浅田彰の情報(あさだあきら) 社会学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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上之二郎: 『ドキュメンタリーコミック 住友商事の挑戦 - 動きはじめた未来戦略』(原作、浅田彰宏画、アイペック) 1988年 堤清二: 石原慎太郎、安藤忠雄、井尻千男、中村雄二郎、大岡信、浅田彰ほか全10名 吉本隆明: 吉本は、1980年代~90年代、自分を批判した浅田彰、柄谷行人や蓮實重彦に対して、他者や外部としての「大衆」をもたず、知の頂を登りっぱなしで降りてこられない(親鸞でいうところの「還相」の過程がない)「知の密教主義者」として、「知的スノッブの三バカ」「知的スターリニスト」と称した。浅田彰に関しては、浅田が「学生の学力がここ10年くらいで劇的に落ちている。文部省は権威主義的な詰め込み教育を維持したほうがよかった」と言っている事について、「最近の学生の学力のレベルが低いというより、むしろ、浅田彰のレベルが低い、というべきじゃないでしょうか。浅田彰は、専門だという理論経済学の分野でも、学者としてちっとも優秀じゃないですよ。」「つまらない専門外のことはいう浅田彰」と評している。 斎藤環: 大澤真幸、東浩紀、浅田彰などと交流を深め、2000年12月2日に勝山実と公開対談した。 坂本龍一: 9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。 山口昌男: 1980年代の浅田彰、中沢新一らによって本格化したいわゆるニューアカ(ニュー・アカデミズム)」ブームの下準備をした。 柄谷行人: 1986年にはフランスポンピドゥー・センターで「前衛の日本」という大展覧会にあわせて開催されたシンポジウムに蓮實重彦・浅田彰とともに出席した。 ジル=ドゥルーズ: 浅田彰、中沢新一などのニューアカデミズムは、彼からインスピレーションを得ている。 東浩紀: 帯に浅田彰による自著『構造と力』が過去のものとなったことを自認した言葉が載る。 幸徳秋水: 批評家の柄谷行人や浅田彰・絓秀実・鴻英良らは、大逆事件を日本の帝国主義の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。 柄谷行人: 第3号より浅田彰が編集に参加)。浅田彰の国際的な編集能力にも助けられ、スラヴォイ・ジジェクを日本ではじめて本格的に紹介し特集をくむなどした。 村上春樹: 田中康夫は、浅田彰との対談で、エルサレム賞がノーベル文学賞の登竜門であるとされることから、「誰もが『卵が尊い』と唱和する局面であえて、壁の側にだって一分の理はあるのではと木鐸(ぼくたく)を鳴らしてこそ、小説家としての証しだとするなら」という前置きをした上、ノーベル賞をくださいと正直に言うことが大人の商売人であると論評した。 中上健次: 1986年にはパリ、ポンピドゥ・センターで開かれた「前衛の日本 」展に柄谷行人 、蓮實重彦、浅田彰と参加し、ポスト構造主義の思想家ジャック・デリダと公開対談をおこなっている。 田中康夫: 『ニッポン解散 続・憂国呆談』浅田彰 ダイヤモンド社 2005 栗本慎一郎: ところが、突如浅田彰や山口昌男ら個別の学者を名指しして批判を始め、「危険な学者」と自称するようになった。 伴田良輔: 帰国後の1985年、雑誌「GS」(浅田彰, 伊藤俊治, 四方田犬彦らの共同編集)の特集に寄稿した原稿をもとに初の単行本『独身者の科学』(冬樹社)を戸田ツトムの装丁で上梓、性のビジュアルとアフォリズムの組み合わせによる斬新な語り口で反響を呼ぶ。 村上春樹: 浅田彰は、上記の田中康夫との対談で、壁と卵の比喩が曖昧すぎると批判した。 森毅: 浅田彰は森に数学を習い、ニューアカ・ブームの当時は盛んに森を称揚していた。 東浩紀: 登壇者は浅田彰、磯崎新、宇野常寛、濱野智史、宮台真司。 森敦: 柄谷は、日本文学史上類例をみない奇跡的な私小説であり、その評価は非常に高いと言う(ちくま文庫の解説には岩井克人、浅田彰、中上健次等も賛辞を寄せている)。 中森明夫: 1980年代半ばから浅田彰に認められ、1985年に筑紫哲也が編集長をしていた『朝日ジャーナル』誌の「新人類の旗手たち」コーナーに登場。 武邑光裕: 浅田彰・伊藤俊治・彦坂裕とともにNTT出版の雑誌『インターコミュニケーション』の責任編集を長く務めた。 田中康夫: 「神戸から長野へ 新・憂国呆談」(浅田彰)小学館、2001 堀田眞三: 逆鱗組七人衆(2005年、さざ波) - 逆鱗組組長 浅田彰(逆鱗商会社長) 中上健次: 講師には、柄谷行人、浅田彰などが参加している。 村上龍: 中上健次、柄谷行人、坂本龍一、浅田彰、河合隼雄、蓮實重彦、庵野秀明、奥村康、渡部直己、妙木浩之、黒沼克史、小山鉄郎との対談を収録 岡本太郎: 男女の関係であった秘書の岡本敏子を妻ではなく養女として縁組したことについては、例えば評論家の浅田彰はパリ帰りの岡本なりのダンディズムと評している。 村上龍: 北野宏明、浅田彰、伊藤穰一、竹中直純、赤尾健一、塩崎恭久との鼎談を収録 東浩紀: 鎌田哲哉、福田和也、浅田彰、柄谷行人と対談。 岡本敏子: 浅田彰はパリ帰りの岡本なりのダンディズムと評している。 |
浅田彰の情報まとめ
浅田 彰(あさだ あきら)さんの誕生日は1957年3月23日です。兵庫出身の社会学者のようです。
卒業、映画、現在、事件、解散に関する情報もありますね。去年の情報もありました。浅田彰の現在の年齢は67歳のようです。
浅田彰のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)浅田 彰(あさだ あきら、1957年3月23日 - )は、日本の批評家、哲学者。学位は経済学修士(京都大学・1981年)。京都芸術大学教授、同大学大学院学術研究センター所長。 兵庫県神戸市出身。両親は産婦人科医。1979年京都大学経済学部卒業。1981年同大学院経済研究科博士課程中退。同大学人文科学研究所助手を経て、1989年より同経済研究所助教授。2008年より京都造形芸術大学大学院長、のち同大学院学術研究センター所長。 1983年、京都大学人文科学研究所助手時代に、構造主義とポスト構造主義の思想を一貫した見取り図のもとに再構成する『構造と力』を発表。思想書としては異例の15万部を超すベストセラーとなり、同時期に『チベットのモーツァルト』を発表した中沢新一などとともに、いわゆる「ニュー・アカデミズム」の旗手として一般メディアを舞台に幅広い批評活動を開始した。 当時の日本では、ロラン・バルトやフーコー、レヴィ=ストロースなどのフランス現代思想が盛んに紹介されていたが、思想家ごとの紹介にとどまることが多く、彼らを思想史全体に位置づける試みはほとんど行われていなかった。そうした状況の中浅田が『構造と力』において、デリダの脱構築の哲学や、ドゥルーズとガタリが用いたラカン派精神分析の思想など様々な潮流を俯瞰し再構成してみせたため、同書はフランス現代思想に対する「知の見取り図」として受容されることになった。 翌1984年には、一般誌などに寄稿したエッセイを集めた『逃走論』を発表。同書ではドゥルーズとガタリ、またマルクスなどの思想を従来のように正面から一点集中的に読み解こうとするだけではなく、多面的な視点を相互に移動しながらテクストに向き合う姿勢が必要だと説いた。この対比を、浅田は特定の価値観や立場・見方に固執するパラノイア(偏執狂)型と物事に固執しないスキゾフレニア(統合失調症)型に二分したが、これは「パラノからスキゾへ」というキャッチフレーズとして、当時の流行語となり、第一回新語・流行語大賞において新語部門の銅賞に選ばれた。 1984年から87年まで雑誌『GS』で活動したのち、90年代は柄谷行人とともに思想誌『批評空間』の編集委員を務め、『季刊思潮』『InterCommunication』『Any』といった思想誌の編集にかかわっている。 『逃走論』 以後の浅田の著作は、対談・短いエッセイなどの再構成が中心となり、叢書の編集や芸術祭・映画祭の監修など幅広い分野で活動を続けている。浅田の師の一人である数学者の森毅は、浅田の本領は、一見無関係なものを関連づけ、全体の中に位置づけ直して新たな光を当てる広義の「編集」行為にあると指摘している。また浅田の紹介・評価がきっかけとなって、多くの思想家やアーティストが注目を浴びることになった。 2008年、京都大学経済研究所准教授を退職し、京都造形芸術大学大学院長に就任した[2][3]。 2012年からウェブメディアのREALKYOTOで評論を発表していた。2020年末に同メディアは更新を停止し、ICA京都のサイト内ウェブマガジンREALKYOTO FOLUMに移行され、浅田はICA京都の所長に就任した。就任にあたって、「たんなるジャーナリスティックな情報でも、アカデミックな論考でもない、グローバルなアート・シーンの具体的現実にアクセスし、またそれについて深く考えたいと思っているすべての⼈に注⽬していただければ、そして積極的に参加していただければ幸いです」との文章を発表した。 1975年:洛星高等学校卒業 1979年:京都大学経済学部経済学科卒業 1981年:京都大学大学院経済学研究科博士課程中退 1981年:京都大学人文科学研究所助手 1989年:京都大学経済研究所助教授 2007年:京都大学経済研究所准教授 2008年:京都造形芸術大学教授。同大学大学院長 2020年:京都芸術大学教授。附属機関 ICA京都所長 兼職 近畿大学国際人文学研究所客員教授 放送大学大学院客員教授 建築家の浅田孝、東邦大学学長の浅田敏雄は伯父に当たる。 浅田が執筆したテキストは、浅田彰書誌[4]に詳しい。(現在も更新が続けられているが、なぜか2009年までのテキストしか掲載されていない) 経済学部・大学院経済学研究科の出身で、元々は経済学者を名乗り、専攻は経済学としていた。ほかに経済思想史に関する論文を執筆したこともある。しかし経済学関係の業績はもとより80年代後半以降からは経済学関係の著作は皆無で、現在は経済学者は「廃業」したと述べている。 経済学に関する体系的業績や著作は一つも残しておらず、このことを吉本隆明が厳しく批判している。吉本は、浅田が「学生の学力がここ10年くらいで劇的に落ちている。文部省は権威主義的な詰め込み教育を維持したほうがよかった」と言っていることについて、「最近の学生の学力のレベルが低いというより、むしろ、浅田彰のレベルが低い、というべきじゃないでしょうか。浅田彰は、専門だという理論経済学の分野でも、学者としてちっとも優秀じゃないですよ。」「つまらない専門外のことはいう浅田彰」と評している。 2008年まで20年に渡り、京都大学経済研究所に助教授(准教授)のまま勤務していたが、教授に昇任できなかった。結局、『週刊文春』2008年3月27日号「19年間"助教授"の末、浅田彰が京大を飛び出した」記事は、「学内で『穀つぶし』と言われたわけではないでしょうが(笑)、これ以上の出世、要は教授になることはないと見限ったのかもしれませんね」「八〇年代半ば以降、対談集や芸術批評などを除けばまったくと言っていいほど著作を発表していません。そういう意味では学者としての業績は残してない」と報じられた。 1987年に辻元清美との皇室に関する話題にて、天皇制について「なくならないと思う。終戦の時に、きちっと責任追及があってしかるべきだった」と述べた。 1988年、昭和天皇が病床に就くと多くの人が皇居を訪れ記帳したが、その光景に浅田は北一輝の天皇論に言及するなかで「連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという『土人』の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです」と発言し、保守派を中心に抗議を受けた。平成から令和への改元にさいしては、このときのことを振り返りつつ「政府とマス・メディアの煽り立てる「奉祝ムード」の中で歴史健忘症をますます激化させている」とする小文を発表した。 2000年以降の思潮として、新自由主義の波及によって人文知の成立する余地が失われた結果、文学の世界でも市場論理を優先するライトノベル、ケータイ小説、アニメ、ゲーム主流になり、文学が「ふきさらしの荒野」に出てしまったと述べ、さらに「亡命知識人の体現するヨーロッパとアメリカの臨界に、20世紀の人文知の最大の可能性があった。それを21世紀にどうやって取り戻せるのかというのが、ひとつのモチーフになる」と述べている。 2000年代に起きた情報環境、メディア環境の急激な変化に関しては、「簡単に検索し操作できるというのは、すばらしいことに違いない。けれども、それとは別の次元で、モノとしての知に直接かつ偶然に遭遇できる場が絶対必要。そのような場、そのような遭遇をどうやって可能にしていくかというのが大きな問題だ」と述べている。 ソーカル事件などで示されたフランス現代思想潮流の衒学性の問題に対して、アラン・ソーカルらによる論証は対象となるそれぞれの論者を本質的に批判してはおらず、また批判の根拠たる科学主義も絶対とはいえないと応じながらも、ソーカル事件の教訓を強調し、不必要な衒学は戒めなければならないとしている。 1991年2月12日、同性愛者とHIV感染者の支援団体「動くゲイとレズビアンの会」(現・アカー)は、東京都が府中青年の家の利用を拒否したことをめぐり、都を相手取り損害賠償請求訴訟を起こした(東京都青年の家事件)。同年5月25日、26日に開催された東京大学五月祭で、アカーは裁判報告と講演の集いを行い、浅田や石坂啓らが参加した、300人近い聴衆を前に浅田は「日本は、父権的中心による秩序化より、母性的オブラートの保護下でなれあう疑似同性愛者社会である」「男が男性としてのアイデンティティーを確立していないから、同性愛者への排除は明白には見えないが、より残酷な形をとる」と述べた。また、「性的マイノリティ―とマジョリティーの二項対立の土俵そのものを突き崩すこと」を理想に掲げた。 2019年には国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」内の企画展「表現の不自由展・その後」が抗議を受け展示を中止した問題について、「公権力を持った人が、展覧会をやると言った以上、個々の作品に対していいとか悪いとか口を出すことは検閲に近い」と批判し、また「世界の支配的な潮流は多文化主義だ。多様な文化が混在しているなかで、他者を尊重し、傷つけないようにしようという態度はひとまず正しいと言える」が、「誰も傷つけない表現というものには、ほとんど意味がない。知識人は大衆の逆鱗に触れるために存在している」と述べた。 また、同年8月に政治家の田中康夫と対談した米中首脳会談及びG20大阪サミット等についての記事では「安倍政権は、天皇の代替わりを政治利用した」、「隣国(朝鮮半島)を植民地化なんかしたら100年たっても恨まれて当然なのに」と自身の政治的見解について語った。 2000年代に至って、前景化したように見える、「ディシプリン(規律・訓練)」のシステムが機能不全に陥ったことによって生じているかに見える「こどもの資本主義」カルチャーを「スキゾ・キッズ」というかたちで、先駆的に肯定・評価していたのではないか、という問いかけには、「幼児的退行を売り物にする」のは「最悪」であり、「現在のこの種の議論は、ドゥルーズの警告する『コントロール(監視)』のシステムの補完物にほかならず、何よりモダニズムの核心にもあったこどもというものの可能性の中心を決定的に逸している」と否定的である。 そして、その「こどもの可能性の中心」にカントの可能性の中心を担う「調和し得ない緒力の束」を体現するものとしてのアルチュール・ランボーを挙げ、「ヘテロノミー(他律性)もアウトノミー(自律性)もないばらばらのボディ・パーツの束がバイオポリティカル(生政治)なコントロール・システムの中に浮遊しているという安易なディストピア・イメージが支配的になり、それが部分的にではあれ現実化しつつある現在、一見それと似ているようでまったく違うヴィジョンを、カントに即し、あるいはランボーやセザンヌに即し、ドゥルーズやフーコーの仕事をヒントとしながら探っていくというのは、『現在』がわれわれに突きつけているきわめて重要な課題であると言うべき」「ポストモダンあるいはポストヒストリカルと言われるような状況ですれっからしになってしまったわれわれも、だからこそふたたび「こどもになること」を目指さなければならないと述べている。 「高校のころ演劇と生徒会ってのが大嫌いで、だから今でも平田オリザとか岡田利規とかああいうのは耐えられない」と発言しており、演劇についてパフォーマンスとして面白いものもあるとしながら、大声で泣いたり叫んだりし、情念を爆発させるような、「高校演劇」的な演劇を嫌っている。 1999年に草間彌生の展覧会「草間彌生:ニューヨーク/東京」と荒木経惟の展覧会「センチメンタルな写真、人生」が同時に開催されていた東京都現代美術館を訪れた体験を述べた「草間彌生の勝利」(『波』1999年7月号、岩波書店)という文章の中で、「ひとことで言えば「本もの」と「偽もの」、あるいはニーチェの言葉で言えば「強者」と「弱者」というところだろうか」と、草間を評価し、荒木を酷評している。荒木の写真を「ウェットな感傷にまみれた薄汚い写真」「そこにあるのは、そういうセンチメンタルな物語にすがることでしか生きられないひ弱な「私」、しかも、そのような自分を売り物にして弱者の群れの歓心を買おうと計算するさもしい「私」でしかない」と批判する一方、草間を「センチメントは、それを感じる自己を前提とする。ところが、草間彌生の場合、自己は、そこで病いと死の闘争が展開される非人称的な場と化している。その凄絶にして絢爛たる闘争の記録は、胸を衝く切実さをもちながら、しかも、それをはるかに超えた強度によって、作者の病歴をまったく知らない者をも圧倒するだろう。その作品のひとつひとつは、ウェットな感傷からかぎりなく遠いところで傲然と屹立し、ただ作品それ自体として観る者の感覚を震撼するだろう。だからこそ、それは芸術と呼ばれるにふさわしいのだ」と絶賛し、「満身創痍でしかもひとり歩み続けるその後ろ姿に、私は心からの敬意を捧げる」と文章を結んだ。 ほかに荒木経惟について、講演で「本当に日本人として恥ずかしい」「野垂れ死にすればいい」と罵倒している。 『構造と力――記号論を超えて』(勁草書房, 1983年)
『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房, 1984年) 『ヘルメスの音楽』(筑摩書房, 1985年) 『ダブル・バインドを超えて』(南想社, 1985年) 『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(小学館, 1994年) 『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫, 1999年) 『フォーサイス1999』(NTT出版, 1999年) 『20世紀文化の臨界』(青土社, 2000年) 『映画の世紀末』(新潮社, 2000年) 共編著など 浅田彰・佐和隆光ほか『科学的方法とは何か』(中央公論社[中公新書], 1986年) 浅田彰・島田雅彦『天使が通る』(新潮社, 1988年) 浅田彰・柄谷行人『批評空間』(太田出版, 1990年代~2000年代) 浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫『モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平』(太田出版, 1995年) 浅田彰・松浦寿輝『ゴダールの肖像』(とっても便利出版部, 1997年) 浅田彰・田中康夫『憂国呆談』(幻冬舎, 1999年) 浅田彰・柄谷行人ほか『マルクスの現在』(とっても便利出版部, 1999年) 浅田彰・田中康夫『新・憂国呆談 神戸から長野へ』(小学館, 2000年) 浅田彰・佐和隆光『富める貧者の国 「豊かさ」とは何だろうか』(ダイヤモンド社, 2001年) 浅田彰・四方田犬彦・大野裕之『パゾリーニ・ルネサンス』(とっても便利出版部, 2001年) 浅田彰・田中康夫『憂国呆談リターンズ 長野が動く、日本が動く』(ダイヤモンド社, 2002年) 浅田彰・柄谷行人ほか『必読書150』(太田出版, 2002年) 浅田彰・渡邊守章・渡辺保『表象文化研究 文化と芸術表象』(放送大学教育振興会, 2002年) 浅田彰・田中康夫『「ニッポン解散」 続・憂国呆談』(ダイヤモンド社, 2005年) 訳書 メアリー・ダグラス, バロン・イシャウッド『儀礼としての消費 財と消費の経済人類学』(新曜社, 1984年) 連載 憂国呆談 ソトコト(2008年1月号-) 安藤礼二「浅田彰 ─ 「知」への切断と介入」(『大航海』 (55), 102-105, 2005) 笠井潔「浅田彰という装置 ─ 浅田彰『構造と力』」(『文芸』23(5), p212-222, 1984-05) 能本勲「記号論からの〈逃走〉 ─ 浅田彰(『早稲田文学〔第8次〕』 (102), p28-29, 1984-11) 筑紫哲也「若者たちの神々:1 浅田彰」(『朝日ジャーナル』 26(15), p43-47, 1984-04-13) 津村喬「〈逃走〉する者の〈知〉 ─ 全共闘世代から浅田彰氏へ」(『中央公論』 99(9), p46-61, 1984-09) 三浦雅士「荒々しい「現在」を走り抜く」(『朝日ジャーナル〈特集:浅田彰「現象」を解く〉』 26(15), p14-16, 1984-04-13) ^ あいちトリエンナーレ2019 対談:ホー・ツーニェン×浅田彰《旅館アポリア》をめぐって ^ https://book.asahi.com/article/11612797 ^ “教員紹介|大学案内|京都造形芸術大学”. 京都造形芸術大学. 2019年10月4日閲覧。 ^ [1] ^ 「浅田彰」(『日本大百科全書』小学館、2018) ^ 「浅田彰」(上田正昭ほか監修『日本人名大辞典』講談社、2001) ^ 浅田彰『構造と力―記号論を超えて』勁草書房、1983 ^ 安藤礼二「浅田彰 ─ 「知」への切断と介入」(『大航海』 (55), 102-105, 2005) ^ 浅田彰『逃走論 ─ スキゾ・キッズの冒険』ちくま文庫、1986 ^ 「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン「第1回新語・流行語大賞」 ^ その総目次は浅田彰aabiblio @ ウィキ ^ 森毅『世話噺数理巷談』平凡社、1985 ^ たとえばスラヴォイ・ジジェクは、『批評空間』で日本で初めて特集記事が組まれ、青山真治の映画『EUREKA』も浅田の評価がきっかけとなった。 ^ “DIRECTOR’S MESSAGE|STAFF|ABOUT|ICA京都”. ICA京都. 2022年3月11日閲覧。 ^ 吉本隆明『超「20世紀論」上』アスキー、2000年9月。ISBN 978-4756135698。 199頁 ^ 吉本隆明『私の「戦争論」』ぶんか社、1999年8月。ISBN 978-4821106844。 167頁 ^ 辻元清美『清美するで!! 新人類が船(ピースボート)を出す!』第三書館、1987年、147頁。 ^ 『文学界』1989年2月号 ^ この浅田の発言に対して、保守派の論客・谷沢永一は、言論の自由は存在するから本人がそう信じているのであればどうおっしゃろうと自由と断りを入れた上で、「税金で賄われている京都大学の月給で生きていくことはやめ、即刻京都大学助教授の職を辞して自分の二本の足で立って独り立ちして「土人」の世話にならず生きるべきだ」などと批判した。 ^ “REALKYOTO – CULTURAL SERACH ENGINE » 昭和の終わり、平成の終わり”. 2019年9月2日閲覧。 ^ 松浦寿輝との対談(『表象』no.01, 2007) ^ 浅田彰「『山形道場』の迷妄に渇!」 ^ 中川重徳 (2018年5月12日). “府中青年の家裁判を振り返る――弁護団の立場から”. 中央大学. 2023年6月24日閲覧。 ^ 『朝日新聞』1991年6月5日付夕刊、文化、9面、「大学祭で同性愛差別の論議(取材ファイル)」。 ^ 「週刊文春」編集部. “74%が反対「慰安婦少女像」の芸術祭展示問題アンケート結果発表”. 文春オンライン. 2019年10月1日閲覧。 ^ “昭和天皇の御真影を使った作品 津田大介氏の過去の発言に注目集まる”. ライブドアニュース. 2019年10月1日閲覧。 ^ “「天皇が燃えたりしてるんですか?」という質問に津田大介芸術監督が笑顔で反応する動画が拡散中 和田政宗議員もツイート (2019年8月7日)”. エキサイトニュース. 2019年10月1日閲覧。 ^ “「誰も傷つけない表現に意味ない」 浅田彰氏、複雑化する自主規制に警鐘 「不自由展」問題”. 毎日新聞. 2019年10月1日閲覧。 ^ ソトコト編集部 (2019年8月5日). “憂国呆談 season 2 volume 110 | sotokoto online(ソトコトオンライン)”. ソトコト. 2020年3月25日閲覧。 ^ 浅田彰/岡崎乾二郎 (2006). “「現在」を考える:こどもたちに語るモダン/ポストモダン”. 『InterCommunication』 no.58、2006年秋号. ^ “「ダムタイプ|アクション+リフレクション」関連プログラム 浅田彰×坂本龍一×高谷史郎 スペシャルトーク(記録)”. 2022年6月22日閲覧。 ^ “アーカイブ”. 2022年6月22日閲覧。 ^ (日本語) メイプルソープ再考 Reconsider Mapplethorpe, https://www.youtube.com/watch?v=CW3YzXpNroI 2022年6月21日閲覧。 ニューアカデミズム 記号論 ポストモダン 構造主義 ポスト構造主義 フランス現代思想 蓮實重彦 東浩紀 毛利嘉孝 福原伸治 市田良彦 坂本龍一 ダムタイプ 大野裕之 浅田彰書誌 REALKYOTO連載(不定期) 『批評空間』寄稿【連載終了分】 京都造形芸術大学教員紹介「浅田彰」 そのほか ICC HIVE NTT InterCommunication Centerでのシンポジウム記録(2006.6.10) 浅田彰の言説を追う Following the discourses of Mr.ASADA Akira(〜2009年) FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 韓国 CiNii Books CiNii Research
SNAC IdRef 日本の経済学者 20世紀日本の学者 21世紀日本の学者 文化批評家 社会批評家 ポストモダニスト 京都大学の教員 京都芸術大学の教員 近畿大学の教員 放送大学の教員 京都大学経済研究所の人物 京都大学人文科学研究所の人物 経済学修士取得者 経済学士取得者 京都大学出身の人物 洛星中学校・高等学校出身の人物 神戸市出身の人物 1957年生 存命人物 2024/11/21 02:57更新
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asada akira
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