小川紳介の情報(おがわしんすけ) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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■名前・氏名 |
小川紳介と関係のある人
吉田司: 在学中に映画監督小川紳介が率いる小川プロダクション結成に参加。 原一男: Devotion-小川紳介と生きた人々 (2000) 木村迪夫: その後、小川紳介監督のドキュメンタリー映画である『牧野村物語』に関わり、また原村政樹監督の長編記録映画『無音の叫び声 農民詩人・木村迪夫の牧野物語』も製作された。 黒木和雄: 土本典昭、小川紳介たち岩波映画製作所周辺の若手映画人たちと交遊し、そのリーダー格であった。 福田克彦: 1992年、小川紳介が死去。 岩佐寿弥: 1959年に岩波映画に入社、小川紳介や土本典昭、黒木和雄らとともに映画研究会「青の会」を結成。 土本典昭: また、黒木和雄、小川紳介らと「青の会」を結成。 是枝裕和: ドキュメンタリー作家の小川紳介と土本典昭からの影響を強く受けており、「すごく尊敬していて、あの人ならこういうときどうするんだろうという僕なりの基準にしている人」と述べている。 林光: 日本解放戦線 三里塚の夏(1968年、小川紳介監督) 福田克彦: 吉田司の誘いを受け、同年7月に、小川紳介が率いる小川プロダクションに参加した。 福田克彦: 師である小川紳介や進歩的文化人のような農民への無条件な賛美とは一線を画し、かつては福田を三里塚闘争から引き離そうとしていた吉田であったが、成田空港問題シンポジウムを控え熱田派が闘争の幕引きを図っている局面での福田の離脱を許さなかったのである。 ロバート=フラハティ: 家族とともに現地に住み着いて撮影を行う方式をとり、その影響を受けた日本の小川紳介監督はフラハティの妻であるフランシス・フラハティの著書『ある映画作家の旅 ロバート・フラハティ物語』(みすず書房)を翻訳している。 野田真吉: 60年安保闘争の後は共産党からはなれ、1964年に「日本記録映画協会」から分派して「映像芸術の会」を結成(メンバーは、松本俊夫、土本典昭、黒木和雄、東陽一、小川紳介ら)。 木村迪夫: 『山形の村に赤い鳥が飛んできた 小川紳介プロダクションとの25年』 七つ森書館、2010年。 山根貞男: 『映画を穫る ドキュメンタリーの至福を求めて』(小川紳介、構成、筑摩書房) 1993.10、増訂版(太田出版) 2012.6 高林陽一: また小川紳介や松本俊夫らの監督と親交を結んだ。 |
小川紳介の情報まとめ
小川 紳介(おがわ しんすけ)さんの誕生日は1935年6月25日です。岐阜出身の映画監督のようです。
映画、父親、卒業、事件、解散、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1992年に亡くなられているようです。
小川紳介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小川 紳介(おがわ しんすけ、1935年6月25日 - 1992年2月7日)は、日本のドキュメンタリー映画監督。山形国際ドキュメンタリー映画祭創設の提唱者。 東京市芝区横新町(現・東京都港区芝)出身。父親は薬品会社の下請けで、製薬業を営んでいた。1942年、横新町の大火により、赤坂区青山南町に転居。1943年9月、岐阜県土岐郡釜戸村(現・瑞浪市釜戸町)に一人で転居し、祖父の小川鈴一のもとで育てられる。小川鈴一は当時、釜土村長を務めていた。1946年、父母弟妹とともに山梨県塩山町(現・甲州市)に移り住む。1948年9月頃、港区霞町に残っていた父の製薬工場へ移る。 海城高等学校卒業。1959年3月、國學院大學政経学部卒業。同年6月頃、「新世紀映画」に入社。 1960年に、岩波映画製作所と助監督契約を結ぶ。1960年代初頭に東陽一・土本典昭らと映画研究グループ「青の会」を結成。1964年、岩波との契約を解消。1966年、『青年の海 四人の通信教育生たち』を自主製作する。 1967年、小川プロダクションを設立。同年6月から9月にかけて、高崎経済大学における学園闘争を撮影。10月8日、第一次羽田事件で京都大学1年生の山崎博昭が死亡。山崎の死因の追究および取材を開始し、11月12日の第二次羽田事件の撮影を行った。『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』『現認報告書 羽田闘争の記録』を製作。 1968年1月、成田市三里塚でロケハンを開始。スタッフを率い、農民と生活を共にしながら、新東京国際空港の建設に反対する農民運動(いわゆる三里塚闘争)を撮影。同年10月12日、「三里塚シリーズ」の1作目『日本解放戦線 三里塚の夏』が上映される。 1974年、小川プロダクションのスタッフと共に、山形県上山市に移住。農業を営みながら、1982年に『ニッポン国古屋敷村』でベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞する。1986年に『1000年刻みの日時計 牧野村物語』を発表。1987年、小川プロダクションが、山路ふみ子文化財団特別賞を受賞。1989年、山形国際ドキュメンタリー映画祭の創設に参加。 1992年、直腸がんの転移による肝不全により死去。享年56。 1993年、山形国際ドキュメンタリー映画祭に小川紳介賞が設けられた。1994年、小川プロは解散した。 なお、小川の映画作品はもともと殆どがビデオ化、DVD-Video化されておらず、唯一『日本解放戦線 三里塚の夏』が2012年にDVDブックとして(『小川プロダクション『三里塚の夏』を観る――映画から読み解く成田闘争』)、ビデオソフト化されたのみであった。2013年には日本映画専門チャンネルが「小川プロダクション全作品放送決定」と謳ったものの、放送計画は頓挫した。その後、映画復刻レーベルDIGが2016年4に小川プロダクションの全作品をDVD-Video化した。 1966年 - 『青年の海 四人の通信教育生たち』- 監督 1967年 - 『圧殺の森 高崎経済大学闘争の記録』- 監督 1967年 - 『現認報告書 羽田闘争の記録』- 監督 1968年 - 『日本解放戦線 三里塚の夏』- 監督 1970年 - 『日本解放戦線 三里塚』- 監督 1970年 - 『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』- 監督 1971年 - 『三里塚 第二砦の人々』(マンハイム映画祭ジョセフ・フォン・スタンバーグ賞受賞)- 監督 1972年 - 『三里塚 岩山に鉄塔が出来た』- 監督 1973年 - 『三里塚 辺田部落』- 監督 1975年 - 『どっこい! 人間節 寿・自由労働者の街』- 構成・編集 1976年 - 『クリーン・センター訪問記』- 監督・編集 1977年 - 『三里塚 五月の空 里のかよい路』- 監督 1977年 - 『牧野物語 養蚕篇 -映画のための映画-』- 監督 1977年 - 『牧野物語 峠』- 製作・監督・編集 1982年 - 『ニッポン国 古屋敷村』(ベルリン映画祭国際批評家連盟賞受賞)- 監督 1987年 - 『1000年刻みの日時計 牧野村物語』- 監督 1987年 - 『京都鬼市場 千年シアター』- 監督 1991年 - 『映画の都』- 構成・編集(第一回山形国際ドキュメンタリー映画祭の記録映像。出品された各作品の部分映像も含む) 2001年 - 『満山紅柿 上山 柿と人とのゆきかい』- 監督(第一期撮影分のみ) 『映画作りとむらへの道』(1973年)
小川プロの助監督だった福田が『三里塚 辺田部落』の舞台裏を撮影したものだが、お蔵入りとなり、1999年に公開された。尚、福田は小川らが上山市に移住した後も三里塚に残り、『草とり草紙』等を監督した。 『小川プロ訪問記』(1981年)
大島渚が小川にインタビュー。 『Devotion - 小川紳介と生きた人々』(2000年)
主な出演者:大島渚、原一男、ロバート・クレイマー 小川プロのスタッフへのインタビューを通して小川の実像に迫る。 小川伸介 著、山根貞男 編『映画を穫る―ドキュメンタリーの至福を求めて』筑摩書房、1993年10月1日。ISBN 978-4480872296。 小川伸介、蓮實重彦『小川紳介―シネアストは語る 5』名古屋シネマテーク、1993年。 フランシス・ハバード・フラハティ『ある映画作家の旅 ロバート・フラハティ物語』(1994年 みすず書房) 飯塚俊男 福田克彦 本田孝義 田村正毅(たむらまさき) 大津幸四郎 伏屋博雄 笠松則通 吉田司 旧熱田派の元反対同盟員は、三里塚闘争が全国区となって大きな支援を得られたのは、小川プロ作品自主上映の会のメンバーが、各地で披露上映したことによるところが大きいと評価している。一方で、既に新東京国際空港公団(空港公団)に土地を売却した人物をあたかも現在も闘争を続けているように描く等、編集による印象操作が行われており、ドキュメンタリーと言いながらフィクションではないかと思ったと証言している。 1968年7月11日に、岩山部落への立ち入り調査を行っていた空港公団職員への投石等暴行の現行犯で、小川プロのカメラマンが逮捕されている。成田警察署長であった飯高春吉は、カメラマンが空港公団の立ち入り調査の状況(特に警察機動隊と農民学生との衝突の場面)を撮影し、機動隊の行き過ぎ行為については過大に宣伝し、カメラマン自らもその場で警察部隊に抗議するということが時々あったとしている。なお、飯高は機動隊員がカメラの前に大盾を出して取材妨害をしたとして、小川プロから直談判を受けている。 小川プロは条件賛成派へのインタビューも行い、条件交渉を経て空港公団に土地を売却した者たちの赤裸々な思いを記録しているが、作品で用ることはなかった。 成田空港問題シンポジウムでは、映像資料として小川プロの映画作品が用いられている。 小川プロを離脱した吉田司は、小川による手放しの小農民賛歌は大地主の孫としての小川自身の贖罪意識から発しているとして、以下のエピソードを交えながらその手法や人格を批判している。
スタッフが異性と交際すると、その相手に「あいつはお前といるとダメになる。別れろ」と別離を迫る。 カメラマンや専門スタッフは岩波映画から連れてきた人間にやらせ、学生スタッフにはカネ集め・宿舎造り・飯炊き・上映運動などの雑用をやらせる。散々奉仕させた人員をポイ捨てする(吉田は小川のことを「盗賊の親玉みたいなもん」と呼んでいる。その吉田自身も、小川プロ在籍時には「こいつの小市民精神を叩きのめせ!」とスタッフへの「査問」を行い、その友人に「こいつはこんなにどうしようもないヤツだ」と捲し立てて徹底的に人間関係を破壊した上で社会に帰していた)。 ^ 朝日新聞2014年5月17日朝刊beに特集。 ^ 1984年に小川が撮影し中断していた作品を、彭小蓮監督が1999年に追加撮影して2001年に完成した。 ^ “没後30年 小川紳介の検証と継承”. www.athenee.net. アテネ・フランセ文化センター. 2022年8月26日閲覧。 ^ 小川 1993, pp. 300–301. ^ 小川 1993, pp. 302–303. ^ “日本解放戦線・三里塚の夏”. MOVIE WALKER PRESS. 2023年7月25日閲覧。 ^ “幻の映画復刻レーベルDIGのサイト”. 株式会社ディメンション. 2019年11月16日閲覧。 ^ “Devotion 小川紳介と生きた人々 (2000)”. シネマトゥデイ. 2019年11月19日閲覧。 ^ 伊藤睦 編『三里塚燃ゆ―北総台地の農民魂』平原社、2017年、128頁 ^ 飯高春吉『北総の朝あけ―成田空港闘争と警備の記録』千葉日報社出版局、1976年、148-149頁。 ^ 福田克彦『三里塚アンドソイル』平原社、2001年、78-86頁。 ^ “成田空港問題シンポジウム記録集”. 成田空港地域共生・共栄会議 (1995年3月). 2017年9月20日閲覧。 ^ 藤吉雅春『ノンフィクションを書く』(ビレッジセンター) 小川伸介 著、山根貞男 編『映画を穫る―ドキュメンタリーの至福を求めて』筑摩書房、1993年10月1日。ISBN 978-4480872296。 映画新聞編『小川紳介を語る あるドキュメンタリ-監督の軌跡』(1992年 フィルムアート社) 阿部・マーク・ノーネス『Forest of Pressure: Ogawa Shinsuke and Post-War Japanese Documentary』(2007年) 木村迪夫『山形の村に赤い鳥が飛んできた 小川紳介プロダクションと過ごした25年』(2010年 七つ森書館) 山形国際ドキュメンタリー映画祭 日本の映画監督一覧 小川紳介 - allcinema 小川紳介 - KINENOTE 小川紳介 - 日本映画データベース Shinsuke Ogawa - IMDb(英語) 『小川紳介』 - コトバンク 表 話 編 歴 大島渚 (1960) 羽仁進 (1961) 浦山桐郎 (1962) 熊井啓 (1965) 中島貞夫 (1966) 藤田敏八 (1967) 出目昌伸※ (1969) 小川紳介 (1970) 東陽一 (1971) 伊藤俊也※ (1972) 田中登※ (1973) 神山征二郎※ (1976) 橋浦方人 (1977) クロード・ガニオン (1979) 小栗康平※ (1980) 井筒和幸※ (1981) 森田芳光 (1983) 澤井信一郎 (1985) 原一男 (1986) 山本政志 (1987) 金佑宣 (1988) 阪本順治、高嶺剛 (1989) 北野武※、渡辺文樹※ (1990) 周防正行 (1991) 平山秀幸、真喜屋力、中江裕司、當間早志 (1992) 岩井俊二、寺田靖範 (1993) 古厩智之 (1994) 利重剛 (1995) 犬童一心 (1996) 原將人 (1997) 豊田利晃 (1998) 塩田明彦 (1999) 緒方明 (2000) 石岡正人 (2001) 金守珍 (2002) 佐々部清 (2003) 井口奈己 (2004) 高橋泉 (2005) 小林聖太郎 (2006) 横浜聡子 (2007) タナダユキ (2008) 入江悠 (2009) 大森立嗣 (2010) 砂田麻美 (2011) 島田隆一 (2012) 市井昌秀 (2013) 小林啓一 (2014) 松永大司 (2015) 小路紘史 (2016) 岩切一空 (2017) 上田慎一郎 (2018) 照屋年之 (2019) HIKARI (2020) 片山慎三 (2021) 山﨑樹一郎 (2022) 表 話 編 歴 日本国政府 千葉県 成田国際空港株式会社
千葉県警察
千葉県警察成田国際空港警備隊 三里塚芝山連合空港反対同盟(通称:反対同盟) 全日本学生自治会総連合(通称:三派全学連) 革命的共産主義者同盟全国委員会(通称:中核派) 日本革命的共産主義者同盟(別名:第四インター日本支部、現在JRCL) 革命的労働者協会(社会党社青同解放派)(通称:革労協狭間派) 国鉄千葉動力車労働組合(通称:動労千葉) 共産主義労働者党(通称:共労党、後の蒼生) 共産主義者同盟 (戦旗派)
現在Actio 戦旗両川派 現在統一委に分裂 地球的課題の実験村構想具体化検討委員会 成田空港地域共生・共栄会議 成田空港周辺地域共生財団 産業計画会議(第十三次勧告で新空港について提言) 成田デモ事件(TBS成田事件) 第一次代執行 日本幻野祭 第二次代執行(執行中に東峰十字路事件が発生) 土田・日石・ピース缶爆弾事件 東山事件 芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件 成田空港管制塔占拠事件 京成スカイライナー放火事件 ABCD問題 東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件 自由民主党本部放火襲撃事件 成田用水工事事業者連続放火事件 10.20成田現地闘争 11.23機動隊襲撃事件 西組社長宅放火事件 7.17成田空港警備隊舎飛翔弾事件 1.14機動隊襲撃事件 木の根団結砦撤去事件 横浜ヨット小型旅客船爆破事件 千葉県収用委員会会長襲撃事件 千葉県収用委員会脅迫電話事件 日本飛行機専務宅放火殺人事件 成田新法事件 成田空港問題シンポジウム 円卓会議 カテゴリ 戸村一作 北原鉱治 熱田一 柳川秀夫 小川嘉吉 相川勝重 小川国彦 隅谷調査団(団員:隅谷三喜男・宇沢弘文 他) 小川紳介 成田国際空港 宮内庁下総御料牧場 団結小屋 東峰神社 成田新幹線(未成線) 芝山鉄道(芝山鉄道線) 成田用水 三里塚平和塔 航空科学博物館 成田空港 空と大地の歴史館 三里塚さくらの丘 成田市さくらの山 十余三東雲の丘 ひこうきの丘 新東京国際空港公団法 公共用飛行場周辺における航空機騒音による障害の防止等に関する法律(略称:航空機騒音防止法) 成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(略称:成田財特法) 特定空港周辺航空機騒音対策特別措置法(略称:騒特法) 成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法(略称:成田新法) 成田国際空港株式会社法 カテゴリ ぼくの村の話 鹿島パラダイス Narita (アルバム) 襤褸の旗 三里塚に生きる 三里塚のイカロス 三里塚 東三里塚 天浪 駒井野 木の根 古込 取香 天神峰 東峰 十余三 岩山 菱田 香山新田(横堀) 用地買収 土地収用
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2024/11/21 20:00更新
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ogawa shinsuke
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