西崎義展の情報(にしざきよしのぶ) アニメ プロデューサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
西崎 義展さんについて調べます
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西崎義展と関係のある人
藤川桂介: 『ウルトラマン』の際にはデザイナーである成田亨の知遇を得、成田デザインの番組企画を通じてプロデューサーの西崎義展と知り合うことになる。 羽田健太郎: 『交響曲宇宙戦艦ヤマト』は、1984年にNHK交響楽団によって五反田簡易保険ホールにて初演されているが、当時のインタビューで羽田は、プロデューサーである西崎義展から打診があり、「35歳の今日までのあらゆる作品の中で最高の物、つまり私の人生の半分におけるうちで最高作品に成り得た」と自ら語っている程この作品に懸ける羽田の強い思いがうかがえる。 今川泰宏: 1980年代後半には西崎義展のウエストケープコーポレーションで『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』の新作準備に携わる。 芦田豊雄: 虫プロダクションは『ムーミン』『ワンサくん』といった作品を終えると間もなく、1973年11月に倒産し、芦田はプロデューサーの西崎義展ら虫プロダクションのメンバーを中心で制作したテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)に作画監督として参加する。 青野武: その時に『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーの西崎義展が「ちょっと君、こっちの役も演ってみなさい」と言われたのが、真田役であり、オーディションを受けた役は落選し、真田役が決まったという。 笹川ひろし: 古くからの同郷の友人で絵本作家の平田昭吾の誘いで、1979年9月にタツノコプロを退社し、西崎義展の東京動画へと移籍。1983年に東京動画が解散し、西崎義展との契約が終了した以降も、シンエイ動画での作品が仕事の中心となった。 ささきいさお: なお、『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー・西崎義展、SF設定等を担当した豊田有恒とささきの3人は武蔵高等学校の同窓であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと。 富野由悠季: 1974年、『宇宙戦艦ヤマト』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテを西崎義展プロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている。 松本零士: 1999年に『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎義展を提訴したが、2003年に著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解し西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定した。 高垣眸: 1978年『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサー・西崎義展から同作を「瞬間的な映像のままでなく、文学作品として永く残したいから、小説にして欲しい」と直接依頼を受け、熱血小説『宇宙戦艦ヤマト』が1979年7月に、西崎義展案、高垣眸著としてオフィス・アカデミーから出版された。 野田昌宏: 1980年から1982年にかけて、西崎義展とともに「戦艦大和探索プロジェクト」をサポートする。 宮川彬良: 長めのものを1曲と短めのものを2、3曲作ったが、長めの曲はプロデューサーの西崎義展に「ヤマトの曲じゃない」と評されて未採用となり、短めの曲が採用された。 今川泰宏: プロデューサーの山木泰人は西崎義展の元アシスタント。 豊田有恒: 西崎義展と松本零士の著作者人格権をめぐる争いでは、松本を支持し、2000年には産経新聞のコラムで、『ヤマト』は多くの人の共同作業だが大半は松本に帰するのであり、西崎が著作権を主張するなら自分にも主張する権利があると述べた。 エルヴィン=ロンメル: 『宇宙戦艦ヤマト』およびリメイク『宇宙戦艦ヤマト2199』、日本のアニメ、西崎義展原作。 舛田利雄: 本作の企画段階当時、企画・原案・プロデューサーを務めていた西崎義展が従来のアニメーション作品とは一線を画す高年齢層の鑑賞にも耐えうる劇場映画並のリアリティある作品作りを目指し、そういった製作体制の影響と当時の業界においては、アニメーション作品が格下と見られる時代であったため、市場への売り込みを考慮したセールスアップという双方の目的から劇場映画監督である舛田を制作に誘ったことがきっかけである。 高橋信也: 劇場映画『さらば宇宙戦艦ヤマト』参加時に下着姿の森雪を担当したところ、西崎義展プロデューサーに「やけに色っぽい雪を描くアニメーターがいるな」と目に留まり、以後『ヤマトよ永遠に』のサーシャ、『宇宙戦艦ヤマトIII』のルダ、『宇宙戦艦ヤマト完結編』のクイーン・オブ・アクエリアス、ディンギル少年、『オーディーン 光子帆船スターライト』のサラ・シアンベインカーと西崎作品の重要な女性キャラクターのデザイン、原画、作画監督を担当した。 石黒昇: 虫プロ制作のテレビアニメ『ワンサくん』で譜面に合わせて絵コンテを描いたミュージカルシーンが音楽経験を持つプロデューサーの西崎義展に気に入られ、ミュージカルシーン専属の演出になった。 羽根章悦: 1970年代の『海のトリトン』『宇宙空母ブルーノア』と言った西崎義展プロデューサー坦当作品や東映動画作品である『マジンガーZ』を担当。 安彦良和: だが1974年に『ヤマト』の仕事を手掛けるようになってからは西崎義展プロデューサーの影響もあり「いい大人が本気でやってもよい仕事なんだ」と感じるようになったという。 シド=ミード: ヤマトではプロデューサーの西崎義展の指名により、6年もの時間を費やし、『YAMATO2520』の第18代ヤマトを中心にハードウェアデザインを担当。 のなかみのる: 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち(原作:西崎義展・松本零士、小学三年生1979年12月・80年1月号掲載) 大塚康生: また、西崎義展からSFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』に誘われた時も、即座に断っている。 実相寺昭雄: 1985年(昭和60年)、西崎義展の依頼で『交響曲宇宙戦艦ヤマト』を演出。 庵野秀明: 観る側でもアニメや特撮物のマニアであり、特に、中学生ごろに出会った『宇宙戦艦ヤマト』や幼少時代に出会った『ウルトラマン』には非常に影響を受け、特に宇宙戦艦ヤマトは原作者の西崎義展との対談でも自身の人生を変えた作品であることを語っている。 |
西崎義展の情報まとめ
西崎 義展(にしざき よしのぶ)さんの誕生日は1934年12月18日です。東京出身のアニメ プロデューサーのようです。
父親、卒業、事故、テレビ、映画、ドラマ、事件に関する情報もありますね。2010年に亡くなられているようです。
西崎義展のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)西崎 義展(にしざき よしのぶ、正式には「西﨑義展」、1934年〈昭和9年〉12月18日 - 2010年〈平成22年〉11月7日)は、日本のプロデューサー、アニメーション監督。本名:西崎 弘文(にしざき ひろふみ)。 アニメ作品『宇宙戦艦ヤマト』のプロデューサーであり『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙空母ブルーノア』『オーディーン 光子帆船スターライト』『超神伝説うろつき童子シリーズ』などを企画製作した。 東京府東京市小石川区原町(現・東京都文京区白山)に西崎正・秋子のもと、姉と弟がいる3人きょうだいの長男として生まれる。 父親は東京大学法学部卒で、企画院、日本興業銀行勤務ののち、日本曹達などの重役を務め、不振企業の"再建屋"として知られた実業家・西崎正。妹、西崎緑の没後は4派に分裂した日本舞踊西崎流の一派に幹部として運営に加わり、創作舞踊の作者として自費出版も含めて3冊の舞踊台本を発表した。 父方の祖父は薬学者で東京女子薬専(現・明治薬科大学)校長を務めた西崎弘太郎、母方の祖父は予備海軍少将ののち日本製鋼所の役員となった水谷叔彦、父の妹は日舞の西崎流家元の初代西崎緑。大叔父(祖母の弟)は病理学者の木村哲二。 豊島師範付属小学校から、1947年、父の命令で開成中学校を受験したが失敗し、家出して4日後に帰宅。私立武蔵高等学校に入学し、1953年卒業。 文学座の舞台『欲望という名の電車』の杉村春子の演技に震えるほど感動し、1955年に文学座の研究生となり、端役で舞台を踏んだものの、2年後に自動車事故で怪我をして俳優は断念した。また2度の東京大学受験に失敗して父親から一度は勘当される。 4年間の浪人生活を経て、1957年、日本大学芸術学部演劇学科に入学。1959年8月に大学を中退したとする資料もあれば、1957年に日本大学を卒業したと伝える資料もある。 1958年頃より食べることに困って、六本木のジャズ喫茶の司会をやり、ジャズ解説などで生計を立てるようになる。当時の愛称はザーキ。その後は、マネージャーとして、ダン池田とアフロキューバン、東京マンボ、ミュージカル・アカデミーの全国巡業に帯同した。 1962年、音楽制作プロデューサーとして企画制作の道に入る。 1963年10月、オフィス・アカデミーを設立。しかし金銭的には厳しく、創価学会系の民主音楽協会(民音)のイベントを中心に糊口を凌いだ。ショー製作の本数は約200本。民音事務局長で後に公明党の国会議員となる大久保直彦に重用されていたが、後に嫌われて遠ざけられたという。 1968年に西ヨーロッパへ渡航し、フランス人プロモーターの進行助手となる。共産圏の舞踊団やバレエ団を招いて舞台制作をして、約1年半ヨーロッパ全土を巡業してまわり、最終的にはロードマネージャー兼マネージャーを務めた。3年間のヨーロッパ生活で受けた人種差別に反発し、このことは後に製作した『宇宙戦艦ヤマト』に思いが込められているという。 帰国後の1970年、広告代理店の東洋広報(現・東弘)の紹介を得て虫プロ商事に入社した。同じ年に手塚の知人を介して個人契約をして手塚のマネージャーを務めるようになった 。西崎の説明によれば、手塚のゼネラルマネージメントプロデューサーであり、具体的には虫プロの組織や手塚個人の作家活動に関するマネージメントとプロデューサーを行ったという。手塚作品のテレビへのプロモートを行い、虫プロではなく手塚プロダクションで制作され、1971年から朝日放送で放送された『ふしぎなメルモ』で西崎は初めてアニメの世界に関わることとなる。 虫プロ商事は出版業の失敗に伴う希望退職の募集が原因で激しい労働紛争が起こり、これが原因となって社長が手塚治虫に交代しており、1971年2月頃よりに企画制作部長として就任していた西崎が多忙な手塚に代わり事実上の社長代理として経営改革を図った。しかし急進的な改革は専横状態となったこと、手塚との個人契約で西崎が個人的収入を得ていたことから、人心を掌握できず、虫プロ商事は混乱状態に陥る。西崎の虫プロ商事経営は失敗に終わり、1972年4月に社長の手塚は債権者との話し合いで経営を債権者委員会に委ねることとした。 1972年4月、手塚治虫原作のテレビアニメ『海のトリトン』でアニメを初プロデュース。同作は1971年10月に虫プロ商事でパイロット版が制作されていたが、虫プロ商事にいたメンバーを中心に新たに設立されたアニメーションスタッフルームが現場となり、手塚の手を離れたところで西崎が製作を行った。西崎はテレビ局への『海のトリトン』売り込みのために1000万円の工作費を個人で捻出していた。当初はテレビ放映の決定に喜んで西崎に感謝していた手塚だったが、その後は西崎に激怒して没交渉となった。同作監督の富野由悠季によれば、『海のトリトン』の企画を引き受けていた虫プロ商事が潰れたために(実際の倒産は1973年)、最終的に西崎が著作権を購入して「手塚先生から『トリトン』をひっぺがした」のだという。 同年にかつてと同名の新会社オフィス・アカデミーを改めて設立して社長に就任し、同社を商標及びその二次使用会社とする。同じ年に瑞鷹エンタープライズにも個人プロデューサー兼製作部長として所属。1973年1月より『山ねずみロッキーチャック』を製作。西崎は手塚原作の『ワンサくん』のアニメ化権も取得しており、仕事のない虫プロダクションは『ワンサくん』のアニメ版制作を希望し、西崎は虫プロの役員に招聘される。同年4月より『ワンサくん』を放送するも、放送終了後の11月に虫プロが倒産。 1974年6月に虫プロの再建運動を進めていた労働組合と和解。第2スタジオの建材と西崎の虫プロへの債権を組合に譲渡するとともに200万円を組合へカンパするというのがその内容。倒産前の虫プロは西崎に300万円の借金をしていた。一方、この虫プロ倒産時に、退職金代わりとして何本かのアニメの権利を得たという山崎正友の証言がある。 1974年10月、前年より企画を進めていたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』をオフィス・アカデミーで製作し放送開始。なお、西崎とSF設定等を担当した豊田有恒、主題歌を歌唱したささきいさおの三名は武蔵高等学校の同窓であり、「宇宙戦艦ムサシ」にしておけばよかったのでは、とのジョークすら生まれたとのこと(年次は西崎、豊田、ささきの順)。 1977年に『宇宙戦艦ヤマト』を再編集した劇場版アニメ映画がヒット。翌1978年には新作映画『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は配給収入21億円の大ヒットとなりブームを巻き起こし、『宇宙戦艦ヤマト』をシリーズとして展開。財産を築いて、銀座で毎晩飲み歩き、ハーレーダビッドソンのオートバイは25台を所有。高級マンションや大型クルーザーを購入して豪遊した。 劇場版『宇宙戦艦ヤマト』一作目が版権、劇場販売物などを加え、手取りで17億円が転がり込み、二作目の『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』は20億円が懐に入ったといわれる。1978年の「映画の日」に映団連から特別功労章の贈呈が決まり、同年11月15日に帝国ホテルで西崎の謝恩パーティが開かれ、西崎は「二十五年間の夢が叶って...」と大感激であったが、会場の話題はメインテーブルに西崎自らが釣ったカジキや鯛が並び、銀座の美女たちがズラリと顔を揃えた派手さと豪華さで、スピーチに立った岡田茂東映社長は、自身も銀座5丁目のカリオカビルにクラブを出していたが、「近来まれな豪華なパーティで驚いております。私なんかが足を踏み入れたことのないような高級クラブの美女ばかりお見えです...」などと祝辞を述べた。 1979年、徳間康快と角川春樹と組んで「大藪春彦スーパー・ジョイント」と称し、大藪春彦の『汚れた英雄』を徳間書店と共同製作してプロデュース。同じく大藪春彦の『傭兵たちの挽歌』は角川春樹事務所製作で西崎義展がプロデューサーを務めると発表され、実写劇映画の初プロデュースとなるはずだったがいずれも頓挫。 『宇宙戦艦ヤマト』の製作により、本物の戦艦大和の最期に関心を抱くようになり、西崎は『宇宙戦艦ヤマト』のヒットで得た利益から3千万円を捻出して探索計画に乗り出した。この計画には野田昌宏の番組制作会社日本テレワークも参加し、計28人の探索チームを結成。1979年4月14日から27日かけて探索船をチャーターして鹿児島県屋久島沖をソナーで捜索を実施し、深海カメラを4度降ろして撮影も行われた。ソナーには2つの影が映ったものの深海カメラでは艦影は映らず、戦艦大和と断定できないまま捜索は打ち切られた。 同時期には吉田喜重監督によるメキシコとの合作の実写映画『望郷の時』(『侍イン・メキシコ』)のプロデューサーに就任した。出演は原田芳雄と本田博太郎、音楽は宮川泰が予定され、1980年秋公開のスケジュールでメキシコへのロケハンまで実施されたが、これも流れている。 1979年に公開された実写劇映画『わが青春のイレブン』、実写ドキュメンタリーの『北壁に舞う』では音楽プロデューサーを担当してその活躍はアニメのみにとどまらず、1970年代末から1980年代前半にかけて、角川春樹や山本又一朗などとともに従来の映画会社に属さない新時代の独立プロデューサーとしてもてはやされた。角川とともに「日本映画界の革命児」とも言われて脚光を浴びた。ラジオ番組オールナイトニッポンのパーソナリティを務めたり、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズが放映される際にはテレビ出演したり、レコード『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち ドラマ編』では「ヤマトより愛をこめて」の歌詞を朗読するなど、プロデューサーとして裏方を務めるだけでなく表舞台への露出も多かった。 しかし1980年になって冷凍食品を扱うシーホース社が経営危機に陥る。この会社は創価学会の顧問弁護士だった山崎正友が1976年に設立したもので、山崎は聖教新聞のカレンダーの仕事を仲介してくれたり、アニメ映画『宇宙戦艦ヤマト』の前売券を民音に販売委託するにあたって口利きをしてくれるなど関係が深かったことから西崎も出資して共同経営していた会社である。シーホース社が破産の危機を迎えたことから、オフィス・アカデミーから約20億円が注ぎ込まれて振り出した手形の回収など、巨額の資金繰りに追われるようになる。その結果、1982年夏、オフィス・アカデミーと関連会社を整理し、手形の処理も行った。 前述の『汚れた英雄』の映画化では、20台のオートバイと10時間以上撮影したヨーロッパロケフィルムで既に3億円を投じていたが、この影響で断念して、映画化権を角川春樹に返上した。 活動の拠点もオフィス・アカデミーから、1977年12月に設立していた赤坂のウエスト・ケープ・コーポレーションへと変更として1982年に再出発した。同年10月には岡田茂を世話人にホテルオークラで「宇宙戦艦ヤマト10周年 西崎義展君をはげます会」が開かれ、石原慎太郎、徳間康快、阿久悠、宮川泰、美輪明宏、松方弘樹など芸能人やアニメ界、マスコミ関係者なども含めて600人が参加して、再起に賭ける西崎を激励した。 『宇宙戦艦ヤマト』シリーズも1983年公開の『宇宙戦艦ヤマト 完結編』でいったん終焉した。その後、『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』へ続く「ヤマト復活3ヵ年計画」の第一弾『オーディーン 光子帆船スターライト』が1985年に劇場公開されるが、 配給収入の推定は2億円と大失敗となり、借金を抱える結果に終わった。ウエスト・ケープ社は6億円の損害を被り、これまで『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの配給を担当して来た東映との蜜月関係がこの作品で終わることとなる。 初の実写映画プロデュースとなる本田美奈子主演のバイク映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』が1987年に公開。製作総指揮を務め、劇中にはヤマト号というクルーザーが登場した。予算が8千万円オーバーした上に2週間で上映打ち切りの失敗に終わり、関係が悪化した東映に代わって配給を引き受けた松竹との関係も崩れる。 経営破綻したレンタルビデオ店童夢の事業を1987年から引き継いだが不振によって1990年には資金難に陥る。1991年にジャパン・オーディオビジュアルネットワークが倒産。1996年に資金調達のため『宇宙戦艦ヤマト』シリーズを含む西崎が有する著作権を担保にバンダイビジュアル(現:バンダイナムコアーツ)と3億円の金銭貸借契約を結び、東北新社へ著作権を譲渡する契約を結んだ。 1997年2月には大口債権者の三井ファイナンスサービス(現:三井住友ファイナンス&リース)が東京地裁に対してウエスト・ケープ・コーポレーションと西崎個人に破産を申立て、破産した。 1997年末と1999年にはそれぞれ覚醒剤取締法違反と銃刀法違反で逮捕された。 保釈中の1999年に下肢麻痺となり、車椅子を使うようになる。 服役中、自身が『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの原作者と主張する漫画家の松本零士と『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者は誰かをめぐって裁判となり、2002年3月に勝訴。翌年7月に控訴審で裁判外の和解が成立。 一連の事件では、2003年2月に懲役5年6か月の判決が確定。2003年7月から八王子医療刑務所で1年3ヶ月服役した後、2004年10月に黒羽刑務所へ移送され、2006年12月に黒羽刑務所を出所した。 2009年公開のアニメ映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を製作・監督。この作品の製作指揮のため、刑務所で面会できるように2002年頃に平野彰司と養子縁組を結んだ。 2010年11月7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村父島の海で、遊泳目的で停泊中のウエスト・ケープ・コーポレーション所有の船『YAMATO』から転落、午後2時58分に医師により死亡が確認された。75歳没。 2010年12月10日午後2時より、東京青山斎場にて「お別れ会」が開催され、歌手のささきいさおら約400人が参列した。 没後に公開された『SPACE BATTLESHIP ヤマト』『宇宙戦艦ヤマト2199』では、両作の原作である『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの著作者である西崎が「原作者」としてクレジットされている。今後の新作も原作者とされている。
1974年(昭和49年) - オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』を製作。 1977年(昭和52年) - オフィス・アカデミーで『宇宙戦艦ヤマト』(劇場版)を製作。 1978年(昭和53年) - オフィス・アカデミーで『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』、アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト2』を製作。 1979年(昭和54年) - アカデミー製作で『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』、『宇宙戦艦ヤマトII総集編 ヤマトよ永遠なれ!』、『宇宙空母ブルーノア』を製作。 1980年(昭和55年) - アカデミー製作で『メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行』、オフィス・アカデミーで『ヤマトよ永遠に』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトⅢ』を製作。 1983年(昭和58年) - ウエスト・ケープ・コーポレーションで『宇宙戦艦ヤマト完結編』、東京動画で『宇宙戦艦ヤマトIII総集編 太陽系の破滅』を製作。 1984年(昭和59年) - 10月12日付『報知新聞』で「ヤマト復活3ヵ年計画」を発表。その内容は、1985年『宇宙帆船スターシップ』(後の『オーディーン 光子帆船スターライト』)、1986年『DESLAR'S WAR I 戦艦スターシャ』、1987年『宇宙戦艦ヤマト誕生篇』を公開するというもの。 1994年(平成6年) - 2月、バンダイビジュアルよりビデオ『宇宙戦艦ヤマト胎動篇 -ヤマト!!わが心の不滅の艦』発売。映画『宇宙戦艦ヤマト 復活編』とOVA『YAMATO2520』のメイキングプロモーション。 1995年(平成7年) - 2月『YAMATO2520』のVol.1を発売開始。1996年8月発売のVol.3を最後に未完に終わる。 1996年(平成8年) - 『海のトリトン』『ワンサくん』『宇宙戦艦ヤマト』『宇宙空母ブルーノア』『オーディーン 光子帆船スターライト』などの映像の著作権などを対象とする譲渡契約を東北新社と締結。 1997年(平成9年) - 『宇宙戦艦ヤマト』などの商標権を長男に移転登録。 1998年(平成10年) - 『宇宙戦艦ヤマト』などの著作権などにつき東北新社と西崎・ウエスト・ケープ・コーポレーションの破産管財人が譲渡契約の履行を選択する。 1999年(平成11年) 2000年(平成12年) 2001年(平成13年) 2002年(平成14年) 2003年(平成15年) 2004年(平成16年) 2007年(平成19年)12月20日、総監修した「宇宙戦艦ヤマト デスラー総統ワインセット」と「宇宙戦艦ヤマト バイクヘルメット」の販売を発表して活動を再開する。 2008年(平成20年) 2009年(平成21年)12月12日、劇場用アニメーション映画『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』を公開。 2010年(平成22年)11月7日、会社所有の船から転落死。 海のトリトン(1972年、プロデューサー) ワンサくん(1973年、プロデューサー) 山ねずみロッキーチャック(1973年) 宇宙戦艦ヤマトシリーズ(1974年〜) わが青春のイレブン(1979年、音楽プロデューサー) 北壁に舞う(1979年、音楽プロデューサー) 宇宙空母ブルーノア(1979年、企画・原案・製作) メーテルリンクの青い鳥 チルチルミチルの冒険旅行(1980年、企画製作) 宇宙戦艦ヤマト 完結編(1983年、企画・原作・製作・総指揮・監督・脚本) オーディーン 光子帆船スターライト(1985年、企画、原案、製作総指揮) 超神伝説うろつき童子(1987年、企画) パッセンジャー 過ぎ去りし日々(1987年、製作総指揮) YAMATO2520(1995年、企画・原作・製作総指揮・監督・脚本) 宇宙戦艦ヤマト 復活篇(2009年、企画・原作・製作総指揮・監督・脚本・エグゼクティブプロデューサー・編集) 1997年12月2日、東京都渋谷区の宮下公園前の路上で運転していた乗用車から、覚醒剤50グラム、ヘロイン6グラム、大麻8グラムが発見され、覚醒剤取締法などの違反容疑で警視庁渋谷署に逮捕された。 覚せい剤取締法等違反で起訴されて、1998年6月に一審で懲役2年8月の実刑判決を受ける。西崎側は判決を不服として控訴。 1999年2月1日、警視庁銃器対策課と静岡県警により、銃砲刀剣類所持等取締法、火薬類取締法、覚せい剤取締法違反で現行犯逮捕される。容疑は、自宅のワゴン車に擲弾発射器付き自動小銃、小銃用実弾を約1800発、擲弾を約30発、覚せい剤20グラムを所持していたというもの。続けて5月12日には自動小銃の密輸容疑で再逮捕。 西崎が所有するイギリス船籍の外洋クルーザーオーシャンナイン号へこれらを隠していたが、清水港のドックに入れる際に隠すため、自宅に移し替えていたとみられる。健康上の理由での保釈中の犯行だった。取り調べに対して、海賊対策のために10年前に香港で購入したと供述したが、警察は武器の密輸と転売で利益を得ようとしたのではないかとみていた。この事件の公判でフィリピン海域に出没する海賊対策のためと、同船で尖閣諸島へ上陸した石原慎太郎を警護する必要から、フィリピン沿岸警備隊の司令官から購入したと主張する。 1999年6月9日、覚せい剤取締法等違反事件は最高裁で上告棄却、懲役2年8月が確定。 2000年10月25日、銃砲刀剣類所持等取締法・覚せい剤取締法・火薬類取締法・関税法違反事件の一審で懲役5年6月の実刑判決を受ける。西崎は不服として控訴。西崎は不服として上告。2003年2月20日、上告棄却。懲役5年6月が確定し、収監。 2007年12月19日、刑期を終えて出所。 ^ 波乱万丈、覚醒剤逮捕も…宇宙戦艦ヤマトプロデューサー転落死の謎 - ZAKZAK、2010年11月8日。 ^ 牧村・山田(2015)、p.64 ^ 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第26版 東日本編』帝国秘密探偵社、1968年、p.805 NDLJP:3013517/405 ^ 『人事興信録』第2巻、人事興信所, 1973、「西崎正」の項 ^ 水谷叔彦『人事興信録 第13版下』1941 ^ 週刊新潮(2010) ^ 西沢正史「宇宙戦艦ヤマト 完結編 特集1 『天国と地獄をみた男・西崎義展」『キネマ旬報』1983年3月下旬号、キネマ旬報社、96–98頁。 ^ 尾島平太「女の王国 舞踊 舞扇に隠された色と欲」『新評』1966年11月号、新評社、pp.61-62 NDLJP:1808049/32 ^ 西崎正『舞踊台本集』西崎正、1967年 NDLJP:1362981 ^ 西崎正『舞踊台本集 第2』新陽印刷、1971年 NDLJP:1363515 ^ 西崎正『舞踊劇台本集』順風社、1979年 NDLJP:12545062 ^ 西崎弘太郎 コトバンク(講談社『日本人名大辞典』) ^ 牧村・山田(2015)、p.151によれば、母方の祖父が海軍大将だったという記述は『キネマ旬報』の記事内にのみ登場し、母の旧姓と同じ苗字の海軍大将も実在せず、事実か否か断定できないとのこと。 ^ 水谷叔彦 『人事興信録. 第12版下』 (人事興信所, 1940) ^ 役員 (株)日本製鋼所『日本製鋼所社史資料. 上巻』(1968.07) ^ 西崎緑(初代) コトバンク(講談社『日本人名大辞典』) ^ 西沢(1983) ^ 屋島二郎「西崎録さんを偲ぶ」『緑の舞扇』北辰堂、1958年、p.8 ^ 木村哲二 コトバンク デジタル版日本人名大辞典+Plus ^ 牧村・山田(2015)、pp.67-68 ^ 牧村・山田(2015)、pp.73-74 ^ 「宇宙戦艦ヤマト」とともに生きた 西崎義展さんの波乱万丈人生 スポーツニッポン 2010年11月8日 ^ 牧村・山田(2015)、p.75 ^ オフィス・アカデミー(1980) ^ 『第二十五版産経人物年鑑』サンケイ新聞データシステム、1994年、pp.188-189 ^ 徳間書店(1983) ^ オフィス・アカデミー(1978) ^ 小池(2002) ^ 山崎正友「宇宙戦艦『ヤマト』と民音」『池田大作 日本経済乗っ取りの野望 (四)』信教の自由を考える集い編、「自由の砦」編集局、1989年 ^ 「あの人は 映画プロデューサー 西崎義展さん」『読売新聞』1994年9月9日付夕刊 ^ 牧村・山田(2015)、pp.18-19 ^ 「[17]損害賠償請求事件 東京地裁昭49(ワ)3093号」『下級裁判所民事判例集』第32巻5-8号、最高裁判所事務総局編集、財団法人法曹界、1984年、pp.729(319)-733(323) ^ 「マンガ界の神話は不滅か」『朝日新聞』1980年3月11日号 ^ 手塚治虫「あとがき」『手塚治虫漫画全集192 海のトリトン4』講談社、1980年、p.231 ^ 「僕は『ヤマト』に命を取られても本望ですよ インタビュー 西崎義展」 『キネマ旬報』1994年8月下旬号、pp.241-243 ^ 『手塚治虫劇場 手塚アニメーションフィルモグラフィー』手塚プロダクション、1991年第2版、p.42. ^ 佐伯俊道「終生娯楽派の戯言 第十回 どうすりゃいいのさ思案橋」『シナリオ』2013年3月号、pp.66-69 ^ 富野由悠季『増補改訂版 だから僕は…』徳間書店アニメージュ文庫、1983年、pp.283-284 ^ 牧村・山田(2015)、p.39 ^ 藤川桂介『アニメ・特撮ヒーロー誕生のとき ウルトラマン、宇宙戦艦ヤマトから六神合体ゴッドマーズまで』ネスコ、1998年、p.139 ^ 牧村・山田(2015)、pp.39-41 ^ 『富野由悠季全仕事』キネマ旬報社、1999年、p.63 ^ 牧村・山田(2015)、p.42 ^ 山本暎一『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』新潮社、1989年、pp.329-331 ^ 「1527日―虫プロ再建への歩み」『ぱふ』1979年8月号、p.50。『虫プロ斗争ニュース 特集号 第20号』昭和53年7月10日号の転載。 ^ 牧村・山田(2015)、p.52 ^ 豊田有恒『「宇宙戦艦ヤマト」の真実――いかに誕生し、進化したか』(祥伝社新書、2017年10月)p.55, p.162 ^ 小池正春「宇宙戦艦ヤマトの著作権は誰のものか」『財界展望』1999年5月号、pp.58-61 ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』は沈まず...」『週刊新潮』1979年3月8日号 p.17、新潮社。 ^ 「豪華絢爛さが最大の話題だった西崎義展氏のパーティ」『週刊現代』1978年11月30日号 p.50、講談社。 ^ 「こんどはクラブに進出の東映の商魂」『週刊ポスト』1973年4月20日号 p.37、小学館。 ^ 高橋英一、西沢正史、脇田巧彦、黒井和男「映画・トピック・ジャーナル」『キネマ旬報』1979年6月上旬号、pp.170-171 ^ 西崎義展氏「お別れの会」しめやかに執り行う 文化通信 2010年12月10日 ^ 三井俊二『戦艦大和発見 悲劇の航路を追って』日本放送出版協会、1982年、pp.306-309 ^ 「戦艦「大和」の海暗く 屋久島沖、初の大規模捜索 ソナーに二本の物体 断定は出来ず、更に調査」『読売新聞』1979年4月28日付 ^ 川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!?』青心社、2003年、p.176 ^ 木全公彦「第6章 ある合作映画の企画」『異能の日本映画史 日本映画を読み直す』彩流社、2019年、pp.124、153-154 ^ 『わが青春のイレブン』 allcinema ^ 『北壁に舞う』作品情報 MovieWalker ^ 文化通信社編著『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、p.142 ^ 斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由』朝日新書、2008年、p.10 ^ 「さらばブームよ…負債48億 ヤマト沈没 制作の西崎氏らに破産宣告」『読売新聞』1997年9月18日付 ^ オールナイトニッポンの歴史 1980 オールナイトニッポン公式サイト内 2020年6月22日閲覧 ^ 牧村・山田(2015)、p.176 ^ 牧村・山田(2015)、p.57 ^ 牧村・山田(2015)、p.130 ^ 「『戦艦ヤマト』で人気 アニメ制作会社破産」『中日新聞』1999年9月18日付 ^ 「アニメマイクロニュース 阿久悠・宮川泰・松本零士氏ら600人がつどって『「宇宙戦艦ヤマト」10周年・西崎義展君を励ます会』はなやかに開催」『アニメージュ』1982年12月号、p.141 ^ アライ=ヒロユキ『宇宙戦艦ヤマトと70年代ニッポン』社会評論社、2010年、p.307 ^ 『アニメージュ』1986年2月号、p.24 ^ 笠原和夫、絓秀実、荒井晴彦『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』太田出版、2002年、p.511 ^ 牧村・山田(2015)、p.196 ^ モリタタダシ「本田美奈子 最初で最後の劇場主演映画はヤマト号とともに轟沈!!」『別冊映画秘宝VOL.2 アイドル映画30年史』洋泉社、2003年、p.172 ^ 牧村・山田(2015)、p.203 ^ ヤマト裁判、松本零士はなぜ負けた? 泥沼法廷闘争は終わらず… ZAKZAK 2002年3月29日 ^ 「ヤマト」著作権訴訟で和解成立 松本零士氏と西崎氏 asahi.com(朝日新聞)2003年7月29日 (インターネットアーカイブ) ^ 「宇宙戦艦ヤマト」制作者 実刑確定へ Sankei Web(産経新聞社)2003年2月20日 (インターネットアーカイブ) ^ 牧村・山田(2015)、pp.294-295 ^ 牧村・山田(2015)、p.302 ^ 牧村・山田(2015)、p.289 ^ 宇宙戦艦ヤマトプロデューサーの西崎さん、船から転落死 - asahi.com(朝日新聞)、2010年11月7日。(2010年11月10日時点のアーカイブ) ^ 宇宙戦艦ヤマトの西崎さん船から転落死 - 日刊スポーツ、2010年11月6日。 ^ 西崎さんお別れ会400人「海で死ぬ」口癖 asahi.com 2010年12月11日 ^ 「宇宙戦艦ヤマト・復活篇」発進 エナジオ公式サイト内 2004年7月12日 ^ 「劇場公開30年記念特別企画『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサー総監修「デスラー総統ワインセット」LaLaBit Marketで受注開始!」バンダイネットワークス・プレスリリース 2007年12月20日(2007年12月25日時点のアーカイブ) ^ 「劇場公開30周年記念特別企画『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展プロデューサー総監修「バイクヘルメット Type Cosmo-Zero」LaLaBit Marketで受注開始!」バンダイネットワークス・プレスリリース 2007年12月20日(2007年12月24日時点のアーカイブ) ^ 「ポニョ超えだ!ヤマト25年ぶり復活へ」 - スポーツニッポン、2008年8月1日。(2008年8月5日時点のアーカイブ) ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』のアカデミー 2億7千万円の申告漏れ 3年間で」『中日新聞』1979年2月25日付 ^ 第二東京弁護士会知的財産権法研究会編『著作権法の新論点』商事法務、2008年、p.380。設立日は閉鎖謄本の記録に基づく。 ^ キネマ旬報社編『映画プロデューサーが面白い』キネマ旬報社、1998年、p.171 ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』制作ウエスト・ケープ地裁から破産宣告」『日本経済新聞』 1997年9月18日付 ^ 笹川ひろし「第25章 ここで会ったがこんにちは! イタダキマン現る!!」『ぶたもおだてりゃ木にのぼる』ワニブックス、2000年9月25日、ISBN 4-8470-1358-1、273頁。 ^ 「特別清算申し立て ジャパン・オーディオビジュアル」『日本経済新聞』1991年6月29日付 ^ 「宇宙戦艦ヤマトプロデューサー 覚せい剤所持容疑で逮捕」『朝日新聞』1998年1月17日付 ^ 「宇宙戦艦ヤマト」元プロデューサの西崎被告に実刑判決『産経新聞』1998年6月2日付 ^ 「宇宙戦艦ヤマト 製作者が銃所持 覚せい剤も」『日本経済新聞』1999年2月2日付 ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』プロデューサー 短銃など所持容疑、逮捕」『朝日新聞』1992年2月2日付 ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』製作の西崎容疑者を再逮捕 銃刀法違反容疑」『読売新聞』1999年5月12日付夕刊 ^ 「自動小銃密輸容疑 西崎被告を再逮捕」『産経新聞』1999年5月12日付夕刊 ^ 「『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展容疑者が「覚醒剤と機関銃」でまた逮捕」『フライデー』1999年2月26日号、pp.68-69 ^ 「スクープ 宇宙戦艦ヤマトのプロデューサーがマニラで積み込む 自動小銃2丁、砲弾30発、銃弾1800発--石原都知事尖閣諸島突入(97年)船に重火器搭載」『週刊朝日』1999年8月20日号、pp.28-31 ^ 「覚せい剤所持違反の西崎被告の上告棄却 最高裁」『読売新聞』1999年6月10日付 ^ 「銃刀法・覚せい剤取締法違反の西崎被告に実刑判決 東京地裁」『読売新聞』2000年10月25日付夕刊 「西崎義展プロフィール」『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1978年。 「西崎義展プロフィール」『ヤマトよ永遠に』映画パンフレット、オフィス・アカデミー、1980年。 「Producer Special Interview 『ヤマト』の10年は、またひとついい思い出と財産をもたらしてくれた…… 西崎義展」、『ロマンアルバムエクセレント53 宇宙戦艦ヤマト PERFECT MANUAL 1』、徳間書店、1983年、pp.205-209。 西沢正史:「天国と地獄をみた男・西崎義展」、『キネマ旬報』、1983年3月下旬号、pp.96-99。 小池正春:「『宇宙戦艦ヤマト』製作者が獄中で聞いた判決」、『創』、2002年6月号、 pp.64-65。 「最後はマグロ船『ヤマト』から転落死!『西崎プロデューサー』の破天荒な生涯」、『週刊新潮』、2010年11月18日号、pp.136-137。 牧村康正・山田哲久:『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』、講談社、(354ページ)、ISBN 978-4062196741、2015年9月9日。※ 山田はオフィス・アカデミーで西崎義展のアシスタントプロデューサーをつとめたことのある人物。
上記文庫版に対する書評(2020年1月27日):柳下毅一郎『「宇宙戦艦ヤマト」をつくった男 西崎義展の狂気』(講談社)。 表 話 編 歴 宇宙戦艦ヤマト 宇宙戦艦ヤマト2 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち 宇宙戦艦ヤマトIII 宇宙戦艦ヤマト さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち ヤマトよ永遠に 宇宙戦艦ヤマト 完結編 宇宙戦艦ヤマト 復活篇 宇宙戦艦ヤマト2199 宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち ヤマトよ永遠に REBEL3199 宇宙戦艦ヤマト2199 追憶の航海 宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方舟 「宇宙戦艦ヤマト」という時代 西暦2202年の選択 YAMATO2520 SPACE BATTLESHIP ヤマト 一覧 宇宙戦艦ヤマト2199 緋眼のエース PlayStation版宇宙戦艦ヤマトシリーズ ボードゲーム コンピュータゲーム パチスロ・パチンコ 西崎義展 宮川泰 羽田健太郎 宮川彬良 宇宙戦艦ヤマト 真赤なスカーフ ヤマトより愛をこめて 愛よその日まで 銀河伝説/愛の生命 ラブ・シュープリーム 〜至上の愛〜 明日の君を守りたい 〜YAMATO2520〜 この愛を捧げて 愛詞 Fight For Liberty 愛の星 BLUE 交響組曲 宇宙戦艦ヤマト さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち 音楽集 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち 音楽集 ヤマトよ永遠に 音楽集 不滅の宇宙戦艦ヤマト ニュー・ディスコ・アレンジ YAMATO SOUND ALMANAC 沖田十三 古代進 森雪 デスラー スターシャ 地球防衛軍 イスカンダル ガミラス帝国 白色彗星帝国 暗黒星団帝国 ガルマン・ガミラス帝国 ボラー連邦 バース星 シャルバート ディンギル帝国 宇宙戦艦ヤマトシリーズの地球の戦闘艦 ガミラス帝国の戦闘艦 白色彗星帝国の戦闘艦 暗黒星団帝国の戦闘艦 ガルマン・ガミラス帝国の戦闘艦 ボラー連邦の戦闘艦 ディンギル帝国の戦闘艦 ヤマト ゆきかぜ アンドロメダ 主力戦艦 デスラー艦 駆逐型デストロイヤー艦 三段空母 戦闘空母 潜宙艦 デスラー戦闘空母 二連三段空母 コスモゼロ ブラックタイガー コスモタイガーII 探索艇 救命艇 次元潜航艇 反射衛星砲 空間騎兵隊 自動惑星ゴルバ 波動エンジン 波動砲 波動カートリッジ弾 ショックカノン 空間磁力メッキ 煙突ミサイル ロケットアンカー 遊星爆弾 デスラー砲 デスラー機雷 火炎直撃砲 重核子爆弾 惑星破壊プロトンミサイル ブラックホール砲 ハイドロコスモジェン砲 ハイパー放射ミサイル 松本零士 スタジオぬえ
加藤直之 松崎健一) 板橋克己 出渕裕 中村光毅 石黒昇 岡迫亘弘 湖川友謙 結城信輝 小林誠 窪岡俊之 シド・ミード 明貴美加 藤川桂介 山本暎一 舛田利雄 笠原和夫 山本英明 勝間田具治 白土武 金田伊功 柏原満 出渕裕 福井晴敏 羽原信義 安田賢司 宇宙空母ブルーノア オーディーン 光子帆船スターライト 新宇宙戦艦ヤマト 大YAMATO零号 ヤマトクルー 読売テレビ 日本テレビ 読売テレビ制作日曜夜7時台枠のアニメ 読売テレビ制作土曜夜7時枠のアニメ MBS 毎日放送制作日曜夕方5時枠のアニメ TBS 土曜スペシャル カテゴリ 作中年表 ISNI VIAF WorldCat スペイン フランス BnF data イスラエル アメリカ 日本 日本のアニメプロデューサー 日本のアニメーション監督 日本大学出身の人物 武蔵高等学校中学校出身の人物 水難死した人物 東京都区部出身の人物 1934年生 2010年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ プロジェクト人物伝項目 2024/10/10 20:20更新
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nishizaki yoshinobu
西崎義展と同じ誕生日12月18日生まれ、同じ東京出身の人
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