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島野育夫の情報 (しまのいくお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【9月28日】今日誕生日の芸能人・有名人

島野育夫の情報(しまのいくお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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島野 育夫さんについて調べます

■名前・氏名
島野 育夫
(読み:しまの いくお)
■職業
野球選手
■島野育夫の誕生日・生年月日
1944年3月30日 (年齢2007年没)
申年(さる年)、牡羊座(おひつじ座)
■出身地・都道府県
栃木出身

(昭和19年)1944年生まれの人の年齢早見表

島野育夫と同じ1944年生まれの有名人・芸能人

島野育夫と同じ3月30日生まれの有名人・芸能人

島野育夫と同じ出身地栃木県生まれの有名人・芸能人


島野育夫と関係のある人

マイク=デュプリー: そして、7番・左翼として出場した4月5日の阪神タイガースとの開幕戦では、6対6の同点で迎えた9回表二死一・二塁の場面で竹之内雅史の左前安打を本塁へダイレクトへ返球し、俊足で知られる走者の島野育夫を刺す超美技を見せると、その裏には先頭打者として工藤一彦から1号サヨナラ本塁打を放ち、上々のスタートを果たした。


藤田平: 若手の鷲谷亘三塁塁審がファウルと判定したことから、鷲谷審判が島野育夫コーチと柴田猛コーチに暴行されるきっかけとなった(横浜スタジアム審判集団暴行事件)。


江夏豊: 23日、球団から南海ホークスへの複数トレードを通告され「2,3日考える時間が欲しい」と答えてすぐには了承しなかったものの、26日に長田と会い南海へのトレードを受け入れると伝えると南海と阪神は即座に江夏・望月充と江本孟紀・池内豊・長谷川勉・島野育夫のトレードが成立したと発表。


白川悟実: 同球団に選手・コーチングスタッフとして在籍していた島野育夫とは、親交が深かった。


星野仙一: 1軍コーチでそのまま残ったのは島野育夫のみで千原陽三郎から島野は「『コイツは必ずドラゴンズの監督になるから。


山田久志: 二軍監督の島野育夫も引き抜かれたため、球団内のバックアップを失うこととなった。


浜本広晃: 同球団に選手・コーチングスタッフとして在籍していた島野育夫とは、親交が深かった。


江本孟紀: しかし、江本らの必死の訴えは聞き入れられることはなく、かえって野村の不興を買い、12月に阪神タイガースへのトレードを通告され、翌年1月に4対2の交換トレードで放出された(南海からは江本と島野育夫、長谷川勉、池内豊。


柏原純一: 阪神退団後は阪神コーチで一緒だった島野育夫ヘッドコーチに声掛けで中日ドラゴンズ一軍打撃コーチ(1996年 - 1997年)を務め、本拠地のナゴヤ球場最終年とナゴヤドーム元年に在任をしていたが、狭いナゴヤ球場から広くなったナゴヤドームに移転してからのチーム打率・得点がリーグ最下位、安打もリーグ5位と成績が前年より低迷をしてしまい、その責任を取らされる形で退団。


長谷川勉: 南海が江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川の4選手、阪神が江夏と望月充の2選手という大型交換トレードだった。


青山久人: 初奪三振:同上、5回裏に島野育夫から


山本昌広: 結局、島野育夫ヘッドコーチと共に翌朝謝罪しに行ったが、星野は「なんかあったのか?」と自宅を訪れた2人に対してとぼけて許した。


中野孝征: 1年上のチームメートに島野育夫がいた。


星野仙一: ヘッドコーチには中日時代からの片腕的存在島野育夫、チーフ打撃コーチに田淵幸一を招聘した。


岡田功: この試合で三塁塁審を務めていた鷲谷亘審判が判定に不服を訴えた島野育夫コーチに殴られ退場を宣告した。


本多雄一: シーズン60盗塁はパ・リーグでは1997年の松井稼頭央以来14年ぶり、球団では1973年の島野育夫以来38年ぶりとなった。


立石充男: 星野に怒鳴り返したコーチはこれまで誰もおらず、島野育夫ヘッドコーチには『おいタテ、よう言った』と言われた。


野村克也: 1976年は、1月に阪神タイガースとの間でトレードの交渉をまとめ、その結果、江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川勉ら主力の4選手を放出し、阪神のエースだった江夏豊と望月充の2選手を獲得した。


吉田義男: あまりにも単純なサインであるにもかかわらず、ある程度は勝っていたため、南海から一緒に阪神に移籍した島野育夫にこのことを話すと、「おい、阪神は南海より強いんじゃないか」と驚くことしきりであった。


木戸克彦: 二軍監督時代には2度のウエスタン・リーグ優勝(2003年, 2005年)に導いたが、島野育夫一軍総合コーチの二軍監督就任に伴い退任。


星野仙一: 2000年、出場停止5日間の3試合(1勝2敗)は通算成績に含まない(監督代行は島野育夫


佐藤公博: 1968年途中島野育夫とともに、堀込基明との交換トレードで南海ホークスに移籍した。


高木守道: 同シーズンは、当初はヘッドコーチに徳武が監督代行を務めたが、その徳武もシーズン途中で解任され、その後はシーズン終了まで島野育夫が監督代々行を務めた。


高山忠克: 作新学院高校への在学中は「4番・中堅手」で、1学年先輩に外野手の島野育夫、同期生に八木沢荘六・加藤斌の両投手と遊撃手の中野孝征がいた。


沼澤康一郎: 1971年には大きな交通事故に遭うも奇跡的に復活し、在任中は島野育夫・富田勝・藤原満・桜井輝秀・門田博光を育て、7年ぶりのリーグ優勝に貢献した1973年退任。


西岡三四郎: この一件で野村の怒りを買った西岡は、12月に藤沢哲也、星野秀孝との交換トレードで中日ドラゴンズに放出され、西岡と共に事件の首謀者と見なされた江本も、島野育夫らと共に阪神タイガースへと放出された。


立石充男: 近鉄合併後は阪神で二軍守備・走塁コーチ(2005年, 2009年)、二軍打撃兼守備コーチ(2006年)→二軍野手総合兼打撃コーチ(2007年 - 2008年)、二軍育成チーフコーチ(2010年 - 2011年)→二軍打撃兼育成コーチ(2012年)を務め、阪神コーチ時代の2006年には、シーズン途中から胃潰瘍で長期入院した島野育夫に代わって二軍監督代行を務めた。


堀込基明: 1968年途中に佐藤公博・島野育夫との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。


星野仙一: 1995年の中日二軍スタッフは監督島野育夫、バッテリーコーチ加藤安雄、打撃コーチ高畠康真ら、当初は星野の下で1軍スタッフになるコーチ陣だった。


千原陽三郎: 星野仙一は、参謀役として生涯の盟友であった島野育夫との出会いについて、双方とチームメイトだった経験を持つ千原からの紹介だったと語っている。


島野育夫の情報まとめ

もしもしロボ

島野 育夫(しまの いくお)さんの誕生日は1944年3月30日です。栃木出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

現在、卒業、引退、事件、テレビに関する情報もありますね。今年の情報もありました。2007年に亡くなられているようです。

島野育夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

島野 育夫(しまの いくお、1944年3月30日 - 2007年12月15日)は、栃木県宇都宮市出身のプロ野球選手(外野手)、コーチ、監督、野球解説者。

コーチ時代は相手の癖を盗む特技を生かし、 三宅博は著書で、センスを持ったクセ盗みの名人と記している。特に星野仙一との監督・コーチコンビでは中日ドラゴンズ・阪神タイガースで優勝を経験しており、低迷期の長かった阪神にあって、島野が在籍していた時期は最下位になったことは一度もなかった。

長男は元競輪選手で現在は柔道整復師の島野敦識。

作新学院高校時代の1961年、中堅手として1学年下の八木沢荘六、高山忠克らとともに第33回選抜高等学校野球大会に出場した。作新学院はセンバツ初出場であったが、2回戦で高松商に敗退。同年の春季関東大会では決勝に進むが、法政二高の柴田勲に抑えられ敗れた。夏の甲子園予選北関東大会でも決勝に進むが、宇都宮学園に惜敗し、甲子園に出場できなかった。卒業後は社会人野球の明電舎に進み、1962年の都市対抗東京都予選準決勝に進出するが、船田和英のいた北洋水産に敗れた。

1963年に中日ドラゴンズへ入団。

1965年には一軍に定着し中堅手、右翼手として32試合に先発出場した。しかし当時の中日は江藤慎一、中暁生、葛城隆雄ら外野手の層が厚く、控え・守備要員としての起用が主だった。

1968年シーズン途中に佐藤公博とともに、堀込基明との交換トレードで南海ホークスに移籍した。

1969年に左翼手の定位置を獲得し、初めての規定打席(20位、打率.266)に達した。翌年に門田博光が台頭して外野手のレギュラーを外れた。

1973年にはリードオフマンとして中堅手に定着し61盗塁を記録(キャリアハイ)、9試合連続盗塁を記録したほか(周東佑京が2020年10月27日のロッテ戦で10試合連続盗塁で更新されるまで球団記録)、ダイヤモンドグラブ賞を受賞し、リーグ優勝に貢献した。同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズは全5試合に1番として先発出場し、20打数5安打を記録したが、最終第5戦では最後の打者になっている。

1974年には打率.274(13位)を残し、1974年・1975年ともダイヤモンドグラブ賞を受賞した。

1976年、江夏豊・望月充との交換トレードで、江本孟紀・池内豊・長谷川勉とともに阪神タイガースに移籍した。

1980年をもって現役引退した。

1981年から、阪神の一軍守備・走塁コーチに就任した。

1982年8月31日の大洋ホエールズ戦で、石橋貢の捕球に対する判定を巡って柴田猛とともに審判に暴行し、無抵抗状態の審判を殴り蹴り続けた(横浜スタジアム審判集団暴行事件)。この暴行は映像がテレビ中継で流れ、永久追放を求める声も出た。翌9月1日、無期限出場停止の処分を受けるが、翌1983年3月に解除された。

1984年シーズン終了後に退団し、サンテレビジョンで野球解説者を務めた。

1985年に優勝した阪神のビールかけにも参加した。

1986年から、中日の一軍外野守備・走塁コーチに就任した。

1987年に星野仙一が監督に就き、以降は星野とともに活動する機会が増えた。千原陽三郎から「コイツは必ずドラゴンズの監督になるから。そのときは島野、お前が助けてやれ」と言われた。1989年まで総合コーチを務めていた木俣達彦は「彼(星野)が決めるのは投手交代だけ。作戦面のサインは全て島野コーチで任せていました。」と述べている。落合博満は「島野コーチだけは選手の不平不満をちゃんと聞いてやり、ストレス解消と緩衝材としての役割を果たしていた」と語っている。1988年の優勝に貢献した。彦野利勝を徹底的に鍛え、守備力をアップさせ、彦野は「1番・センター」としてリーグ優勝に貢献し、ゴールデン・グラブ賞も受賞した。

1991年、星野の辞任に伴い中日を退団。

1992年に阪神に一軍外野守備・走塁コーチ(三塁ベースコーチ)として復帰した。2軍コーチだった柏原純一は「1軍に送り出した亀山と新庄にコーチとして思い切りプレーできる環境をつくったのは島野育夫さんだった。怒らせた怖い人だが、面倒見はよかった。新庄も尊敬するコーチとして自分と島野さんの名前を何度も挙げていた。目立ちたがり屋だけど、準備はおそろかにしない彼の取り組む姿勢を知っていたからこそ、壁になって新庄を守っていたんだ。95年に阪神退団が決まった後も、島野さんに声をかけていただいた。中日に1軍打撃コーチとしてお世話になった。」と述べている。

1995年、中日に二軍監督として4年ぶりに復帰した。監督の高木守道が成績不振と健康問題で6月2日で休養し、6月3日からヘッドコーチの徳武定祐が監督代行を務めたが、徳武監督代行も12勝25敗と成績が上がらず、7月23日に解任が発表され、球宴明けの7月29日から島野が監督代行を務め、54試合で采配を振るった。7月30日の広島戦(広島市民)、9点差の劣勢を跳ね返し勝利、9点差以上の逆転勝利は33年ぶり5度目だった。成績は25勝29敗で、最下位から5位に上がった。

1996年からはヘッドコーチに就任。

1999年第2次星野政権のリーグ優勝に貢献した。

2000年5月6日の横浜戦で球審の橘高淳への暴行で退場となった、監督の星野仙一に代わり代行を務めた。

2001年オフ、阪神の監督に招聘された星野からの強い要請を受け、中日・阪神間の交渉を経て、翌2002年1月10日に阪神にヘッドコーチとして移籍した。既に前年末時点で、島野は二軍監督として2002年の中日コーチングスタッフが発表されていたため、反故にされた中日側からは批判の声が上がったが、星野は「オレと島ちゃんはどんな名刀でも切り裂くことができない」とし、「非はこちらにあるが勘弁してくれ」と中日側を説得したという。当時2軍監督の岡田彰布は「島野さんは現役の時から一緒にやってるから、二軍との風通しはたいぶ良くなったよ。」と述べている。

2003年のリーグ優勝に貢献した。星野は著書の中で、「野球の原点と戦術にたけたベテランコーチ」と評価している。下柳剛は「島野さんという人は親父であり、上司であり、時には兄貴のような人、あるときは仲間でもあった」と語っている。同年シーズンを以っての星野の勇退とともにコーチを辞任し、フロント入りした。

2005年にオーナーの久万俊二郎の鶴の一声で、一軍総合コーチとして現場復帰した。

2006年、二軍監督に配置転換となったが、4月26日から胃潰瘍により長期入院となりチームを離れた。島野の休養中は、二軍打撃兼守備コーチの立石充男が二軍監督代行を務めた。

2007年、二軍監督を平田勝男に譲って現場から離れ、総合特命コーチに就任し、翌年からは球団アドバイザーに肩書きが変更になる予定だったが、胃癌のため12月15日に兵庫県西宮市の病院で死去した。63歳没。

2008年3月5日の京セラドーム大阪でのオープン戦が、追悼試合として行われ、星野と田淵幸一が始球式を行った。

亡くなる数か月前、神戸市三宮に創作洋食の店をオープンし、オーナーとして経営していた。島野が亡くなってからは夫人が店長兼オーナーを務めた。

各年度の太字はリーグ最高

ダイヤモンドグラブ賞:3回(1973年 - 1975年)

初出場:1963年10月22日、対阪神タイガース28回戦(阪神甲子園球場)、5回表に山中巽の代打として出場

初先発出場:1964年8月9日、対阪神タイガース18回戦(中日スタヂアム)、7番・左翼手として先発出場

初安打:1964年8月15日、対大洋ホエールズ22回戦(中日スタヂアム)、8回裏に平山佳宏から

初打点:1964年8月26日、対広島カープ21回戦(広島市民球場)、9回表に大石清から適時打

初本塁打:1965年4月16日、対読売ジャイアンツ4回戦(中日スタヂアム)、6回裏に中村稔から左越ソロ

通算1000試合出場:1974年7月13日、対阪急ブレーブス後期3回戦(大阪スタヂアム)、9回表に中堅手として出場 ※史上175人目

11 (1963年 - 1964年)

33 (1965年 - 1968年途中)

10 (1968年途中 - 1975年)

8 (1976年 - 1980年)

88 (1981年 - 1984年)

76 (1986年)

68 (1987年 - 1989年)

81 (1990年 - 1991年)

73 (1992年 - 1994年)

91 (1995年、2005年 - 2007年)

78 (1996年 - 2003年)

サンテレビボックス席 - 解説者として出演していた番組

^ 三宅博著、虎のスコアラーが教える「プロ」の野球観戦術、2013年、祥伝社、P26

^ “数年後のシマちゃんは「ウフフフ」”. Sponichi Annex. (2015年12月1日). https://www.sponichi.co.jp/gamble/yomimono/jinmyak/kiji/K20151201011607730.html 2020年9月10日閲覧。 

^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年

^ ソフトバンク周東が福本豊の日本記録に王手 10戦連続盗塁にどよめき - 西日本スポーツ 2020年10月27日

^ 星野の妻が病死した際は葬儀にも納骨まで出席し、晩年まで墓参りを欠かさなかった。田淵幸一や山本浩二と星野の「友達」関係とはまた違う、職場関係を越えた深い仲にあった(デイリースポーツの島野コラムより)。

^ 【こぼれ話】まさに一期一会。星野さんと島野さんを繋いだ52年前の運命の出会い 中日ドラゴンズオフィシャルサイト

^ 2024年7月号、ベースボールマガジン別冊薫風号、1969-1982 星野仙一と中日ドラゴンズ、SPECIAL INTERVIEW 背番号20を語る【バッテリー編】木俣達彦[元中日]「巨人戦で燃えた本当の理由」23頁

^ サンケイスポーツ内コラム「猛虎水滸伝」、2012年7月29日

^ “恩師の一言が生んだ覚醒「お前、わかってるやろな」 報道陣も驚いた異例の“罰則””. full-count (2023年12月10日). 2023年12月23日閲覧。

^ スポーツニッポン2022年3月26日11版、柏原純一の我が道㉕、引退と同時、フロリダでコーチ修行

^ 監督代行の代行/メモ

^ 日本プロ野球平成の名将―1989ー2012、2012年、ベースボール・マガジン社、P103

^ 球界デキゴトロジー/7月30日 島野育夫監督代行率いる中日が9点差の大逆転勝利(1995年7月30日) 週刊ベースボール2018年7月30日

^ ベースボールマガジン2015年3月号監督1年目の群像、岡田彰布[元阪神・オリックス監督]、[やりたいことをやるしかない。1年目だからって、周囲の声に惑わさせてはあかん!」58頁

^ 夢 命を懸けたV達成への647日、2003年、角川書店、P40

^ 本邦初公開 下柳氏が楽天入団時に背番号「91」選んだ理由 スポーツニッポン

栃木県出身の人物一覧

中日ドラゴンズの選手一覧

福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

阪神タイガースの選手一覧

個人年度別成績 島野育夫 - NPB.jp 日本野球機構

選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

1972 池辺巌, 広瀬叔功, 福本豊

1973 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊

1974 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊

1975 島野育夫, 弘田澄男, 福本豊

1976 B.ウイリアムス, 弘田澄男, 福本豊

1977 大熊忠義, 弘田澄男, 福本豊

1978 B.ウイリアムス, 福本豊, 簑田浩二

1979 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二

1980 平野光泰, 福本豊, 簑田浩二

1981 島田誠, 福本豊, 簑田浩二

1982 島田誠, 福本豊, 簑田浩二

1983 島田誠, 福本豊, 簑田浩二

1984 島田誠, 高沢秀昭, 簑田浩二

1985 金森永時, 島田誠, 簑田浩二

1986 西岡良洋, 山本和範, 山森雅文

1987 秋山幸二, 新井宏昌, 島田誠, 高沢秀昭

1988 秋山幸二, 高沢秀昭, 平野謙

1989 秋山幸二, 平野謙, 本西厚博

1990 秋山幸二, 西村徳文, 平野謙

1991 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙

1992 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙

1993 秋山幸二, 佐々木誠, 平野謙

1994 秋山幸二, イチロー, 佐々木誠

1995 秋山幸二, イチロー, 田口壮

1996 秋山幸二, イチロー, 田口壮

1997 イチロー, 井出竜也, 田口壮

1998 イチロー, 大友進, 大村直之

1999 秋山幸二, イチロー, 大友進

2000 イチロー, 柴原洋, 田口壮

2001 柴原洋, 田口壮, 谷佳知

2002 井出竜也, 小関竜也, 谷佳知

2003 大村直之, 柴原洋, 谷佳知, 村松有人

2004 谷佳知, 村松有人, SHINJO

2005 大村直之, サブロー, SHINJO

2006 稲葉篤紀, 森本稀哲, SHINJO

2007 稲葉篤紀, サブロー, 森本稀哲

2008 稲葉篤紀, 坂口智隆, 森本稀哲

2009 糸井嘉男, 稲葉篤紀, 坂口智隆

2010 糸井嘉男, 坂口智隆, 栗山巧

2011 岡田幸文, 糸井嘉男, 坂口智隆

2012 陽岱鋼, 糸井嘉男, 岡田幸文

2013 陽岱鋼, 糸井嘉男, 秋山翔吾

2014 陽岱鋼, 糸井嘉男, 柳田悠岐

2015 柳田悠岐, 秋山翔吾, 清田育宏

2016 秋山翔吾, 陽岱鋼, 糸井嘉男

2017 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝

2018 秋山翔吾, 柳田悠岐, 西川遥輝

2019 秋山翔吾, 荻野貴司, 西川遥輝

2020 柳田悠岐, 大田泰示, 西川遥輝

2021 荻野貴司, 辰己涼介, 柳田悠岐

2022 髙部瑛斗, 辰己涼介, 福田周平

2023 辰己涼介, 万波中正, 近藤健介

日本の野球選手

作新学院高等学校出身の野球選手

明電舎硬式野球部の選手

中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手

福岡ソフトバンクホークス及びその前身球団の選手

阪神タイガース及びその前身球団の選手

野球解説者

日本の野球監督

21世紀日本の実業家

競輪に関連する人物

星野仙一

栃木県出身の人物

胃癌で亡くなった人物

1944年生

2007年没

言葉を濁した記述のある記事 (いつ)/2012年1月-6月

野球に関する記事

プロジェクト人物伝項目

ウィキデータにある日本野球機構選手識別子

2024/09/26 09:59更新

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島野 庄三郎(しまの しょうざぶろう)
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島野 喜三(しまの よしぞう)
1934年11月27日生まれの有名人 大阪出身

島野 喜三(しまの よしぞう、1934年(昭和9年)11月27日 - 2020年(令和2年)7月3日)は、日本の実業家。島野工業(現・シマノ)第4代・代表取締役社長、会長、最高顧問。公益財団法人日本自…

島野 雅亘(しまの まさのぶ)
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島野育夫
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