泉鏡花の情報(いずみきょうか) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
泉 鏡花さんについて調べます
■名前・氏名 |
泉鏡花と関係のある人
武田麟太郎: 中学の友人らの影響で文学に興味を持った麟太郎は、1919年(大正8年)の3年生の頃は、島田清次郎、徳冨蘆花などを読み、小説好きの母・すみゑが愛読していた尾崎紅葉の『金色夜叉』、泉鏡花、岩野泡鳴なども読んだ。 小村雪岱: 久保夫人と泉鏡花夫人は昵懇であったようで、「明日は鏡花本人もここにお邪魔します」という言葉を聞いて、既に鏡花の小説を愛読していた雪岱は、再びその宿屋を訪れた。 山尾悠子: 2018年発表の『飛ぶ孔雀』で第46回泉鏡花文学賞、第39回日本SF大賞、第69回芸術選奨文部科学大臣賞(文学部門)を受賞した。 高橋恵子: 日本橋(2011年、新派、作:泉鏡花、補綴:戌井市郎、演出:齋藤雅文) - 清葉 平川大輔: 新釈 鏡花あやかし秘帖 シリーズ(泉鏡花) 田村孟: 原作・泉鏡花。 筒井康隆: 同年、登場人物が自身を虚構内の存在だと意識しているという設定を持つ『虚人たち』で泉鏡花文学賞を受賞。 わたなべまさこ: 昭和初期の日本的情緒の中で女の魔性を描く『小間使い』等の短編は、1990年代に入ってから泉鏡花原作『夜叉ヶ池』等の近代文学の漫画化にもつながり、同時期には長編『かおるの最後の顔』短編『華燭』メアリ・H・クラーク原作『永遠の闇に眠れ』等、現代を舞台にしたミステリの佳作も多い。 五木寛之: 泉鏡花文学賞 1973 - 寺田透: 泉鏡花 筑摩書房 1991 溝口健二: 1929年1月公開の泉鏡花原作『日本橋』でようやく監督に戻り、同年は主題歌と共にヒットした『東京行進曲』や、当時隆盛した左翼思想を反映した内容の『都会交響楽』で成功を収めた。 浅丘ルリ子: 1980年代以降は活動の中心を舞台に移し、泉鏡花の作品などに出演している。 磯崎憲一郎: 2013年『往古来今』で泉鏡花文学賞受賞。 生田耕作: 古書収集家としても知られ、次男・生田敦夫と共に収集を続けた泉鏡花コレクションは、点数の多さとクオリティーの高さが大きく評価されている。2004年(平成16年)に「生田コレクション」として全点、金沢市の泉鏡花生家跡にある泉鏡花記念館に収まる。 石和鷹: 編集者としての活動の傍ら執筆を行い、1985年「掌の護符」(『早稲田文学』)で芥川賞候補、続いて「果つる日」で同候補、89年『野分酒場』で泉鏡花文学賞、95年『クルー』で芸術選奨文部大臣賞、97年『地獄は一定すみかぞかし』で伊藤整文学賞を受賞した。 東雅夫: 『泉鏡花『高野聖』作品論集』 クレス出版 2003年 金子みすゞ: 童謡詩人会の会員は西條八十、泉鏡花、北原白秋、島崎藤村、野口雨情、三木露風、若山牧水など。 赤江瀑: 1983年 『海峡』『八雲が殺した』で泉鏡花文学賞を受賞。 巌谷大四: 『人間泉鏡花』東京書籍(東書選書)1979 丸谷才一: 2003年11月、長編第6作『輝く日の宮』が第31回泉鏡花文学賞を受賞。 斉藤壮馬: 神楽坂怪奇譚「棲」体感型配信怪奇譚(2020年8月16日、オンライン配信、泉鏡花 役) 溝口健二: この作風は下町情緒を描いた『紙人形春の囁き』『狂恋の女師匠』で定まりはじめ、泉鏡花原作の『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』や、1930年代の『神風連』『愛憎峠』『マリアのお雪』『虞美人草』の「明治物」と呼ばれる作品など、明治風俗を様式的に表現する新派悲劇的な作品などに見られた。 後藤仁美: ^ 「月船さららのmetro「衣衣」泉鏡花作品を原案に、結城一糸らが出演」ステージナタリー(2018年1月21日) 溝口健二: その例は『残菊物語』『雨月物語』『山椒大夫』に見られるが、映画批評家の佐藤忠男は、泉鏡花原作ものの『日本橋』『滝の白糸』『折鶴お千』でも女芸人や芸者が若者の男の出世を助け、その犠牲となって身を滅ぼす姿が描かれていると指摘している。 高橋治: 1977年 シベリア出兵を描いた『派兵』(未完)により泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。 笠原伸夫: 『泉鏡花 エロスの繭』国文社 1988 横尾忠則: 2008年 - 初の小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞受賞。 尾崎紅葉: 泉鏡花、田山花袋、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声など優れた門下生がいる。 岡本信彦: 明治東亰恋枷 Full Moon(泉鏡花) 森内俊雄: 1973年 - 『翔ぶ影』で第1回泉鏡花文学賞。 |
泉鏡花の情報まとめ
泉 鏡花(いずみ きょうか)さんの誕生日は1873年11月4日です。石川出身の作家のようです。
趣味、母親、事件、映画、結婚、姉妹、事故、兄弟、病気、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1939年に亡くなられているようです。
泉鏡花のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)泉 鏡花(いずみ きょうか、本名:泉 鏡太郎(いずみ きょうたろう)、1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)は、日本の小説家。明治後期から昭和初期にかけて活躍した。小説のほか、戯曲や俳句も手がけた。帝国芸術院会員。 金沢市下新町生まれ。尾崎紅葉に師事した。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』で人気作家になる。江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで、幻想文学の先駆者としても評価されている。ほかの主要作品に『照葉狂言』『婦系図』『歌行燈』などがある。 1873年(明治6年)11月4日、石川県金沢市下新町に生まれる。父・清次は、工名を政光といい、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金などの錺職人であった。母・鈴は、加賀藩御手役者葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の末娘で、江戸の生まれ。幼少期における故郷金沢や母親の思い出は後年に至るまで鏡花の愛惜措く能わざるものとなり、折にふれて作品の中に登場する。 1880年(明治13年)4月、市内養成小学校(現・金沢市立馬場小学校)に入学。1883年(明治16年)12月に母が次女・やゑ出産直後に産褥熱のため逝去し(享年29)、鏡花は幼心に強い衝撃を受ける。 1884年(明治17年)6月、父とともに石川郡松任の摩耶夫人像に詣った。このとき以来、鏡花は終生、摩耶信仰を保持した。9月、金沢高等小学校に進学、翌年には日本基督一致教会のミッション・スクール北陸英和学校に転じ英語を学ぶが、1887年(明治20年)にはここも退学し、市内の井波他次郎私塾で英語などを講じた。 1889年(明治22年)4月、友人の下宿において尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。また6月に富山旅行。この時期、叔母などに小遣いをせびって貸本を濫読するとともに、私塾の講師のようなことを務めていたが、11月に紅葉の門下に入ることを志して上京。 1891年(明治24年)10月19日、ついに牛込の紅葉宅を訪ね、快く入門を許されて、その日から尾崎家での書生生活を始める。翌年12月、金沢市の大火の際に一時帰郷した以外、鏡花は尾崎家にあって、原稿の整理や雑用にあたり、紅葉の信頼を勝ち得る。 1893年(明治26年)5月、京都日出新聞に真土事件を素材とした処女作『冠弥左衛門』を連載。紅葉の斡旋による。紅葉は新聞社の不評を理由にした打ち切り要請を説得し、慣れない鏡花にアドバイスを与えながら、ついにこれを完結させた。同年さらに『活人形』(探偵文庫)、『金時計』(少年文学)を発表。8月には脚気療養のため一時帰郷し、そのついでに京都、北陸に遊んで後に帰京。このときの紀行をもとに『他人の妻』を執筆する。 1894年(明治27年)1月、父が逝去し、再び金沢に帰る。生活の術を失い、文筆をもって米塩の途とせんことを切に願う。『予備兵』『義血侠血』などを執筆し、紅葉の添削を経て読売新聞掲載。実用書の編纂などで家計を支えながら、1895年(明治28年)には初期の傑作『夜行巡査』(文芸倶楽部)と『外科室』(同前)を発表。「夜行巡査」は、『青年文学』において田岡嶺雲の賛辞を得、このおかげで『外科室』は『文芸倶楽部』の巻頭に掲載されることになった。この年6月、金沢に帰り、祖母を見舞う。 脚気が完治せず体調は悪かったが、1896年(明治29年)にはさらに『海城発電』(太陽 (博文館))、『琵琶伝』(国民之友)、『化銀杏』(青年小説)を発表し、賛否両論を受けた。5月には金沢の祖母を引きとって一家を構え、旺盛に執筆を続け、ついに10月には読売新聞に『照葉狂言』の連載を始める。1897年(明治30年)に『化鳥』『笈ずる草紙』、1898年(明治31年)に『辰巳巷談』など。このころ酒の味を覚え、盛んに遊び歩く。1899年(明治32年)には『湯島詣』を春陽堂から書きおろし刊行。1900年(明治33年)『高野聖』(新小説)、1901年(明治34年)『袖屑風』(同前)、1902年(明治35年)『起請文』(同前)などを世に問う。 1902年(明治35年)、胃腸病のため逗子に静養。吉田賢龍の紹介によって知った芸妓の伊藤すずが台所を手伝いにくる。翌1903年(明治36年)1月、2人は牛込神楽坂に転居し同棲を始める。4月、同棲が紅葉に知られ叱責を受け別離するが、秘密裏に交際は続けていた。10月30日にはその紅葉が急逝し、衝撃を受ける。鏡花は硯友社同人とともに紅葉の葬儀を取り仕切った。11月、『国民新聞』に『風流線』を連載し始める。1904年(明治37年)、『紅雪録』正続。1905年(明治38年)は2月20日に祖母を失い、7月には自身も胃腸病悪化のため3年前にも静養した逗子に転居した。一方で、執筆意欲は止まらず『銀短冊』(文芸倶楽部)や『瓔珞品』(新小説)を連載。1906年(明治39年)、『春昼』(同前)発表。翌1907年(明治40年)1月、やまと新聞において『婦系図』の連載開始。1908年(明治41年)、『草迷宮』を春陽堂より刊行。1909年(明治42年)、2月に逗子から麹町(土手三番町)に転居、東京に戻る。『白鷺』を発表(東京朝日新聞)。1910年(明治43年)、『歌行燈』(新小説)、『三味線堀』(三田文学)。『三味線堀』掲載にあたっては鏡花を評価していた永井荷風の好意を受ける。この年から『袖珍本鏡花集』(五巻)の発行が始まり、すでにその文名は確立し人気作家の1人となっていた。5月には終生の住まいとなった麹町下六番町に転居。 1911年(明治44年)、『銀鈴集』を隆文館より刊行。1912年(大正元年)、『三人の盲の話』(中央公論)、1913年(大正2年)、『印度更紗』(同前)。大正期には戯曲にも志を持ち、『夜叉ヶ池』(演芸倶楽部)、『海神別荘』(中央公論)を発表。1914年(大正3年)、『日本橋』を千章館より刊行し、ここで初めて装画の小村雪岱とのコンビを組む。1915年(大正4年)、『夕顔』(三田文学)。『鏡花選集』と『遊里集』を春陽堂より刊行。1916年(大正5年)、『萩薄内証話』。1917年(大正6年)、『天守物語』(新小説)。1919年(大正8年)、『由縁の女』を婦人画報に連載開始。1920年(大正9年)1月、『伯爵の釵』(婦女界)。このころ映画に興味を持ち、谷崎潤一郎や芥川龍之介と知り合う。1922年(大正11年)、『身延の鶯』を東京日日新聞に連載開始。同年、『露宿』『十六夜』。1923年、関東大震災で被災、すずとともに2日間、四谷見附付近の公園で過ごした。1924年(大正13年)、『眉かくしの霊』(苦楽)。 1925年(大正14年)、改造社より『番町夜講』刊行。また春陽堂より『鏡花全集』刊行開始、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫が編集委員を務めた。(1927年に完結)。この年、出会いから27年目、鏡花52歳にしてすずと入籍。1927年(昭和2年)、『多神教』(文藝春秋)を執筆。 同年7月24日、芥川自殺の一報を聞き、泣き崩れるほどのショックを受ける。同月27日、芥川の葬儀に出席。 同年8月、東京日日新聞と大阪日日新聞の招待で十和田湖、秋田などを旅行。またこの年から、鏡花を囲む九九九会(くうくうくうかい)が、里見と水上を発起人として始まり、常連として岡田三郎助、鏑木清方、小村雪岱、久保田万太郎らが毎月集まった。会の名は、会費十円を出すと一銭おつりを出すというところから。1928年(昭和3年)、肺炎に罹患し、予後静養のために修善寺を訪れる。この年、各社の文学全集(いわゆる円本)で鏡花集が刊行される。1929年(昭和4年)、能登半島に旅行。この前後は紀行文の類が多い。1930年(昭和5年)、『木の子説法』(文藝春秋)。1931年(昭和6年)、『貝の穴に河童の居る事』(古東多万)。1932年(昭和7年)、『菊あはせ』(文藝春秋)。1934年(昭和9年)、『斧琴菊』(中央公論)。1936年(昭和11年)、戯曲『お忍び』(中央公論)。1937年(昭和12年)、晩年の大作『薄紅梅』を東京日日新聞、大阪毎日新聞に連載する。『雪柳』を中央公論に発表。帝国芸術院会員に任ぜられる。1938年(昭和13年)、体調を崩し、文筆生活に入って初めて一作も作品を公表しなかった。1939年(昭和14年)7月、『縷紅新草』を『中央公論』に発表するも、この月下旬より病床に臥し、9月7日午前2時45分、癌性肺腫瘍のため逝去。10日、芝青松寺にて葬儀が行われた。戒名は幽幻院鏡花日彩居士。里見弴が佐藤春夫に命じ、徳田秋聲が選んだ。1940年、岩波書店より鏡花全集が刊行された。墓所は雑司ヶ谷霊園にあったが、2024年(令和6年)3月に妻・すずが深く帰依していた菩提寺の円福寺(東京・神楽坂)へ改葬された。 1873年(明治06年) - 石川県金沢市下新町に生まれる。本名、鏡太郎。 1880年(明治13年) - 市内養成小学校に入学。 1884年(明治17年) - 金沢高等小学校に進学。 1889年(明治22年) - 尾崎紅葉の『二人比丘尼色懺悔』を読んで文学に志す。紅葉の門下に入るため上京。 1891年(明治24年) - 紅葉に入門を許され、書生生活を始める。 1893年(明治26年) - 京都日出新聞に『冠彌左衛門』を連載。『活人形』『金時計』を発表。 1894年(明治27年) - 『予備兵』『義血侠血』を発表。 1895年(明治28年) - 文芸倶楽部に『夜行巡査』『外科室』を掲載。 1896年(明治29年) - 金沢の祖母を引き取り一家を構える。読売新聞に『照葉狂言』を連載。 1900年(明治33年) - 『高野聖』を発表。 1902年(明治35年) - 胃腸病のため逗子に静養。 1903年(明治36年) - 紅葉が急逝。 1907年(明治40年) - やまと新聞に『婦系図』を連載。 1913年(大正02年) - 『夜叉ヶ池』『海神別荘』を発表。 1919年(大正08年) - 婦人画報に『由縁の女』を連載。 1925年(大正14年) - 春陽堂より『鏡花全集』を刊行。 1928年(昭和03年) - 肺炎に罹患する。各社の円本で鏡花集が刊行される。 1937年(昭和12年) - 東京日日新聞、大阪毎日新聞に『薄紅梅』を連載。帝国芸術院会員になる。 1939年(昭和14年) - 中央公論に『縷紅新草』を発表。9月7日、癌性肺腫瘍のため東京市麹町区下六番町の自宅で逝去。 1973年(昭和48年) - 泉鏡花文学賞が制定。 1999年(平成11年) - 生家跡に泉鏡花記念館が開館。 2024年(令和06年) - 墓所が雑司ヶ谷霊園から菩提寺の円福寺(東京・神楽坂)に移転。 母鈴は葛野流大鼓方中田万三郎豊喜の娘で、その兄(次男)金太郎は請われて宝生流シテ方の松本家に養子入りした。宝生九郎の高弟として知られた能楽師松本金太郎がこれで、その子松本長は鏡花の従兄にあたる。長の長男は俳人松本たかし、次男は松本惠雄(人間国宝)。 弟も作家で、鏡花の舎弟だというので泉斜汀を名乗ったが、あまり成功しなかった。 母は、鏡花にとって終生追慕の対象であった。12歳で松任成の摩耶祠を訪れたとき、摩耶夫人像を母の面影に重ねて以来、彼は死ぬまで摩耶夫人を信仰していた。 妻・すずはもともと神楽坂に桃太郎という名で出ていた芸妓で、師の紅葉は2人の関係を絶対に許さず、「女を捨てるか、師匠を捨てるか」とまで鏡花に迫った。2人はお互いを想いながらも泣く泣く離別を決意し、この体験が『婦系図』の湯島天神の場の下敷きになっているという。紅葉の没後、鏡花はすずと結婚し、夫婦仲ははなはだよかった。終生互いの名を彫った腕輪を身辺から離さなかったという。 鏡花にとっての尾崎紅葉は、敬愛する小説家、文学上の師であると同時に、無名時代の自分を書生として養ってくれた恩人であり、鏡花は終生このことを徳として旧師を慕いつづけた。ほとんど崇拝といってもいいその態度は文壇でも有名なものであった。病床にあってなお紅葉は愛弟子鏡花の行末を案じ、原稿を求めてはこれに添削を加え続けたという。没後は自宅の仏壇にその遺影を飾って毎日の礼拝を怠らなかった。葬儀で門弟代表として弔辞を読んだのも鏡花である。 処女作『冠弥左衛門』が1894年(明治27年)に加賀北陸新報に転売、再連載されたことも、おそらく紅葉の口利きによるものと思われる。 鏡花がほとんど旧師・紅葉を神格化していたのに対し、同郷・同窓・同門の徳田秋声は師とは没後とりわけ距離を置き、自然主義一派に加わったため、2人の仲はよくなかった。後年改造社で円本を出す際、弟子の了解をとるべく社長の山本実彦が秋声を訪ねると、「では鏡花のところへも行こう」というので行き、話していると、秋声が「紅葉はお菓子が好きでたくさん食べたから胃を悪くして死んだのだ」と言ってしまったため鏡花は火鉢を飛び越えて秋声を殴り、山本が間に入って秋声を外へ引きずり出したが、車の中で秋声は泣き通していたという。 後に里見弴らが両者を仲直りさせるために徳田秋声と泉鏡花をお客として「九九九会」に招いたことがある。ところが鏡花は、ろくに話もしないうちからやたらと酒ばかり飲んで、酔ったふりをして狸寝入りをしてしまい、昔噺でもしようという気で出てきた秋声もいつの間に帰ってしまった。それにもかかわらず、そのあとで秋声に会うと「この間はあんな具合で君たちの好意を無にしちやつたけど、なんとかもう一度機会をつくつてくれないか」と里見弴に言う。里見は心を鬼にして、「そんなこと何度やつたつて絶対に無駄だ、そのかはり、どちらが先かしらないけど、いざといふ時には必ず知らせるから」と言った。しかし鏡花の臨終の際は知らせが間に合わなかったという。 尾崎家の書生時代、石橋忍月のところへ使いに行った際に柿をもらい、紅葉への使いものと知らずに食べてしまって、後からいたく恐縮したことがあった。また「大福餅を買ってこい」と言われ、菓子屋に大福を売っているとは思ってもみなかった鏡花は、わざわざ遠くの露天へ行って屋台の安い大福を買ってき、紅葉に笑われたことがある。 中島敦はエッセイ『泉鏡花氏の文章』の中で、次のように語っている。 鏡花は過度の潔癖症で、生ものは食べない主義であった。 このことは文壇に広く知られていた。貰い物の菓子をアルコール・ランプで炙って食べたり、酒などはぐらぐらと煮立つまで燗をつけなければ絶対に飲まなかった(これを文壇で「泉燗」と称した)。手づかみでものを食べるときは、掴んでいた部分は必ず残して捨てた。手元にいつでもちんちんと鳴る鉄瓶があって煮沸消毒できるようになっていないと不安がった。外出時は常に小さなアルコールランプと五徳と小鍋を持ち歩き、一流料亭の料理ですら、すべてをごった煮にして食べていた。また、鉄道旅行中に、お茶を飲もうと座席の上でアルコールランプでお湯を沸かしていた。それを見た他の乗客が「座席が燃えている!」と勘違いして、車掌を呼ぶ騒ぎになった。 潔癖症のせいで「豆腐」の用字を嫌い、かならず「豆府」と書いた。但し貧乏時代におからで飢えを凌いでいたこともあってか、豆府そのものは好物であり、スが立つまで煮込んだ湯豆府が特に好きだった。 谷崎潤一郎、吉井勇と鳥鍋を囲んだとき、泉の潔癖症を知らない谷崎は「半煮えくらいがうまい」といって次々に鳥を引きあげてしまうので、火の通った肉しか怖くて食えない鏡花は「ここからは私の領分だから手を出すな」と鍋に線を引いたという。 中華料理に誘われて知らずに蛙の揚げものを食べてしまい、「とんだことをした」と慌てて宝丹(胃腸薬)を一袋全部飲んだことがある。生ものをはじめ、海老、蝦蛄、蛸のようなグロテスクな形をしたものも絶対に口にしなかった。 お辞儀をするとき、畳に触るのは汚いと手の甲を畳につけていた。ただし信仰心はきわめて厚く、神社仏閣の前では必ず土下座したと伝えられる。また、自宅の天井板の合わせ目にはすべて目張りを行っていた。狂犬病を恐れて犬嫌いだった。蛇も嫌いだったが、作品にはよく登場する。喫煙者で煙管を愛用していたが、吸い口が汚れないために妻の手製のキセルキャップを愛用していた。そのキャップをつける動作は、あまりにも素早かったため周りの人が感嘆していた。お手伝いさんに2階に登る階段の掃除をさせるのに、1段1段専用の雑巾を使わせた。また、「ネズミが入って不潔だ」と、食器棚を台所の天井からぶら下げさせ、食器をそこにしまわせていた。外出時の着衣は帰宅後すべて捨てていたなど、かなりの不潔恐怖症だった。 デビュー当時、ペンネームに「畠芋之助(はたけいものすけ)」を用いたことがある。 家紋は「笹龍胆」だが、紅葉にあやかって「源氏香」の紅葉賀を常用していた。 酉年生れの鏡花は向かい干支の兎にちなむものをコレクションするのが趣味だった(本人は母親に兎のものを大切にせよと教わったと記している)。マフラーにまで兎柄を用いた鏡花は収集品が大の御自慢で『東京日日新聞』の「御自慢拝見」という欄に登場したこともある。 文字の書かれたものを大切にすることはなはだしく、「御はし」と書いてある箸袋程度でも大事にしまっておろそかにはしなかった。人に字を教えるのに畳の上などに空で書いたあとはかならず手で掻き消すしぐさをしないと承知しなかったという。几帳面で原稿などは校正ののちかならず手元に戻して自分で保管した。原稿の大半は生涯筆で書きつづけた。 鏡花の作品は生涯総ルビで発表されつづけた。初版本の古書価は、20 - 30年前と比べ数倍値上がりしている。 着物の描写が丁寧で細密なことは鏡花作品の特徴だが、これは三越婦人部の発行していた『時好』というカタログ雑誌を知り合いの女性からわけてもらい、それを見て研究したものだという。鏡花はこれを紅葉に教えられた取材の方法であるといっている。 著書の装訂、挿絵の大半は鏑木清方か小村雪岱によるもので、ことに雪岱はその号を鏡花が名づけて以来の名コンビだった。色の好みもはっきりしていて、紺のような濃い色を嫌った。小村雪岱『日本橋桧物町』(新版は平凡社ライブラリー)に鏡花の回想記がある。清方も2006年に鏑木清方記念美術館刊で『鏑木清方挿絵図録 泉鏡花編』が出されている。 里見弴は、鏡花と家が近かったために作家デビューのころから始終行き来したが、当初、弟子ではないからというので「泉さん」と呼んでいたため、それを聞き咎めた鈴木三重吉が、酒に酔った勢いで里見を叱りつけた。その後、指導を受けるようになり、「先生」と呼ぶようになる。ただし里見本人はお化けは信じていなかった。 幽幻院鏡花日彩居士という戒名は、弔問に訪れた文人たちが各々撰した中より佐藤春夫のものが選ばれたといわれる。 『鏡花全集』は大正末期に春陽堂で全15巻(復刻版がエムティ出版、1994年)が、没後は岩波書店から全28巻が1940 - 42年(昭和15 - 17年)に刊行。1973 - 76年(昭和48 - 51年)と1986 - 88年(昭和61 - 63年)に、新たに別巻(資料集ほか)を加え復刊されるまで、戦後しばらくは古書値が高価だった。 金沢市が主催している泉鏡花文学賞の正賞記念品は「八稜鏡」。鏡花好みの兎があしらわれている。 『鏡花全集』 全28巻別巻1、岩波書店 - ほぼ全文業を収める。 『鏡花小説・戯曲選』 全12巻、岩波書店 -「全集」の版型を用いる。 『新編 泉鏡花集』 全10巻別巻2、岩波書店、2003 - 2005年
『新日本古典文学大系 明治編20 泉鏡花集』 岩波書店、2002年
『明治の文学 第8巻 泉鏡花』 筑摩書房、2001年 - 四方田犬彦編・解説 『泉鏡花集成』 ちくま文庫 全14巻、1995 - 1997年 - 種村季弘編・解説 『鏡花幻想譚』 河出書房新社 全4巻、1995年 - 底本は春陽堂版全集 『泉鏡花セレクション』 国書刊行会 全4巻、2019 - 2020年
『冠彌左衛門』(1893年、京都日出新聞)小説
『活人形』(1893年、探偵文庫)小説
『金時計』(1893年、博文館)小説
『大和心』(1894年、博文館)小説
『予備兵』(1894年、読売新聞)小説
『海戦の余波』(1894年)小説
『譬喩談』(1894年)小説
『義血侠血』(1894年、読売新聞)小説
『乱菊』(1894年)小説
『鬼の角』(1894年)小説
『取舵』(1895年)小説
『聾の一心』(1895年)小説
『秘妾伝』(1895年)小説
『夜行巡査』(1895年、文芸倶楽部)小説
『旅僧』(1895年)小説
『外科室』(1895年、文芸倶楽部)小説
『妙の宮』(1895年)小説
『鐘声夜半録』(1895年)小説
『貧民倶楽部』(1895年)小説
『黒猫』(1895年)小説(一部を欠いている)
『ねむり看守』(1895年)小説
『八万六千四百回』(1895年)小説
『化銀杏』(1896年、青年小説)小説
『一之巻』(1896年)小説
『二之巻』(1896年)小説
『三之巻』(1896年)小説
『四之巻』(1896年)小説
『五之巻』(1896年)小説
『六之巻』(1896年)小説
『誓之巻』(1897年)小説
『蓑谷』(1896年)小説
『五の君』(1896年)小説
『紫陽花』(1896年)小説
『琵琶伝』(1896年、国民之友)小説 『海城発電』(1896年、太陽)小説 『毬栗』(1896年)小説 『龍潭譚』(1896年)小説
『照葉狂言』(1896年、読売新聞)小説
『化鳥』(1897年、新著月刊)小説
『辰巳巷談』(1898年、新小説)小説 『笈ずる草紙』(1898年、文芸倶楽部)小説 『通夜物語』(1899年、大阪毎日新聞)小説 『湯島詣』(1899年、春陽堂)小説 『高野聖』(1900年、新小説)小説
『註文帳』(1901年、新小説)小説
『柚屏風』(1901年、新小説)小説 『起誓文』(1902年、新小説)小説 『風流線』(1903年、国民新聞)小説 『紅雪録』(1904年、新小説)小説 『銀短冊』(1905年、文芸倶楽部)小説 『春昼』(1906年、新小説)小説
『春昼後刻』(1906年、新小説)小説
『婦系図』(1907年、やまと新聞)小説
『草迷宮』(1908年、春陽堂)小説
『白鷺』(1909年、東京朝日新聞)小説 『歌行燈』(1910年、新小説)小説
『三味線掘』(1910年、三田文学)小説 『三人の盲の話』(1912年、中央公論)小説 『稽古扇』(1912年、中央新聞)小説 『夜叉ヶ池』(1913年、演芸倶楽部)戯曲
『海神別荘』(1913年、中央公論)戯曲
『日本橋』(1914年、千章館)小説、のち戯曲
『夕顔』(1915年、三田文学)小説 『天守物語』(1917年、新小説)戯曲
『由縁の女』(1919年、婦人画報)小説
『眉かくしの霊』(1924年、苦楽)小説
『木の子説法』(1930年、文藝春秋)小説 『貝の穴に河童が居る』(1931年、古東多万)小説 『菊あはせ』(1932年、文藝春秋)小説 『斧琴菊』(1934年、中央公論)小説 『お忍び』(1936年、中央公論)戯曲 『薄紅梅』(1937年、東京日日新聞、大阪毎日新聞)小説
『雪柳』(1937年、中央公論)小説 『縷紅新草』(1939年、中央公論)小説 滝の白糸
1946年版(大映、木村恵吾監督)出演・水谷八重子、夏川大二郎 1952年版(大映)出演・京マチ子、森雅之 1956年版(大映)出演・若尾文子、菅原謙二 婦系図
1942年版(東宝)出演・長谷川一夫、山田五十鈴 1955年版(大映)出演・鶴田浩二、山本富士子 1959年版(新東宝)出演・天知茂、高倉みゆき 1962年版(大映)出演・市川雷蔵、万里昌代 歌行燈
1960年版(大映)出演・市川雷蔵、山本富士子 日本橋
1956年版(大映)出演・淡島千景、山本富士子、若尾文子 2014年 シネマ歌舞伎 グランドシネマ版(松竹)出演・坂東玉三郎、高橋恵子、松田悟志 折鶴お千(1935年、松竹)出演・山田五十鈴、夏川大二郎 白夜の妖女(1957年、日活)出演・月丘夢路、葉山良二、滝沢修 みだれ髪(1961年、大映)出演・山本富士子、勝新太郎 夜叉ヶ池(1979年、松竹)出演・坂東玉三郎、加藤剛、山﨑努 陽炎座(1981年、日本ヘラルド映画)出演・松田優作、大楠道代、加賀まり子 草迷宮(1983年、東映)出演・三上博史、伊丹十三 外科室(1992年、松竹)出演・吉永小百合、加藤雅也、鰐淵晴子 天守物語
2012年 シネマ歌舞伎版(松竹)出演・坂東玉三郎、市川海老蔵、中村勘九郎 高野聖
海神別荘
天守物語 夜叉ヶ池 (戯曲) 海神別荘
『天守物語』(2006年)名倉靖博 キャラクターデザイン・コンセプトデザイン・総作画監督 波津彬子『鏡花夢幻』 朝日ソノラマ、1995、白泉社文庫、2000、「選集 第1巻」朝日新聞出版、2017 わたなべまさこ『夜叉ケ池―わたなべまさこ恐怖劇場 4』 双葉文庫、2004 波津彬子『幻想綺帖 一』 白泉社文庫、2016 泉鏡花作、中川学画、東雅夫監修 『絵本 化鳥』 国書刊行会、2012 泉鏡花作、中川学画 『朱日記』 国書刊行会、2015 泉鏡花作、山村浩二画、アダム・カバット校注・解説『絵草子 月夜遊女』 平凡社、2017 泉鏡花作、ホノジロトヲジ画 『外科室』 立東舎、2018 泉鏡花作、中川学画 『榲桲に目鼻のつく話』 河出書房新社、2019 泉鏡花作、金井田英津子画 『絵本の春』 朝日出版社、2020 泉鏡花作、しきみ画 『夜叉ヶ池』 立東舎、2022 香月修『オペラ・夜叉ケ池』 2013年 新国立劇場初演 『帝都物語』(1988年)実相寺昭雄 監督 『OVA 帝都物語』りんたろう監督 (1991年) 『文豪ストレイドッグス』TVシリーズ (2016年 - ) 『劇場版 明治東亰恋伽』(2015年 - 2016年) わたなべひろし 監督 スタジオディーン 『映画 文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』(2018年)五十嵐卓哉 監督 角川ANIMATION 朝霧カフカ 原作・春河35 画『文豪ストレイドッグス』KADOKAWA・角川コミックス 2012 - 水木しげる『水木しげるの泉鏡花伝』 小学館、2015、 講談社「漫画大全集092」、2018 今市子『鏡花あやかし秘帖』学研プラス 2018 魚住ユキコ『明治東亰恋伽 紅月夜の婚約者』 角川ビーンズ文庫 2012 魚住ユキコ『明治東亰恋伽 恋月夜の花嫁』 角川ビーンズ文庫 2013 京極夏彦『書楼弔堂 破暁』 集英社 2013 村松定孝 『泉鏡花研究』 冬樹社、1974。有精堂出版(定本版)、1996
『ことばの錬金術師 泉鏡花』 現代教養文庫、1973、復刊1993 巖谷大四 『人間泉鏡花』 東京書籍〈東書選書〉、1979、オンデマンド版2000。福武文庫、1988 『鏡花論集成』谷沢永一・渡辺一考 編、立風書房、1983。友人作家の論考 竹田真砂子 『鏡花幻想』 講談社、1989。講談社文庫、1994 福田清人・浜野卓也 『泉鏡花 人と作品』 清水書院、新装版2017 種村季弘『水の迷宮』国書刊行会、2020。作品解説ほか 『新潮日本文学アルバム 22 泉鏡花』 野口武彦評伝、新潮社、1985 『泉鏡花 美と幻影の魔術師』平凡社 別冊太陽 日本のこころ、2010 『鏡花の家 泉鏡花生誕一五〇年記念』平凡社、2023。泉鏡花記念館 編著 ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、107頁。 ^ 驚き悲しむ文壇人『東京日日新聞』昭和2年7月25日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p4 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ “全国の通信記事 : 東京西 小説家泉鏡花改葬法要”. 日蓮宗新聞社 (2024年3月28日). 2024年7月10日閲覧。 ^ 岡田英 (2024年7月10日). “弔いのカタチ : 泉鏡花のお墓が霊園から消えた… 歴史的著名人の「墓じまい」相次ぐ”. 毎日新聞デジタル. 毎日新聞社. 2024年7月10日閲覧。 ^ 泉鏡花記念館公式アカウントの投稿2件 https://twitter.com/izumikyokamuse/status/1728687762407330254 https://twitter.com/izumikyokamuse/status/1790269436047601873 ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)31頁 ^ 小村雪岱「泉鏡花先生のこと」『日本橋檜物町』平凡社ライブラリー、2006年 ^ 吉田昌志編『鏡花随筆集』(岩波文庫、2013年)。詳細な注を付け全五五篇を収録、編者は泉鏡花研究会幹事・昭和女子大学教授。 日本の小説家一覧 怪奇小説作家一覧 泉鏡花記念館 - 金沢文化振興財団
泉 鏡花:作家別作品リスト - 青空文庫
泉鏡花を読む 泉鏡花『鏡の花』泉鏡花全作品を正字、縦書,総ルビで讀めます。 - ウェイバックマシン(2021年3月14日アーカイブ分) 第8章 文芸家(1) | あの人の直筆 - 国立国会図書館 泉鏡花ゆかりの寺|日蓮宗 普香山 蓮昌寺 千代田の人々 - 泉鏡花 - 千代田区観光協会 この項目は、文人(小説家・詩人・歌人・俳人・著作家・作詞家・脚本家・作家・劇作家・放送作家・随筆家/コラムニスト・文芸評論家)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:文学/PJ作家)。 FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー スペイン フランス BnF data カタルーニャ ドイツ イスラエル アメリカ 日本 チェコ オーストラリア 韓国 クロアチア オランダ CiNii Books CiNii Research Trove(オーストラリア)
IdRef 泉鏡花 19世紀日本の小説家 20世紀日本の小説家 19世紀日本の劇作家 20世紀日本の劇作家 硯友社の人物 日本藝術院会員 石川県出身の人物 1873年生 1939年没 Titlestyleにbackgroundとtext-alignを両方指定しているcollapsible list使用ページ すべてのスタブ記事 文人関連のスタブ FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BIBSYS識別子が指定されている記事 BNE識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 CANTICN識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 NLA識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 NSK識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 Trove識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/18 20:06更新
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izumi kyouka
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