来た。翌44年4月に、満州四平の四平陸軍戦車学校に入校し、12月に卒業。戦車学校では文系であったために機械に弱く、ある時に戦車を動かそうとあちこちいじっているとエンジンが起動したが、中から白煙が出て「助けてくれー」と悲鳴が聞こえたので駆けつけると、コードが戦車に触れて電流が流れていた。手斧でコードを断ち切り、事なきを得たという。司馬は、軍隊生活になかなか馴染めず、訓練の動作にも遅れが目立ち、同期生のなかでも戦車の操縦はとびきり下手であったが、「俺は将来、戦車1個小隊をもらって蒙古の馬賊の大将になるつもりだ」などと冗談を言うなど、笑みを絶やさない明るい性格で同期生たちの癒しになっていた。

部隊で一緒だったのが石濱恒夫であり、石濱と司馬はこの時以来、司馬が亡くなるまで親交が深かった。

戦車学校で成績の良かった者は内地や外地へ転属したが、成績の悪かった者はそのまま中国に配属になり、これが生死を分けた。卒業後、満州国牡丹江に展開していた久留米戦車第一連隊第三中隊第五小隊に小隊長として配属される。翌1945年に本土決戦のため、新潟県を経て栃木県佐野市に移り、ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。

敗戦にショックを受けた司馬は「なんとくだらない戦争をしてきたのか」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろう」との数日考えこみ、「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いが、後の司馬の日本史に対する関心の原点となり、趣味として始めた小説執筆を、綿密な調査をして執筆するようになったのは「昔というのは、鎌倉のことやら、室町、戦国のころのことである。やがて、ごく新しい江戸期や明治時代のことも考えた。いくら考えても昭和の軍人たちのように、国家そのものを賭けものにして賭場にほうりこむようなことをやったひとびとがいたようには思えなかった」と考えた終戦時の司馬自身に対する「いわば、23歳の自分への手紙を書き送るようにして小説を書いた」からであると述懐している。復員後は直ちに図書館通いを再開する。

戦地からの復員後、生野区猪飼野東五丁目8にあった在日朝鮮人経営の新世界新聞社に大竹照彦とともに入社。1946年(昭和21年)、ふたたび大竹とともに新日本新聞京都本社に入社。同僚に青木幸次郎がいた。このころから30歳を過ぎたら小説を書こうと考えるようになる。大学、宗教記事を書いたが、社は2年後に倒産、産経新聞社から「外語大卒だから英語くらいできるだろう」と誘われ、英語がまったくできないにもかかわらず「できます」と応じて京都支局に入る。入社して1か月も経たない1948年(昭和23年)6月28日午後、福井地震が発生し、その日のうちに福井の取材に行く。同年11月、歌人川田順の失踪事件を取材。

翌年大阪本社に異動。1950年(昭和25年)の初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年に金閣寺放火事件の記事を書いた(真っ先に取材に訪れた記者の一人とされる)。このころ京都の寺社周り・京都大学を担当し、その結果京都の密教寺院で不思議な僧侶らと出会ったり、石山合戦のときの本願寺側の兵糧方の子孫の和菓子屋と話したり、京都大学で桑原武夫、貝塚茂樹らの京都学派の学者たちに取材したりするなど、後年の歴史小説やエッセイを執筆する種となる出会いがあった。このことは後年の自筆の回想記(多く『司馬遼󠄁太郎が考えたこと』に所収)に記されている。その後文化部長、出版局次長を務めた。文化部時代の同僚に廓正子がいる。

同年に大阪大学医局の薬剤師と見合いにより最初の結婚。1952年(昭和27年)に長男が誕生するが、1954年(昭和29年)に離婚。長男は実家の福田家に預けられ祖父母に養育される。この結婚及び、誕生した息子のことは、当時は一切公表されなかったが、司馬の死後の新聞報道により明らかになっている。

1955年(昭和30年)、『名言随筆・サラリーマン』(六月社)を発表。この作品は本名で発表したが、このほかにも「饅頭伝来記」など数作本名で発表した作品があるといわれる。さらに、当時親しくなっていた成田有恒(寺内大吉)に勧められて小説を書くようになる。1956年(昭和31年)5月、「ペルシャの幻術師」が第8回講談倶楽部賞に応募(「司馬遼󠄁太郎」の名で投稿)、海音寺潮五郎の絶賛を受け同賞を受賞し、出世作となる。また、寺内とともに雑誌『近代説話』を創刊した。『近代説話』『面白倶楽部』『小説倶楽部』に作品を発表し続け、1958年(昭和33年)7月、「司馬遼󠄁太郎」としての初めての著書『白い歓喜天』が出版される。当時は山田風太郎と並ぶ、伝奇小説の担い手として注目され、本格歴史小説の大家になろうとは予想だにされていなかった。さらに「梟のいる都城」(のち『梟の城』に改題)の連載を開始。

1959年(昭和34年)1月、同じ産経新聞記者の松見みどりと再婚。12月に大阪市西区西長堀のアパートに転居。同じアパートに南海ホークス時代の野村克也がいた。『大坂侍』『梟の城』を発表。1960年(昭和35年)、『梟の城』で第42回直木賞を受賞、翌年に産経新聞社を退職して、作家生活に入る。

初期は直木賞を受賞した『梟の城』や『大坂侍』『風の武士』『風神の門』などの長編や、短編「ペルシャの幻術師」「果心居士の幻術」「飛び加藤」など、時代・伝奇小説が多い。忍者を主人公にした作品が多く「忍豪作家」(五味康祐ら「剣豪作家」にちなむ呼び名)とも呼ばれた。また、初期数編が西アジアを主要舞台としている点も(当時としてはなおのこと)異色でありながら、後年の創作へは(エッセイ等では同地への強い関心を維持しつつも)引き継がれなかった。推理小説も書き、『豚と薔薇』『古寺炎上』があるがあまり得意ではなくこの2作にとどまっている。

だが、1962年(昭和37年)より『竜馬がゆく』『燃えよ剣』、1963年(昭和38年)より『国盗り物語』を連載し、歴史小説家として旺盛な活動を本格化させた。この辺りの作品より、作者自ら、作中で随筆風に折込解説する手法が完成している。1964年(昭和39年)には、終のすみかとなる布施市下小阪(現在の東大阪市)に転居した。近所には付近の大地主であり上宮中学からの同級生の山澤茂雄がおり終生交流が続いたの(「近所の記」)ちに「猥雑な土地でなければ住む気がしない」と記している。1966年(昭和41年)、菊池寛賞を受ける。その後も『国盗り物語』に続き、『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の戦国四部作を上梓した。

1971年(昭和46年)から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始した。1972年(昭和47年)には明治の群像を描いた『坂の上の雲』の産経新聞での連載が終了。また、幕末を扱った『世に棲む日日』で吉川英治文学賞。初期のころから示していた密教的なものへの関心は『空海の風景』(日本芸術院賞・恩賜賞受賞)に結実されている。「国民的作家」の名が定着し始めるようになり、歴史を俯瞰して一つの物語と見る「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観を築いて人気を博した。1970年代中期から80年代にかけ、明治初期の『翔ぶが如く』や、『胡蝶の夢』、江戸後期の『菜の花の沖』、戦国期の『箱根の坂』などを著し、清朝興隆の時代を題材にした『韃靼疾風録』を最後に小説執筆を止める。「街道をゆく」や、月一回連載のエッセイ『風塵抄』、『この国のかたち』に絞り、日本とは、日本人とは何かを問うた文明批評を行った。

1981年(昭和56年)に日本芸術院会員、1991年(平成3年)には文化功労者となり、1993年(平成5年)に文化勲章を受章した。このころから腰に痛みを覚えるようになる。坐骨神経痛と思われていたが、実際は直接の死因となる腹部大動脈瘤であった。それでも「街道を行く 台湾紀行」取材の折に、当時台北で台湾総統だった李登輝との会談「場所の悲哀」を行ったり、「街道を行く」取材で青森の三内丸山遺跡を訪れるなど精力的な活動を続ける。また、晩年にはノモンハン事件の作品化を構想していたといわれているが、着手されずに終わった。

1996年(平成8年)1月、「街道をゆく 濃尾参州記」の取材を終え、連載中の2月10日深夜に吐血して倒れ、大阪市中央区の国立大阪病院(現:国立病院機構大阪医療センター)に入院、2日後の2月12日午後8時50分、腹部大動脈瘤破裂のため死去した、72歳。同日は「菜の花忌」と呼ばれている。死去した国立大阪病院は、奇しくも『花神』で書いた大村益次郎が死去した場所であった。絶筆「濃尾参州記」は未完となった。親族・関係者による密葬を経て、3月10日に大阪市内のホテルで「司馬遼󠄁太郎さんを送る会」が行われ、約3,000人が参列した。法名は、「遼󠄁望院釋淨定」。政府から従三位を追賜された。

翌年に司馬遼󠄁太郎記念財団が発足し、司馬遼󠄁太郎賞が創設された。2001年(平成13年)に、東大阪市の自宅隣に司馬遼󠄁太郎記念館が開館。司馬遼󠄁太郎記念室がある姫路文学館では毎年8月7日の生誕日に、ゆかりのゲストを迎えて「司馬遼󠄁太郎メモリアル・デー」を開催している。また、NHK大河ドラマ原作となった作品数は最も多く、「21世紀スペシャル大河ドラマ」(後にNHKスペシャルドラマと変更)と称する『坂の上の雲』を含めると7作品である。

年表

1923年(大正12年)

    8月7日 - 大阪市浪速区西神田町に生まれる。

    1930年(昭和05年) - 大阪市立難波塩草尋常小学校入学。

    1936年(昭和11年) - 私立上宮中学校(現:上宮高等学校)へ進学。

    1940年(昭和15年) - 上宮中を卒業

    1941年(昭和16年) - 大阪外国語学校(現:大阪大学外国語学部)蒙古語学科に入学。

    1943年(昭和18年) - 学徒出陣のため大阪外国語学校を卒業。兵庫県加古郡(現在の加古川市)にあった戦車第19連隊に入営。

    1944年(昭和19年) - 満州の戦車第1連隊に配属される。

    1945年(昭和20年)

      本土防衛のための第12方面軍第36軍戦車第1師団戦車第1連隊付小隊長として栃木県佐野市に配属され終戦を迎える。

      新世界新聞に入社。

      1946年(昭和21年) - 新日本新聞社に入社。京都支社に配属となる。

      1948年(昭和23年)

        2月、新日本新聞社倒産。

        5月、産業経済新聞社入社、京都支局に配属となる。

        6月、福井地震発生。新人ながら応援記者として福井に赴く。

        1950年(昭和25年) - 最初の結婚。初夏に京都の岩屋不動志明院に宿泊し奇っ怪な体験をする。同年の金閣寺放火事件では住職等から犯行の動機をすっぱ抜く。

        1952年(昭和27年) - 長男誕生。

        1954年(昭和29年) - 離婚。長男は実家の福田家に預けられる。

        1956年(昭和31年) - 大阪本社勤務の傍ら短編小説「ペルシャの幻術師」を講談社の懸賞に募集。第8回講談倶楽部賞を受賞し文壇にデビューする。

        1959年(昭和34年) - 松見みどりと結婚

        1960年(昭和35年) - 『梟の城』にて第42回直木賞受賞。

        1961年(昭和36年) - 産経新聞社退社。執筆活動に専念する。

        1964年(昭和39年) - 現在、司馬遼󠄁太郎記念館のある大阪府布施市下小阪(現:東大阪市下小阪)に転居。

        1966年(昭和41年) - 『竜馬がゆく』『国盗り物語』にて第14回菊池寛賞受賞。

        1968年(昭和43年) - 名誉高知県人となる。

        1981年(昭和56年) - 日本芸術院会員となる。

        1986年(昭和61年) - 財団法人大阪国際児童文学館理事長に就任( - 1990年)。

        1991年(平成03年) - 文化功労者に選ばれる。

        1993年(平成05年) - 文化勲章受章。

        1996年(平成08年)

          2月12日 - 腹部大動脈瘤破裂のため国立大阪病院にて死去。従三位に叙され銀杯一組を追賜される。忌日は生前好きだった菜の花にちなみ「菜の花忌」と呼ばれる。墓所は京都市東山区。

          3月4日 - 東大阪市名誉市民となる。

          11月1日 - (財)司馬遼󠄁太郎記念財団発足。

          1998年(平成10年) - この年から、毎年菜の花忌に司馬遼󠄁太郎賞を贈賞。

          2001年(平成13年)11月1日 - 司馬遼󠄁太郎記念館が自宅隣接地に開館。

          特徴

          歴史小説家としてはW・スコット以来の人物中心主義の流れを汲んでおり、筆名からも直接には司馬遷『史記』列伝の形式を範にした作家でもある。

          特徴としては、基本的に登場人物や主人公に対して好意的であり、作者が好意を持つ人物を中心に描く。それによって作者が主人公に対して持つ共感を読者と主人公の関係にまで延長し、ストーリーの中に読者を巻きこんでゆく手法をとることが多い。また歴史の大局的な叙述とともにゴシップを多用して登場人物を素描し、やや突き放した客観的な描写によって乾いたユーモアや余裕のある人間肯定の態度を見せる手法は、それまでの日本の歴史小説の伝統から見れば異質なものであり、その作品が与えた影響は大きい。「余談だが……」の言葉に代表されるように、物語とは直接関係ないエピソードや司馬自身の経験談(登場人物の子孫とのやりとりや訪れた土地の素描)などを適度に物語内にちりばめていく随筆のような手法も司馬小説の特徴の一つであり、そこに魅了されている読者も多い。

          評論家の川本三郎からは「一平二太郎」(藤沢周平、司馬遼󠄁太郎、池波正太郎)の一人として、「大人の日本人男子」の嗜みとして読むべき作家と評されている。

          そのユニークな文体は、のちに、渡部直己や清水義範のパスティーシュの対象になったり、あるいは酒見賢一『後宮小説』のようにリスペクトした作品が現れたりした。

          作品中の人物の内面描写にはそれほど深入りしないため“浅薄である”とされたり、長編では主題が破綻しているとの批判がある。しかし多くの登場人物を一筆書きにしながら物語を展開してゆく司馬の手法においては、ある程度仕方のないことという反論もなされる。特に内面描写を避けることは、人間を外部から把握し単純化(典型化)して示す18世紀ヨーロッパ小説や漢籍の史書の影響によるところが大きく、「典型としての人間」か「典型からそれようとする内面描写か」という問題は、小説の流儀の問題(18世紀型小説か、19世紀型小説か)であると捉える見方もある。長編の構成力が弱いことも指摘され、前述した「余談だが…」といった言葉で話が脇道にそれることもあるように、たとえば丸谷才一の「全体の五分の三あたりのところから雑になる」「最初の伏線が後半で生かされない」という評がある。ただし、こうした「雑さ」「とりとめのなさ」が磨かれた結果、様々な人物が次々に登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくというグランド・ホテル形式の小説として成功していると評される作品もある(例:『ひとびとの跫音』)。

          作家としての後半期は、小説創作から遠ざかり、随想や文明批評などを主としたが、合理的思考を掲げて具体的な考証による歴史評論を進めていった。

2024/06/10 18:35更新

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未知 やすえ(みち やすえ)
1963年8月7日生まれの有名人 大阪出身

未知 やすえ(みち やすえ、1963年〈昭和38年〉8月7日 - )は、日本のお笑いタレント、コメディエンヌ、女優。吉本新喜劇の座員。 大阪府東大阪市出身。吉本興業所属。本名は内場 泰恵(うちば や…

梅山 恋和(うめやま ここな)
2003年8月7日生まれの有名人 大阪出身

梅山 恋和(うめやま ここな、2003年〈平成15年〉8月7日 - )は、日本の女優、タレント。エッグマン所属。愛称は、ココナ。大阪府出身。元アイドル、元ファッションモデルであり、女性アイドルグループ…

山本 圭子(やまもと けいこ)
1943年8月7日生まれの有名人 大阪出身

山本 圭子(やまもと けいこ、1943年〈昭和18年〉8月7日 - )は、日本の女性声優、ナレーター。大阪府出身。青二プロダクション所属で、創立メンバーのひとりである。 代表作は『サザエさん』(花沢…

皆木 俊彦(みなき としひこ)
8月7日生まれの有名人 大阪出身

皆木 俊彦(みなき としひこ、8月7日 - )は、日本の男性声優。以前は三木プロダクションに所属していた。大阪府出身。 2006年 ルパン三世 セブンデイズ・ラプソディ(マフィアC) 2008年…

笹田 貴之(ささだ たかゆき)
1979年8月7日生まれの有名人 大阪出身

笹田 貴之(ささだ たかゆき、1979年8月7日 - )は、日本の男性声優。大阪府出身。アーツビジョン所属。 四天王寺国際仏教大学卒業。 青二塾大阪校15期生卒業。青二プロダクションを経て、アー…

梶原 雄太(かじわら ゆうた)
1980年8月7日生まれの有名人 大阪出身

梶原 雄太(かじわら ゆうた、1980年〈昭和55年〉8月7日 - )は、日本のお笑いタレント、YouTuber、声優。お笑いコンビ・キングコングのボケ担当。相方は西野亮廣。吉本興業所属。 大阪府大…

荒木 隼人(あらき はやと)
1996年8月7日生まれの有名人 大阪出身

荒木 隼人(あらき はやと、1996年8月7日 - )は、大阪府門真市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・サンフレッチェ広島所属。ポジションはディフェンダー(センターバック)。日本代表。 サンフレッ…

柿村 峻(かきむら たかし)
1906年8月7日生まれの有名人 大阪出身

8月7日生まれwiki情報なし(2024/06/13 18:24時点)

アキラ(あきら)
1932年8月7日生まれの有名人 大阪出身

日本語の人名。主に男性名、ときに女性名。「あかるい」「あきらかな」「はっきりとした」といった意味。「明」「彰」「昭」「晶」「顕」「輝」などの漢字をあてられる。 英語の女性名。スコットランド系。 ナイジ…

桑名 正博(くわな まさひろ)
1953年8月7日生まれの有名人 大阪出身

桑名 正博(くわな まさひろ、旧芸名:桑名 将大・桒名 正博、𥸮名正博、1953年(昭和28年)8月7日 - 2012年(平成24年)10月26日)は、日本の歌手、俳優、タレント、実業家。 195…


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司馬 凌海(しば りょうかい)
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司馬 凌海(しば りょうかい、天保10年2月28日(1839年4月11日) - 明治12年(1879年)3月11日)は、医学者・言語学者。愛知医学校校長。佐渡島新町(現:新潟県佐渡市真野新町)生まれ。…

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