藤島武二の情報(ふじしまたけじ) 洋画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤島 武二さんについて調べます
■名前・氏名 |
藤島武二と関係のある人
若松光一郎: 藤島武二教室に入る(同級生に杉全直・鎌田正蔵・土橋淳・鈴木新夫・1年後輩に佐藤忠良) 山口薫: 4年次に旧制水戸高校理科を受験するも失敗し、5年の冬に上京し当時藤島武二が洋画を指導していた川端画学校で学ぶ。 フェルナン=コルモン: このアトリエやエコール・デ・ボザールでコルモンの指導を受けた画家には、フィンセント・ファン・ゴッホ、トゥールーズ=ロートレック、エミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ジョン・ピーター・ラッセル、アルベール・マルケ、藤島武二、山下新太郎、シャイム・スーティンなどがいる。 曾宮一念: 大下藤次郎、藤島武二、黒田清輝に指導を受ける。 和田英作: 東京美術学校(現・東京芸術大学)に西洋画科が開設されると、黒田の西洋画科教授就任にともなって、藤島武二・岡田三郎助とともに助教授に就任。 長原孝太郎: 明治28年7月には黒田清輝の下で洋画を学び、翌明治29年(1896年)には清輝、久米桂一郎、藤島武二らと共に白馬会の結成に参加、同年開催された第一回白馬会展に「森川町遠望」(水彩)、「牛屋(牛肉屋の二階)」(狂画)、「焼芋屋」(狂画)、「車夫」(狂画)の4点を出品、以降も作品の出品を重ねた。 荻須高徳: 小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。 望月桂: その後、高村光雲と藤島武二に師事し、高村の子息高村光太郎は学友。 里見浩太朗: およう(2002年) - 藤島武二 杉浦幸雄: 中学卒業時の1929年、東京美術学校を受験するが、デッサンの実技試験中にタバコを吸ったことを試験監督の藤島武二にとがめられて口論となり、試験会場を追い出され、不合格に終わった。 アルフォンス=ミュシャ: ミュシャの挿絵やイラストが、明治時代の文学雑誌『明星』において、挿絵を担当した藤島武二により盛んに模倣された。 清水良雄: 黒田清輝、藤島武二に師事する。 森類: 1931年には次姉の小堀杏奴と共に藤島武二に師事。 西脇順三郎: 白滝幾之助や藤島武二らに相談した末、黒田清輝主宰の「白馬会」に入会するが、画学生の気風になじめず、父の急死により画家の道を断つ。 岡本一平: 東京・大手町の商工中学校から東京美術学校西洋画科に進学し、藤島武二に師事する。 今東光: 1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会/太平洋美術会」(中村不折)、「川端画塾/川端画学校」(主任教官 藤島武二)に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。 曾宮一念: 藤島武二、黒田清輝、山下新太郎らに指導を受ける。 小絲源太郎: 1904年(明治37年)に東京の神田中学校を卒業、白馬会の展覧会で藤島武二の「蝶」を見て感動、画家を志す。 前田寛治: 学校では長原孝太郎と藤島武二に師事する。 嘉門安雄: 『青木繁 / 藤島武二』(河北倫明共編、集英社、現代日本美術全集7) 1972 伊原宇三郎: 1916年(大正5年)東京美術学校西洋科に入学、藤島武二に学ぶ。 清水対岳坊: 東京美術学校予科や川端画学校で藤島武二に洋画を学ぶ。 小堀杏奴: 1931年(昭和6年)、類とともに画家藤島武二に師事。同年11月、藤島武二の仲人で画家小堀四郎と結婚。 佐伯祐三: 1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。 折田彦市: 1912年(明治45年)5月1日(三高創立記念日)に、藤島武二が描いた折田の肖像画の除幕式が行われた。 佐分真: 翌年、東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に学ぶ。 小磯良平: これらの手紙は同博物館において同年9月15日から11月18日までの間、開館15周年特別展「藤島武二と小磯良平展―洋画アカデミズムを担った師弟―」で公開された。 里見浩太朗: 現代劇でも新しい役柄に扮し、23年ぶりに映画出演した初の松竹作品『およう』(2002年)では洋画家藤島武二を演じた。 香月泰男: 山口県立大津中学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業後、川端美術学校を経て1931年に東京美術学校に入学、藤島武二の教室に学ぶ。 小山敬三: 1916年(大正5年) 父の反対を押し切り、画家になるために慶應義塾大学理財学科を中退し、川端画学校で藤島武二に師事。 |
藤島武二の情報まとめ
藤島 武二(ふじしま たけじ)さんの誕生日は1867年10月15日です。鹿児島出身の洋画家のようです。
現在、解散に関する情報もありますね。1943年に亡くなられているようです。
藤島武二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)藤島 武二(ふじしま たけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は、明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮でもある。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。 薩摩国鹿児島城下池之上町(現在の鹿児島市池之上町)の薩摩藩士の家に生まれた。鹿児島造士館、東京仏語学校に学ぶ。はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶ。が、のち24歳の時、洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。松岡寿・山本芳翠らに師事。1893年(明治26年)から3年間、三重県尋常中学校(のち県立第一中学校,津中学校,現・三重県立津高等学校)の助教諭。1896年(明治29年)、1歳年上の黒田清輝の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くにわたり同校で後進の指導にあたった。本郷駒込曙町(現・本駒込1丁目)で画塾も開いていた。1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ1月18日渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。ただし、パリからローマに移った直後の空き巣被害で、フランス時代の作品の大半を失っている。1910年1月21日帰国後、5月13日に美術学校教授に就任。 その後、川端画学校でも教授を務めた。 黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。 1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。 この後、晩年に至るまで宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1934年(昭和9年)長谷川町子の姉、長谷川鞠子を弟子入りさせ、12月3日帝室技芸員。1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。受賞の報は満州に旅行中に受けた。 1939年(昭和14年)4月に発足した陸軍美術協会では副会長に就任。し、同年7月に協会主催で開催された第一回聖戦美術展では審査委員長を務めた。1943年(昭和18年)脳溢血のため75歳で死去。 『池畔納涼』(1897年(明治30年)) 東京芸術大学大学美術館所蔵 『天平の面影』(1902年(明治35年)) アーティゾン美術館所蔵(重要文化財) 『蝶』(1904年(明治37年)) 『黒扇』(1908年(明治41年) - 1909年(明治42年)) アーティゾン美術館所蔵(重要文化財)
『婦人半裸像』(1926年(大正15年)) 『芳蕙』(1926年) 『大王岬に打ち寄せる怒濤』(1932年(昭和7年)。同名を2枚作成し、三重県立美術館・ひろしま美術館所蔵) 『旭日照六合』(1937年(昭和12年)) 三の丸尚蔵館所蔵 ※代表作のうち、『蝶』、『芳蕙』の2点は、1967年の生誕100年記念展(ブリヂストン美術館)に出展後、公開されておらず、2017年現在その所在は不明とされている。
『池畔納涼』 東京芸術大学(1897年頃)
『風景(ティヴォリ、ヴィラ・デステの池)』 東京芸術大学(1908年)
『チョチャラ』 アーティゾン美術館(1908 -1909年)
『匂い』 東京国立近代美術館(1915年)
『アルチショ』 東京国立近代美術館(1917年)
『東洋振り』個人蔵(1924年)
『芳蕙』(1926年)
『東海旭光』 アーティゾン美術館(1932年)
西洋画實習法 (二松堂書店 1927年3月) 画集をかねた新洋画の描き方 (資文堂 1933年) 解剖応用 人物画法 (崇文堂 1941年) 藤島武二のことば (三輪鄰編 美術出版社 1951年) 芸術のエスプリ (中央公論美術出版 1982年2月) 藤島武二画集 (藤島武二画集編纂事務所 東邦美術学院 1934年) 藤島武二画集 (岩佐新、長谷川仁編 藤島武二画集刊行会 1943年) 藤島武二 (美術出版社 1955年) 藤島武二 (美術書院(日本百選画集) 1957年) 藤島武二 (隈元謙次郎著 日本経済新聞社 1967年) 現代日本美術全集 7 青木繁・藤島武二 (集英社 1972年) 日本の名画 31 藤島武二 (岡畏三郎編著 講談社 1973年) 日本の名画 6 藤島武二 (編集:酒井忠康 中央公論社 1976年) 藤島武二 (新潮社(新潮日本美術文庫) 1998年1月) 藤島武二画集 (日動出版部 1998年9月) 藤島武二遺作展覧会目録 (岩佐新編 藤島武二遺作展覧会事務所 1943年) 藤島武二 (ブリヂストン美術館(美術家シリーズ) 1958年) 藤島武二展 生誕百年記念 (ブリヂストン美術館ほか 1967年) 藤島武二展 (日動画廊 1977年) 藤島武二展図録 (三重県立美術館、神奈川県立近代美術館編 東京新聞 1983年4月) 藤島武二展 近代洋画の巨匠 (京都市美術館 京都新聞社 1987年) 知られざる藤島武二展 大川榮二コレクションによる (神奈川県立近代美術館 1987年頃) 藤島武二展図録 (東京都庭園美術館 美術館連絡協議会 1989年頃) 藤島武二展 (石橋財団ブリヂストン美術館 2002年頃) 師・藤島武二 藤島武二の素描と彼をめぐる画家たち (大川美術館(企画展) 2008年10月) 生誕150年記念 藤島武二展(練馬区立美術館(公益財団法人 練馬区文化振興協会) 2017年) ^ 「彙報 官庁事項 官吏薨去及卒去」『官報』第4873号、昭和18年4月13日、p.391 ^ 受賞者の業績と略歴『大阪毎日新聞』(昭和12年4月27日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p655 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 『新薩摩学風土と人間』鹿児島純心女子大学国際文化研究センター、図書出版 南方新社, 2003 ^ ^ 後進育成にも尽くした洋画画壇の元老、死去 昭和18年3月20日 朝日新聞(夕刊)『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p714 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ 『官報』第2378号、昭和9年12月4日。 ^ 長岡半太郎、幸田露伴ら九人受賞『東京日日新聞』(昭和12年4月17日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p654 ^ 戦争画の名作を目指して『東京朝日新聞』(昭和14年4月16日)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p787 ^ 朝日新聞主催、戦争美術展開く(『東京朝日新聞』昭和14年7月7日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p311 ^ “藤島武二 :: 東文研アーカイブデータベース”. 東京文化財研究所. 2022年10月29日閲覧。 ^ 加藤陽介「《蝶》、《芳蕙》の行方」『生誕150年記念藤島武二』(展覧会図録)、練馬区立美術館、2017、pp.88 - 89 ^ 練馬区独立70周年記念展 生誕150年記念 藤島武二展、2017.07.23(日)~ 2017.09.18(月)、練馬区立美術館 藤島武二 館蔵作品一覧(三重県立美術館) 藤島武二:作家別作品リスト - 青空文庫 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 オランダ CiNii Books CiNii Research オルセー美術館 オランダ美術史研究所データベース ULAN IdRef 19世紀日本の画家 20世紀日本の画家 明治時代の画家 大正時代の画家 洋画家 日本の装幀家 帝室技芸員 文化勲章受章者 日本藝術院会員 東京芸術大学の教員 中学造士館出身の人物 鹿児島県出身の人物 薩摩国の人物 1867年生 1943年没 青山霊園に埋葬されている人物 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Musée d'Orsay識別子が指定されている記事 RKDartists識別子が指定されている記事 ULAN識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2025/01/24 12:09更新
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fujishima takeji
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