吉沢俊幸: 初盗塁:同上、8回裏に三盗(投手:水谷則博、捕手:高橋博士)
五十嵐章人: 全ポジションでの出場:同上 ※高橋博士以来、史上2人目
西村省一郎: その後の3年は登板機会がなかったが、1964年にアメリカ合衆国のメジャーリーグ・サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下1Aフレズノの教育リーグに村上雅則、高橋博士らと野球留学。
長松純明: 強肩強打の捕手として期待されるが、村上公康、高橋博士らの控えに甘んじる。
高柳秀樹: 初盗塁:1979年5月29日、対ロッテオリオンズ前期8回戦(川崎球場)、5回表に二盗(投手:村田兆治、捕手:高橋博士)
村井英司: 2年目の1975年は加藤や高橋博士の控え捕手に回るが、3年目の1976年からは外野手・指名打者も兼ね、長く活躍した。
村上雅則: 2年目の1964年のキャンプ後半、いきなり球団フロントからパスポートを取る準備をするよう言われ、新人の高橋博士・田中達彦と共に3月10日に渡米。
柴田猛: 当時は野村克也が全盛期であり、柴田は高橋博士・元田昌義と共に野村の控え捕手であったが、野村からの信頼が厚かった。
田中達彦: 大型内野手と期待され、同年には村上雅則、高橋博士と共にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学する。
加藤俊夫: 1973年、1977年、1978年、1980年とオールスターゲームに4度出場し、一時は高橋博士に定位置を譲ることがあったが、1976年には奪還。
高橋一三: 巨人入団から1970年までは高橋明、1973年から1975年までは高橋善正、日本ハム移籍後の1976年から1980年までは高橋直樹、1981年から引退する1983年までは高橋里志と、近い世代の高橋姓の好投手がチームメートにいたことが多く、1971年から1975年までは外野手で高橋英二も巨人に在籍していたため(このほか1976年には高橋博士、1980年~1983年には高橋正巳も)スコアボード表記が姓だけの「高橋」になったことが19年間で一度もない。
野村克也: トレードで東映から江本孟紀、佐野嘉幸を獲得し、高橋博士を放出した。
野崎恒男: その9回表、日本ハムは内野手の高橋博士を投手として登板させ、日本プロ野球史上初の「1試合で全守備位置を守る」記録を作ったが、同回の先頭打者として野崎が対戦し、センターフライに倒れた。
五十嵐章人: 全ポジションでの出場(高橋博士以来、日本プロ野球史上2人目)、全打順本塁打(同6人目)の記録を達成した選手として知られる。
袴田英利: 同年は12試合に先発するが、高橋博士、土肥健二両捕手の壁をなかなか破れず、二軍暮らしが長かった。
金田正一: 1977年は白仁天・高橋博士・安木祥二が加入。
土肥健二: 1977年には高橋博士、1978年には野村克也の加入で出場機会が減少した。
池辺巌: これは全ポジション(指名打者含む)出場がある五十嵐章人(ロッテ、オリックス、近鉄)、高橋博士(南海、日本ハム、ロッテ)に次いで多い。
倉本信護: 翌1937年春には同一シーズンに投手以外の全ポジションを守った(これを達成した選手には他に高橋博士がいるが、高橋は記録を狙ってのもの)とされるが、こちらも詳細は不明のままである。
小川亨: 高校同期に高橋博士捕手、1年下に山本真一三塁手、2年下には控え投手の水谷実雄がいた。
中原全敏: 3年目の1971年には岩下光一に代り三塁手に定着、78試合に先発出場するが、翌1972年は移籍入団の高橋博士にポジションを譲る。
愛甲猛: 入団後は高橋博士のものだった背番号1を与えられた(高橋は背番号を15に変更)。
江本孟紀: この年は26試合で未勝利(4敗)に終わると、同年オフに高橋博士との交換トレードで、佐野嘉幸と共に南海ホークスへの移籍が決まり、入団後僅か一年で所属チームが変わることとなった。
鵜飼克雄: また、9回表に9番手で登板した高橋博士が1試合で全ポジションを守るという史上初の珍記録を達成した試合でもあった。
佐々木信行: 弘田澄男・成重春生・倉持明と同期で、1979年にはシーズン序盤の6試合に先発マスクを被るが、当時の主力捕手である高橋博士・土肥健二の壁は破れなかった。