船村徹の情報(ふなむらとおる) 作曲家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
船村 徹さんについて調べます
■名前・氏名 |
船村徹と関係のある人
増位山太志郎: 「水玉のスカーフ/女房に捧ぐ」(2007年10月3日) 作詞:内館牧子 作曲:船村徹 CRCN-1319 日本クラウン ちあきなおみ: レコード大賞受賞後も、1973年に「夜間飛行」、1974年に「円舞曲」などのポップス系ヒット曲を発表する一方、演歌では船村演歌ならやってみたいと、1975年に「さだめ川」、1976年に「酒場川」「矢切の渡し」(「酒場川」のB面曲として発表)」、1988年には「紅とんぼ」などの作曲家船村徹の作品を多く歌った。 春日八郎: 望郷演歌の嚆矢ともいえるこの歌は、1年半ぶりに60万枚の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹を有名にさせた作品にもなった。 下司愉宇起: 当時の日光観光大使で音楽家としては作曲家の船村徹に続き二番目であった。 島和彦: その後、志津子、雨の夜あなたは帰る(船村徹作曲、吉岡治作詞)がヒットし、紅白歌合戦に出場することになった。 ちあきなおみ: 過去の映像とともに船村徹や東元晃の証言を交えた内容で、同番組において長期休業中の歌手が扱われることは極めて異例であった。 青木光一: 「ふるさと列車」作詞:小山敬三、作曲:船村徹(1958年4月 日本コロムビア A2985) 高橋元太郎: 作詞:古野哲也/作曲:船村徹 中山大三郎: 寒椿(歌:森昌子、作詞:中山大三郎/作曲:船村徹) ちあきなおみ: しかし、有線チャートではちあき盤が1位を独走し、作曲者の船村徹も「なるほどねえ、いいところに目をつけるなと思ったよ。 北島三郎: 同年6月5日、日本コロムビアから「ブンガチャ節」(作詞・星野哲郎、作曲・船村徹)でデビューしたがこの第一弾は不発に終わった。 吉沢京子: 作詞:三浦康照 / 作曲・編曲:船村徹 村田英雄: 1961年11月に発売した西條八十作詞船村徹作曲の「王将」がミリオンセラーとなり、翌1962年に第4回日本レコード大賞特別賞を受賞。 鳴海日出夫: お父恋しや(1958年1月15日) - 作詞:野村俊夫、作曲:船村徹 青木光一: 「青春パソドブル」作詞:青山七郎、作曲:船村徹(1959年1月15日 日本コロムビア A3138B) ちあきなおみ: 男の友情 ちあきなおみ 船村徹を唄う(1995年5月21日) ※全曲船村徹作曲。 青木光一: 「僕は流しの運転手」作詞:石本美由起、作曲:船村徹(1957年4月15日 日本コロムビア A2731A) 花ノ本寿: 花笠若衆(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹。 高橋元太郎: 作詞:関沢新一/作曲:船村徹 藤島桓夫: 「思い川」(作詞・星野哲郎 作曲:船村徹 編曲:蔦将包) 織井茂子: 昭和30年代は、船村徹作品に新境地を見出し『東京無情』『夜がわらっている』などがヒットした。 瀬川瑛子: 1983年、船村徹の好意で、ちあきなおみや細川たかしらとの競作で「矢切の渡し」をレコーディングして30万枚を売り上げる。 高橋元太郎: 作詞:関沢新一/作曲:船村徹 西條八十: 「夕笛」(作曲:船村徹、歌唱:舟木一夫、1967年) 星野哲郎: 喪主は長男の有近真澄が務め、葬儀では長年親交が深かった作曲家の船村徹と、愛弟子である水前寺清子が弔辞を読み上げ、自ら作詞した「男はつらいよ」の曲に乗せて出棺された。 香田晋: 1985年、ラジオ番組『船村徹の演歌巡礼』の一環で行われたカラオケ大会に出演。『兄弟船』を歌い、船村徹にスカウトされる。高校卒業後上京し3年間の内弟子生活(3年間で歌のレッスンは一度だけで、料理やマキ割りをする毎日だった)を経て、1989年6月7日に『男同志』(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹)で歌手デビュー。 春日八郎: 別れた故郷/港のみれん雨(1980年)- 作詞:中山大三郎/作曲:船村徹 K07S-31 藤島桓夫: 「銭の花」(作詞:木下龍太郎 作曲:船村徹 編曲:蔦将包) 1990年 若原一郎: 作詞:高野公男/作曲・編曲:船村徹 織井茂子: 夜がわらっている(作詞:星野哲郎、作曲:船村徹、1958年) - 90万枚 |
船村徹の情報まとめ
船村 徹(ふなむら とおる)さんの誕生日は1932年6月12日です。栃木出身の作曲家のようです。
エピソード、作曲作品などについてまとめました。卒業、父親、兄弟、映画、姉妹に関する情報もありますね。84歳で亡くなられているようです。
船村徹のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)船村 徹(ふなむら とおる、1932年〈昭和7年〉6月12日 - 2017年〈平成29年〉2月16日)は、日本の作曲家、歌手。日本音楽著作権協会(JASRAC)名誉会長、日本作曲家協会最高顧問。横綱審議委員会委員。本名は福田 博郎(ふくだ ひろお)。戦後歌謡界を代表する作曲家の一人であり、手掛けた曲は5000曲以上にのぼる。歌謡曲の作曲家として初めて文化勲章を受章した。位階は従三位。 栃木県塩谷郡船生村(現、塩谷町)出身。栃木県立今市中学校(旧制中学校)、東洋音楽学校ピアノ科卒業。 獣医だった父親がクラシックレコードの収集家であったことや、小学校時代にブラスバンド部でトランペットを吹いていたことなどもあり音楽の道を志す。 東洋音楽学校在学時はまだ駐留米軍が数多くいた時代であり、船村は米軍キャンプ専門のバンドでそのリーダーを務めたこともあったという。音楽学校在学時に、作詞家の高野公男と組み作曲活動を開始した。ただ、高野とともに、生活は困窮を極め、バンド・リーダーのほか、流しの歌手なども経験する。 1953年、雑誌「平凡」コンクール曲第一席「たそがれとあの人」がレコード化され、作曲家としてデビュー。 作曲家としての本格的な作品は1955年の「別れの一本杉」。その後も、「ご機嫌さんよ達者かね」、「あの娘が泣いている波止場」などが連続ヒットした。 1956年、キングレコードからコロムビアレコードに移り、「柿の木坂の家」、「早く帰ってコ」(歌・青木光一)が大ヒット。「王将」は戦後初のミリオンセラーを記録した。 1993年、日本作曲家協会理事長に就任し、1997年に吉田正の後を受けて第4代会長に就任、2005年に遠藤実へバトンタッチするまで務めた。 1995年、紫綬褒章受章、2002年、栃木県県民栄誉賞受賞、2003年、旭日中綬章受章、2008年、文化功労者、2014年、栃木県名誉県民、2016年、歌謡曲作曲家として初めて文化勲章受章(作曲家としては山田耕筰に次ぎ2人目)。 妻は元歌手の能沢佳子、長男は作曲家・編曲家の蔦将包(つた まさかね)、長女は作詞家の真名杏樹、次女は元女優の福田渚子。 愛弟子には、北島三郎・鳥羽一郎・島津伸男・三木たかし・大下八郎・ムーディー松島・香田晋・静太郎・天草二郎・走裕介・村木弾・森サカエ・森若里子がいる(松島・鳥羽・香田・静・天草・走・村木は、船村宅に住み込み、師匠と寝食を共にした内弟子である)。 作曲家として知られているが、「演歌巡礼」の活動の際、自ら歌唱することもあった。船村が自ら歌った作品を収めた「愛惜の譜」と言う通信販売限定のボックスCDも出ている。過去に数枚シングルも出している。船村徹とおるけすた・てぃぴか・日本のようにバンドリーダーとしての側面も持っていた。 2015年4月27日には栃木県日光市今市にある「道の駅日光 日光街道 ニコニコ本陣」に併設して、「日本こころのうたミュージアム・船村徹記念館」がオープンした。同館は、鉄筋コンクリート3階建て、延べ約2800平方メートル。1階の「夢劇場」では、船村の生い立ちや活躍を、最新の映像技術で紹介する。2階には「王将」「みだれ髪」「兄弟船」など船村の代表作が聴けるメロディーボックスや、歌手らと船村とのエピソードを映像化したシアターを設置。3階は、レコードジャケットや交流のあった著名人らの手形などを展示するスペース、入場者が自分の歌う姿をDVDに収録できる「歌道場」と名付けたカラオケルームなどが設けられている。 また、同館のオープニングセレモニーには親交の深かった北島三郎や鳥羽一郎、舟木一夫、由紀さおり、大月みやこ、瀬川瑛子など多くの著名人が参加した。 2017年2月16日の午前11時頃に神奈川県藤沢市の自邸の寝室で倒れているところを長男の蔦将包の夫人が発見し、藤沢市内の病院へ救急搬送されたが午後0時35分に心不全のため死去。84歳没。 同年3月17日、日本国政府は2月16日付で従三位に叙することを閣議で決定した。 同年10月1日、藤沢市名誉市民顕彰式が行われた。 エピソード船村は故郷栃木・塩谷町への思いが終生強く、故郷に指定廃棄物最終処分場の建設話が持ち上がった際には「故郷の山や川を汚してはいかん」として住民等による産廃施設反対運動を支持した。 船村は日本山岳会会員であったほど山を愛し、「国民の祝日『山の日』を作ろう」と呼びかけた人物でもある。 船村の12歳年長で大日本帝国陸軍士官だった兄がよくハーモニカで『ドリゴのセレナーデ』を船村の前で演奏して聴かせてくれた。その兄からは「お前は軍人になってはいかん」と諭されたことを語っていた。そのこともあり、兄や多くの英霊が眠る靖国神社で奉納チャリティ公演を幾度となく開催した。奇しくも船村が死去した2月16日は第二次世界大戦で陸軍士官として戦地へ赴こうとしたその兄がミンダナオ島沖で戦死した日でもあった。 東洋音楽学校に在学していた当時、一級上に黒柳徹子がいた。黒柳は声楽科でだったが、上級生の伴奏を務めさせられることがあり、そのことを「指導」と呼び、船村も黒柳から、たびたびそのような「指導」を受けたことがあるという。 親友の高野公男からは「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」とよく言われた。高野が早逝した後、船村は「あいつの分まで生きる」と親友・高野に対する感謝を終生にわたり忘れなかったという。 大瀧詠一との対談の中で、次のようなエピソードを話している。1959年の東映アニメ映画『少年猿飛佐助』の音楽を担当し、グランプリを受賞した際に招待されヨーロッパ滞在中ロンドンで、あるオーディションに立ち会う。その中にデビュー前のビートルズがおり、オーディションに参加した面々の中で唯一のバンドだった。「どの組がよいか?」と尋ねられた船村は「あの汚い4人組が一番面白いのでは」と答えたという。それを聞いた大瀧は驚愕し、周りのスタッフに「凄いでしょう!船村先生は、ビートルズが誕生したオーディションに立ち合っているんですよ」と述べた。 船村の代表曲のひとつ『矢切の渡し』は元々ちあきなおみに提供した楽曲だったが、細川たかしが歌唱したものがヒットし、第25回日本レコード大賞を受賞した。これについて船村は「美声ではあるが細川君の歌い方は一本調子な感じで、ちあき君は観賞用‥細部まできっちりと聴かせる歌だから。正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので『何だ、これならオレにも歌える』と世間に思わせる歌い方でしたね。‥」と分析・評価している。 美空ひばりに関しては「高音(裏声)に良いものを持っている」と評価しており、実際に船村がひばりに提供した作品には、高音部分が多い(母の喜美枝には「苦手だからやめて」と拒否されていた)。また、ひばりとちあきを対比して「美空ひばりとちあきなおみの決定的な違いは、裏声の出るか出ないか」とも講評している。 作曲作品
2024/06/17 11:57更新
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funamura tooru
船村徹と同じ誕生日6月12日生まれ、同じ栃木出身の人
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