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梅津美治郎の情報 (うめづよしじろう)
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【3月31日】今日誕生日の芸能人・有名人

梅津美治郎の情報(うめづよしじろう) 軍人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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梅津 美治郎さんについて調べます

■名前・氏名
梅津 美治郎
(読み:うめづ よしじろう)
■職業
軍人
■梅津美治郎の誕生日・生年月日
1882年1月4日 (年齢1949年没)
午年(うま年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
大分出身

梅津美治郎と同じ1882年生まれの有名人・芸能人

梅津美治郎と同じ1月4日生まれの有名人・芸能人

梅津美治郎と同じ出身地大分県生まれの有名人・芸能人


梅津美治郎と関係のある人

米内光政: それに対し阿南惟幾、梅津美治郎、豊田副武は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。


東條英機: 自ら陸相として残ろうと画策するも、参謀総長・梅津美治郎の反対でこれは実現せず、結局杉山を出すこととなったとされる。


永田鉄山: 1910年(明治43年)11月に陸大23期を2位/52名(首席は梅津美治郎〈のちに陸軍大将〉)で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。


小磯国昭: 朝鮮軍司令官だった小磯は大将に進級するが、寺内寿一や梅津美治郎ら陸軍首脳部とは疎遠となっており、予備役間近と考えられていた。


東郷茂徳: 28日午前に東郷が欠席した大本営と政府の連絡会議では、阿南と豊田副武軍令部長・梅津美治郎参謀総長が政府によるポツダム宣言非難声明を強硬に主張、米内海相が妥協案として「宣言を無視する」という声明を出すことを提案し、これが認められた。


迫水久常: 御前会議の開催には梅津美治郎参謀総長と豊田副武軍令部総長の花押と書類が必要であったが迫水は重大局面下での時間短縮を理由に「使用する際は必ず事前連絡して承諾を得る」ことを条件に9日の午前中に署名花押を二人から受け取っていた。


板垣征四郎: 日支和平に積極的な満洲組の総帥である板垣を牽制すべく、陸軍次官梅津美治郎(陸士15期で板垣の1期先輩)は統制派の総帥だった東条(17期)を自分の後任次官にさせた。


串田和美: 日輪の遺産(2011年) - 梅津美治郎


東條英機: 木戸の要求を受け入れて東條は参謀総長を辞任し(後任は梅津美治郎)、国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、無任所国務大臣の岸信介(戦後に首相歴任)に辞任を要求した。


小磯国昭: 小磯は山下奉文または阿南惟幾の起用を望んだが容れられず、結局は東條・梅津美治郎参謀総長・杉山元教育総監による三長官会議で、杉山が陸相に回ることとなった。


原健策: あゝ決戦航空隊(1974年、東映) - 梅津美治郎


大西瀧治郎: 12日、豊田が陸軍の梅津美治郎参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対を奏上すると、米内海軍大臣は豊田と大西を呼び出した。


幸田宗丸: ヒロシマ 原爆投下までの4か月(1995年) - 梅津美治郎陸軍大将


阿南惟幾: 昭和天皇も梅津美治郎参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と持久作戦をとる第32軍司令官牛島満中将に、攻勢を指示するように促している。


米内光政: 8月12日、軍令部総長・豊田副武大将と陸軍参謀総長・梅津美治郎大将が昭和天皇に対してポツダム宣言受諾を反対する帷幄上奏を行う。


重光葵: 1945年(昭和20年)9月2日朝に、東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの甲板上で、降伏文書調印式が行われ、全権団代表として大本営・参謀総長梅津美治郎と共に署名した。


近衛文麿: 同席した陸軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。


藤沼庄平: この年に梅津美治郎陸軍次官からの要請で大日本武徳会の理事長も務めた。


松村彦次郎: 山河燃ゆ(1984年) - 梅津参謀総長(梅津美治郎


佐々木研: 聖断(2005年) - 梅津美治郎


阿南惟幾: 不況による軍事費削減で日本陸軍は現役将校不足に悩まされており、阿南は陸軍次官の梅津美治郎中将が呆れるほどに、各方面に将校不足を説いて回り、ついには800名増員を実現している。


杉山元: 事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、梅津美治郎、東條英機ら統制派中枢に担がれる形で陸軍の重鎮への道を歩む。


阿南惟幾: 阿南は陸軍の本土決戦のための戦力温存策には反対であり、特攻には批判的ながら「本土決戦ばかり考えず、航空戦力すべてを挙げて沖縄の敵を叩くべきだ」「俺も最後には特攻隊員として敵艦に突入する覚悟だ」と梅津美治郎参謀総長に詰め寄っている。


山下奉文: やがて正式発表があり、陸軍参謀本部の梅津美治郎大将からお祝いの鯛一尾、日本酒一樽が届けられると、あえて師団長らからの祝宴の誘いを断って、親密であった参謀長と副官の3人で祝いの鯛と日本酒で夜更けまで歓談するほど歓喜していた。


東郷茂徳: 5月中旬に開かれた最初の最高戦争指導会議構成員会合で、陸軍参謀総長の梅津美治郎が、ドイツの敗戦後、日本とは中立状態にあったソ連が極東に大兵力を移動しはじめていることを指摘し、ソ連の参戦を防止するための対ソ交渉の必要性が議題になった。


鈴木貫太郎: ところが、継戦派の梅津美治郎・阿南惟幾・豊田副武らが、宣言の公式な非難声明を出すことを政府に強く提案し、これに押し切られる形で米内が「政府がポツダム宣言を無視するという声明を出してはどうか」と提案して認められた。


東久邇宮稔彦王: (外務大臣重光葵、参謀総長梅津美治郎)により日本の降伏文書に調印がされ(日本の降伏)、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。


上法快男: 「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房


東郷茂徳: それ以外にも、木戸幸一が天皇が和平を望む発言をしたことを自分に伝えなかったこと、梅津美治郎が前述の通り本土決戦を主張し、和平を拒み続けたことも述べた。


鈴木貫太郎: 8月10日未明 から行われた天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)では、ポツダム宣言受諾を巡り、東郷茂徳が主張し米内光政と平沼騏一郎が同意した1条件付受諾と、本土決戦を主張する阿南惟幾が参謀総長・梅津美治郎と軍令部総長・豊田副武の同意を受け主張した4条件付受諾との間で激論がたたかわされ、結論がでなかった。


梅津美治郎の情報まとめ

もしもしロボ

梅津 美治郎(うめづ よしじろう)さんの誕生日は1882年1月4日です。大分出身の軍人のようです。

もしもしロボ

現在、再婚、卒業、事件に関する情報もありますね。1949年に亡くなられているようです。

梅津美治郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

梅津 美治郎(うめづ よしじろう、旧字体:梅󠄀津 美治郞、1882年〈明治15年〉1月4日 - 1949年〈昭和24年〉1月8日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位勲一等功二級。

関東局で満洲国駐箚特命全権大使を務め、極東国際軍事裁判(東京裁判)で終身刑の判決を受け、服役中に獄中死。1978年(昭和53年)に靖国神社に合祀される。

現在の大分県中津市に1882年(明治15年)1月4日に生まれる。偶然にも明治天皇から陸海軍軍人に「軍人勅諭」が下賜された日でもある。若いころは、母の再婚先の是永姓を一時名乗り、明治期の実役停年名簿には「是永美治郎」の名前で記載されている。

中学済々黌を経て、熊本陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校(第15期7番)、陸軍大学校(第23期首席)を卒業

参謀本部編制動員課長、陸軍省軍務局軍事課長と主流を歩むが、陸軍の刷新を図る佐官級の二葉会、一夕会などとは距離を置いていた。

1931年(昭和6年)8月に参謀本部総務部長に就く。

同年12月に犬養内閣が発足、いわゆる皇道派の荒木貞夫が陸相に就任すると、荒木は真崎甚三郎を参謀次長に据え参謀本部の実権を握らせる。

しかし真崎の腹心で対ソ戦略の権威である小畑敏四郎第三部長と、陸軍きっての逸材とされる永田鉄山第二部長の間に深刻な対立が発生、対ソ準備への専心を説く小畑に対し永田は対支那一撃論を主張した。

両者は東條英機、鈴木率道ら課長級も巻き込んで争った。

梅津は古荘幹郎第一部長とともにこの抗争への対応に苦慮するが、皇道派の専横や派閥人事もあって次第に真崎、小畑らへの批判を強め、やがて皇道・統制両派の角逐につながる。

1934年(昭和9年)3月には支那駐屯軍司令官に就任。同年11月に宋哲元の部下の馮治安の部隊が熱河省を侵犯し、大灘西方20キロの断木梁に進出し、関東軍が追撃し宋哲元の本拠地近くまで迫った。梅津は宋哲元のとりなしをして、関東軍は追撃を止め引き返した。

1935年(昭和10年)6月に国民革命軍の何応欽と「梅津・何応欽協定」を結ぶ。当時、華北で相次いだ反日活動が国民党の主導によるものとし、その撲滅のため、

河北省内の国民党支部をすべて撤廃

国民党駐河北省の東北軍第51軍、国民党中央軍および憲兵三団の撤退

河北省主席である于学忠の罷免

すべての抗日団体とその活動の取り締まり

といった内容の協定を結んだ。この協定の申し入れについては、当初梅津は全く知らず、駐屯軍の酒井隆参謀長と高橋坦陸軍武官の策謀であったとされている。

1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発。第2師団長(仙台)であった梅津は、第4師団長(大阪)の建川美次と電話で早期鎮圧の方策について話し合い、陸軍省に断固討伐を求める電報を発する。

事件後、同年3月には古荘幹郎の後任として陸軍次官に就任。

翌年にかけて寺内寿一陸軍大臣の下で大規模な粛軍人事を行い、皇道派を中央から一掃した。その際に陸軍省に軍務課を新設し、陸軍の政治への発言力を強めたのが皇道派の反発を招いた。一部の右翼活動家からは「梅津は日本の赤化を企図している」という怪文書を撒かれる結果となった。

1939年(昭和14年)8月の阿部内閣組閣に当たって、三長官会議では多田駿を後継陸相に推挙するが、昭和天皇の「畑俊六(侍従武官長)、梅津以外は三長官会議の結論であっても認める意思はない」との言により畑が陸相となる。

この発言は、前陸相の板垣征四郎が中心となって推進した日独防共協定強化策を嫌い、自らの意を受けてこれに反対しうる陸相が必要という天皇の判断によるものであり、二・二六事件後の粛軍をこなした梅津への信頼感を物語る。

同年9月、関東軍司令官(1942年から関東軍が総軍に格上げされ総司令官に名称変更)に就任。直前に発生したノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀らの粛正が求められていたが、見事にその任を果たした。

太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。

1944年(昭和19年)7月、サイパン島失陥の責任を取って辞任した東條英機(首相・陸軍大臣も兼務していた)の後任として参謀総長に就任。

終戦後まで務め、最後の参謀総長となった。なお、東條はその後の首相退任に当たり、次の内閣で陸軍大臣として残ることを画策したが、参謀総長となった梅津が杉山元教育総監とあらかじめ打ち合わせを済ませ、東條を含めた三長官会議の結果、杉山が陸相に回ることとなった。

同年12月、海軍の小沢治三郎中将がPX作戦(英語版)、いわゆる細菌戦を立案した。これは榎尾義男海軍大佐が指揮し、細菌を保有するネズミや蚊を人口が密集する米本土西岸にばらまき生物災害を引き起こす作戦内容であった。機材として航空機2機を搭載する伊四〇〇型潜水艦を使用する計画ではあったが海軍に細菌研究がなかったため、陸軍の石井四郎軍医中将の協力を要請し陸海の共同計画となり、人体実験を含む研究が進められた。

1945年3月26日海軍上層部は決行に合意したが、陸軍参謀総長であった梅津が「アメリカに対する細菌戦は全人類に対する戦争に発展する」と反対したため実行はされなかった。この件に関して戦後しばらく関係者の沈黙が続いたが、のちに榎尾元大佐が新聞で経緯を語った。

1945年(昭和20年)5月以降、軍・政府首脳の間で終戦に向けた動きが始まる。敗戦にあたっては梅津の心配はアメリカに対する賠償金がどれほど巨額になるのかという点にもあったと言われる。

陸軍の軍令の長であった梅津は、表だっては本土決戦の主張を変えなかった。

その一方、5月11日から開催された最初の最高戦争指導会議構成員会合では、海軍大臣の米内光政が「対ソ工作も結局するところ米英との仲介の労を取らせて大東亜戦争を終結することに最後はなると思うが」と発言した際に「その通りだ」と返答したり、6月9日に昭和天皇に関東軍の視察報告を上奏した際に「兵力が8個師団分しかなく、弾薬は大会戦の一回分しかない」と伝えるなど、戦争の継続に対して懐疑的な態度を見せたこともあった。天皇には本土決戦の準備ができていないことを明示した極秘資料も提示している。

8月9日深夜の御前会議では、陸軍大臣の阿南惟幾とともに、陸軍を代表して、ポツダム宣言受諾ではなく継戦による本土決戦を主張した。

海軍軍令部総長だった豊田副武は、阿南や梅津は和平は不可避と考えながら、将校の圧力のために強硬論を言わざるを得なかったと記している。

また、ポツダム宣言受諾通告後の「バーンズ回答」に際しても、阿南とともに「自主的武装解除と本土占領の拒否」を主張している。

終戦により調印式全権を依頼されると、降伏に賛成した米内光政や鈴木貫太郎(終戦当時の首相で、元海軍大将)らが適役であるとして一旦は拒否したが、9月2日に東京湾に停泊した米海軍の戦艦ミズーリの艦上で、降伏文書調印式が行われ、大本営を代表し署名した。

東京裁判の法廷では、広田弘毅や重光葵等と同様に、証言台には立たず、沈黙を守り続けたが、東郷茂徳の証言内容に対しては、声を荒らげて反論する場面もあった。

判決は終身禁固刑が言い渡され、1949年(昭和24年)1月8日、服役中に直腸癌により病没した。享年68(満67歳没)。梅津は、生涯日記も手記も残さず、病床には、「幽窓無暦日」とだけ書いた紙片が残されていたのみだった。

無表情で喜怒哀楽が少ないことから能面と評され、またいかなる派閥にも属さず、自らも子分を作らなかったと言う。

1897年(明治30年)9月 - 熊本陸軍地方幼年学校 入校

1900年(明治33年)9月 - 陸軍中央幼年学校 入校

1903年(明治36年)11月30日 - 陸軍士官学校 卒業(陸士第15期、卒業順位7番)

1904年(明治37年)3月18日 - 少尉任官、歩兵第1連隊付(是永美治郎名義)

1905年(明治38年)6月30日 - 中尉に進級(是永美治郎名義)

1911年(明治44年)11月29日 - 陸軍大学校卒業(第23期首席(梅津美治郎名義)

1912年(明治45年)3月25日 - 大尉に進級し、歩兵第1連隊中隊長となる

1918年(大正7年)6月1日 - 少佐に進級

1922年(大正11年)2月8日 - 中佐に進級

1924年(大正13年)12月15日 - 大佐に進級、歩兵第3連隊長

1926年(大正15年)12月1日 - 参謀本部編制動員課長

1928年(昭和3年)8月10日 - 陸軍省軍務局軍事課長

1930年(昭和5年)8月1日 - 少将に進級、歩兵第1旅団長

1931年(昭和6年)8月1日 - 参謀本部総務部長

1933年(昭和8年)11月1日 - 駐スイス公使館付駐在武官

1934年(昭和9年)

    3月5日 - 支那駐屯軍司令官

    8月1日 - 中将に進級

    1935年(昭和10年)8月1日 - 第2師団長

    1936年(昭和11年)3月23日 - 陸軍次官

    1938年(昭和13年)5月30日 - 第1軍司令官

    1939年(昭和14年)9月7日 - 関東軍司令官兼駐満洲国大使

    1940年(昭和15年)8月1日 - 大将に進級

    1942年(昭和17年)10月1日 - 関東軍総司令官

    1944年(昭和19年)7月18日 - 参謀総長

    1945年(昭和20年)

      9月2日 - 大本営全権として降伏文書調印式に出席

      10月15日 - 軍事参議官

      11月30日 - 予備役編入

      1948年(昭和23年)1月31日 - 公職追放仮指定を受けた。

      1904年(明治37年)5月17日 - 正八位

      1905年(明治38年)8月18日 - 従七位

      1910年(明治43年)9月30日 - 正七位

      1915年(大正4年)10月30日 - 従六位

      1920年(大正9年)11月30日 - 正六位

      1924年(大正13年)12月27日 - 従五位

      1930年(昭和5年)2月1日 - 正五位

      1934年(昭和9年)9月1日 - 従四位

      1938年(昭和13年)6月15日 - 正四位

      1940年(昭和15年)8月15日 - 従三位

      1943年(昭和18年)9月1日 - 正三位

      1906年(明治39年)4月1日 - 勲六等単光旭日章・功五級金鵄勲章

      1913年(大正2年)5月31日 - 勲五等瑞宝章

      1915年(大正4年)11月7日 - 勲四等旭日小綬章・大正三四年従軍記章

      1922年(大正11年)3月29日 - 勲三等瑞宝章

      1928年(昭和3年)12月28日 - 旭日中綬章

      1933年(昭和8年)9月4日 - 勲二等瑞宝章

      1936年(昭和11年)7月10日 - 勲一等瑞宝章

      1938年(昭和13年)11月2日 - 銀杯一組

      1939年(昭和14年)7月11日 - 旭日大綬章

      1940年(昭和15年)4月29日 - 功二級金鵄勲章

      1937年(昭和12年)12月1日 - 満州国:勲一位柱国章

      1937年(昭和12年)11月22日 - ドイツ国:ドイツ鷲大十字勲章

      1938年(昭和13年)12月6日 - イタリア王国:王冠勲章グランクロア

      1941年(昭和16年)

        6月27日 - イタリア王国:聖マウリッツィオ・ラザロ勲章グランコルドーニ

        12月9日 - 満州国:建国神廟創建記念章

        1942年(昭和17年)2月2日 - 満州国:勲一位龍光大綬章

        1944年(昭和19年)8月10日 - 中華民国政府:特級同光勲章

        1944年(昭和19年)10月5日 - 満州国:大勲位蘭花大綬章

        長男 梅津美一(東京帝国大学在学中に学徒出陣。第四期防備専修予備学生。海軍少尉任官後、第9根拠地隊分隊士。戦後は東京裁判で父の副弁護人を務める。)

        孫 梅津成実(イラストレーター)

        『最後の参謀総長 梅津美治郎』同刊行会編、芙蓉書房、1976年

        清原芳治『参謀総長梅津美治郎と戦争の時代』大分合同新聞社、2008年

        佐野量幸 『梅津美治郎大将 終戦をプロデュースした男』元就出版社、2015年

        岩井秀一郎 『最後の参謀総長 梅津美治郎』祥伝社新書、2021年

        大江志乃夫『凩の時』筑摩書房

        浅田次郎『日輪の遺産』講談社

        山崎豊子『不毛地帯』新潮社

        大分県出身の人物一覧

        ベン・ブルース・ブレイクニー

        宮田光雄

        池田純久

        ^ 大尉時代に「はるじろう」から読み方を変更。

        ^ 卒業成績優等は6人。2位永田鉄山、3位 前田利為、4位藤岡萬蔵、5位篠塚義男、6位小畑敏四郎

        ^ 半藤 2013, 位置No. 3785 - 3795, 陸軍大将略歴〔昭和元年から十五年末までに親任〕:梅津美治郎

        ^ 高橋正衛『二・二六事件』中公新書61頁

        ^ デニス・ウォーナー、ペギー・ ウォーナー『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 下』時事通信社224-225頁

        ^ 長谷川毅『暗闘 (上)』中央公論新社〈中公文庫〉、2011年、p.152。 この内容は高木惣吉の『高木日記』等からの引用。

        ^ 長谷川、2011年(上)、p.210。高木惣吉は、梅津がこの報告で終戦の必要をそれとなく伝えたのだと解している。

        ^ 長谷川毅『暗闘(下)』中央公論新社〈中公文庫〉、2011年、p.89

        ^ 長谷川、2011年(下)、p.144

        ^ 長谷川、2011年(下)、p.160

        ^ 秦郁彦編著「日本陸海軍総合事典」 東京大学出版会、1994年、p247、p251

        ^ 『官報』第6212号、1904年3月19日

        ^ 『官報』第6601号、1905年7月3日

        ^ 『官報』第8535号、1911年12月1日

        ^ 梅津美治郎、山田乙三が大将に進級『東京日日新聞』(昭和15年8月2日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p781 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年

        ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。

        ^ 法廷証第129号: [梅津美治郎關スル人事局履歴書]

        ^ 『官報』第6267号「叙任及辞令」1904年5月24日。※是永美治郎

        ^ 『官報』第6648号「叙任及辞令」1905年8月26日。※是永美治郎

        ^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。

        ^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。

        ^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。

        ^ 『官報』第3747号「叙任及辞令」1925年2月20日。

        ^ 『官報』第931号「叙任及辞令」1930年2月7日。

        ^ 『官報』第2307号「叙任及辞令」1934年9月7日。

        ^ 『官報』第3439号「叙任及辞令」1938年6月22日。

        ^ 『官報』第251号「叙任及辞令」1913年6月2日。

        ^ 『官報』第2895号「叙任及辞令」1922年3月30日。

        ^ 『官報』第602号「叙任及辞令」1928年12月29日。

        ^ 『官報』第3395号「叙任及辞令」1938年5月2日。

        ^ 『官報』1937年11月26日「叙任及辞令」。

        ^ 『官報』1938年12月9日「叙任及辞令」。

        ^ 『官報』第4343号「叙任及辞令」1941年7月1日。

        ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。

        ^ “陸軍大将梅津美治郎外三十六名満洲国勲章記章受領及佩用ノ件”. 国立公文書館 デジタルアーカイブ. 2019年4月12日閲覧。

        ^ 国立公文書館「野村直邦外五十名外国勲章記章受領及佩用の件」昭和19年8月10日。

        ^ 「有末精三外十七名外国勲章記章受領及佩用の件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113505700 

        宮内省『昭和17年叙位巻12』(初版)国立公文書館デジタルアーカイブ〈叙位裁可書〉、1942年(原著1942-2-15)。 

        半藤一利 他『歴代陸軍大将全覧 昭和編/満州事変・支那事変期』(Amazon Kindle)中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2013年。 

        梅津 美治郎 / クリック 20世紀

        『梅津美治郎』 - コトバンク

        有栖川宮熾仁親王1889.3.9-1895.1.15

        小松宮彰仁親王1895.1.26-1898.1.20

        川上操六1898.1.20-1899.5.11

        大山巌1899.5.16-1904.6.20

        山縣有朋1904.6.20-1905.12.20

        大山巌1905.12.20-1906.4.10

        児玉源太郎1906.4.11-1906.7.30

        奥保鞏1906.7.30-1912.1.20

        長谷川好道1912.1.20-1915.12.16

        上原勇作1915.12.17-1923.3.17

        河合操1923.3.17-1926.3.2

        鈴木荘六1926.3.2-1930.2.19

        金谷範三1930.2.19-1931.12.23

        閑院宮載仁親王1931.12.23-1940.10.3

        杉山元1940.10.3-1944.2.21

        東條英機1944.2.21-1944.7.14

        梅津美治郎1944.7.18-1945.11.30

        武藤信義 1932-1933

        菱刈隆 1933-1934

        南次郎 1934-1936

        植田謙吉 1936-1939

        梅津美治郎 1939-1944

        山田乙三 1944-

        ※関東軍司令官(1942-関東軍総司令官)が大使と関東長官(-1934)を兼任。1934-大使が関東局の事務を統理。カテゴリ カテゴリ

        板垣征四郎

        木村兵太郎

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        橋本欣五郎

        畑俊六

        平沼騏一郎

        星野直樹

        南次郎

        重光葵(7年)

        東郷茂徳(20年)

        松岡洋右:裁判中の1946年(昭和21年)6月27日に病死のため公訴棄却

        永野修身:裁判中の1947年(昭和22年)01月5日に病死のため公訴棄却

        大川周明:裁判中の1947年(昭和22年)04月9日に梅毒による精神障害が認められ訴追免除

        ISNI

        VIAF

        アメリカ

        日本

        公文書館(アメリカ)

        梅津美治郎

        大日本帝国陸軍大将

        20世紀の軍人

        在満洲国日本大使

        関東軍の人物

        関東局の人物

        日中戦争の人物

        太平洋戦争における日本の軍人

        A級戦犯

        公職追放者

        獄死した人物

        陸軍大学校出身の人物

        陸軍士官学校 (日本)出身の人物

        熊本県立済々黌高等学校出身の人物

        大分県出身の人物

        正三位受位者

        功二級金鵄勲章受章者

        旭日大綬章受章者

        ドイツ鷲勲章受章者

        聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者

        1882年生

        1949年没

        青山霊園に埋葬されている人物

        大腸癌で亡くなった人物

2025/03/29 17:32更新

umedu yoshijirou


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