中野好夫の情報(なかのよしお) 文芸評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中野 好夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
中野好夫と関係のある人
中嶋嶺雄: また金嬉老事件の際、鈴木道彦や中野好夫、日高六郎、宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した。 島田叡: 中野好夫『最後の沖縄県知事』文藝春秋新社、1961年 中村妙子: 『ベッチイ物語』(ドロシイ・キャンフィールド、中野好夫共訳、評論社) 1950 米倉斉加年: 1976 人類危機の十三日間 J・サマヴィル 中野好夫 演出 サマセット=モーム: 最初に日本に紹介し、来日したモームとも面談した中野好夫は、その作品について「通俗というラッキョウの皮をむいていくと、最後にはなにもなくなるのではなく、人間存在の不可解性、矛盾の塊という人間本質の問題にぶつかる」と評している。 沢崎順之助: 『小説人間の歴史 第1』(J・A・ミッチェナー、中野好夫・小野寺健共訳、河出書房新社) 1967 ウィルフレッド=バーチェット: 中野好夫訳『十七度線の北―ヴェトナムの戦争と平和』上下巻、岩波新書、1957年 新居格: パール・S・バック『大地』 第3巻、中野好夫補訳、新潮社〈新潮文庫〉、2013年6月。 中村妙子: 卒業後は中野好夫の指導の下で翻訳活動を本格的に始める。 小熊英二: 西尾幹二は、『<民主>と<愛国>』の索引での言及頁数は多い方から、丸山眞男、竹内好、鶴見俊輔、吉本隆明、江藤淳、小田実、石母田正、荒正人、大塚久雄、清水幾太郎の順であり、これら以外で頻出するのは小田切秀雄、本多秋五、井上清、網野善彦、中野好夫、久野収、国分一太郎、鶴見和子、中野重治、南原繁、宮本百合子、宗像誠也、大江健三郎であり、 江藤淳と晩年の清水幾太郎を除けば、全てが左派系だけであり、「名だたる戦後進歩主義者、左翼主義者、マルクス主義経済学者、歴史学者その他の屍のごとき言説を墓石の下から掘り起こして、埃を払い、茣蓙を敷いてその上にずらっと並べて天日に干して、もう一度眺められるようにお化粧直しする」「もう誰も相手にしてくれなくなった戦後進歩主義あるいは戦後左翼主義は、彼らにとっては心を慰めてくれるなによりもの〈癒し〉であるであろう。 ハーバート=ノーマン: 連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫・中野好夫・桑原武夫・加藤周一らと親密に交流した。 安藤元雄: また時枝誠記の国語学や中野好夫のマクベス講読などを聴講。 福田恆存: 『朝日新聞』論壇時評(1951年10月〜1980年12月)では、「平和論の進め方についての疑問」以降、言及が即座に無くなったわけではなく、1966年までは比較的言及されているが(言及数24)、しかし肯定的に取り上げられているのは17で31人中第28位となり、中野好夫(49)、小田実(40)、清水幾太郎(39)の半分以下となる。 沢崎順之助: 『アラビアのロレンス』(ロバート・ペイン(英語版)、中野好夫共訳、筑摩書房) 1963 宇野重吉: 1968年2月金嬉老事件の際、鈴木道彦や日高六郎、中嶋嶺雄、中野好夫らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見している。 佐伯彰一: 共訳者は中野好夫・福永武彦・吉田健一 ほか多数。 フィリップ=ロス: (1973) 中野好夫・常盤新平訳、1976年、集英社 / 2016年、新潮文庫 日高六郎: また1968年2月金嬉老事件の際、鈴木道彦や中野好夫、中嶋嶺雄、宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した。 中村妙子: 『イシ 二つの世界に生きたインディアンの物語』(シオドーラ・クローバー、中野好夫共訳、岩波書店) 1977 島田叡: 中野好夫『沖縄と私』時事通信社、1972年(『最後の沖縄県知事』の再録) 新居格: パール・S・バック『大地』 第4巻、中野好夫補訳、新潮社〈新潮文庫〉、1954年。 新居格: パール・S・バック『大地』 第2巻、中野好夫補訳、新潮社〈新潮文庫〉、2013年6月。 土井晩翠: 次女の夫は英米文学者の中野好夫、その長男・中野好之も18世紀イギリス文学研究者である。 ジェームズ=ミッチェナー: 『小説 人間の歴史』(1965年、中野好夫,小野寺健,沢崎順之助訳 河出書房 1967年) 新居格: パール・S・バック『大地』 第1巻、中野好夫補訳、新潮社〈新潮文庫〉、2013年6月。 石井桃子: 同年、犬養家の書庫を借りて児童図書館・白林少年館を開設し、1940年11月には白林少年館出版部を創設、紙不足に苦しみつつ『たのしい川邊』(ケネス・グレアム作、中野好夫訳)を刊行。 石川達三: 英文学者で評論家の中野好夫は、「田舎者で小市民」という性格は石川文学の底を貫いているとし、それは一部の読者を遠ざけてもいるが、一貫した強みになっていることも疑いない、と論じている。 丸谷才一: 中野好夫、平井正穂のもとで主に現代イギリス文学を研究、ジェイムズ・ジョイスを知り大きな影響を受ける。 木下順二: 旧制熊本中学(現熊本県立熊本高等学校)、第五高等学校を経て1936年、東京帝国大学文学部英文科に入学し、中野好夫の指導でシェイクスピアを専攻した。 野崎孝: 1937年、東京帝国大学文学部イギリス人文学科に進み、中野好夫に師事。 |
中野好夫の情報まとめ
中野 好夫(なかの よしお)さんの誕生日は1903年8月2日です。愛媛出身の文芸評論家のようです。
人物・作品等、家族・親族などについてまとめました。現在、卒業、事件、解散、家族に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
中野好夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中野 好夫(なかの よしお、1903年(明治36年)8月2日 - 1985年(昭和60年)2月20日)は、日本の英文学者・評論家。英米文学翻訳者の泰斗であり、訳文の闊達さでも知られている。東京大学教授・中央大学教授を歴任。 愛媛県松山市生まれ。旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)在学中、スパルタ教育に反発して退学。のち旧制第三高等学校へ入学。旧制第三高等学校では野球部に入っており、野球部の1年先輩には戦前最後の沖縄県知事を務めた島田叡がいた。 第三高等学校卒業後に入学した東京帝国大学文学部英文学科で斎藤勇に師事。同じ斎藤勇の弟子に平井正穂がいる。 1926年に卒業後、新聞社入社に失敗して千葉県の私立成田中学校に英語教師として赴任。1929年に東京府女子師範学校兼府立二女教師、1932年から東京女高師教授などを経て、1935年から東京帝国大学助教授。その風貌とシニカルかつ骨太な性格から「叡山の僧兵の大将」との異名を取った。この時期の教え子に木下順二や丸谷才一、野崎孝などがいる。 1945年、敗戦を機に社会評論の分野に進出。1948年から東京大学教授。この時期、太宰治の短篇「父」を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と評したため、太宰から連載評論『如是我聞』の中で「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」とやり返されたこともある。これに対して中野は、太宰の死後、『文藝』1948年8月号の文芸時評「志賀直哉と太宰治」の中で「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と指弾した。 1949年、平和問題談話会に参加し、全面講和を主張。1953年「大学教授では食っていけない」との理由で退官し、『平和』誌の編集長となる(1955年まで)。朝鮮戦争による好況を背景に、1956年『文藝春秋』2月号に発表した「もはや戦後ではない」という評論の題名は同年の経済白書に取り上げられ、流行語となった。 1961年から翌年までスタンフォード大学客員教授。1965年から1968年まで中央大学文学部英文科教授。のち桃山学院大学教授。 1958年から1976年まで憲法問題研究会に参加。護憲、反安保、反核、沖縄返還、都政刷新を主張。沖縄問題への取り組みとして沖縄資料センターを設立、のち法政大学沖縄文化研究所に引き継がれた。 1965年5月24日に黒い霧事件を契機とする都政刷新都議会解散リコール統一本部が発足すると、同本部長に就任した。リコール署名運動は6月5日から開始されるが、6月14日、東京都議会は自主解散の道を選んだ。1967年3月16日、東京都知事選に向けた美濃部亮吉の選挙母体「明るい革新都政をつくる会」が結成されると、中野は大内兵衛、市川房枝、海野普吉、松本清張、柳田謙十郎らとともに代表委員に名を連ねた。 1968年2月金嬉老事件の際、鈴木道彦や日高六郎、中嶋嶺雄、宇野重吉らと共に銀座東急ホテルで「金さんへ」という呼びかけで始まる文書をとりまとめて、後日文化人・弁護士5人がその文書を吹き込んだテープを持って、金嬉老を訪ね会見した。 1983年、無党派市民連合代表。 1985年2月20日、肝臓がんにより死去。 人物・作品等エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』完訳を目指し、1976年より刊行開始したが、シリーズ全体の半ば(5巻目)で病没。元同僚の朱牟田夏雄が引継ぎ、次に長男中野好之が訳業を続け、1993年(平成5年)に全11巻で完結した。 「淮陰生」の筆名で、岩波書店の月刊PR誌『図書』に1970年1月号から1985年1月号まで、巻頭エッセイ「一月一話」を連載した。連載終了時期やエッセイの内容、1995年に刊行された完本版の著作権表示が中野夫人になっていることから、中野の著作であることが確定している。 戦時中は日本文学報国会外国文学部会幹事長として戦争協力をしていたが、戦後は公的にその謝罪と贖罪につとめた。 三里塚芝山連合空港反対同盟の戸村一作委員長が「空港建設反対」を掲げて参院選挙全国区に立候補した時には三里塚闘争を支持して推薦人に名を連ね、成田空港を生涯利用しなかった。 家族・親族最初の妻である中野信子は土井晩翠の次女で、土井英一の妹だが1940年に亡くしている。 長男の中野好之は西洋思想史学者。1931年生まれ。東京大学経済学部卒業。元國學院大学文学部、富山国際大学教授。 長女の中野利子はノンフィクション作家・エッセイスト。1938年生まれ。慶應義塾大学文学部史学科(西洋史専攻)卒業。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。1993年に「父中野好夫のこと」で第41回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。 孫の中野春夫は英文学者。1957年生まれ。東京大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科英語英米文学専攻博士課程単位取得退学。埼玉大学教養学部助教授を経て学習院大学教授。 2024/06/13 23:36更新
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nakano yoshio
中野好夫と同じ誕生日8月2日生まれ、同じ愛媛出身の人
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