永島慎二の情報(ながしましんじ) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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永島 慎二さんについて調べます
■名前・氏名 |
永島慎二と関係のある人
さいとう・たかを: 漫画家になってからも、友人の永島慎二を殴ろうとしたヤクザをメンチを切って追い払う、泥酔して絡んできた久呂田まさみを投げ飛ばす、などの数々の武勇伝がある。 真崎守: 『燃えてスッ飛べ』(原作:永島慎二) - 貸本単行本書き下ろし。 深井国: 絵の勉強をしながら貸本漫画を描き始め、永島慎二、杉村篤(当時の筆名はコンタロー)、石川球太らと「むさしのプロダクション」を結成。 手塚治虫: 先行した白土三平の劇画作品『カムイ伝』を看板作品とする『ガロ』に対抗したもので、手塚の『火の鳥』を目玉として、石森章太郎や永島慎二などの意欲的な作品が掲載された。 鈴木光明: 1956年、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、永島慎二らと同人グループ・かこう会を結成して同人活動を開始。 かわぐちかいじ: 脚本家志望だったが、貸本屋で永島慎二の漫画『漫画家残酷物語』に影響を受け漫画を描き始める。 志村みどり: ミラクル少女リミットちゃん(原作:永島慎二、ひろみプロダクション 小学四年生 1973年9月号 - 1974年3月号) 岡田晟: つげ義春と親交のあった永島慎二は、「僕は岡田さんの紹介で手塚先生のアシスタントの仕事をさせてもらったが、一方で岡田さんは自分の仕事を手伝わせるためにつげを温泉に連れて行ってしまった。 村岡栄一: 16歳の時に上京し、17歳の秋に、以前からファンレターを出してコンタクトを取っていた永島慎二の元へアシスタントとして入る(当時のアシスタント仲間に向後つぐおや三橋乙揶らがいた)。 磯田和一: 1957年、15歳で家出上京、永島慎二に師事するが、3ヶ月で実家に連れ戻される。 ひらまつおさむ: ミラクル少女リミットちゃん(原作:永島慎二、テレビランド 1973年11月号)小杉英太郎 名義 武富健治: 幼少時より漫画制作を行い、少年期に白土三平や永島慎二に影響を受ける。 松本隆: つげ義春や永島慎二など『ガロ』系漫画や渡辺武信の現代詩に影響を受けた独特の作風で、都市に暮らす人々の心象風景を「ですます」調で描き、一部に熱狂的支持者を生むとともに、日本語ロック論争の発端となった。 高野文子: メンバーに教えられ『COM』や岡田史子、永島慎二などの作品を知る。 鈴木光明: 鈴木のアシスタント経験者には、永島慎二やアニメ演出家の大貫信夫など。 さいとう・たかを: メンバーはさいとう・たかを、横山まさみち、永島慎二、南波健二、石川フミヤス、ありかわ栄一、旭丘光志、都島京弥、いばら美喜、山田節子、武本サブロー、影丸譲也、他。 真崎守: 『燃えてスッ飛べ』(原作:永島慎二)永島慎二劇場4(貸本単行本)、1966年初版 あだち充: プロの漫画家を目指す踏ん切りをつけられたのは、勉が永島慎二に会い、充をアシスタントに採用してもらう内定を取り付けてくれたことによる。ところが、充が高校3年生の1968年に、永島慎二が突然の渡米。 市川森一: 黄色い涙(2007年)原作:永島慎二 早乙女勝元: 『恋人たちの絵本』永島慎二[画]. すばる書房盛光社, 1975 向後つぐお: 16歳の時、永島慎二の元に内弟子として入る(当時のアシスタント仲間に村岡栄一や三橋乙揶らがいた)。永島慎二のアメリカ旅行(1968年)の間は辻なおきのアシスタントになり、永島慎二の帰国に伴い再び戻り1年間アシスタントを務めたのち独立した。 宮谷一彦: 永島慎二に次ぐ「青春劇画のホープ」と期待される。 あだち充: 当時は『COM』や『週刊少年マガジン』、貸本漫画などを愛読しており、永島慎二、樹村みのり、さいとう・たかをらのファンだった。 石川球太: トップマンガ家がえがく 真夏のファンタジー - 共作:石森章太郎,井上洋介,永島慎二、『ボーイズライフ』第6巻第6号(1968年9月号)、小学館。 石川球太: 1957年から数年間、永島慎二、杉村篤、中城けんたろう、安松健夫と「むさしの漫画ぷろだくしょん」を結成していた。 ダイナマイト鉄: 柔道一直線(原作:梶原一騎)※永島慎二から作画を途中交代し、最終回まで執筆。 つげ義春: この頃、永島慎二・遠藤政治と親交を持つようになる。 安部慎一: 高校3年生の頃に永島慎二の「青春裁判」に心を打たれ、三日間家出をして永島の元を訪れる。 市川森一: 銀河テレビ小説・黄色い涙(1974年、NHK名古屋)原作:永島慎二 野間吐史: 永島慎二に師事しながら、漫画家として週刊少年ジャンプやガロで活躍する。 |
永島慎二の情報まとめ
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永島 慎二(ながしま しんじ)さんの誕生日は1937年7月8日です。東京出身の漫画家のようです。
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人物・作風、評価などについてまとめました。事件、母親、家族、現在、事故、テレビ、ドラマ、結婚、趣味に関する情報もありますね。67歳で亡くなられているようです。
永島慎二のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)永島 慎二(ながしま しんじ、1937年7月8日 - 2005年6月10日)は、日本の漫画家。本名:永島 眞一(または真一、ながしま しんいち)。東京市出身。愛称はダンさん。長男はギタリストの永島志基。 東京市滝野川区生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦争で失い、空襲で家を焼かれる。小学校3年の頃から漫画家になることを志望。目黒区立第一中学校では総番長を務め、高校3年生を相手に暴行傷害事件を起こしたこともある。同校では高野慎三の兄が同級生であり、兄を通じて永島の悪名を聞いていた高野は青林堂に入社後、永島から文句をつけられるのを恐れて変名を使っていた。 同校を2年で中退後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫画を描いていたがどれも長くは続かず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再会した目黒区立第一中学校の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、昼は豆腐や納豆を行商し、夜は漫画を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が数日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の残りを貰ったり、妹が家族に内緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。 1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫画家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった。初夏のその月のうちに“馬小屋の二階”を引き払い、実家に凱旋したが、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。 1953年、若木書房に原稿を持ち込むようになり、出入りしていたつげ義春、遠藤政治と親交する。この頃から漫画家の集いに顔を出すようになり、新漫画党のメンバーや、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをら「劇画工房」のメンバーらと交友を広げる。1956年、赤塚不二夫、石ノ森章太郎、鈴木光明らと同人グループ・かこう会を結成。手塚治虫の面識を得て、アシスタントを一時期務める。1957年、杉村篤(当時の筆名はコンタロー)、石川球太、深井国(当時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。 1961年に発表した『漫画家残酷物語』は、漫画業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。『COM』や『ガロ』などの漫画誌に数々の作品を発表し、独特の画風で“青年漫画の教祖”と呼ばれるようになった。1962年より親交のあったさいとう・たかを率いるさいとう・プロダクションに籍を置き、絵柄が劇画風に変化している。この頃から自宅に帰らなくなり、新宿でフーテン生活を経験。のちにその体験を題材にした漫画「フーテン」を発表している。 1964年から1966年まで虫プロダクションに所属、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を担当した。 1967年より梶原一騎原作による『柔道一直線』を連載開始。TVドラマ化される。だが、1970年、作家性の違いにより連載を降板。 1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小学館漫画賞受賞。1973年テレビアニメ「ワンサくん」(虫プロダクション)のキャラクターデザイン。1974年、『漫画のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫画家協会賞優秀賞受賞。 1980年11月16日、大麻不法所持で逮捕。1980年代以降、漫画家としては半隠居状態だった。結婚後、阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、将棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童市に出かけたり、同好の士の駒作りの会に参加したりなどしていた。将棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルのパイプを愛用していたが、自作のパイプも制作していた。 2005年6月10日、慢性心不全のため死去。享年69(満67歳没)。長年糖尿病を患っていて、2000年からは西荻窪へ転居し人工透析を受けていた。墓所は鎌倉瑞泉寺。戒名は「永閑院愼高美久居士」(高美久=コミック)。 人物・作風本名は永島眞一だが出版社の誤植で慎二となり、その後は永島慎二のペンネームを使用することになった。 貸本漫画家時代は、さいとう・たかをに次いで漫画家志望者に対する影響力があった。さいとうとは作風も漫画観も違うがとても仲が良く、『漫画家残酷物語』にはモデルにしたキャラクターが頻繁に登場する。 同時代に『ガロ』で作品を発表した同年齢のつげ義春とは16歳の頃からの付き合いで、研究者の間では何かと比較される事が多かった。「互いをライバル視していた」と親交のあった遠藤政治は証言している。 永島の漫画作品では、しばしば青春をテーマに描かれる作品が多く見られる(『漫画家残酷物語』や『青春裁判』など)。さらに、漫画作品のみならず、『旅人くん』をはじめとする児童向け絵本において、登場人物が青春について言及する場面が見られる。 自画像を描く際は、印象的な大きな鼻に無精髭を生やし、眼鏡(場合によってはサングラス)をかけた中年男性を描く。髭とサングラスはもともと、1960年代に徹夜続きで作品を描いていたとき、突然顔面神経麻痺になったが、編集担当が仕事机につきっきりで病院へ行くこともできなかったため、麻痺に気付かれないよう取った方策だった(後に麻痺は寛解したが、髭とサングラス無しでは街を歩けなくなったという)。 評価2003年放送の「BSマンガ夜話」において「漫画家残酷物語」が取り上げられ、いしかわじゅんや夏目房之介らにより評されている。同番組によれば、永島は貸本劇画や『COM』などにおいて漫画を自己表現として描き、同時代の青少年読者にとっては太宰治的な影響力を持ったという。また、作家の間でも一目置かれる存在で、手塚治虫をオマージュしつつもスタイリッシュな絵柄は後の漫画史においても影響力を持ち、モブシーンの中の群集を無人格に描いたり(いしかわじゅんによる)、空虚な心理を表現する為にキャラクターの目を白目にする(夏目房之介による)などの手法は永島が始めたという。また、絵の修行の為にアメリカに渡ったこともあり(その際に連載途中であった『柔道一直線』を休載。帰国後いったんは再開したが、結局は途中放棄する形となっている)、1980年代以降は挿絵の仕事が多くなる。好きなキャラクターはピエロだった。 1970年前後に活動した日本のロックバンドはっぴいえんどの作品の世界観に大きく影響を与えている。 2024/06/17 17:24更新
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nagashima shinji
永島慎二と同じ誕生日7月8日生まれ、同じ東京出身の人
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