永井龍男の情報(ながいたつお) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
永井 龍男さんについて調べます
■名前・氏名 |
永井龍男と関係のある人
堀辰雄: 室生犀星宅で中野重治や窪川鶴次郎たちと知り合うかたわら、小林秀雄や永井龍男らの同人誌『山繭』に「甘栗」を発表する。 丹羽文雄: 同人誌『新正統派』に発表した小説「朗かなある最初」が永井龍男によって評価され、その依頼で書いた「鮎」(『文藝春秋』1932年4月)が文壇で注目され、僧職を捨てて上京し、早稲田大学時代の同棲相手の家に住んだ。 村松友視: まだ吉行と親しくなる前に永井龍男から「あなたは吉行淳之介に似ているねえ」と言われたという。 井伏鱒二: なお、将棋の一番の好敵手だったのは永井龍男。 式場隆三郎: 『文学界』の編集にあたり、のち文藝春秋社に入り、満洲文藝春秋社をへて戦後、永井龍男らと日比谷出版社を興したのち文藝春秋新社に戻る。 瀧口修造: 1926年、友人永井龍男らのすすめで同人誌『山繭』に参加。 小野佐世男: 1952年(昭和27年)、新聞連載小説の挿絵を担当(永井龍男『外燈』、岩崎栄『孤島の女王アナタハン物語』)。 池田満寿夫: 芥川賞の選考委員会は3時間を超す異例の選考となり、吉行淳之介が池田を強く推薦し、永井龍男は結果を不満とし、前回の村上龍と併せて芥川賞への不満を表明して選考委員を辞任した。 川端康成: 3月に横光利一ら同人に、永井龍男、久野豊彦、藤沢桓夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。 川口松太郎: 1922年(大正11年)に坪内逍遥らが選者となって帝国劇場創立10周年記念の戯曲募集があり、松太郎の応募した「出獄」が、永井龍男らとともに入選した。 深田久弥: 俳号も山の入った九山であり(愛称である「久さん」のもじりで、荏草句会の永井龍男による命名)、自宅の書斎を兼ねた書庫には「九山山房」の名があり、山房の主とも称した。 清水基吉: この直後、鎌倉市扇ヶ谷に移転し、中山義秀、永井龍男らと交わるようになった。 久米正雄: 永井龍男は義弟(永井の妻が久米の妻の妹)。 中里恒子: 1925年(大正14年)に女学校を卒業、翌年、文藝春秋社員をしていた遠縁の者より永井龍男を紹介される。 三角寛: 永井龍男の勧めで小説を書き始め、『婦人サロン』に「昭和毒婦伝」を連載し文壇にデビュー。 清水基吉: 1981年(昭和56年)から、里見弴、今日出海、小林秀雄、永井龍男らと鎌倉文学館設立の計画に加わり、1985年(昭和60年)の開館に漕ぎつけ、1991年(平成3年)から2004年(平成16年)まで、第2代館長を務めた。 小尾十三: 戦後は1947年に永井龍男社長、香西昇、式場俊三らの日比谷出版社に勤務したが倒産、50年に甲府商業高校教師となっている。 横光利一: 1929年(昭和4年)10月、横光、川端、犬養健、永井龍男、深田久彌、堀辰雄、吉村鐡太郎らが同人となって『文学』を創刊、小林秀雄はアルチュール・ランボーの「地獄の季節」翻訳を連載し、また淀野隆三はマルセル・プルーストの「スワン家の方」の翻訳を連載した。 清水基吉: 永井龍男:回想の芥川・直木賞、文藝春秋(1979) 大佛次郎: そして、全国的な運動を展開し、小林秀雄、今日出海、永井龍男、鈴木大拙、中村光夫、川端康成、横山隆一、伊東深水、鏑木清方ら文化人と幅広い市民の協力を得ることが出来た。 上林暁: 尾崎一雄・上林暁・永井龍男 河出書房新社 (日本文学全集) 1969 石井桃子: 1930年から1933年まで文藝春秋社に勤め(同編集部に桔梗利一)、永井龍男のもとで『婦人サロン』『モダン日本』などを編集した。 深田久弥: 1929年(昭和4年)、堀辰雄、横光利一らの同人『文學』(第一書房)の創刊に参加(他に川端康成、犬養健、永井龍男、吉村鐡太郎など)。 池島信平: 巻末対談今日出海と永井龍男 川端康成: 同じ10月には、堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一、犬養健と共に同人となった。 |
永井龍男の情報まとめ
永井 龍男(ながい たつお)さんの誕生日は1904年5月20日です。東京出身の作家のようです。
おもな著作などについてまとめました。現在、父親、卒業、結婚、事件に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
永井龍男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)永井 龍男(ながい たつお、1904年(明治37年)5月20日 - 1990年(平成2年)10月12日)は、日本の小説家、随筆家、編集者。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。 俳名、東門居。 懸賞小説に応募した『活版屋の話』(1920年)、『黒い御飯』(1923年)などで菊池寛に推賞される。人情の機微を精緻に描写する短編小説作家として活躍。作品に『朝霧』(1949年)、『風ふたたび』(1951年)など。 東京市神田区猿楽町(現在の東京都千代田区猿楽町)に、父教治郎 - 母ヱツの、四男一女の末子として生まれた。父親は本所割下水の御家人の次男で、永井家に夫婦養子として入り、印刷所の校正係をしていた。母は築地活版所の印刷職工の娘。兄も欧文植字工、叔父も印刷所勤務と印刷関係者が多い一族。1911年(明治44年)(7歳)、錦華尋常小学校へ入学、1919年(大正8年)(15歳)、一ツ橋高等小学校を卒業。父の病弱のため進学を諦め、米穀取引所仲買店に勤めたが、胸を病み3ヶ月で退職した。同年11月、父没。 1920年(大正9年)(16歳)、文芸誌『サンエス』に投稿した「活版屋の話」が当選。16年年長の選者菊池寛の知遇を得る。1922年帝国劇場の募集脚本に「出産」が当選。1923年(大正12年)、「黒い御飯」が創刊直後の『文藝春秋』誌に掲載。1924年、小林秀雄、石丸重治、河上徹太郎、富永太郎らと同人誌『山繭』を刊行する。 1927年(昭和2年)(23歳)、文藝春秋社に就職を希望し菊池寛社長を訪ね、居合わせた横光利一の口利きにより入社。『手帖』、『創作月刊』、『婦人サロン』の編集につぎつぎに当たった。1932年、『オール讀物』の、次いで『文芸通信』の編集長となった。編集者生活の傍らで創作の発表も続けた。 1934年1月、久保田万太郎夫妻の媒酌により、久米正雄夫人の妹の奧野悦子と結婚。女児2人が生まれた。同年11月、神奈川県鎌倉郡鎌倉町(現在の鎌倉市)に移る。以後転居を度々行ったが鎌倉市で終生居住した。 1935年(31歳)、1月に創設された芥川賞・直木賞の常任理事として3年間両賞の事務を取った。同年3月、母没。1939年、『文藝春秋』誌の編集長、1940年、文藝春秋社の編集局次長となった。 1943年(昭和18年)4月、文藝春秋社取締役。同年11月、満洲国新京市(現在の中国東北部長春市)に単身赴任し、満洲文藝春秋社を設立した。翌年一時帰国し、太平洋戦争末期の混乱のため東京の本社に留まる。1945年3月、文藝春秋社専務取締役となった。 戦後の1945年12月、文藝春秋社に辞表を出し、1946年1月、『新夕刊』を林房雄、小林秀雄らと創刊したが、1947年10月(43歳)、GHQに公職追放され、文筆生活への専念を余儀なくされた。1948年追放解除とともに日比谷出版社取締役社長となり、復活した直木賞を二回同社『文芸読物』で担当するも同社が倒産。以降は雑誌、新聞、週刊誌に、作品を発表した。 1952年(昭和27年)上期から1957(昭和32年)下期まで直木賞選考委員を、1958年(昭和33年)上期から1977年(昭和52年)下期まで芥川賞選考委員を務めた。 1966年(62歳)、『一個 その他』などの文業により日本芸術院賞受賞。1968年、日本芸術院の会員に選任される。1972年、長年の作家活動により第20回菊池寛賞を受賞。 1974年(70歳)、勲二等瑞宝章を受章。1975年には『秋』により第2回川端康成文学賞を受賞した。 1976年(72歳)、村上龍「限りなく透明に近いブルー」への授賞に抗議し選評「老婆心」を提出、芥川賞選考委員辞任を申し出る。日本文学振興会職員に慰留を受け提出選評「老婆心」末尾、菊池寛文章引用部分を削除する。この事件は外に洩れなかった。 1977年(73歳)、池田満寿夫「エーゲ海に捧ぐ」の芥川賞受賞決定に対して、選評で「空虚な痴態」と断じ、前々回での「限りなく」も取り上げ、「前衛的な作品」と述べつつ全否定の見解を述べ委員を退任。 1981年(77歳)、文化勲章受章。翌年にかけ『永井龍男全集』(全12巻)を、講談社より刊行。 1985年(81歳)、開館した鎌倉文学館の初代館長に迎えられる。 1990年(平成2年)10月12日、心筋梗塞により横浜栄労災病院で死去。享年86。戒名は東門居士。東京都港区三田の済海寺の墓域に眠る。 おもな著作『絵本』四季社(1934) 『あゝ、この一球』光文社(1949) 『手袋のカタッポ』日比谷出版(1949) 『朝霧』改造社(1950)(第2回横光利一賞)/新潮文庫(1951)/講談社文芸文庫(1992)ISBN 9784061961678 『鳩舎』四季社(1951) 『白い犬』創元社(1951) 『菜の花』池田書店(1951) 『風ふたたび』朝日新聞社(1951)/角川文庫(1955) 『明日はどっちだ』毎日新聞社(1952) 『座席は一つあいている』読売新聞社(1953) 『外灯』文藝春秋新社(1953) 『さくらんぼ』新潮社(1953) 『胡桃割り』四季社(1954) 『紅茶の時間』四季社(1954) 『遠い横顔』新潮社(1954) 『四角な卵』文藝春秋新社(1955) 『設計図の上の消しゴム』四季社(1955) 『巣立ちの歌』新潮社(1955) 『寄せ算引き算』東方社(1955) 『女の靴』鱒書房(1955) 『人なつこい季節』四季社(1955) 『酒徒交伝』四季社(1956) 『午前と午後と』新潮社(1956) 『その火のすべて』講談社(1957) 『噴水』毎日新聞社(1957)/角川文庫(1960) 『菊池寛』時事通信社(1961) 『幸吉八方ころがし』筑摩書房(1963)/文春文庫(1986)(読売新聞連載) 『皿皿皿と皿』河出書房新社(1964) 『大の虫小の虫』筑摩書房(1964) 『一個 その他』文藝春秋新社(1965)(第28回野間文芸賞)/新編・講談社文芸文庫(1991)ISBN 4061961217 『けむりよ煙』筑摩書房(1965)/角川文庫(1971)(読売新聞「近世名勝負物語」岩谷松平・村井吉兵衛) 『カレンダーの余白』講談社(1965)/講談社文芸文庫(1992)ISBN 4061961934 『青梅雨 その他』講談社(1966)/新潮文庫(1969、改版2001)ISBN 4101075018 『他人の帽子』講談社(1966) 『石版東京図絵』中央公論社(1967)/中公文庫(1975、改版2004)ISBN 4122043735 『わが切抜帖より』講談社(1968)(第20回読売文学賞(随筆・紀行賞))/講談社文芸文庫(1991)ISBN 9784061961579 『灰皿抄』講談社(1969)/講談社文芸文庫(1991) 『この人吉田秀雄』電通(1971)/文春文庫(1987)ISBN 9784167289034 『文壇句会今昔』文藝春秋(1972) 『コチャバンバ行き』講談社(1972)(第24回読売文学賞(小説賞))/講談社文庫(1977)/講談社文芸文庫(1991)ISBN 9784061961418 『雀の卵 その他』講談社(1972) 『雑談 衣食住』講談社(1973) 『自撰作品十一種』新潮社(1974) 『ネクタイの幅』講談社(1975) 『黒い御飯』成瀬書房(1976) 『永井龍男句集』五月書房(1976) 『身辺すごろく』新潮社(1976) 『花十日』講談社(1977) 『雲に鳥』五月書房(1977) 『回想の芥川・直木賞』文藝春秋(1979)/文春文庫(1982) 『夕ごころ』講談社(1980) 『秋 その他』講談社(1980) 『永井龍男集 現代の随想9』彌生書房(1981)、自選集 『縁さきの風 雑文集』講談社(1983) 『わが女房教育』講談社(1984) 『落葉の上を』朝日新聞社(1987) 『へっぽこ先生 その他』講談社文芸文庫(1990、改版2011)、自選集 『東京の横丁』講談社(1991)/講談社文芸文庫(2016)ISBN 4062903229 全集『永井龍男全集』全12巻、講談社(1981 - 1982) 「1・2・3・4 短篇小説」、「5・6・7・8 長篇小説」、「9・10・11 雑文集」、「12 俳句集」 2024/06/18 05:59更新
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nagai tatsuo
永井龍男と同じ誕生日5月20日生まれ、同じ東京出身の人
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