弘田三枝子の情報(ひろたみえこ) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
弘田 三枝子さんについて調べます
■名前・氏名 |
弘田三枝子と関係のある人
寺川正興: MIEKO IN PERSON~弘田三枝子リサイタル(2枚組のうち1枚目のみ) 馬飼野康二: 弘田三枝子 岩井直溥: 1959年に東芝イーエムアイの専属となり、尾藤イサオ、山下敬二郎、森山加代子、弘田三枝子、スリーファンキーズなどの作曲、編曲を手がけた。 中尾ミエ: ” のカヴァー・弘田三枝子との競作) 土方隆行: 弘田三枝子 AL『TOUCH OF BREEZE』(1983年)ギター 久里洋二: 26.ママとゴーゴー / 弘田三枝子、杉並児童合唱団△ 島本真衣: トットちゃん!(2017年) - 弘田三枝子 小泉フサコ: 弘田三枝子物語 ミコちゃん(S37夏の増刊号)なかよし 桑田佳祐: ほかにも尾崎紀世彦、内山田洋とクール・ファイブ、ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、宇崎竜童、藤圭子、浅川マキ、弘田三枝子、中島みゆき、坂本九、森繁久彌、加藤登紀子、小林万里子、岡林信康、野坂昭如、早川義夫などのミュージシャンにも影響を受けた。 寺川正興: 弘田三枝子 伊集加代: 弘田三枝子 - 「可愛い噓」:1969年9月15日発売(シンガーズ・スリーとして参加)「Then Came You」オリジナルアルバム:1975年2月25日発売。 ティーブ釜萢: その傍ら、1950年に日本初のジャズの専門学校である「日本ジャズ学校」を設立し、ミッキー・カーチスや平尾昌晃、弘田三枝子、ペギー葉山、日野皓正など戦後の日本の音楽界を代表するミュージシャンを多数育てた。 草野浩二: 弘田三枝子 久里洋二: 9.デビークロケットの歌 / 弘田三枝子△ 小林亜星: 出世作のレナウンのコマーシャルソング「ワンサカ娘」(歌:弘田三枝子)は、当時レナウンの宣伝部に在籍していた実妹(川村みづえ:イエイエのCMのイラストは川村の作品)の紹介で実現したという。 竹内まりや: 音楽的な原点は、1960年代のニール・セダカやデル・シャノンなどの欧米ポップスの作品、弘田三枝子や坂本九、ザ・ピーナッツなど日本人歌手が訳詞して歌っていたオールディーズ、吉田拓郎。 水木一郎: この時期、弘田三枝子の前歌などを務めた。 大野雄二: 弘田三枝子 コニー=フランシス: 世界各国でヒット曲がカバーされており、日本では弘田三枝子や中尾ミエなどがカバーしヒットしたことで知られる。 久里洋二: 29.アマリリス / 弘田三枝子、シンギングエンジェルス 栗本修: 作曲家、編曲家、キーボーディストとして、C&K、松本英彦、加山雄三、MALTA、NOKKO、田村直美、ジミー竹内、長嶺ヤス子、ミッキー・カーチス、尾崎豊、小坂忠、弘田三枝子、マルシア、島袋寛子らのライブやレコーディングに参加している。 桜井センリ: 「明日をみつめて」(弘田三枝子、1963年) 川口真: 弘田三枝子「人形の家」「私が死んだら」「ロダンの肖像」 桜井センリ: 作曲家としての活動歴があり、スリーファンキーズのシングル盤「ナカナカ見つからない」、弘田三枝子のシングル盤「明日をみつめて」(2曲とも作詞は青島幸男)の作曲を本名の桜井千里名義で担当している。 川口真: 1969年に「人形の家」(弘田三枝子)で本格的に作曲家としてデビュー。 久里洋二: 28.怪獣がやってくる / 弘田三枝子、みすず児童合唱団 豊住芳三郎: チャーリー・ミンガス『ミンガスとオーケストラ』、ツトム・ヤマシタ、佐藤允彦『ものみな壇ノ浦へ』、弘田三枝子などのアルバムに参加。 金井克子: 「バケイション/涙のハート(The Biggest Sin of All)」1962.11(SA-1012) A面はコニー・フランシスのカバー(コニー・フランシス(日本語盤)、青山ミチ、伊東ゆかり、弘田三枝子、安村昌子との競作)。 宮川泰: ひとつぶの真珠(弘田三枝子) なかにし礼: 弘田三枝子 |
弘田三枝子の情報まとめ
弘田 三枝子(ひろた みえこ)さんの誕生日は1947年2月5日です。東京出身の歌手のようです。
評価、ディスコグラフィなどについてまとめました。結婚、テレビ、映画、ドラマに関する情報もありますね。亡くなられているようです。
弘田三枝子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子、1947年2月5日 - 2020年7月21日)は、日本のポップス、歌謡歌手。愛称はMICO(ミコ)、(パンチの)ミコちゃん。 歌唱力とパンチの効いた歌声で、洋楽をカバーした和製ポップスを歌ってヒットをさせ、和製R&B娘とも評された。後のミュージシャン(都はるみ、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、桑田佳祐ら)に多大な影響を与えた。 世田谷区立三宿小学校の生徒だった頃から劇団こまどりに入り、幼稚園の頃FENのラジオに魅せられて歌手になることを決意。母の協力のもと、7歳の頃から自らの意思でティーブ・釜萢の「日本ジャズ学校」に週1回バスで通い、英語の発音の基礎からスパルタ教育を受け、8歳から進駐軍のキャンプで歌っていたともいい、駒沢学園女子中学校の1年生の頃からは本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズなどを歌っていた。曲を提供されて自分の世界にもっていくために、家での練習(本人曰く「小稽古」)の際、歌詞を理解してメロディーを体に入れてから(本人曰く「儀式」)、自ら考案した記号を譜面に記載したうえで、自ら歌唱したテープを確認し歌をものにしたうえで収録に臨んだという。この儀式は、レコードデビューからラストシングル収録まで続けられたという。 1961年に東芝音楽工業から、草野浩二担当のもと、「和製ブレンダ・リー」のキャッチフレーズをうたい「子供ぢゃないの」(ヘレン・シャピロのカバー)でデビュー(草野の兄である漣健児訳詞)。当時14歳。翌1962年には各社競作で出された「ヴァケーション」(コニー・フランシスのカバー)が20万枚のヒットを記録する。他に青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子らも同曲をカバーした。青山版は3万枚の小ヒットだった。同年NHK紅白歌合戦に初出場。1973年の森昌子に破られるまで紅組最年少出場記録保持者であった。1964年1月に11年ぶり2度目の来日を果たしていたエラ・フィッツジェラルドの楽屋を訪ねた際、エラから直々に「養女にしたい」とまで言われている。 1964年10月に日本コロムビアへ移籍。新幹線で移動中、グレンミラー楽団を引き連れ来日していた当時のニューポート・ジャズ・フェスティバルを主催していたジョージ・ウエインと出会い、「小さな日本のジャズシンガー」と紹介された弘田に興味を持ったウエインは、後日東京のスタジオを借り、自らの伴奏で何曲か歌唱・録音させた。その結果、1965年7月に、東洋人歌手として初めてアメリカ合衆国の「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に招待され、ビリー・テイラー・トリオのゲスト・ヴォーカリストとして出演した。3日目の夜、降雨による中断の後、ビリー・テイラー・トリオにトニー・スコットが加わったカルテットをバックに「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス (Just One of Those Things)」、「ミスティ (Misty)」、「ムーン・リバー (Moon River)」、「マック・ザ・ナイフ (Mack the Knife)」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌い、トリを務めた。その足でニューヨークに渡り、譜面の中から、ボビー・ヘブに先んじた「サニー(Sunny)」等のオリジナルジャズを、自ら選んで録音し、ビリー・テイラー・トリオ演奏のもと(トニー・スコットはプロデューサーに徹した)アルバム「ニューヨークのミコ」を制作した。 2か月ほど渡米・渡欧。その成果として1968年5月30日にはリズム・アンド・ブルースのコンサートをサンケイホールにて開き、ライブアルバムを制作し、日本におけるリズム・アンド・ブルースの先駆けとなった。 弘田は、60年代前半あたりまでは好調を保っていたが筒美京平らが曲を提供したにもかかわらず、それ以後のGSブームなどには完全に乗り遅れてしまった。60年代初頭のアメリカン・ポップスやオールディーズを歌う歌手という古いイメージを払拭し、カムバックを果たしたのが川口真作曲の「人形の家」である。弘田は1969年10月20日、「人形の家」でオリコンチャート首位となり、第11回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞した。他方、1966年に雑誌スイングジャーナルの人気投票「ジャズ・ヴォーカル女性歌手」部門でトップに立ち(1970年まで5年連続。それまでのトップはマーサ三宅。)、小規模なジャズライブを中心に活動していた弘田が、カムバックという形で再度表立った活動を始めたことに対して、コアなジャズファンから、ジャズイベントの楽屋などで「弘田三枝子は堕落した」と言われたという。 海外での活躍としては、1973年、第11回チリ・ポピュラー音楽フェスティバルで5位に輝き、同年、第13回ブルガリア音楽祭(en:Golden Orpheus)にゲストとして招待され、50分ほどのワンマン・ショーを披露した。 カムバックに際し、弘田はダイエットによる大幅な減量をしていたが、この経験も踏まえ1970年に『ミコのカロリーBOOK』を出版した。この本はベストセラーとなり「芸能人のダイエット本の先駆け」、「タレントダイエット本の元祖」と評され、150万部を超えたともいわれる。同年のベストドレッサー賞を受賞した。この後、イヴ・サン=ローランとタイアップしていき、ファッションリーダーとしても活躍していくこととなった。 後の2019年11月28日にNHKで放送された「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」の「ストレスの原因?単位のお名前」の回において、「カロリー」という言葉を日本に普及させた人物として紹介された。 その後、渡米し1977年にはニューヨークでアルバム『Mieko In New York』を自主制作、さらに当地で結婚、娘を出産して母となったが、1979年9月に帰国して歌手活動を再開し、1980年には自ら作曲したシングル「ミスターシャドー」を東芝EMIから発売した。 1983年にはキングレコードへ移籍し、アルバム『TOUCH OF BREEZE』やシングル「愛のNOKORIGA」などを発表する。 2006年にレコードデビュー45周年を迎え、「弘田三枝子じゃずこれくしょん」CD8枚組BOXを発売。「Everything」「接吻」「SWEET MEMORIES」「いとしのエリー」 「駅」など、はじめて日本の楽曲をカバーした。ジャマイカでツインズ=スライ&ロビーと初めてのレゲエを吹き込む。 2015年10月21日、レコードデビュー55周年記念として32年ぶりの新曲「悲しい恋をしてきたの」を発売。ボーナス・トラックに「人形の家」のピアノバージョンを収録した。 2020年7月20日、千葉県内の自宅で倒れ、同県内の病院に搬送されるも、翌21日午後10時31分、心不全のため73歳で死去。葬儀は親族のみで密葬として行い、6日後の27日に訃報が発表された。同年はレコードデビュー60周年にあたり、記念曲の制作や記念コンサートの開催などを企画していたが、新型コロナウイルス感染拡大で「来年に持ち越しね!」とスタッフと話し合っていたという。同年6月15日に公開されたYouTubeでの日本歌手協会リレー歌謡祭第46弾での電話での自身の曲紹介(「人形の家」)が公の場での最後の肉声となった。同年1月2日に「日本歌手協会新春12時間歌謡祭【第4部】」内で放送され、2019年11月12日に開催された第46回日本歌手協会歌謡祭夜の部での「夢みるシャンソン人形」が最後のテレビ出演に、同年12月8日の名古屋市の星神社で催された御本殿竣功奉告祭が最後のライブになった。 2020年11月20日、第62回日本レコード大賞特別功労賞受賞。 評価小説家の小林信彦は、「戦後の17年は無駄ではなかった」「大天才」と、弘田に賛辞を贈った。 1991年発行の評論本『日本のポピュラー史を語る』(村田久夫・小島智著)によれば、「西洋のリズム・メロディラインと日本語の言語としての伝達能力の問題を克服する手段として、英語っぽい日本語を考え出した」と評価されている。 ポップスやジャズなどジャンルの垣根を超えた歌声を評価された反面、歌唱スタイルの変化に対して好意的ではない見解を示す向きもあった。 1970年代後半以降はヒット曲が出なかったことなどから、活動後期は小規模のライブがメインでメディア露出が減っていた。そのため、訃報時にテレビ局の若手制作者がその存在をよく知らず、話題として取り上げない判断をしたワイドショーもあった。取り上げたスポーツ紙等も、スキャンダルを前面に押し出す内容がほとんどを占めた。追悼メッセージを寄せた人物もほぼ60歳代以上に限られた。 山下達郎は、「戦後最高の力量をもつシンガーのひとりの方でございますのに、こんなご時世もあってでしょうかね、メディアにはほとんどのぼりません。ホントに残念なことであります」と追悼するメディアが少ないことを残念がり、『悲しきハート』については、オリジナル歌手のスーザン・シンガーよりも「はるかにすぐれたバージョン。16歳とは思えない素晴らしい歌唱力」と絶賛している。 桑田佳祐「存在自体がポップ。ビート感満載のポップスで笑顔・ダンスをテレビ画面いっぱいに表現していた。チャーミングでみんなの憧れでとにかくナンバーワンだった。(一連のカバー曲は)明るい未来へ向かうアンセムのようだった」 中尾ミエ「同時期にデビューした戦友。すごいパワーで、この人にはかなわないと思った。『人形の家』からはパンチがなくなった」 菊地史彦「もし弘田三枝子がいなければ、戦後ポップスはひどくつまらなかっただろう」 このような弘田に対する訃報時のマスメディアの対応に対し、何のリスペクトもない、と業を煮やした都築響一は、自身の番組「SUPERDOMMUNE 『都築響一のスナック芸術丸』」にて、2020年8月13日に7時間にもわたる追悼特番を組んだ。 ディスコグラフィシングル
コラボレーションピチカート・ファイヴ
『REMIXES 2000』収録曲『パーフェクト・ワールド(A night at Organ b. MIX)』(2000年3月18日)作詞・作曲:小西康陽。原曲はピチカート・ファイヴが1999年10月21日に発売したシングル。アップテンポな原曲を須永辰緒がジャズにアレンジ。 アルバムヒット・キット・パレード(1962年2月/JP0-1150)モノラル ヒット・キット・パレード 第2集(1962年7月/JP0-1197)モノラル スタンダードを唄う(1963年3月/JP0-1288(モノラル)・JSP-3086(ステレオ)):『第15回NHK紅白歌合戦』出演曲「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」含 ヒット・キット・パレード 第3集(1963年4月/JP0-1285)モノラル 日本民謡を唄う(1963年11月/TR-5001(モノラル)・TP-5001(ステレオ)) ヒット・アルバム(1963年11月/JLP-3005)モノラル ヒット・キット・ミコ 第1集(1965年3月20日/JPS-5029) ヒット・キット・ミコ 第2集(1965年10月20日/JPS-5067) ニューヨークのミコ(1966年1月20日/JPS-5072) ミコ・ミュージカルを唄う(1967年4月5日/JPS-5110) ポップス・デラックス・シリーズ(1968年2月10日/JDX-10) 弘田三枝子70~ポピュラー・ビッグ・ヒッツ(1970年2月10日/JPS-5203) ミコより愛をこめて(1971年7月25日/JDX-52) 弘田三枝子の世界(1972年6月25日/JDX-76) 愛の歌~弘田三枝子オリジナル・アルバム(1972年12月10日/JDX-92) JAZZ TIME~弘田三枝子ベスト・ジャズ・アルバム(1973年7月25日/NCB-7022) The Nearness Of You(1974年6月25日/JDX-7028) Good Old Days Forever(1974年9月25日/JDX-7036) イエスタデイ・ワンス・モア(1974年10月1日/4PX-9010)4chステレオ 愛のめぐり逢い(1975年5月25日/4PX-9024)4chステレオ 私の好きな唄~帰り来ぬ青春(1975年9月25日/JDX-7064) My Funny Valentine(1976年5月10日/SP-7008) IN MY FEELING(1977年3月25日/SP-7009) Step Across(1978年/25AH-555) MIEKO HIROTA 76/45(1980年/DOR-0086) TOUCH OF BREEZE(1983年3月21日/K28A-385(LP)・K35X-4(CD)) 華麗度 ~ MICO is Kaleidoscope(1998年6月25日/MSI-10121(CD)) 東京27時(1999年5月21日/COCP-50087(CD)・SCL-5019(LP))小西康陽、Fantastic Plastic Machineなど参加したミニアルバム。 弘田三枝子・これくしょん マイ・メモリィ~ミコより愛をこめて(2001年8月1日/COCP-31461/6(CD))歌手生活40周年記念企画盤 弘田三枝子 MICO TODAY(2005年10月25日・2013年5月25日廉価版/MSIL-190/1(CD))新録音盤 弘田三枝子 グレイテスト・ヒッツ Go Go MICO(2015年12月16日/COCP-39369-70(CD))デビュー55周年記念 Isn't It Romantic?(2018年12月19日/DLC-19(CD))doLuck Jazzよりジャズアルバム ゴールデン☆ベスト 弘田三枝子(2019年2月20日/COCP-40706(CD))ラスト・アルバムとなった 弘田三枝子 なかにし礼をうたう〜人形の家〜(2021年2月24日/COCP-41387(CD))なかにし礼・弘田三枝子 追悼企画。未発表曲「裁かれる女」収録 弘田三枝子・プレミアム(2022年2月23日/COZP-1872-8(CD6枚+特典DVD))特典DVDにNHK紅白歌合戦の現存フィルム 弘田三枝子リサイタル(1964年8月/TR-7004)モノラル ミコ・イン・コンサート(1966年9月10日/JPS-5093) ミコR&Bを歌う(1968年9月1日/JPS-5155) ミコR&Bを歌う 第2集(1969年11月25日/JPS-5192) MIKO LIVE(1972年6月10日/QB-9018・復刻版2013年12月18日(タワーレコード限定)/TWCP-68)4chステレオ MIKO LIVE at RIVERA~ミコ・ライブ'73(1973年4月25日/JDX-99) Recital At The Festival "The Golden Orpheus '73" (Live From Bulgaria) MIEKO IN PERSON~弘田三枝子リサイタル(1976年7月25日/PP-7007~8) サントラレオのうた(1965年12月10日、ジャングル大帝) アイウエオ マンボ(1966年6月20日、ジャングル大帝) ドロップスの歌(1966年10月20日、みんなのうた) アスパラで生きぬこう(1962年、田辺製薬(現:田辺三菱製薬)) ネスカフェ43粒スプーンに一杯(1962年、ネスレ日本) ルックチョコレートの歌(1962年、不二家) ワンサカ娘'64(1964年、レナウン) サッポロライト(1970年、サッポロビール) マイメモリィ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事) ドーベルマン刑事のテーマ(1977年7月1日、ドーベルマン刑事)ソウルミュージックをベースにしつつも、タイトルのイメージを崩さないようにするため、詞をできる限り少なくし、スキャットでまとめたという ナレーションX+Y presents Midnight Ebisu [Analog] (2005年11月3日/THLP364)「春風のうわさ」「渚のうわさ」収録。都築響一プロデュースのナレーションレコード。 タイアップ曲
2024/06/13 11:51更新
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hirota mieko
弘田三枝子と同じ誕生日2月5日生まれ、同じ東京出身の人
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話題のアホネイター
最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
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