阿修羅・原の情報(あしゅらはら) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


阿修羅・原さんについて調べます
■名前・氏名 |
阿修羅・原と関係のある人
平田淳嗣: その後マシーンは阿修羅・原と合体、10月30日青森県営体育館にて原とのコンビでアジアタッグ王座を獲得している。 剛竜馬: 1980年3月31日には古巣である国際プロレスの後楽園ホール大会に逆上陸して阿修羅・原が保持するWWU世界ジュニアヘビー級王座に挑戦。 スコット=ビガロー: 決勝で阿修羅・原、新崎人生、ジョン・テンタ組を破り優勝を果たした。 野坂昭如: のち、プロレスラーとして国際プロレスに入団・デビューするにあたり、「阿修羅・原」のリングネームを命名したこともあった。 平田淳嗣: また、仲間割れにより後藤が反選手会同盟に鞍替えした後、平田はWARのリングに参戦し、阿修羅・原と共闘して反WAR軍の一員となる。 天龍源一郎: 世界タッグ王座(第4代、第8代、第10代、第11代、第44代)(w / 阿修羅・原→スタン・ハンセン×3→安生洋二) 藤波辰爾: 同年4月には国際プロレスの阿修羅・原、1981年7月には当時のNWA世界ジュニアヘビー級王者レス・ソントンを相手にWWF王座の防衛に成功するなど、名実ともにジュニアヘビー級の第一人者となった。 輪島大士: 阿修羅・原のバックドロップを受けた際に、体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷した事もあった。 大仁田厚: 長崎県出身のレスラーとも関係が深く、大村市出身の長与千種は、前述の電流爆破デスマッチ後に大仁田絡み限定で現役復帰を表明した他、森山町(現諫早市)出身の阿修羅・原からも2009年に激励の電話を受けたことを自身のFacebookで明かしている。 ターザン後藤: 1994年3月、WAR両国国技館大会にて大仁田と組み天龍源一郎・阿修羅・原組と対戦。 ブルーザー=ブロディ: 同年4月19日の宮城県スポーツセンターで行われたリターンマッチにおいて、鶴田にピンフォール負けを喫し王座転落、3日後の4月22日の川崎市体育館におけるトミー・リッチ(当初のパートナーはスヌーカが予定されていたが、前日の後楽園ホール大会でスヌーカが負傷したため、急遽リッチを指名した)と組んでの天龍&阿修羅・原(龍原砲)とのPWF世界タッグ王座戦が日本での最後の試合となった。 ポール=エラリング: その後、5月13日に岩手県一関市にて井上&阿修羅・原を相手にタイトルを防衛、5月16日の後楽園ホールでの金網デスマッチで最終的には井上&原に王座を奪われるも、期待に違わぬ活躍を見せた。 天龍源一郎: 年間最高試合賞(大仁田厚、ターザン後藤 vs 天龍源一郎、阿修羅・原、3月2日・東京・両国国技館)(1994年) 矢口壹琅: 阿修羅・原引退興行ではウルティモ・ドラゴンとも闘っている。 石川孝志: 勢いのあるファイトが持ち味の中堅選手として活躍し、佐藤昭雄、阿修羅・原、マイティ井上をパートナーにアジアタッグ王座を再三獲得。 剛竜馬: 阿修羅・原は後に一匹狼的な立場に置かれた際に「国際血盟軍」との共闘を頻繁に行っている。 ラッシャー木村: ヒットマンのキャラクターで一匹狼となった同じく国際の残党である阿修羅・原とも一時的に共闘した。 大木金太郎: これを機会に三たび、全日本プロレスに参戦するようになったが、1982年の阿修羅・原戦を最後に首の持病が悪化し、レスラーとしては事実上のリタイア状態となった。 ジェイク=ロバーツ: シリーズ最終戦となる29日には勝田市総合体育館において、前年6月にデビューした阿修羅・原との新鋭対決も行われた。 寺西勇: 1979年7月に初来日したダイナマイト・キッドの来日第一戦の相手を務めたほか、阿修羅・原のデビュー戦の相手も務めた。 天龍源一郎: 1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。 天龍源一郎: 最優秀タッグチーム賞(w / 阿修羅・原)(1987年) スタン=ハンセン: 初戦で阿修羅・原と対戦し、ウエスタン・ラリアットで原をKOして病院送りに追い込んだ。 倉持隆夫: 1988年3月5日に秋田市立体育館で行われた天龍源一郎&阿修羅・原組(龍原砲)VSハンセン&テリー・ゴディの実況も担当し、ハンセンが失神後に大暴れした一部始終も実況した。 天龍源一郎: PWF世界タッグ王座(第6代)(w / 阿修羅・原) 武藤敬司: ちなみにこの1度目のWAR参戦の際には阿修羅・原とも対戦し、勝利している。 谷津嘉章: 1992年2月14日には天龍&阿修羅・原の龍原砲を破り、初代SWSタッグ王座に君臨した。 鶴見五郎: 当初は外国人サイドにつき、タイガー・ジェット・シンや上田馬之助との共闘や全日本に入団したマイティ井上や阿修羅・原との抗争を行う。 小笠原博: 坂田好弘、石塚広治、今里良三、原進(後の阿修羅・原)らとともに、近鉄の黄金時代の一翼を担い、全国社会人大会で4回、日本選手権で3回優勝を経験した。 |
阿修羅・原の情報まとめ

阿修羅・原(あしゅら はら)さんの誕生日は1947年1月8日です。長崎出身の格闘家
プロレスのようです。

卒業、引退、退社、解散、テレビ、家族、現在、事件に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2015年に亡くなられているようです。
阿修羅・原のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)阿修羅・原(あしゅら・はら、本名:原 進 / はら すすむ、1947年1月8日 - 2015年4月28日)は、日本のプロレスラー。長崎県北高来郡森山町出身。ラグビーの日本代表を経てプロレスに転向し、国際プロレスや全日本プロレスで活躍していた。 中学時代は柔道、諫早農業高校では当初は相撲に打ち込んでいたが、高校2年にラグビーに転向。この時からラグビー選手として頭角を現した。高校卒業後に上京し東洋大学を経て、拠点を東京から一旦大阪に移して1969年に近畿日本鉄道(近鉄)に入社。近鉄では入社数年後に駅係員として勤務していた実績がある。また、入社と同時に近鉄ラグビー部に所属した。 近鉄時代の1970年に日本代表に選出され、同年3月22日の秩父宮ラグビー場におけるブリティッシュ・コロンビア州代表戦でNO8として初キャップを獲得した。 ところが1971年、イングランド代表の来日テストマッチが9月24日に近鉄花園ラグビー場および同月28日、秩父宮ラグビー場においてそれぞれ組まれるにあたり、当時の日本代表監督だった大西鐡之祐が、スクラムの第一列の大型化を図らなければ勝負にならないと考え、182センチ、87キロ(当時)の体格を誇った原に対し、テストマッチが行われる2か月前となる7月、日本代表の菅平合宿において、プロップへのコンバートを命じた。当時、プロップの経験がなかった原は大西から特にしぼられ、菅平合宿では肩は上がらず、腰は立たずという、肉体的に極限のところまで追い詰められる羽目になった。そして迎えた同年9月の対イングランド戦。日本は二試合ともイングランドに敗戦したが、ともに接戦という好勝負を展開していた。その理由として、戦前は歯が立たないと見られていたスクラムで日本が予想以上に健闘したことが一因として挙げられ、これを契機に、上記のイングランド戦において2試合とも左プロップとして出場した原は、日本代表の不動のプロップ選手として確立していくことになった。 一方、原の所属した近鉄は1974年度、リコーの3連覇を阻み、5年ぶりに全国社会人ラグビーフットボール大会を制覇。続く日本選手権でも、早稲田大学を破り、こちらは7年ぶりとなる日本一を果たしたが、いずれの大会も、原が右プロップとして優勝に貢献した。 当時、近鉄と日本代表で原とともにプレーした坂田好弘も、原をこう評している。 上記のイングランド戦以後、主として左プロップとしての他、右プロップ・NO8としてのものも合わせて1976年までに日本代表キャップ17を獲得。当時としては世界規格と言われた恵まれた体格や強いスクラムとコンタクトを武器に日本を代表するラガーマンとして活躍した。1976年には日本人として史上初めて世界選抜メンバーに選出されている。 しかし、近鉄は上記の坂田や小笠原博、さらには今里良三といった日本代表でも共にプレーした選手たちが相次いで引退したこともあり、チームの弱体化が急速に進んだ。また近鉄は当時、ラグビー選手だからといって待遇が優遇されているわけでもなかった上に、原自身も人事異動で駅係員から列車の乗務員となり、その教習も受けることとなり、先輩の指導車掌や指導運転士から数々の教習を受け、実際に列車の車掌や運転士として乗務したりするようになったため、それに反比例してラグビーの練習を行う時間も少なくなった。こうしたことが契機となり、原はラグビー選手として引退し、翌1977年に近鉄を退社。退社後は野坂昭如が率いる草ラグビーチームでコーチを務めた。 近鉄退社直後の1977年11月29日、原は国際プロレス入団を表明し、再度拠点を東京に移した上でプロレスラーに転向。新日本プロレスも原の獲得を狙っていたが、同じくラグビー出身者であるグレート草津のスカウトで国際プロレスに参加した。覆面レスラーとして試験的に試合を行った後、1978年6月29日の「'78ビッグ・サマー・シリーズ」大阪府立体育館大会にて、寺西勇を相手に素顔で正式にデビュー。同年7月3日に海外武者修行に出発、修行先でのカナダ・カルガリー(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)ではファイティング・ハラ(Fighting Hara)を名乗り、2戦目にノーマン・フレデリック・チャールズ3世から英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得(スケジュールの関係で即返上)。ビッグ・ダディ・リッターやブレット・ハートとも対戦した。同年9月に西ドイツへ移動し、トミー・ビリントン、ワイルド・サモアンズ、ミスター・ヒト、ミスター・サクラダ、ムース・モロウスキー、マイケル・セイズなどと対戦。12月8日に帰国後、12月27日にラグビーファンである作家の野坂昭如に阿修羅・原と命名される。 1979年の「'79新春パイオニア・シリーズ」より本格参戦し、5月6日にミレ・ツルノからWWU世界ジュニアヘビー級王座を奪取。その後はダイナマイト・キッド、ローラーボール・マーク・ロコ、ジプシー・ジョー、剛竜馬らを挑戦者に防衛を重ねた。国際プロレス次代のエースとして期待され、アレックス・スミルノフ、オックス・ベーカー、ジョー・ルダック、モンゴリアン・ストンパーなどエース格のヘビー級外国人とも対戦し、金網デスマッチやチェーン・デスマッチも行った。また、AWAのバーン・ガニアやニック・ボックウィンクル、WWAのディック・ザ・ブルーザーなど、特別参加の大物選手とのシングルマッチも行われた。 1980年4月3日には新日本プロレスのリングに登場し、藤波辰巳のWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するも敗れ、原もスランプに陥る。 以後、WWUジュニア王座を返上して1981年1月からアメリカのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)で再修行を行い(当初は「'80ダイナマイト・シリーズ」直後に出発する予定であったが、就労ビザの取得に約2か月を要した)、ヘビー級に転向した。この遠征中に雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)の開発者とされるスーパー・デストロイヤーと対戦、帰国第1戦となる4月18日、スティーブ・オルソノスキーを相手にこの技を初披露して勝利、以降も雪崩式ブレーンバスターをフィニッシュ技とするようになる。5月16日にはマイティ井上とのコンビでポール・エラリング&テリー・ラザンを破りIWA世界タッグ王座を獲得した。6月にはジョー&カール・ファジーなどのチームを相手に防衛戦を行うが、同年9月に国際プロレスは解散。8月8日に根室で行われたジェリー・オーツ&テリー・ギッブスとの金網タッグ・デスマッチでの3回目の防衛戦が、国際プロレスにおける同王座の最後のタイトルマッチとなった。 国際プロレス解散後は、当初は引退して郷里・長崎県の森山町に帰郷し実家の農業を継ごうとした。この話を聞いたジャイアント馬場が、東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』の解説を務めていた門馬忠雄から「田舎に帰るのなら引き留めてくれ」と電話を入れ、門馬は原に現役続行を要請した上で、原と馬場との面談をセッティングし三者による面談が行われた。この席で馬場は全日本プロレスとのいきなりの直接契約はまずいと判断し、当初はフリーとしての全日本参戦となり、馬場と門馬との会談で練られたプランは原が天龍源一郎に喧嘩状を叩き付けるプランだった。1981年10月2日に行われた天龍との初のシングル戦は好試合となり、最終的にこのプランは当たり、後に全日本と所属契約を結ぶこととなった。1981年と1982年には天龍とのコンビで世界最強タッグ決定リーグ戦に出場している(当時は、まだ龍原砲とは呼ばれていなかった)。 1982年1月15日には、前年に新日本プロレスから引き抜かれたスタン・ハンセンの全日本プロレス移籍第1戦の対戦相手に抜擢された。短時間で敗退したが、渕正信は、ハンセンが全日本マットにおいても持ち味を最大限に発揮できたのは、この移籍第1戦である原戦のインパクト(原のウエスタン・ラリアットの受けっぷり)が凄かったことが大きいとコメントしている。 1983年2月23日には、IWA世界タッグ王座のパートナーだった井上との国際プロレス・コンビで、グレート小鹿&大熊元司の極道コンビを破り、アジアタッグ王座を獲得。以降も井上や石川隆士と組んでアジアタッグ戦線で活躍し、井上とのコンビでは越中詩郎&三沢光晴やジョー&ジェリー・モロー、石川とのコンビではスーパー・デストロイヤー1号&2号や鶴見五郎&バズ・タイラーなどのチームを相手に防衛戦を行った。 1984年4月11日には、大分県立荷揚町体育館にて天龍のUNヘビー級王座に挑戦、ダブル・カウントアウトの名勝負を展開した。この試合について原は「ゴングが鳴ると同時に頭が真っ白になり、試合が終わったときはラグビーイングランド代表戦終了後と同じ感覚だった」と述懐している。天龍のUN王座には、同月16日にも後楽園ホールで再挑戦している。 しかし、1984年10月20日の「'84ジャイアント・シリーズ」下関大会を欠場して失踪(自らが手掛けた興行上のトラブルも欠場の原因とされる)。2日後の10月22日に長崎国際体育館で行われる予定であったアジアタッグ王座戦は、原の右ヒジ負傷という理由で中止となった。 1985年のある日、馬場はキャピトル東急ホテルにて東京スポーツの記者に対して「原と連絡は取れるのか」と問い正した。後日原は東京スポーツの記者同伴のもと、馬場とキャピトル東急ホテルにて面談。馬場は原に対して「カムバックする気はあるのか?」と質問し、原は「はい、あります」と返答した。その後1985年4月3日の「'85鮮烈!スーパー・パワー・ウォーズ」山形県体育館大会に突如現れて長州力を襲撃。その後は地元の長崎に戻り、長崎市の稲佐山で特訓を行った(このシリーズでは4月15日に長崎国際体育館大会が行われ、翌16日に東京スポーツが稲佐山での特訓をスクープしている)。原は稲佐山で取材を行っていた東京スポーツに対して「レスリングをやる気力がなくなっていた。長州たちが全日マットで暴れているのをテレビ、新聞で見て、体中の血が頭にのぼった。今は一日でも早くリングに上がりたい」とコメントしていた。4月19日の神戸ワールド記念ホール大会で再度長州を襲撃。4月24日の横浜文化体育館大会では天龍とのコンビを再結成して長州&アニマル浜口と対戦するも、天龍に椅子攻撃を加え「俺は一人でやっていく!」と宣戦布告してそのまま試合放棄。次期シリーズでも、5月17日の旭川市常盤体育館にて天龍を挑発。これを受けた馬場は、北海道サーキット中に原の試合を組むことを決定し、5月19日の網走大会にて大熊元司と対戦し、大熊をその後「ヒットマン・ラリアット」と呼ばれることになるラリアット一発で秒殺した。網走大会当日は、日本テレビの中継車を控室に使用していた。その後も、5月26日の熊谷大会にて永源遙を、翌5月27日の川崎大会にて栗栖正伸をそれぞれラリアットで秒殺した。5月29日に天龍とともに『11PM』に出演し(原はマイスタジオから、天龍は倉持隆夫とともにKスタジオから出演)、天龍に対してメッセージを送った。同年7月にフリー選手として全日本に正式に復帰。この時期はラッシャー木村の率いる国際血盟軍(木村、鶴見、剛、アポロ菅原、高杉正彦による旧国際プロレス選手のユニット)とも共闘したが正式なメンバーにはならず、一匹狼的な存在となって活動した。デビュー時からのニックネームは “野生のダンプガイ” であったが、1985年の復帰後は長州や天龍の試合に乱入して襲撃を繰り返し、かつ一部始終が『全日本プロレス中継』で放送されたことから、“ヒットマン”と呼ばれるようになった。 1987年、天龍がジャンボ鶴田との鶴龍コンビの解消を宣言し、新タッグパートナーに原を指名。原も「源ちゃん(天龍)とはシングルで戦いたいと思っていたがそう機会は多くない。それだったら組みながら競い合う方法もあると思うんだ」と応え、タッグを再結成。天龍とのタッグ「龍原砲」は全日本で一時代を築き、長州力らジャパンプロレス勢が離脱した後の全日本を支えた。1987年9月にはPWF世界タッグ王座を龍原砲で獲得している。龍原砲の戦いは川田利明やサムソン冬木といった当時若手の選手たちの共感者を生み、「天龍同盟」は全日本内の一大グループとなった。 一方でこの頃から派手好きで見栄っ張りな性格が災いし、バブル景気の上に後輩などに大盤振る舞いをしたために金銭面でルーズとなっていき、それが故に控室や事務所、さらには当時「世界最強タッグ決定リーグ戦」の記者会見場であったホテルパシフィック東京まで借金取りが来るほどであった。 これらの理由で、1988年11月に栃木県足利市で行われた「'88世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕当日に「私生活の乱れ」を理由に全日本を解雇となり(天龍の代役パートナーは川田)、札幌で隠遁生活を余儀なくされた。馬場は原を解雇した理由として「金銭面でのルーズさ」をあげており、それまで借金を肩代わりするなど、原をかばっていたが「生活態度の悪さが、会社(全日本プロレス)にまで迷惑をかけかねない」としている。 約2年の隠遁生活を経て、原は盟友・天龍の願いを受け1991年に天龍が所属していたSWSにて復帰を果たす。天龍の復帰要請を受けた際、原は「本当に必要としてくれるなら、この命を源ちゃんに預ける」と告げたという。龍原砲の再結成後は、当時SWSと提携していたWWFからブッキングされたロード・ウォリアーズやデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)とも対戦した。 SWS崩壊後は、天龍らとWARへ移籍。対抗戦の相手である新日本プロレスのリングでは、長州や藤波とも対戦した。さらに自分のレスラー生命が少ないことを自覚し、「俺の体と気持ちの中に源ちゃんを刻み込んでおきたい!」として、全日本でアジアタッグ王座を共に獲得したスーパー・ストロング・マシーンや、若手の邪道・外道らと反WAR軍を結成し、再び天龍と戦う道を選んだ。 1994年に現役を引退し、10月3日に故郷・長崎で行われた天龍との最後の一騎打ちでは天龍のチョップ29発、ラリアット11発、パワーボム3発を浴びた。試合後、天龍からマイクを渡された原は会場内に自分の両親がいる事を明かした上で、「俺は親父とお袋に支えられて、長崎の皆に支えられて、そして天龍源一郎に支えられて…。で、皆に支えられてここまできた。ありがとう」と叫び、場内から拍手が送られた。 10月29日に後楽園ホールで行われた原の引退試合では、龍原砲を再結成して冬木弘道・邪道組と対戦、その後行われたバトルロイヤルでは最後に龍原砲が残り、再び天龍のラリアットを17発、パワーボム3発を食らい、最後まで天龍の厳しい攻撃を真正面から受け続けた。試合後、天龍は会場にいた原の家族へ向けてマイクを握り、「長らくお借りいたしました。今日、原をお返しします」と語りかけ、花向けとした。 引退後は郷里・長崎県の森山町に帰り、町の教育委員会に依頼されて森山町立スポーツ交流館で町民の健康づくりのスポーツコーチを務めた。その後、原は母校の長崎県立諫早農業高校でラグビー部コーチとなり長崎北高校や長崎北陽台高校の壁に阻まれて凋落傾向にあったラグビー部の建て直しに当たったほか、その他の学校でも筋トレの方法などを教えた。諫早農高は2002年度の全国大会に出場した。しかし大会期間中に風邪が蔓延してしまい、ベストメンバーが組めずに初戦で敗退している。 ところが、間もなくして長崎県立諫早農業高校でのラグビー部コーチの職からも離れ、講演活動を行ったり知人の生花店で働いていた。2010年に天龍プロジェクトの旗揚げと同時にプロレスラー復帰へトレーニングを開始したが断念した。しかし2004年に母が亡くなり、原も脳梗塞で体が不自由となった父の介護をしながら暮らしていたが、その父も他界し自分の体のリハビリをしながら暮らしていた。 2011年10月28日に自宅で『週刊プロレス』のインタビューを受けた後、原は肺炎を起こして入院し、退院後に心筋梗塞で再入院した。その後、物忘れが激しくなるなど精神状態が不安定となり、精神科のある病院に転院し一般病棟と往復する療養生活が続くも肺炎を再び患って2015年4月14日、一般病棟に戻り面会謝絶となった。 4月28日午前5時15分、原は雲仙市内の病院で肺炎のため68歳で死去した。原の関係者によると、入院中は食事も食べられず排尿もままならなかったという。 天龍は、原の死去に際して無言を貫いた他(後に「もっといい人生を送れたんじゃないかという思いがある」、「でも腹いっぱいの付き合いをしたという自負があるから、後悔の念はない」、「亡くなった時にノーコメントを貫いたのは、どんなに言葉を尽くしても、俺の阿修羅に対する気持ちは伝わらないと思ったから」と後に語っている)、大日本プロレスでは、原の死去当日に行われた後楽園ホール大会で1分間の黙祷を捧げた。また原と同じ長崎県出身の大仁田厚も自身のfacebookで、2009年に原から激励の電話を受けたことを明かしたほか、「同じ長崎県人として一生懸命生きて行く! 先輩の生きざまを忘れない!」と追悼コメントを寄せた他、武藤敬司やスタン・ハンセンも原への追悼コメントを寄せ、邪道も自身のtwitterで、「平成のプロレスファンは阿修羅原さんという偉大なプロレスラーを知ってほしい。昭和のプロレスファンは阿修羅原さんという偉大なプロレスラーを忘れないでほしい」と追悼コメントを寄せ、永田裕志も自身のtwitterで原に対する追悼コメントを寄せている。 ラグビーで培った原のタフガイさを、多くのレスラーが認めていた。原自身もラグビー時代を振り返り「親からもらった、このからだのおかげ。俺には、それしかないよ。」「技術なんて何もわからなかったけど、俺には耐える体力があった。すべてはそこから始まったんだ。」と語っており、自分の最大のセールスポイントは頑丈な身体であったことを自覚していた。トレーナーを務めていたアニマル浜口の証言によれば、遠征先のホテルで冷房を最大にし、パンツ一丁で寝ていたこともあった他、浜口の夫人が経営していた小料理店を訪れた際も、出された焼き魚を頭から食べていたという。 ハンセンは、全日本プロレス復帰初戦で原と対戦した際に「殴っても蹴っても立ち向かってきた。原を倒すにはラリアットしかなかった」と語っている。ハンセンはまた、原の下半身の安定感、誤って35針を縫う怪我をさせた事を謝った際には「いや、良かったんだよ、ハンセン」と平然と言い放ったレスラーとしての姿勢を讃えている。なお、原はこの怪我からわずか4日後に復帰を果たしている。 頑丈だったとはいえダメージが無かったわけではなく、全日本所属末期は膝と腰の状態の悪化により、歩行もままならない状態になった。リング上では決してそれを見せなかったが、1988年になると天龍に「来年の春あたりが限界かな...」ともらすようになったという。結局は前述の不祥事により、同年末でリングを離れることとなった。 プロレス転向直後かつ国際プロレス時代は、東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』において海外遠征特集が組まれた他、TVマッチにも出場していたが藤波とのWWFジュニアヘビー級王座戦直後からTVマッチにはほとんど出場しなくなった。『国際プロレスアワー』は、原の2度目の海外遠征から帰国する直前の1981年3月にレギュラー放送が打ち切られたが、特番枠再移行後に放送された3試合にはテレビに登場している。原の地元のテレビ局であったテレビ長崎(『国際プロレスアワー』放送当時はフジテレビ系列・日本テレビ系列、現在はフジテレビ系列)における『国際プロレスアワー』の放送開始に関しては、地元後援会が尽力したという。なお『国際プロレスアワー』では、長崎県で行われた試合の中継は一回もなかった。なお、長崎県における原の試合中継は、テレビ長崎で放送されていた『国際プロレスアワー』以外にも、『全日本プロレス中継』(長崎放送(TBS系列、1984年3月まで)→テレビ長崎(1984年4月から))でも放送されたが、現在の日本テレビ系列局である長崎国際テレビは原の全日本解雇後に開局したため、原の試合は放送していない。 原の入場テーマ曲でもある「阿修羅」は、ディスコナンバーやロックナンバーのアルバム収録曲を多く採用していた国際プロレスの入場テーマ曲の中で唯一、一から作曲されたテーマ曲であった。 全日本時代は、1985年の一時失踪からの復帰以降は、全日本本体や外国人選手・国際血盟軍のバスには乗車せず、一人で列車による移動を行っていた。 グレート小鹿は、全日本プロレス時代の原の印象について「国際プロレスから移籍した当初は孤独な印象があり目立たない男だったが、天龍同盟を結成してからグッとよくなった」と語った他、2015年11月の天龍引退興行に於いて龍原砲復活計画があったことを明かしている。 天龍同盟結成後は優しくて人好きな性格に変わり、反WAR軍で原と同僚となった邪道・外道の二人は「レスラーとして酒の飲み方を教えてもらった」、「引退試合で一番最後の対戦相手になれたのは俺の誇り。あの人こそ本当のプロレスラーだ」(邪道)、「毎日のように食事へ連れて行ってもらった」、「物への執着心がない人だった」(外道)と語っている。 先述にもあるように、原は派手で見栄っ張りなところがあり、後輩に対して遠慮なく奢るだけでなく帰りのタクシー代を含めて気前よく小遣いを渡すことで有名なレスラーであった。それ故に慕われたが、同時に全日本を解雇されてしまった原因にもなっている。その性格のため、財産と呼べるものはほとんど残せなかったという。 原の引退セレモニー時の記念品に、事前に週刊プロレスには原のラグビー時代のパネルをリクエストし、同じベースボール・マガジン社のラグビーマガジンに提供された選手時代のパネルを貰って非常に喜んでいた。 死去から半年後である2015年9月19日に行われたラグビーワールドカップ2015の日本VS南アフリカにおいて、日本代表は南アフリカ共和国代表に勝利した。その際天龍は、「原が生きていたら誰よりも喜んであちこちからインタビューされていただろうな…」と述べている。 ラグビー出身の体格を生かしたパワーファイトが魅力。大一番になるとラリアットや延髄斬りなどを見せるときもあった。 英連邦ジュニアヘビー級王座:1回 WWU世界ジュニアヘビー級王座:1回 IWA世界タッグ王座(w / マイティ井上):1回 アジアタッグ王座(w / マイティ井上、石川隆士、スーパー・ストロング・マシーン):3回 PWF世界タッグ王座(w / 天龍源一郎):1回 世界タッグ王座(w / 天龍源一郎):1回 ミノタウロス「阿修羅」 - 国際プロレス、全日本プロレスの時代に使用 ヴァン・ヘイレン「DREAMS」 - 全日本プロレス末期、SWS、WARの時代に使用 忘れじの国際プロレス. ベースボール・マガジン社. (2014). ISBN 9784583620800 事件史Vol.3"> 週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史 Vol.3. ベースボール・マガジン社. (2014). ISBN 9784583622026 天龍源一郎 (2016). LIVE FOR TODAY-いまを生きる-. 竹書房. ISBN 9784801908444 スタン・ハンセン (2015). 日は、また昇る. 徳間書店. ISBN 9784198640460 事件史_Vol.29"> 週刊プロレスSPECIAL 日本プロレス事件史Vol.29. ベースボール・マガジン社. (2017). ISBN 9784583624976 流智美 (2019). 東京12チャンネル時代の国際プロレス. 辰巳出版. p. 237. ISBN 978-4777822898 ^ “The Stampede matches fought by Ashura Hara in 1978”. Wrestlingdata.com. 2014年9月11日閲覧。 ^ “さらば、阿修羅 追悼のヒットマン 阿修羅・原 追悼特集”. 週刊プロレス (ベースボール・マガジン社) (1791): 87-91. (2015-5). ^ “元プロレスラーの阿修羅原さん死去 ラグビー元日本代表”. 朝日新聞デジタル. (2015年4月28日). https://www.asahi.com/articles/ASH4X739BH4XTOLB01D.html 2020年2月28日閲覧。 ^ 田村一博. “ラグビーマン、原進。”. ラグビー共和国. 2018年1月10日閲覧。 ^ 「栄光のトライ」(馬場信浩・光文社)の231ページ ^ “ラグビー時代も“阿修羅”だった?原さん”. 東京スポーツ. 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Wrestling-Titles.com. 2025年1月25日閲覧。 龍原砲 天龍同盟 表 話 編 歴 1 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 2 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ 3 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 4 天龍源一郎&阿修羅・原 5 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 6 スタン・ハンセン&テリー・ゴディ 7 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 8 天龍源一郎&スタン・ハンセン 9 ジャンボ鶴田&谷津嘉章 10 天龍源一郎&スタン・ハンセン 11 天龍源一郎&スタン・ハンセン 12 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 13 ジャンボ鶴田&ザ・グレート・カブキ 14 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 15 スタン・ハンセン&ダニー・スパイビー 16 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 17 三沢光晴&川田利明 18 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 19 ジャンボ鶴田&田上明 20 三沢光晴&川田利明 21 テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス 22 川田利明&田上明 23 スタン・ハンセン&テッド・デビアス 24 三沢光晴&小橋健太 25 三沢光晴&小橋健太 26 川田利明&田上明 27 スタン・ハンセン&ゲーリー・オブライト 28 川田利明&田上明 29 三沢光晴&秋山準 30 スティーブ・ウィリアムス&ジョニー・エース 31 川田利明&田上明 32 小橋健太&ジョニー・エース 33 スティーブ・ウィリアムス&ゲーリー・オブライト 34 小橋健太&ジョニー・エース 35 川田利明&田上明 36 小橋健太&秋山準 37 ジョニー・エース&バート・ガン 38 大森隆男&高山善廣 39 三沢光晴&小川良成 40 小橋健太&秋山準 41 ベイダー&スティーブ・ウィリアムス 42 川田利明&田上明 43 太陽ケア&ジョニー・スミス 44 天龍源一郎&安生洋二 45 武藤敬司&太陽ケア 46 ブライアン・アダムス&ブライアン・クラーク 47 小島聡&太陽ケア 48 武藤敬司&嵐 49 小島聡&カズ・ハヤシ 50 永田裕志&ケンドー・カシン 51 太陽ケア&ジャマール 52 川田利明&太陽ケア 53 小島聡&TARU 54 武藤敬司&ジョー・ドーリング 55 太陽ケア&鈴木みのる 56 武藤敬司&船木誠勝 57 太陽ケア&曙 58 KONO&ジョー・ドーリング 59 グレート・ムタ&KENSO 60 ダーク・オズ&ダーク・クエルボ 61 大森隆男&征矢学 62 真田聖也&ジョー・ドーリング 63 大森隆男&征矢学 64 大森隆男&征矢学 65 秋山準&潮﨑豪 66 諏訪魔&ジョー・ドーリング 67 秋山準&大森隆男 68 秋山準&大森隆男 69 曙&吉江豊 70 潮﨑豪&宮原健斗 71 ゼウス&ボディガー 72 関本大介&岡林裕二 73 ゼウス&ボディガー 74 真霜拳號&KAI 75 ゼウス&ボディガー 76 ジェイク・リー&野村直矢 77 関本大介&岡林裕二 78 秋山準&大森隆男 79 諏訪魔&石川修司 80 宮原健斗&ヨシタツ 81 ゼウス&ボディガー 82 崔領二&ディラン・ジェイムス 83 諏訪魔&石川修司 84 関本大介&岡林裕二 85 諏訪魔&石川修司 86 ゼウス&崔領二 87 諏訪魔&石川修司 88 宮原健斗&青柳優馬 89 諏訪魔&芦野祥太郎 90 石川修司&佐藤耕平 91 芦野祥太郎&本田竜輝 92 諏訪魔&KONO 93 宮原健斗&野村卓矢 94 青柳優馬&野村直矢 95 拳王&征矢学 96 宮原健斗&青柳優馬 97 斉藤ジュン&斉藤レイ 98 諏訪魔&鈴木秀樹 99 斉藤ジュン&斉藤レイ 100 宮原健斗&青柳優馬 表 話 編 歴 1 キング・コング&タイガー・ジョキンダー 2 フランク・バロア&ダン・ミラー 3 力道山&豊登 4 ルター・レンジ&リッキー・ワルドー 5 力道山&豊登 6 バディ・オースチン&マイク・シャープ 7 力道山&豊登 8 力道山&豊登 9 豊登&吉村道明 10 ジン・キニスキー&カリプス・ハリケーン 11 豊登&ジャイアント馬場 12 ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン 13 豊登&ジャイアント馬場 14 キラー・カール・コックス&ジョー・カロロ 15 吉村道明&ヒロ・マツダ 16 キラー・カール・コックス&エディ・グラハム 17 吉村道明&ジャイアント馬場 18 吉村道明&大木金太郎 19 吉村道明&アントニオ猪木 20 吉村道明&大木金太郎 21 スカル・マーフィー&クロンダイク・ビル 22 吉村道明&大木金太郎 23 大木金太郎&アントニオ猪木 24 吉村道明&アントニオ猪木 25 吉村道明&アントニオ猪木 26 吉村道明&坂口征二 27 グレート小鹿&松岡巌鉄 28 グレート小鹿&大熊元司 29 ジェリー・オーツ&テッド・オーツ 30 高千穂明久&サムソン・クツワダ 31 グレート小鹿&大熊元司 32 マイティ井上&アニマル浜口 33 グレート小鹿&大熊元司 34 グレート小鹿&大熊元司 35 ケビン・フォン・エリック&デビッド・フォン・エリック 36 佐藤昭雄&石川隆士 37 マイティ井上&阿修羅・原 38 阿修羅・原&石川隆士 39 佐藤昭雄&石川隆士 40 アニマル浜口&寺西勇 41 寺西勇&保永昇男 42 マイティ井上&石川隆士 43 阿修羅・原&スーパー・ストロング・マシーン 44 マイティ井上&石川隆士 45 サムソン冬木&川田利明 46 仲野信市&高野俊二 47 サムソン冬木&川田利明 48 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 49 サムソン冬木&川田利明 50 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 51 タイガーマスク(三沢光晴)&小橋健太 52 仲野信市&田上明 53 小橋健太&ジョニー・エース 54 ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス 55 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 56 小橋健太&ジョニー・エース 57 ジョー・ディートン&ビリー・ブラック 58 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 59 小橋健太&菊地毅 60 パトリオット&ジ・イーグル 61 ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット 62 秋山準&大森隆男 63 ウルフ・ホークフィールド&ジョニー・スミス 64 本田多聞&泉田純 65 ハヤブサ&新崎人生 66 大森隆男&高山善廣 67 三沢光晴&小川良成 68 本田多聞&井上雅央 69 垣原賢人&長井満也 70 嵐&北原光騎 71 嵐&荒谷信孝 72 佐藤耕平&横井宏考 73 金村キンタロー&黒田哲広 74 ミスター雁之助&黒田哲広 75 グレート・コスケ&獅龍 76 天龍源一郎&渕正信 77 長井満也&成瀬昌由 78 ブキャナン&リコ 79 近藤修司&"brother"YASSHI 80 佐々木健介&中嶋勝彦 81 鈴木みのる&NOSAWA論外 82 曙&浜亮太 83 TARU&ビッグ・ダディ・ブードゥー 84 真田聖也&征矢学 85 関本大介&岡林裕二 86 真田聖也&征矢学 87 関本大介&岡林裕二 88 曙&浜亮太 89 金本浩二&田中稔 90 大和ヒロシ&佐藤光留 91 金本浩二&田中稔 92 鈴木鼓太郎&青木篤志 93 秋山準&金丸義信 94 入江茂弘&石井慧介 95 宮原健斗&鈴木鼓太郎 96 長井満也&南野タケシ 97 金丸義信&ウルティモ・ドラゴン 98 木髙イサミ&宮本裕向 99 青木篤志&佐藤光留 100 渕正信&大仁田厚 101 青木篤志&佐藤光留 102 ブラック・タイガーⅦ&TAKAみちのく 103 野村直矢&青柳優馬 104 秋山準&永田裕志 105 野村直矢&青柳優馬 106 ジェイク・リー&岩本煌史 107 河上隆一&菊田一美 108 ジェイク・リー&岩本煌史 109 木髙イサミ&宮本裕向 110 ゼウス&イザナギ 111 T-Hawk&エル・リンダマン 112 大森北斗&児玉裕輔 113 稔&歳三 114 佐藤光留&田村男児 115 ヨシタツ&TAJIRI 116 児玉裕輔&花畑正男 117 大森隆男&井上雅央 118 NOSAWA論外&ケンドー・カシン 119 大仁田厚&ヨシタツ 120 秋山準&鈴木鼓太郎 121 坂口征夫&岡谷英樹 122 大仁田厚&To-y 123 佐藤光留&田村男児 124 吉岡世起&MUSASHI 125 安齊勇馬&ライジングHAYATO 1 坂口征二&ストロング小林 2 タイガー・ジェット・シン&上田馬之助 表 話 編 歴 岩下秀三郎 太田義一 伊集院浩 西垣三郎 佐々倉太郎 西海一嗣 太田巌 関川哲男 夏井末春 簔口一光 南義明 藤晃和 小林清 結城昭康 川崎和夫 山田耕二 神野崇 堀越慈 鎌田勝美 山口良治 石田元成 小宮東彦 川崎守央 猿田武夫 宮地克実 下薗征昭 黒坂敏夫 原進 飯降幸雄 吉野一仁 高田司 宮内正幸 仲山健 安井敏明 豊田偉明 洞口孝治 石山次郎 池田洋七郎 夏井和夫 木村敏隆 相沢雅晴 太田治 八角浩司 永田隆憲 永井雅之 田倉政憲 佐藤康信 中道紀和 木村賢一 浜辺和 清水秀司 溝辺圭司 小口耕平 長谷川慎 中村直人 笠井建志 豊山昌彦 文原俊和 高柳健一 元吉和中 久富雄一 山本正人 木下剛 山村亮 塚越賢 西浦達吉 高橋寛 高木重保 相馬朋和 杉浦敬宏 尾﨑章 池谷陽輔 猪瀬佑太 平島久照 畠山健介 川俣直樹 山下裕史 仲村慎祐 藤田望 長江有祐 有田隆平 坪井秀龍 三上正貴 浅原拓真 稲垣啓太 垣永真之介 渡邉隆之 北川賢吾 知念雄 東恩納寛太 三浦昌悟 橋本大吾 仲谷聖史 伊藤平一郎 山本幸輝 山路泰生 石原慎太郎 須藤元樹 浅堀航平 堀越康介 ヴァルアサエリ愛 具智元 中島イシレリ 木津悠輔 クレイグ・ミラー 淺岡俊亮 海士広大 竹内柊平 森川由起乙 茂原隆由 為房慶次朗 岡部崇人 オペティ・ヘル プロップ フッカー FWフロントロー以外 スクラムハーフ BK9番以外 日本のラグビーユニオン選手 ラグビー日本代表選手 花園近鉄ライナーズ及びその前身チームの選手 本名のリダイレクト この項目は、格闘技およびその選手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ総合格闘技/PJプロレスラー)。 日本のプロレスラー 国際プロレスに所属したプロレスラー 全日本プロレスに所属したプロレスラー SWSに所属したプロレスラー WARに所属したプロレスラー NWAに参戦したプロレスラー 複数のスポーツで活躍したプロレスラー 日本の教育者 日本のラグビーユニオン選手 東洋大学出身の人物 学士号取得者 長崎県出身のスポーツ選手 1947年生 2015年没 すべてのスタブ記事 格闘技関連のスタブ項目 日本のラグビーユニオン関連人物のスタブ項目
2025/04/02 01:22更新
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