野間宏の情報(のまひろし) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
野間 宏さんについて調べます
■名前・氏名 |
野間宏と関係のある人
丸木位里: 位里と俊は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。 関根弘: 作家・野間宏との間でいわゆる「狼論争」を引き起こした 丸木俊: 俊と位里は1964年6月に朝倉摂、出隆、国分一太郎、佐多稲子、佐藤忠良、野間宏、本郷新、山田勝次郎、宮島義勇、渡部義通とともに党改革の意見書を提出し、翌月に日本共産党を除名される。 井上俊夫: 野間宏、小野十三郎に師事。 團伊玖磨: 中国で野間宏の『真空地帯』が上映された際にも、「音楽 段伊玖磨」と直された。 石垣りん: 1952年 『銀行員の詩集』(選者伊藤信吉、野間宏)に「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」を含む4篇が収録される。 開高健: 1960年、中国訪問日本文学代表団(野間宏団長)の一員として大江健三郎らとともに中国を訪れ、毛沢東、周恩来らと会見。 安部公房: 5月、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」を結成する。 富士正晴: 野間宏 佐江衆一: 1980年、足尾銅山の大河小説「亡国」を野間宏・小田実らの「使者」と井上光晴の「辺境」に長期連載。 富岡幸一郎: 『文学の再生へ 野間宏から現代を読む』紅野謙介共編 藤原書店 2015年 安部公房: 1952年 (昭和27年) 5月、江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。 三島由紀夫: 同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。 佐多稲子: 戦後の民主化運動に貢献するも、戦後50年問題、日ソ共産党の関係悪化など日本共産党との関係には苦しみ、とりわけ部分的核実験禁止条約を巡っては、批准に反対していた同党に対し、野間宏らと批判を繰り返していたことから、最終的には除名されるにいたった。 船山馨: 戦後は文芸雑誌「序曲」の同人となり、『笛』『半獣神』『魔術師』など実存主義的傾向の強い作品を発表し、椎名・野間宏・埴谷雄高らとともに第一次戦後派の一人と目されるが、1948年にヒロポン依存症となってからは執筆活動に支障をきたすようになり、文壇からは半ば見放された状態となる。 松田道雄: 1978年には武谷三男、野間宏、水上勉らとともに安楽死法制化を阻止する会声明発起人となった。 木島始: 1953年野間宏の跋文を得て『木島始詩集』を刊行、1954年専修大学講師、1963年法政大学第一教養部講師となり、助教授、教授を務める。 富士正晴: 1932年、野間宏(のちに富士の妹と結婚して義弟となる)や桑原静雄とともに、詩の同人誌『三人』を創刊。 遠藤周作: 9月末にアジア・アフリカ作家会議に出席するため、伊藤整、加藤周一、野間宏らとともに渡ソ。 加瀬昌男: 1964年、現代演劇作家批評家集団「鴉の会」の結成に参加(他メンバーはいいだもも、井上光晴、岩田宏、内田栄一、遠藤利男、木島始、小林祥一郎、塩瀬宏、清水邦夫、武井昭夫、竹内泰宏、野間宏、長谷川四郎、花田清輝、廣末保、松本俊夫、宮本研、笠啓一)。 澤井繁男: 1984年、小説「雪道」で200号記念北方文藝賞(選考委員:野間宏、八木義徳、吉行淳之介、井上光晴の4人)、第18回北海道新聞文学賞佳作受賞 司修: そこで野間宏や大江健三郎、武田泰淳、三島由紀夫ら有名作家の著作本の装丁に携わるうち、「現代文学を読み解き、他者の問題を自分に引き付けて考えるようになった」。 横光利一: 編集長は木村徳三で、作家の三島由紀夫、安部公房、野間宏、遠藤周作、堀田善衛らが寄稿し、有力な文芸雑誌となり、GHQ/SCAP民間情報教育局(CIE)の調査でも「代表的文芸誌」とされていた。 郷静子: 戦後、結核の療養を送りながら新日本文学会の日本文学学校に通い、野間宏に影響を受ける。 日野啓三: 敗戦後は父親の故郷広島県福山市に引き揚げ、広島県立府中中学校(現広島県立府中高等学校)を経て、1946年に旧制一高入学、この頃野間宏、椎名麟三などの戦後文学に関心を持ち、大岡信、丸山一郎(佐野洋)らと同人誌『二十代』、次いで同じメンバーで『現代文学』を作り、文芸評論を執筆した。 笹山栄一: 新演劇研究所「真空地帯」(1953年1月、野間宏 原作、鈴木政男 脚色、下村正夫 演出、飛行館ホール) 黒古一夫: 2019年6月からは、批評家生活40年を記念して『黒古一夫 近現代作家論集』(全6巻、第1巻北村透谷論・小熊秀雄論、第2巻大江健三郎論・林京子論、第3巻村上春樹論、第4巻村上龍・立松和平論、第5巻小田実論・野間宏論・辻井喬論、第6巻三浦綾子論・灰谷健次郎論・井伏鱒二論アーツアンドクラフツ)を刊行する。 宮本顕治: 1954年には、『新日本文学』誌上で大西巨人と、野間宏の作品『真空地帯』の評価や新日本文学会の組織問題をめぐって論争するなど、1950年代前半は文芸評論家としての活躍が目立っていた。 島尾敏雄: 『VIKING』へ掲載した中篇「単独旅行者」、「島の果て」が野間宏の目に触れ、1948年5月、『近代文学』系の雑誌『芸術』へ「単独旅行者」が転載されることとなり文壇に認められた。 瀬木慎一: 風に鳴る樹々 全国結核療養者詩集 野間宏・安東次男共編 朝日書房 1954 |
野間宏の情報まとめ
野間 宏(のま ひろし)さんの誕生日は1915年2月23日です。兵庫出身の作家のようです。
没後刊、人物などについてまとめました。結婚、卒業に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
野間宏のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)野間 宏(のま ひろし、1915年(大正4年)2月23日 - 1991年(平成3年)1月2日)は、日本の小説家・評論家・詩人。 大学時代の左翼運動と出征経験から、戦後『暗い絵』を書いて第一次戦後派の先頭に立ち、特に『真空地帯』は大きな反響を呼んで戦後文学の記念碑的名作となった。その後は社会全体の構造をとらえる全体小説を志向し、次々と大作を発表。文学の国際交流にも尽力し、また最晩年まで社会的な発言を多く行った。部落外の出身者だが部落解放同盟中央委員となった 僧侶(在家の新しい流派を建てたので、既存の寺院に属してはいなかった)を父として、兵庫県神戸市長田区に生まれる。大阪府立北野中学校に進学する。 1932年、旧制第三高等学校在学中、同人誌「三人」を富士正晴(野間は富士の妹と結婚したので義兄)、竹之内静雄と創刊。 1935年、京都帝国大学文学部仏文科に進学し、反戦学生運動に参加。 1938年、京都帝国大学文学部仏文科卒業。 1938年から大阪市役所に勤務し、被差別部落関係の仕事を担当した。 1941年に応召し、中国やフィリピンを転戦するも、マラリアに感染したため帰国。 1943年、社会主義運動の前歴を憲兵に追及され、思想犯として大阪陸軍刑務所で半年間服役。年末に出所後、監視つきで原隊に復帰。 1944年2月、召集解除。大阪の軍需工場に勤務していた時、敗戦を迎える。 敗戦後、日本共産党に入党。 1946年、『暗い絵』を発表し、作家生活に入る。 1951年、前年創刊された雑誌『人民文学』の編集にかかわる。 1952年、『真空地帯』で毎日出版文化賞を受賞。 1954年、詩集『スターリン讃歌』編集に参加。同書のためにスターリンを賛美した詩『星の歩み』『スターリン』を執筆。 1964年、ソ連に追随したとして、日本共産党から除名処分を受ける。 1971年、『青年の環』で谷崎潤一郎賞を受賞。 1973年、『青年の環』がロータス賞を受賞。 1974年、「日本アジア・アフリカ作家会議」の初代議長に選出される。 1977年、『差別・その根源を問う』『狭山裁判』など部落問題に関する言論活動が評価され、松本治一郎賞を受賞。 1989年、 『野間宏作品集』(全14巻・岩波書店)をはじめとする文学への貢献により、1988年度朝日賞を受賞。 1991年、食道癌の合併症により東京慈恵会医科大学附属病院で死去。 没後刊エセー集『時空』(福武書店)と、大作『生々死々』(未完、講談社)が出された。 藤原書店で、『完本 狭山裁判』(上中下、1997年)と、『作家の戦中日記 一九三二-四五』(2001年)が出された。また『野間宏の会』を主催している。 影書房で、『野間宏集』(戦後文学エッセイ選9、2008年)が出された。 人物全22巻の『野間宏全集』(筑摩書房)、全14巻『野間宏作品集』(岩波書店)があるが、スターリンを賛美した作品は収録されなかったという。 藤原書店より、『完本 狭山裁判』(上中下、1997年)と、『作家の戦中日記 一九三二-四五』(2001年)が出された。また『野間宏の会』を主催している。 影書房で『野間宏集』 (戦後文学エッセイ選9、2008年)が出された。 『真空地帯』発表時、大西巨人は、軍隊があまりに単純に悪として描かれていると批判し、「俗情との結託」と呼び、のち自ら軍隊を描いた『神聖喜劇』を発表した。 三高から京大時代の数年間にわたる日記は、没後に『作家の戦中日記』として藤原書店から刊行されたが、それによると野間は痴漢行為や公衆便所の窃視の常習犯であり、若い女性に尾行と性器露出を繰り返し、友人たちから「野獣」と呼ばれ、自らも「淫らな変態性欲者」と自嘲していた。ただし警察に捕まったことはなかった。 1974年春に『青年の環』の担当編集者の田邊園子(当時37歳)を突然口説き始めて田邊を啞然とさせたが、その場は来客があり、ことなきを得た。それから半年以上経ち、1974年秋の夜、野間は田邊を新宿駅東口のタクシー乗り場に呼び出し、無言のまま田邊を自動車でどこかへ連れ去ろうとしたが抵抗され、何もできなかった。後に判明したところによると、野間はこの晩、男女が肉体的に結ばれる場面を田邊相手に自ら演じて書く予定だった。しかし野間はこの出来事を歪曲し「田邊が野間を誘惑して失敗した」と一部の人々にまことしやかに話し、信じさせた。田邊は「当時、私は勤務先の社長から奇妙な厭味を言われ、その後も長く、作家たちや他社の編集者から哀れみや同情、慰めの言葉、時には蔑みの視線を受けてきたことを忘れることが出来ない。野間夫人すら私の"失恋"を疑わなかった」、「ほとんどの人々は、常日ごろ"人権擁護"を標榜している作家が、他者の人権を踏みつけるような嘘を人に話して聞かせるとは信じないだろう」と記している。しかし野間は自らの言動を「小説家は嘘をつくものです」と正当化していた。 2024/06/07 09:25更新
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noma hiroshi
野間宏と同じ誕生日2月23日生まれ、同じ兵庫出身の人
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