昭和天皇の情報(しょうわてんのう) 皇族 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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昭和天皇さんについて調べます
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昭和天皇と関係のある人
土井たか子: 昭和天皇が崩御され平成が始まると自分の年齢を元号で計算するのがめんどうだとの理由で福島瑞穂、辻元清美と一緒に元号廃止を訴えた。 出雲井晶: 『戦をとどめえざりしくちをしさ 無私の聖 昭和天皇』 K&Kプレス(文庫)、2008年 金重陶陽: 「備前飛獅子置物」「彩色備前鬼瓦に鳩置物」を昭和天皇に献上。 米内光政: マッカーサーは日本の占領統治で天皇を利用するため、昭和天皇の戦争責任を問わない方針を定めていたが、連合国の中には「天皇の戦争責任を問うべきだ」とする国もあった。 東郷茂徳: 1941年(昭和16年)12月1日の御前会議において、戦後、国際検事局の尋問に対し東條英機が語ったところによれば昭和天皇から東條英機総理大臣に対し、「最終通告の手交前に攻撃開始の起こらぬように気をつけよ」との注意があったという。 榎本勝起: コンコルド機搭乗取材、ケネディ宇宙センター取材放送、アメリカ建国200年記念特別番組ワシントン他各地からの生中継、1985年の国際科学技術博覧会の開会式の総合司会、日本航空123便墜落事故、昭和天皇崩御等の特別番組も担当。 沢田廉三: 外務省きってのフランス語・英語の堪能者で、戦前は宮内省御用掛を兼務し、昭和天皇通訳を務め、戦後も元首等との通訳にあたった。 鈴木泰明: 昭和天皇の時代 乃木希典: 明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。 鈴木貫太郎: 1946年(昭和21年)1月、昭和天皇から御紋付木盃並びに酒肴料を下賜され、加えて特旨を以て宮中杖の携行を許された。 汪兆銘: 汪兆銘は元首待遇として昭和天皇に拝謁し、天皇から日中間の「真の提携」を願うとの言葉をかけられている。 柳生亮三: また生物学者でもあった昭和天皇から宮中にお召を受けて皇居にて生物学の御進講を2回行っている。 田中義一: 昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した。 丹羽保次郎: これは大阪毎日新聞社に採用され、1928年(昭和3年)の昭和天皇の即位大礼の写真電送に使用された。 石渡荘太郎: 太平洋戦争終結後、1945年(昭和20年)11月12日から11月15日にかけて行われた昭和天皇による戦争終熄奉告では、宮内大臣として供奉。 高松宮宣仁: 昭和天皇が病室に着御した時すでに親王の意識はなかったが、宣仁親王妃喜久子の願いもあり、天皇は手を握った。昭和天皇と今生の別れを行った約1時間後の13時10分、宣仁親王は肺癌のため東京・広尾の日本赤十字社医療センターで薨去。 今上天皇: この映画が公開された1986年(昭和61年)当時、“天皇裕仁”にあたる人物(崩御後の昭和天皇)は今上天皇であった。 木戸幸一: 1969年(昭和44年)、傘寿の際には、昭和天皇から賜杖を下賜されている。 エリザベス=バイニング: 明仁親王にアメリカ人の家庭教師をつけたいと望んだのは、父で第124代天皇・裕仁(現:昭和天皇)だった。 秩父宮雍仁: この葬儀に、昭和天皇は出御しなかった。 前坂俊之: 『写真集昭和天皇巡幸』河出書房 2013年5月(ISBN 9784309225920) 汪兆銘: 6月1日、汪兆銘政権の特使として褚民誼が来日し、昭和天皇に拝謁した。 田中角栄: 2009年(平成21年)3月 - 朝日新聞の『「昭和」といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査』において、人物の分野で回答の21%を占め3位以下を引き離し2位となった(1位は31%の昭和天皇であった)。 ジョセフ=キーナン: キーナンは、ダグラス・マッカーサーの意向を受けて、昭和天皇免訴の立場を取った。 ケニー=ホイーラー: 88年10月の来日時には、東京で2度のコンサートの予定があったが昭和天皇の健康状態により片方はキャンセル、九段会館だけでの演奏となった。 米内光政: この日は昭和天皇が伏見宮の更迭を口にした日でもあったが、及川は米内の復帰と伏見宮更迭を拒んでいる。 小磯国昭: しかし小磯は決戦方針の転換を聞かされておらず「レイテ決戦は天王山」と呼号し、昭和天皇から作戦中止を知らされて大恥をかいている。 山根二郎: 1969年昭和天皇パチンコ狙撃事件の犯人奥崎謙三(ドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公)の弁護人を担当。 板垣征四郎: 張鼓峰事件では板垣は昭和天皇に対し武力行使の裁可を求めた。 小磯国昭: 後任の首相には昭和天皇たっての希望で、海軍軍人で元侍従長の鈴木貫太郎が就任し、鈴木貫太郎内閣が成立した。 |
昭和天皇の情報まとめ
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昭和天皇(しょうわてんのう)さんの誕生日は1901年4月29日です。東京出身の皇族のようです。
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生涯、年譜などについてまとめました。現在、卒業、病気、事件、兄弟、結婚、父親、母親に関する情報もありますね。
昭和天皇のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)秩父宮雍仁親王↓ 昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈大正15年/昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。諱は裕仁(ひろひと)、御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。 1921年(大正10年)11月25日から1926年(大正15年/昭和元年)12月25日までの5年余りにわたって、父帝・大正天皇の健康状態の悪化により、摂政となり、自身の天皇即位まで務めた。現在、日本で最後に摂政に就任した人物である。60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した唯一の天皇である。大日本帝国憲法下においては最高司令官として大本営で実戦の指揮も執った。 1901年(明治34年)4月29日に皇太子嘉仁親王(当時、のちの大正天皇)と同妃節子(当時、のちの貞明皇后)の第1男子として誕生する。弟に、秩父宮雍仁親王(淳宮雍仁親王)、高松宮宣仁親王(光宮宣仁親王)、三笠宮崇仁親王(澄宮崇仁親王)の3人がいる。少年期は学習院初等科(院長:乃木希典)に通学し、卒業後は東宮御学問所(総裁:東郷平八郎)で教育を受けた。 1916年(大正5年)に立太子。日本の皇太子として初めてイギリス王国やフランス共和国、ベルギー王国、イタリア王国などをお召艦で訪問した(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。帰国後、父大正天皇の病気により摂政に就任(直近最後の摂政)。この他、外地にも行啓した(台湾行啓)。 1926年(大正15年/昭和元年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い皇位継承、第124代天皇として践祚する。 大日本帝国憲法下において「國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬(第4条)」と規定された立憲君主たる地位にあった。歴史学者の多くは、「戦前の昭和天皇は憲法上最高決定権を有していたものの、実際には政府が決定した方針を承認するのみだった」と指摘している。 但し、憲法が通常想定する大臣による輔弼が機能し得ない緊急的例外的局面(二・二六事件における反乱軍鎮圧や、第二次世界大戦の日本の降伏における連合国に対するポツダム宣言受諾決定など)については、自ら天皇大権を行使した。 1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法では、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴(第1条)」である天皇(象徴天皇制)であり「国政に関する権能を有しない(第4条)」とされている。また、昭和天皇は生物学研究者でもあり、『相模湾産後鰓類図譜』などを著した。 1971年(昭和46年)には天皇として初めて欧州各国を訪問し、1975年(昭和50年)には同じく天皇として初めてアメリカ合衆国を訪問した(いずれの外国訪問にも香淳皇后を同伴)。 1989年(昭和64年)1月7日に崩御。これに伴い、第1皇男子の皇太子明仁親王が皇位を継承して第125代天皇に践祚した。 生涯幼少時代1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、東京府東京市赤坂区青山(現:東京都港区元赤坂)の青山御所(東宮御所)において、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と同妃節子(のちの貞明皇后)の第一男子(親王)として誕生した。身長は1尺6寸8分(約51センチメートル)、体重800匁(3,000グラム)であった。明治天皇の初孫(内孫)であり、皇室典範の規定による「皇孫」の誕生であった。 御七夜の5月5日、称号を「 「迪」は『書経』の「允迪厥徳謨明弼諧」「恵迪吉従逆凶」に取材した。 「裕」は『易経』の「益徳之裕也」、『詩経』の「此令兄弟綽綽有裕」、『書経』の「好問則裕自用則小」、『礼記』の「寛裕者仁之作也」に取材した。 同日には、宮中賢所・皇霊殿・神殿において「御命名祭典」が、続いて豊明殿にて祝宴が催され、出席している皇族・大臣らが唱えた「万歳」が宮中祝宴において唱えられた初めての「万歳」と言われている。 生後70日の7月7日、御養育掛となった枢密顧問官の川村純義(海軍中将伯爵)邸に預けられた。御乳人として矢崎しげ、増田たまの両女が奉仕申し上げた。 1904年(明治37年)11月9日、川村の死去を受け弟・淳宮(のちの秩父宮雍仁親王)とともに沼津御用邸に住居を移転した。 1906年(明治39年)5月からは青山御所内に設けられた幼稚園に通い、1908年(明治41年)4月には学習院初等科に入学し、学習院院長の乃木希典陸軍大将に教育された。また、幼少時の養育係は清水しげ子と足立たか(当時、のち鈴木貫太郎夫人)が奉仕し、御遊戯のお相手として山階宮芳麿王殿下、千田貞清(千田男爵令孫)、久松貞謙(久松定詮伯爵令息)、稲葉直通(稲葉順通子爵令息)らが選ばれた。
![]() 父・大正天皇
![]() 母・貞明皇后
![]() 左から、迪宮裕仁親王(昭和天皇)、光宮宣仁親王(高松宮)、淳宮雍仁親王(秩父宮)(1906年、満5歳)
皇太子時代1912年(明治45年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・嘉仁親王が践祚したことに伴い、旧皇室典範の規定により皇太子となる。大正と改元されたあとの同年(大正元年)9月9日、皇族身位令第17条の規定により満11歳で陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第1連隊附および第一艦隊附となった。また、同日付で大勲位菊花大綬章を受章した。 翌1913年(大正2年)3月、高輪東宮御所へ住居を移転する。1914年(大正3年)3月に学習院初等科を卒業し、翌4月から東郷平八郎総裁(海軍大将)の東宮御学問所に入る。東宮御学問所では、杉浦重剛(倫理)、白鳥庫吉(歴史)、石井国次・山崎直方(地理)、飯島忠夫(国漢)、和田猪三郎・服部広太郎(理科)、吉江琢児(数学)、澤田節蔵・土屋正直・山本信次郎(仏語)、壬生基義(馬術)ら、学者や軍人・官僚らが教育にあたった。また、学習院時代からの学友5名が出仕して共に学んだ。 1914年(大正3年)10月31日、満14歳で陸海軍中尉に昇任した。1916年(大正5年)10月31日には満15歳で陸海軍大尉に昇任した。さらに、同年11月3日に宮中賢所で立太子礼を行い、正式に皇太子となった。 1918年(大正7年)1月、久邇宮邦彦王の第一女子・良子女王が皇太子妃に内定。ただし裕仁親王が自身の婚約を知ったのは翌年であり、翌々年になって儀礼的に面会したのみで、婚姻以前に良子女王と親しく会う機会は無かった。 1919年(大正8年)4月29日に満18歳となる。当初は誕生日に成年式が執り行われる予定であったが「都合により」延期された。5月7日に成年式が執り行われ、翌5月8日に大正天皇・貞明皇后主催の饗宴が催された。また、帝国議会貴族院皇族議員となり、践祚まで約7年8か月間在任した。 1920年(大正9年)10月に満19歳で陸海軍少佐に昇任した。1921年(大正10年)2月10日、良子女王との婚約に変更無しと公表され、婚約を巡る騒動は決着した(宮中某重大事件)。同年2月28日、東宮御学問所修了式が行われる。大正天皇の病状悪化のなかで、同年3月3日から9月3日まで、軍艦「香取」でイギリスをはじめ、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの欧州5か国を歴訪した(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。また往路で、沖縄に立ち寄ったのが、生涯唯一の同地訪問となった。英国訪問中の5月9日、イギリス国王ジョージ5世から「バス勲章」「ロイヤル・ヴィクトリア勲章」を授与され、「名誉陸軍大将(Honorary General)」に任命された。 ![]() 立太子した裕仁親王(1916年、満15歳)
![]() 立太子を祝賀し、宮城前広場に集う市民
![]() 内約中の良子女王(1918年頃、満15歳)
![]() 陸軍歩兵大尉の正衣を着用(1919年(大正8年)4月、満18歳)
![]() 訪英時、ロイド・ジョージ英首相と(1921年5月、満20歳)
摂政時代原敬暗殺事件に続き高橋是清内閣総理大臣(兼大蔵大臣)が組閣した1921年(大正10年)11月、皇太子は陸軍特別大演習の統監を代行した。直後の11月25日、大正天皇の「久シキニ亘ル疾患」を理由に、満20歳(数え年21歳)で摂政に就任し、以降は 当時は戦後処理の時期にあたり、1921年には太平洋に関する四国条約、1922年には支那に関する九国条約、山東懸案解決に関する条約、ワシントン海軍軍縮条約、日波通商航海条約に調印し、台湾事業公債、関東州事業公債を創設した。1923年(大正12年)4月には、戦艦「金剛」で台湾を視察する(台湾行啓)。 しかし、この頃若き摂政宮はビリヤードにはまっており、1922年(大正11年)11月23日の摂政就任後初の新嘗祭は松山にいたこともあり欠席した。この時、摂政宮は久松定謨の別邸でビリヤードをしていたという。 1923年(大正12年)9月1日には関東大震災が発生し、同年9月15日に震災による惨状を乗馬で視察し、その状況を見て結婚を延期した。10月31日に22歳で陸海軍中佐に昇任した。12月27日に虎ノ門附近で狙撃されるが命中せず命を取り留めた(虎ノ門事件)。 1924年(大正13年)1月7日、婚姻に先立って東宮職女官官制が制定され、大幅な規模縮小と習慣(源氏名、御所言葉等)が廃され、裕仁親王自身の主体的な意思により一夫一妻制の基盤が築かれた。同年1月26日、良子女王と結婚した。儀式は史上初の神道形式だった両親と同様の形式で執り行われた。また、裕仁親王は結婚を機に口ひげを生やすようになった。夫妻は2月24日に結婚式中「神宮ニ謁スルノ儀」として伊勢の神宮を参拝した。さらに二人は新婚の夏を福島県耶麻郡猪苗代町の高松宮翁島別邸(現天鏡閣)で仲睦まじく過ごした。西洋式の若い皇太子夫妻の姿は、文部省主導の生活改善運動を背景に、人々の憧れとなった。 1925年(大正14年)4月、赤坂東宮仮御所内に生物学御学問所を設置。8月、戦艦「長門」で、高松宮宣仁親王と朝融王を伴い、当時は南半分が日本領だった樺太を視察した(樺太行啓)。9月に赤坂離宮内に「生物学御研究所」が設立され、学問所時代から服部広太郎に師事して本格的な研究を行い、ライフワークとなった。10月31日に23歳で陸海軍大佐に昇任した。12月、第一皇女・照宮成子内親王(のちの盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。 ![]() 台湾総督府前で騎兵隊の出迎えを受ける(1923年撮影)
![]() 新婚の皇太子夫妻(1924年撮影、満23歳)
![]() 皇太子夫妻と照宮(1926年撮影、満25歳)
即位1926年(大正15年)12月11日には日帰りで、そして13日からは泊りがけで、皇太子夫妻は葉山御用邸に行啓し、重篤となった大正天皇を見舞った。そして12月25日午前1時25分、大正天皇が崩御した。 同日午前3時15分、掌典長が賢所で祭典(儀式)を行うとともに皇霊殿と神殿に奉告を行い、また同時刻に葉山御用邸で新天皇である第124代昭和天皇の「劔璽渡御ノ儀」が執り行われた。同日「 なお、即位に伴い皇太子は空位となり、長弟の秩父宮雍仁親王が皇位継承順位第1位の皇嗣である状態が、7年後の1933年(昭和8年)12月23日の継宮明仁親王の誕生まで続いた。 1927年(昭和2年)2月7日に大正天皇の大喪を執り行った。同年6月、赤坂離宮内に水田を作り、田植えを行う。同年9月10日、第二皇女・久宮祐子内親王が誕生した。同年11月9日に行われた愛知県名古屋市での名古屋地方特別大演習の際には、軍隊内差別について直訴された(北原二等卒直訴事件)。 1928年(昭和3年)1月17日、即位の礼と大嘗祭の期日が告示された。同年3月8日、第二皇女の久宮祐子内親王が薨去。9月14日、赤坂離宮から宮城内へ、皇后と共に遷御(転居)した。 天皇・皇后は、同年11月6日午前7時に宮城を発ち、鉄道で名古屋へ移動し同地に一泊した後、翌11月7日午後3時20分に京都皇宮へ到着した。そして、予定通り11月10日、京都御所で即位礼「紫宸殿ノ儀」を挙行。11月14日午後4時25分、天皇・皇后は京都皇宮を発ち、大嘗宮頓宮に到着。14日から翌15日にかけ大嘗宮で「大嘗宮ノ儀」(大嘗祭)を挙行した後、15日午前3時52分に頓宮を発って京都皇宮へ還御した。その後即位礼に関連する儀式として、同月21日に伊勢の神宮を、23日に神武天皇陵を、24日に仁孝天皇・孝明天皇陵を、25日に明治天皇陵をそれぞれ親謁した。26日に京都を発って名古屋で一泊した後、27日に東京に還御した。 1929年(昭和4年)4月26日、即位後初となる靖国神社の親拝。同年9月30日、第三皇女・孝宮和子内親王(のちの鷹司和子)が誕生した。 1931年(昭和6年)3月7日、第四皇女・順宮厚子内親王(のちの池田厚子)が誕生する。1932年(昭和7年)1月8日、桜田門外を馬車で走行中に手榴弾を投げつけられる(桜田門事件)。 1933年(昭和8年)12月23日、自身の5人目の子にして待望の第一皇子(皇太子)・継宮明仁親王(のちの第125代天皇、現・上皇)が誕生し、国民から盛大に歓迎祝賀される。 1935年(昭和10年)4月、日本を公式訪問する満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を歓待した。4月6日、東京駅に到着した溥儀を自ら出迎えた。赤坂離宮を溥儀の宿泊先とし、秩父宮と馬車に同乗させて宮城に招き入れ、鳳凰の間で天皇・皇后と会談した。昭和天皇は、溥儀を宮殿の車寄せで出迎えて案内し、帰りも車寄せで見送った。同日夜は、天皇・皇后と皇族・王公族らと会食を行った。4月14日夜に再び別れの会食を催し、翌4月15日に溥儀は東京駅を発った。同年11月28日、第二皇子・義宮正仁親王(のちの常陸宮)が誕生した。 ![]() 即位初期の昭和天皇(1928年撮影、満27歳、陸軍正装姿)
![]() 即位初期の昭和天皇(1928年撮影、満27歳、海軍正装姿)
![]() 即位礼に臨む昭和天皇、袍は黄櫨染御袍、冠は立纓御冠(1928年撮影、満27歳)
![]() 『タイム』誌1928年11月19日号表紙
1928年(昭和3年)、昭和天皇の即位の礼
切手に描かれた昭和天皇の大嘗宮
日中戦争と第二次世界大戦1937年(昭和12年)11月30日、支那事変の勃発を受けて宮中に大本営を設置。1938年(昭和13年)1月11日、第1回御前会議で『支那事変処理根本方針』を決定する。1939年(昭和14年)3月2日、自身の末子になる第五皇女・清宮貴子内親王(のちの島津貴子)が誕生する。 1939年(昭和14年)には、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。 満洲国皇帝溥儀が、1940年(昭和15年)6月26日から7月2日まで来日した際も、5年前同様に天皇自ら東京駅に出迎え、会食を複数回行っている。一方、同年5月にはナチスドイツはフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに対する電撃戦を決行してこれら諸国を占領。さらに7月からは英独航空戦を開始した。英国がドイツの本土上陸危機を凌いだ直後の9月27日、日独伊三国同盟の締結により、日本は西欧諸国や米国との対立を深めることとなった(ABCD包囲網)。 1941年(昭和16年)9月6日、第6回御前会議の冒頭で、祖父帝明治天皇の御製(和歌)を引用したが、太平洋戦争開戦に至る決定を覆すことはできなかった(後述)。同年12月1日に第8回御前会議で対米英開戦を決定。同年12月8日、マレー作戦と真珠湾攻撃が行われた後に、自身の名で『宣戦の詔書』を渙発することとなった。ここに大東亜戦争(当時の閣議決定による呼称、現在の太平洋戦争と日中戦争の総称)に突入した。 1942年(昭和17年)12月11日に東京を出御し、伊勢神宮へ必勝祈願で行幸後、13日に還御した。 1943年(昭和18年)1月8日、宮城吹上御苑内の御文庫に香淳皇后とともに移住した。同年5月31日に第10回御前会議において『大東亜政略指導大綱』を決定する。 1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲により、一夜で約10万人の死者を出すほど東京の下町地域は甚大な被害を受ける。皮肉にもこの日、長女の盛厚王妃成子内親王が第1子の信彦王を防空壕で出産し、昭和天皇にとっての初孫が誕生した。その8日後の3月18日に昭和天皇は東京都内へ行幸し、罹災状況を視察した。同年5月25日の空襲(山の手大空襲)では宮城に攻撃を受け、宮殿が炎上した。6月23日の沖縄戦組織的戦闘終結、8月6日の広島市への原子爆弾投下、8月8日のソ連対日参戦、8月9日の長崎市への原子爆弾投下を経て連合国によるポツダム宣言の受諾を決断し、8月10日の第14回御前会議では、重臣の賛否が同数で割れる中で、いわゆる「終戦の聖断」を披瀝した。8月14日の第15回御前会議でポツダム宣言の受諾を決定し、自身の名で『終戦の詔書』を渙発した(日本の降伏)。同日にはこれを自ら音読して録音し、翌8月15日にラジオ放送において自身の臣民に終戦を伝えた(玉音放送)。日本史上初めて、天皇の肉声が一般国民に伝えられた。この14から15日にかけての間、放送用に録音されたレコード(玉音盤)奪取を図って、受諾反対派の将校らによるクーデター未遂事件が発生した(宮城事件)。 昭和天皇は9月27日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を率いるダグラス・マッカーサーとの会見のため駐日アメリカ合衆国大使館を初めて訪問した(昭和天皇・マッカーサー会見)。11月12日に東京都を出御し、伊勢の神宮並びに神武天皇の畝傍山陵(現在の奈良県橿原市大久保町に所在)、祖父・明治天皇の伏見桃山陵(現在の京都府京都市伏見区桃山町古城山に所在)に親拝して終戦を奉告した後、同月15日に還御した。同月17日には、同様に父・大正天皇の多摩陵(現在の東京都八王子市長房町に所在)にも親拝した。 ![]() 大日本帝国陸軍特別大演習に際して(1932年撮影、満31歳)
![]() 靖国神社親拝(1932年撮影、満31歳)
![]() 陸軍始観兵式において「白雪」号に騎乗(1938年1月撮影、満36歳)
![]() 訪日した満洲国皇帝溥儀と(1940年撮影、満39歳)
![]() 玉音放送を告知する、当日の朝日新聞記事
「象徴天皇」として戦後、昭和天皇は1946年(昭和21年)1月1日の年頭詔書(いわゆる人間宣言)を渙発。「天皇ヲ以テ現御神トシ、日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」ことを「架空ノ概念」として全否定した上で、国民の団結に期待し、新日本建設への希望を述べた。 同年2月19日、戦災地復興視察のため神奈川県川崎市、横浜市(鶴見、横浜)へ行幸。天皇自身の発案により、以後1954年(昭和29年)8月まで全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を巡幸した(昭和天皇の戦後巡幸)。行幸に際しては、奉迎する国民に対して食事など、生活に関連した数多くの質問をし、「あ、そう」等の返答が話題となる(後述)。 1946年(昭和21年)11月3日、昭和天皇は大日本帝国憲法第73条の規定により同憲法を改正することを示す裁可とその公布文である上諭により日本国憲法を公布した。 1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法及び皇室典範が施行され、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」(第1条)と位置づけられた。同年6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席し、勅語で初めて一人称に「わたくし(私)」を用いる。同年10月14日付で、形式上は自発的な意思により伏見宮系皇族である11宮家51名が臣籍降下(皇籍離脱)し、10月18日に天皇・皇后、皇太后に対する朝見の儀の後、別離の夕食会が行われた。 1952年(昭和27年)4月28日に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効した。同年5月3日に皇居外苑で挙行された主権回復記念式典で「あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんこと期す」と述べ、占領期間中に話題に上った「天皇退位説」を否定した。また同年には、伊勢神宮と初代・神武天皇の畝傍山陵、祖父である明治天皇の伏見桃山陵にそれぞれ親拝し、「日本の国家主権回復」を奉告した。10月16日、初めて天皇・皇后が揃って靖国神社に親拝した。 1964年(昭和39年)10月の東京五輪開会式、及び、1972年(昭和47年)2月の札幌五輪開会式では、オリンピック憲章によって開催国の国家元首が行うと定められている開会宣言を行った。 1969年(昭和44年)1月2日に皇居新宮殿にて1963年(昭和38年)以来の皇居一般参賀が行われた。長和殿のバルコニーに立った際、奥崎謙三(暴行の現行犯で逮捕)からパチンコ玉で狙われた。昭和天皇は負傷こそなかったものの、これを機に、長和殿のバルコニーに防弾ガラスが設置されることになった。 1971年(昭和46年)、昭和天皇は香淳皇后とともに日本航空の特別機でイギリス、オランダなどヨーロッパ各国を歴訪し、1975年(昭和50年)に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を初訪問した。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で史上初の正式な記者会見が行われた。 1973年(昭和48年)5月26日、認証式のため参内した防衛庁長官(現在の防衛大臣職に相当)増原惠吉が内奏時の会話の内容を漏らし、「天皇の政治利用」と批判された。最終的に増原長官は、わずか3日後の5月29日に辞任することとなった(増原内奏問題)。 1976年(昭和51年)には、「天皇陛下御在位五十年記念事業」として立川飛行場跡地(東京都立川市)に「国営昭和記念公園」設置が決まった(開園は1983年)。11月10日に日本武道館で天皇陛下御在位五十年記念式典が挙行され、同日に記念切手が発行。また12月23日より(当時の皇太子明仁親王の誕生日)記念硬貨が発行され、発行枚数は7000万枚に上った。 1981年(昭和56年)、昭和天皇は80歳になるのを機に、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べ、以後恒例となった。同年2月24日、来日したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世と会見した。 1985年(昭和60年)7月12日、第108代後水尾天皇と並び歴代最高齢に達した際、自らの意向により祝賀行事などは行われなかったが、側近らによるお祝いで、好物の鰻重を食べたという。 1986年(昭和61年)4月29日、両国国技館で天皇陛下御在位六十年記念式典が挙行され、第26代継体天皇以降の歴代天皇で在位最長を記録した。 ![]() 神奈川県横浜市にて(1946年2月撮影、満44歳)
兵庫県神戸市にて、右は武装して警備にあたる米軍憲兵(1947年撮影、満46歳)
福岡県久留米市にて(1949年5月撮影、満48歳)
![]() 来日したジェラルド・R・フォード大統領と(1974年11月撮影、満73歳)
晩年1987年(昭和62年)4月29日、昭和天皇は86歳での天皇誕生日(旧:天長節)の祝宴会食中に、嘔吐症状で中座した。8月以降になり那須御用邸での吐瀉の繰り返しや、体重が減少するなど体調不良が顕著になった。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明した。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性があるため、9月22日に宮内庁病院で森岡恭彦(東京大学医学部附属病院院長)執刀により、歴代天皇で初めての開腹手術を受けた。病名は「慢性膵臓炎」と発表された(後述)。12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。 しかし、1988年(昭和63年)になると昭和天皇の体重はさらに激減し、8月15日の全国戦没者追悼式を最後に天皇としての公式行事出席を休止した。9月8日、那須御用邸から帰京する際に、原宿駅側部乗降場(皇室専用ホーム)ほかで映されたのが最後の公の姿となった。 9月18日には大相撲9月場所で天覧相撲が予定されていたが、高熱が続くため急遽中止となった。その翌19日の午後10時頃、大量吐血により救急車が出動、緊急輸血が始まった。以後は上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸、尿毒症を併発し、一進一退の状態となった。報道各社は数か月間「天皇陛下ご重体」の報道を続けた。 1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇は皇居吹上御所において宝算87歳をもって崩御した。 同年2月24日、新宿御苑において日本国憲法および皇室典範の下で初めての大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬された。愛用の品100点あまりが副葬品としてともに納められたとされる。 年譜1901年(明治34年)4月29日午後10時10分、父親の皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と母親の皇太子妃節子(のちの貞明皇后)との間に第一子・第一皇男子として、青山の東宮御所に誕生。
1908年(明治41年)、学習院初等科に入学。 1912年(大正元年)7月30日、祖父・明治天皇崩御、父・大正天皇の践祚に伴い皇太子となる。
同日、大勲位菊花大綬章を受章。 1914年(大正3年)3月、学習院初等科を卒業。 1916年(大正5年)11月3日、立太子礼。 1919年(大正8年)5月7日、成年式。 1921年(大正10年)3月3日から9月3日、ヨーロッパ諸国を歴訪する。
1923年(大正12年)12月27日、虎ノ門事件発生。 1924年(大正13年)1月26日、久邇宮邦彦王第一女子の良子女王と成婚。 1926年(大正15年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け葉山御用邸において剣璽渡御の儀を行い、大日本帝国憲法および旧皇室典範の規定に基づき、践祚して第124代天皇となる。
1928年(昭和3年)11月10日、京都御所にて即位の大礼を行う。 1932年(昭和7年)1月8日、桜田門事件発生。 1935年(昭和10年)、天皇機関説事件発生。 1937年(昭和12年)11月30日、支那事変の勃発を受け宮中に大本営を設置。 1941年(昭和16年)9月6日、第6回御前会議で異例の発言を行い、明治天皇の和歌を引用。
1945年(昭和20年)8月10日、第14回御前会議でポツダム宣言受諾の「終戦の聖断」を披瀝
1946年(昭和21年)1月1日、『新日本建設に関する詔書』(いわゆる人間宣言)を渙発する。 1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法施行により象徴天皇となる。 1964年(昭和39年)10月10日、東京五輪開会式において開会宣言を行う。 1971年(昭和46年)9月27日より、米国を経由し、欧州諸国を訪問(香淳皇后同伴)。 1972年(昭和47年)2月3日、札幌五輪開会式において開会宣言を行う。 1973年(昭和48年)5月、増原内奏問題発生。 1975年(昭和50年)9月30日から10月14日、アメリカ合衆国を訪問(香淳皇后同伴)。
1981年(昭和56年)1月2日、新年一般参賀において、参集した国民に対して初めて「お言葉」を述べる。 1987年(昭和62年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受ける。 1988年(昭和63年)8月15日、日本武道館での「全国戦没者追悼式」に単独出席、これが公の場への最後の親覧となる。 1989年(昭和64年)
1989年(平成元年)
2月24日、新宿御苑において「大喪の礼」が行われ東京都八王子市の武蔵野陵に埋葬される。日本国憲法と(現行の)皇室典範に基づき葬られた、最初の天皇である。 2014年(平成26年)8月21日、昭和天皇の言動を公式記録した「昭和天皇実録」を宮内庁が24年かけて完成させ、天皇明仁(当時)及び皇后美智子(当時)に奉呈した。本文60冊、目次・凡例1冊の計61冊で構成され、9月中旬に同庁が全ての内容を公表したのち、2015年(平成27年)から5年計画で全巻が公刊される。 2024/06/25 08:46更新
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syouwatennou
昭和天皇と同じ誕生日4月29日生まれ、同じ東京出身の人
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