本居宣長の情報(もとおりのりなが) 国学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
本居 宣長さんについて調べます
■名前・氏名 |
本居宣長と関係のある人
平田篤胤: 篤胤が本居宣長の名前と著作を知ったのは、宣長没後2年経った享和3年(1803年)のことであった。 平田篤胤: 復古神道(古道学)の大成者であり、大国隆正によって荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学の四大人(しうし)の中の一人として位置付けられている。 田中優子: 『江戸百夢』については、丸谷才一が「世界の中の江戸文化といふ関心は全巻にみなぎつてゐる」(「国際的把握」)「本居宣長とはまた違ふ角度からの日中文化比較論で、やまとごころを宣揚してゐる」「特筆に値するのは文章がいいこと」(例えば、事物の「列挙」)と評した。 芳賀登: 4 本居宣長の学問と思想 成田為三: 敷島の(本居宣長 詞) 千家尊福: 本居宣長は、記紀をもとに「顕事(あらわごと)」と「幽事(かくりごと)」との対立軸を著し、「顕事」とは現世における世人の行う所業(=頂点は天皇が行う政(まつりごと))であり、「幽事」とは目に見えない神の為せる事(=統治するのは大国主神)であるとした。 吉田秀和: 同じ鎌倉市に住まいがあったことから吉田が小林宅を訪れた際、出たばかりの自著『本居宣長』を放り投げ「君、出たよ」と吐き捨てるように言ったこともある。 敷島勝盛: 四股名は師匠である14代立田川の知人で、本居宣長の和歌「敷島の大和心を人とはば朝日に匂う山桜花」から引用して、曙の名も考えた大阪のちゃんこ屋経営者が付けた。 芳賀登: 『近世国学の大成者 本居宣長』1984(清水新書) 金田一春彦: それまで中国本国でも不明になっていた唐代の四声の音価を明らかにし、それによって『類聚名義抄』から契沖や本居宣長に至る文献の四声を解釈し、平安時代から現代に至る京都語のアクセントの時代的変化を明らかにした。 大野晋: 『本居宣長全集』 筑摩書房(全20巻・別巻3)、1968〜93年。 平田篤胤: 篤胤は本居宣長と同じく「日本は他のどの国よりも優秀である」と主張するが、宣長のように「日本人本来の心を取り戻すためには儒学的知を排除しなければならない」というような異文化排斥の態度をとらない。 大和心: 江戸時代になると、中期以降の国学の流れの中で上代文学の研究が進み、大和魂の語は本居宣長が提唱した「漢意(からごころ)」と対比されるようになって(真心)、「もののあはれ」「はかりごとのないありのままの素直な心」「仏教や儒学から離れた日本古来から伝統的に伝わる固有の精神」のような概念が発見・付与されていき、後期には「日本の独自性を主張するための政治的な用語」として使われるようになった。 芳賀登: 『本居宣長』牧書店(世界思想家全書)1965 三上章: 日本語文法研究を志す決意をしたとき、本居宣長の墓に詣でたという。 芳賀登: 『本居宣長 近世国学の成立』清水書院 1972/吉川弘文館〈読みなおす日本史〉 2017 本居長世: 国学者として著名な本居宣長の和歌山学党6代目に当たる。 吉川幸次郎: 特に本居宣長は「漢文は中国の発音で読み下すべき」とする信条の先覚として、戦前から私淑していた。 野口武彦: 本居宣長『宣長選集 直毘霊・くず花・玉くしげ・秘本玉くしげ』筑摩叢書、1986年10月 日野龍夫: 『本居宣長集 新潮日本古典集成』新潮社 1983年、新装版2018年 大和心: 敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花(本居宣長) 竹内浩三: 遺品は本居宣長記念館に寄贈されている。 平田篤胤: 本居宣長は、古典に照らして、人の魂はその死後、黄泉に行くと考えたともされる。 藤田東湖: 会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として著名であるが、藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。 熊野純彦: 『本居宣長』(作品社) 2018年 大西瀧治郎: また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した。 橋本進吉: これについては、水谷静夫が論じているほか、21世紀に入っての研究で、本居宣長や石塚龍麿の研究に従っていることが確認されている。 平田篤胤: すなわち、本居宣長が、人は死ねばその霊は汚き他界、つまり「夜見」(黄泉)の世界へゆくのであるから、人が死ぬことはじつに悲しいことであるとしたのに対し、篤胤は、人は生きては天皇が主宰する顕界(目に見える世界)の「御民(みたみ)」となり、死しては大国主神が主宰する「幽冥」(目には見えない世界、冥府)の神となって、それぞれの主宰者に仕えまつるのだから死後は必ずしも恐怖するものではないと説いた。 小林一茶: また、豊富な勉学の中で一茶は本居宣長の玉勝間、古事記伝などを読み、当時広まってきた国学思想に傾倒していく。 折口信夫: 両者は国学発展の祖に当たる賀茂真淵・本居宣長と同じく、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。 |
本居宣長の情報まとめ
本居 宣長(もとおり のりなが)さんの誕生日は1730年6月21日です。三重出身の国学者のようです。
病気、母親に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1801年に亡くなられているようです。
本居宣長のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日(1730年6月21日) - 享和元年9月29日(1801年11月5日))は、江戸時代の国学者(文献学・言語学)、医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵、鈴屋。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「 伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。契沖の文献考証と賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。 代表作には、前述の『古事記伝』のほか、『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戒慨言』などがある。 門下生も数多く、主な門人として田中道麿、服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・藤井高尚・高林方朗・鈴木朖・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。中には平田篤胤のように遺風を慕って没後に入門した者や、義門や伴信友のように門人とはなっておらずとも多大な影響を受けた者も少なからずいる。また、門人たちからは 享保15年(1730年)6月、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。幼名は富之助。 元文2年(1737年)に寺子屋で学ぶが、元文5年(1740年)に父を亡くす。延享2年(1745年)、江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年に郷里へと帰る。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記す」として「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆し、宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了。また、この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書』を延享3年より起筆、宝暦元年(1751年)頃まで書き継いだ。 寛延元年(1748年)、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、寛延3年(1750年)に離縁して松坂に帰る。このころから和歌を詠み始める。 1751年(宝暦元年)に義兄が亡くなり、宣長は小津家を継いだが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。宝暦2年(1752年)に母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する。医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して学問に打ち込む。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す。 景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。宝暦6年(1756年)頃から宣長は、日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠や契沖の学問に打ち込み、国学の道に入ることを志す。また、京都での生活に感化されたことで、王朝文化への憧れを強めていく。『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入したのも、この頃であるとされる。 宝暦7年(1757年)、宣長は京都から松坂に帰った。その後は自宅で医師を開業するかたわら『源氏物語』などの講義や『日本書紀』などの研究に励んだ。この年に刊行された賀茂真淵の『冠辞考』に触発され、国学の研究に本腰を入れることになる。 宝暦13年(1763年)2月3日、春庭が生まれる。5月25日、伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し(「松阪の一夜」)、『古事記』の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、宣長は『古事記』の本格的な研究に進む。この真淵との出会いは、宣長の随筆『玉勝間』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。その後、宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。 宣長は、一時は紀伊藩に仕えたが、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた。 60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)から散文集『玉勝間』を書き始め、その中で自らの学問・思想・信念について述べているほか、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。 寛政10年(1797年)6月13日、宣長は『古事記伝』を完成させた。起稿して34年後のことである。同年の9月13日には、『古事記伝』の完成を祝した歌会を開いている。 享和元年(1801年)没。71歳。山室町高峰の妙楽寺に葬られた。死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容のほか、命日の定め方、供養、墓の設計までにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」を残した。また、殿村安守が京都から鴨川井特を招いて、宣長像を描かせている。 享和2年(1802年)5月15日、大平が正式に本居家を相続し、春庭は大平方厄介となる。同年に一周忌法要が執り行われ、「遺言書」の指示により「鈴屋影前会」が開催される。 明治26年(1893年)3月29日の午後7時頃、松阪魚町2丁目から出火し、家屋1318戸、神社5社、寺院6院、官公庁4カ所が焼失した(明治の松阪大火)。本居家のある魚町1丁目は難を逃れたが、これにより本居清造は家と史料を後世に残すことを決意したという。 明治34年(1901年)に没後100年を迎える。11月4日から同月6日まで「本居宣長翁百年祭」が町を挙げて開かれた。 本居宣長旧宅(国指定史跡) 本居宣長ノ宮 ゆかりの地
鈴屋大人偶講学旧地(京都市下京区四条烏丸下ル、三菱東京UFJ銀行南脇) 宣長は『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を「自然に背く考えである」と非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。 宣長は儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道や儒家神道を強く批判し、「神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだ」と主張した。そして、「日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきた」として、「日本には言挙げをしない真の道があった」と強調した。逆に儒教や仏教は「国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道である」と批判し、天命論についても「易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為である」と批判した。さらに、朱子学の理気二元論についても、「儒学者達が推測で作り上げた空論である」と批判し、「世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだ」と主張した上で、「世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬である」とした。 宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、「時々の社会体制も全て神が司っているので、人は時々の社会体制に従うべきだ」とも主張している。「漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた、神により司られているため重んじるべきだ」とし、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した。そして、「道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道である」と主張した。 また、宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と、その背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。 日本語学の歴史上において、宣長には以下の功績が取り上げられる。 上代語の研究
漢字音の研究
字余りの法則の発見 同音の字音仮名遣の整理 濁音が二次発生であることの発見 『地名字音転用例』
『漢字三音考』
文法の研究
『御国詞活用抄』
こうした成果は、いずれも集積された用例という客観的証拠に基づいた帰納的方法論によるものである。これらの研究成果のうち、上代語の研究と漢字音の研究は、後に石塚龍麿が発展させて『古言清濁考』や『仮字用格奥山路』などを著した。とりわけ文法研究は、鈴木朖が発展させて『活語断続譜』や『言語四種論』などを著しているほか、実子の本居春庭が動詞の活用現象について『詞八衢』や『詞通路』などを著している。没後には東条義門が発展させて『山口栞』や『活語指南』などを著しているほか、富樫広蔭が組織化と体系化をはかって『詞玉橋』や『辞玉襷』などを著している。 宣長は鈴の蒐集家でもあり、駅鈴の複製品など珍しいものを多く所有しているほど鈴を愛した。天明2年(1782年)に自宅の2階の物置部屋を改造して作った新しい書斎を 鈴は宣長の学者としての象徴ともなり、宣長の地元である松阪市を象徴するものとして市民に愛されている。 平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた。 読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、「借りた本を傷めるな」「借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」などの考えを記している。 「法話聞書 赤穂義士伝」では、「大石良雄はいろいろのたわけを尽くし、天下の人に後ろ指をさされ笑われた」「大石良金はめかけの子」と義士を列記して毀損が綴られている。これは佐佐木信綱により「赤穂記」の名で紹介され、宣長の手になる原本が残っている。しかし、赤穂義士が精神的支柱とした朱子学を「支配者が己に都合よく作った忠義」として、さかしらの「からごころ」と批判する余り、ただの主観的な悪口になってしまっている。 医師になるための京都遊学の際の日記である『在京日記』や、吉野や飛鳥を歴訪した際の日記である『菅笠日記』など、宣長は膨大な量の日記を残した。それらについて、江戸時代の庶民の生活や町の様子、催されていた行事など、当時をうかがい知れる歴史史料として史料価値が高い。また京都の方広寺大仏(京の大仏)など今日現存しない建造物についての言及や、明和7年(1770年)7月28日夜に日本各地で観測されたオーロラへの言及などもあり、歴史学以外の他の分野からも注目される記述がある。 家業を手伝うも、読書に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動した。初め加賀藩から仕官の交渉があったが、遠国であり、老身であるため、仕官を好まず、『記伝』の執筆中もあって断った。この噂を聞いた紀州藩が対抗的に招き、寛政4年(1792年)、紀州藩に仕官し、御針医格十人扶持となった。 宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたったことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした。また、「乳児の病気の原因は母親にある」として、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。 しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。 日本書紀を「漢意のふみ」とし、大陸の強い影響などを糾弾していた。 宣長は天明6年(1786年)から翌年頃まで上田秋成と二度にわたって論争した。その結果を、宣長は「呵刈葭(かがいか、あしかりよし)」前後編の著作で、秋成は「安々言(やすみごと)」という形で著した。前編「上田秋成論難同弁」は、主として音便などの言語上の問題についての論争であり、後編「鉗狂人上田秋成評同弁」は「日の神論争」ともいわれ日本神話の解釈をめぐる論争である。 大和国吉野の水分神(吉野水分神社)が子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた。 儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった。 宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋などが明らかにしている。 『本居宣長全集』は筑摩版の他に、大正期に吉川弘文館(全12冊)、戦中期に岩波書店(6冊、未完)が刊行。 『本居宣長全集』筑摩書房(全20巻別巻3)、大野晋、大久保正編、1968-1977年 『本居宣長 日本思想大系40』 吉川幸次郎、佐竹昭広、日野龍夫校注、岩波書店、1978年 『本居宣長集 新潮日本古典集成』 日野龍夫校注、新潮社、1983年、新装版2018年
今西祐一郎校注 『古今集遠鏡』平凡社東洋文庫 全2巻、2008年 白石良夫訳注 『本居宣長 「うひ山ぶみ」全訳注』講談社学術文庫、2009年 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』
『排蘆小船 宣長「物のあはれ」歌論』 子安宣邦校注、岩波文庫 2003年 『紫文要領』 子安宣邦校注、岩波文庫 2010年 『宣長選集』野口武彦編・校注、筑摩叢書 1986年。「玉くしげ」など 『現代語訳 本居宣長選集』山口志義夫訳、多摩通信社、新書判
2.『馭戎慨言 - 日本外交史』2009年 3.『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)2010年 4.『源氏物語玉の小櫛 - 物のあわれ論』(源氏物語玉の小櫛、第一巻、第二巻)2013年 『本居宣長 コレクション日本歌人選058』山下久夫編、和歌文学会監修、笠間書院 2012年 『古事記伝』 村岡典嗣校訂、岩波文庫全4巻(全44巻のうち第1から第17巻まで) 『源氏物語年紀考』 『紫文要領』 『源氏物語玉の小櫛』 『直毘霊(なおびのみたま)』 村岡典嗣校訂、岩波文庫 『玉鉾百首』 同上 『玉くしげ』 村岡校訂 『鈴野屋問答』 村岡校訂 『うひ山ぶみ』 同上、学問論でもある。 『古今集遠鏡』 『排蘆小船』 『漢字三音考』 『てにをは紐鏡』 『字音仮字用格』 『詞の玉緒』 『地名字音転用例』 『玉勝間』 『石上私淑言』 『くず花』 『秘本玉くしげ』 『馭戒慨言』 『大日本天下四海画図』考證の為の自筆稿本(資料集) 『都考抜書(とこうばっしょ)』考證の為の自筆稿本(資料集) 『鈴屋集』 宣長以後、本居家は家督を継いだ養子大平の系譜に連なる和歌山の本居家と、実子春庭の系譜に連なる松坂の本居家に分かれる。 1本居宣長 2本居大平(1756-1833):本居宣長養子。
(本居清島)(1789-1821):本居大平次男。33歳で早逝する。 3本居内遠(1792-1855):本居大平養子。学識は宣長に次ぐといわれる。
4本居豊穎(1834-1913):本居内遠長男。近代を代表する国学者。
(増田于信)(1862-没年不詳):明治17年(1884年)に本居豊穎の養子となるが、まもなく離縁。 5本居並子(1843-1886):本居豊穎長女。 6本居長世(1885-1945):本居並子次男(増田于信長男)。作曲家。童謡の先駆者。 7本居雷章(菱山修三)(1909-1967):本居長世養子。詩人。 1本居宣長 2本居春庭(1763-1828):本居宣長長男。32歳で失明。 3本居有郷(1804-1852):本居春庭長男。 4本居信郷(1825-1900):本居有郷養子。本居宣長曾孫。 5本居清造(1873-1958):本居信郷次男。本居豊穎から学統を継承する。 6本居弥生(1903-1983):本居清造長男。 7本居芳野(1942-):東京都在住。 ^ 真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張したという。 ^ 組織を掌握する必要性から書き起こした『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載されている。 ^ 父は小津三四右衛門定利。兄の宗五郎定治は養子。宣長は実子としては長男だった。 ^ 江戸店にて病死、享年46歳。 ^ 商売見習いのためであったと考えられる。 ^ 江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳。 ^ 『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書。 ^ この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。 ^ 寛政4年(1792年)に五人扶持 ^ 伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。 ^ 天文学的な、0時(当時の表現で「九つ(ここのつ)」)を日付の境とする考え方は、まだ一般的には普及しておらず、日の出を境とする意識が(当時のインテリである宣長にはともかく、残される他の者には)多かったということだろうが、そういったことまで詳細に述べている。 ^ 兼題と当座を手向けるもので、明治36年(1903年)まで続いたとされる。なお、春庭没後からは父子の悼前会として開催された。 ^ 昭和26年(1951年)12月16日の午後10時30頃、第二小学校の講堂付近より出火して700戸余が類焼した「昭和の松阪大火」と区別される。 ^ 同年には静岡県浜松市で「賀茂真淵記念館」が開館しており、昭和60年(1985年)に本居宣長記念館と友好提携を結んだ。 ^ 前身として昭和61年(1986年)から開講していた「月例懇話会」がある。 ^ 宣長にとってこの歌は自身の心とも言える特別なものだったらしく、自選歌集『鈴屋集』には載せず、人から乞われた時のみ染筆している。しかし、近代において新渡戸稲造が『武士道』で引用して武士道と結びつけて以降、たばこの銘柄(「敷島」「大和」「朝日」「山櫻」)に選ばれたほか、日本文学報国会撰「愛国百人一首」にも選ばれており、神風特攻隊の諸部隊の名称にも使用されるなど、軍国主義のイデオロギーとして利用された。 ^ 儒教を体系化した孔子その人には好意的であり、「聖人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」という歌を詠んでいる。 ^ 一方で、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは、堀景山を介して多大な影響を受けていることも指摘されている。 ^ 宣長は明和2年(1765年)に、「神典解釈が儒意を離れていない」と指摘した長文の漢文書簡を谷川士清に差し出している。これに対して士清は、学風こそ譲らなかったが、宣長の優れた学才を認め、これを機に互いの著述や原稿を見せ合って活発に議論したほか、互いの蔵書を貸借するなど、書簡を通して交流を深めた。なお、宣長は京都遊学中に、士清の『日本書紀通証』の諸説を抄録しているほか、同書巻1の附録「和語通音」を写し取っている。 ^ 実際、宣長は『玉鉾百首」で「東照るかみのみことの安国としづめましける御代はよろづ代」という歌を詠み、徳川幕藩体制を賞賛している。 ^ 『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している。 ^ 宣長以前は必ずしも当然の方法論ではなかった。また、この方法論は宣長の独創ではなく、契沖などから学ぶところが大きいが、表記研究のみならず文法研究などにも拡大したところが重要である。 ^ なお前述の、宣長と昵懇だった松平康定は、義士の泉岳寺引き上げを妨害した浜田藩主・松平康宦の養曽孫にあたる。 ^ 大日本天下四海画図より現代語訳 ^ 1883年(明治16年)に贈位。山室山神社 -本居宣長記念館 ^ 『官報』第6718号「叙任及辞令」1905年11月20日。 ^ 大久保正「本居宣長」(日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1815) ^ “国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味”. goo国語辞書. 2020年7月22日閲覧。 ^ 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版(原著2009-2-2)。ISBN 9784407316599。 ^ 千葉真也「古事記伝」(本居宣長記念館 2001, pp. 28–29) ^ 杉戸清彬 「馭戎慨言」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 506) ^ 矢田勉 (2016), p. 52. ^ 鈴木香織「小津定利」(本居宣長記念館 2001, pp. 104–105) ^ 鈴木香織「小津宗五郎」(本居宣長記念館 2001, pp. 105–106) ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 1. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 2. ^ 乾善彦「契沖」(本居宣長記念館 2001, p. 122) ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 3. ^ 寺田泰政「冠辞考」(本居宣長記念館 2001, p. 15) ^ 内田宗一 (2016), p. 43. ^ 内田宗一 (2016), p. 42. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 4. ^ 杉戸清彬 「玉勝間」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, pp. 1189–1190) ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 108. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 12. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 15. ^ 『こよみと天文・今昔』 p. 93 ^ 本居宣長記念館 (2022), pp. 102–103. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 16. ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 105. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 17. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 28. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 29. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 30. ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 4. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 40. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 32. ^ 岩田隆「「鈴屋学会」のこと 松阪に「宣長」敬愛深く」『中部読売新聞』、昭和60年5月17日付、17面。 ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 44. ^ 田中康二 (2012), p. 224. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 45. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 48. ^ 「「鈴屋学会」が発足 本居宣長を総合的に研究 「宣長学」の確立目指さうと」『神社新報』、昭和60年1月28日付、3面。 ^ 本居宣長記念館 (2018), pp. 50–65. ^ 石田孝喜 (2001), p. 250. ^ 杉立義一 (1984), pp. 296–297. ^ 『心力をつくして ─本居宣長の生涯─』pp.70-72 ^ 河村直哉「戦後、遠ざけられたもの」『産経新聞』、平成30年4月1日付、9面。 ^ 田中康二 (2009), pp. 134–141. ^ 吉田悦之「孔子」(本居宣長記念館 2001, p. 124) ^ 高橋俊和「古文辞学」(本居宣長記念館 2001, p. 217) ^ 城福勇 (1980), p. 221(新装版第二刷1990年) ^ 平井吾門 (2016), p. 46. ^ 足立巻一 (1983), p. 170. ^ 村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936 ^ 丸山真男『日本政治思想視研究』東京大学出版会,1952 ^ 白石良夫『うひ山ぶみ』講談社学術文庫,2009 ^ 矢田勉 (2016), p. 53. ^ 竹田純太郎「地名字音転用例」(本居宣長記念館 2001, p. 54) ^ 矢田勉 (2016), p. 54. ^ 矢田勉 (2016), p. 55. ^ 安田尚道 (2023), pp. 276–278(初出:安田尚道 2016) ^ 坪井美樹 (2016), pp. 69–70. ^ 中村朱美 (2016), pp. 62–63. ^ 仁田義雄 (2021), pp. 134–135. ^ 本居宣長記念館 (2022), pp. 70–71. ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 89. ^ 「端原氏城下絵図」(はしはらし じょうか えず) ^ 『本居宣長全集』第二十巻(筑摩書房) ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年 p.95 ^ 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106 ^ http://www.norinagakinenkan.com/tenji/10haru/10haru07.html ^ 出村嘉史 他 『本居宣長「在京日記」にみる行楽地としての東山景域の構成』2007年 ^ https://www.norinagakinenkan.com/kongetu7.html ^ 城福勇 (1980), pp. 187–188(新装版第二刷1990年) ^ 青柳精一 (1996), pp. 160–163. ^ 布施昌一「医師の歴史」中央公論 1979 ^ “『日本書紀の誕生: 編纂と受容の歴史』(八木書店) - 編集:遠藤 慶太,河内 春人,関根 淳,細井 浩志 - 河内 春人による本文抜粋”. 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吉川幸次郎『仁斎・徂徠・宣長』(松岡正剛の千夜千冊) 本居宣長記念館 1. 国学者 | あの人の直筆 - 国立国会図書館 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ 日本 チェコ 韓国 オランダ ポーランド CiNii Books CiNii Research SNAC IdRef 文学ポータル 日本ポータル 三重県ポータル 神道ポータル 民俗学ポータル 神話伝承ポータル 人物伝ポータル 本居宣長 18世紀の国学者 18世紀の歌人 神道に関連する人物 日本の神 (人物神 江戸時代) 従三位受位者 伊勢国の人物 紀州藩の人物 江戸時代の医師 江戸時代の歌人 本居家 日本の日記作家 1730年生 1801年没 律令学 2024/11/30 11:56更新
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motoori norinaga
本居宣長と同じ誕生日6月21日生まれ、同じ三重出身の人
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