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木村健悟の情報 (きむらけんご)
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【5月27日】今日誕生日の芸能人・有名人

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木村 健悟さんについて調べます

■名前・氏名
木村 健悟
(きむら けんご)
■職業
挌闘家
プロレス
■木村健悟の誕生日・生年月日
1953年9月4日 (年齢70歳)
巳年(へび年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
愛媛出身

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木村健悟と関係のある人

谷津嘉章: これを受け谷津は全日本の一員として古巣・新日本のマットに上がり、鶴田との五輪コンビで、木村健悟&木戸修と対戦した。


斎藤彰俊: その後、青柳政司、小林、越中詩郎、木村健悟と反選手会同盟(後の平成維震軍)を結成するなど活躍。


小野寺昭憲: ちなみに同作は藤波自身が総監修を務め、40周年を祝してアントニオ猪木、北沢幹之、長州力、初代タイガーマスク、木村健悟、藤原喜明、前田日明、ヒロ斉藤、藤波伽織、藤波怜於南、田中ケロらが出演した。


武藤敬司: 木村健悟の付き人を務めたため、プロレスの師匠は木村健悟である。


坂口征二: その後はセミリタイアとなるが、1990年3月15日、社長業に専念するため地元の久留米にて現役を引退、かつての付き人だった木村健悟と組んでのスコット・ホール&コーポラル・マイク・カーシュナー戦が引退試合となった。


ミスター・ポーゴ: 国プロ崩壊後は古巣の新日にもスポット参戦しており、1986年7月25日に秋田県立体育館ではケンドー・ナガサキとのコンビでIWGPタッグ王座に挑戦した(王者組は藤波辰爾・木村健悟組)。


田口隆祐: 新日本プロレスのスカウト部長の木村健悟にスカウトを受け、前年9月の入門テストに合格し、3月新日本に入寮。


桜庭伸幸: ビューティフル・フライト(木村健悟


大谷晋二郎: 新日でも好きなレスラーは木村健悟であった。


藤波辰爾: IWGPタッグ王座:5回(w / 木村健悟×4、西村修×1)


アントニオ猪木: 2013年2月20日、古希を祝うパーティーが東京都港区のホテルオークラ東京で催され、坂口征二、小川直也、藤波辰爾、藤原喜明、木村健悟、佐山聡、ジョージ高野、前田日明、北沢幹之、蝶野正洋、棚橋弘至、橋本大地、スタン・ハンセンらかつての愛弟子・ライバルや、各界から千葉真一・谷隼人、デヴィ・スカルノ、船越英一郎、九重親方、南部虎弾、野村克也&野村沙知代夫妻など、660人が祝福に駆けつけた。


愛川ゆず季: 同じ愛媛県新居浜市出身のプロレスラー木村健悟へのリスペクトを込め、ひそかに使用。


斎藤彰俊: 1992年度プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞 パートナーは越中詩郎→青柳政司→木村健悟


剛竜馬: メンバーは他に小林邦昭・タイガー戸口・木村健悟・ドン荒川・ジャイアント小馬場・アントニオ小猪木がいた。


松原仁: 元プロレスラーで品川区議会議員の木村健悟らが加盟し、2019年4月の第19回統一地方選挙では東京都大田区、品川区、目黒区より候補者を擁立した。


大木金太郎: さらに大木は坂口に無断で、坂口と坂口の付き人である木村聖裔(木村健悟)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤(大城大五郎)の4人の新日本プロレスへの移籍を発表してしまい、大木と坂口とは口を聞かない冷戦状態になったうえに、団体内も大木ら残留派と坂口ら移籍派の抗争状態となった。


青柳政司: 最優秀タッグチーム賞(1992年 w / 木村健悟&齋藤彰俊)


木戸修: 木戸の存在が改めてクローズアップされたのが1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で木村健悟と組んでジャンボ鶴田・谷津嘉章組と闘い、鶴田を相手に渡り合った試合であり、1992年から始まった天龍源一郎率いるWARとの対抗戦においてであった。


木村健悟

もしもしロボ

木村 健悟(きむら けんご)さんの誕生日は1953年9月4日です。愛媛出身の挌闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

人物、プロレスラーとしてなどについてまとめました。引退、テレビ、解散、結婚に関する情報もありますね。去年の情報もありました。木村健悟の現在の年齢は70歳のようです。

木村 健悟(きむら けんご、1953年9月4日 - )は、日本の政治家、元男性プロレスラー、宮城野部屋所属の元大相撲力士、元歌手。品川区議会議員(4期)。現災害・環境対策特別委員長。区議会議員としては「木村けんご」名を使用 。本名は、木村 聖裔(きむらせいえい)。愛媛県新居浜市出身。血液型B型。ニックネームは「稲妻戦士」。妻は東京都目黒区議会議員を6期務めた木村洋子。

1980年代の新日本プロレスにおいて、藤波辰巳の盟友および抗争相手として活躍した。2003年の引退後は実業家を経て、区議会議員であった夫人の影響で2011年に自らも政治家に転身した。

1969年、大相撲の宮城野部屋に入門、木村山(きむらやま)の四股名で同年7月場所初土俵。しかし約1年足らずで廃業となり、最高位は序二段30枚目。大相撲廃業後、1972年1月に日本プロレスに入門し1972年8月2日に鹿児島県大島郡喜界町(喜界島)の喜界中学校グラウンドでの佐藤昭雄戦でデビューを果たした。

1973年3月、付き人を務めていた坂口征二と共に新日本プロレスへ移籍。1978年より海外武者修行に出発し、ヒールとして活動。7月15日にはプエルトリコにてカルロス・コロンからWWCプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取。パク・チュー(Pak Choo)のリングネームでアメリカのNWAロサンゼルス地区にも進出し、6月23日にミスター・イトーと組んでブラック・ゴールドマン&ヘクター・ゲレロ、9月1日にロディ・パイパーと組んでゴールドマン&剛竜馬を破り、NWAアメリカス・タッグ王座を2度獲得。ロサンゼルスではロン・バス、チャボ・ゲレロ、マンド・ゲレロ、ヘイスタック・カルホーン、ペドロ・モラレス、そして全日本プロレスから修行に出ていたプリンス・トンガとも対戦している。12月8日にはメキシコのEMLLでエル・ファラオンからNWA世界ライトヘビー級王座を奪取した。

帰国後、藤波辰巳とジュニアヘビー級のタイトルを争い、藤波のライバルとして活躍。1980年7月2日にはブレット・ハートを破り、藤波の返上で空位となっていたNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得。以降、ピート・ロバーツ、藤波、チャボ、ロン・スターを相手に防衛戦を行い、10月3日にチャボに敗れるまで戴冠した。

1981年9月から10月にかけてはドイツ(当時の西ドイツ)に遠征。ビッグ・ジョン・クイン、ムース・モロウスキー、ミレ・ツルノ、パット・ローチ、スティーブ・ライト、エド・ウィスコスキー、ブレット・ハート、ジム・ナイドハート、ゴロー・タナカ、エイドリアン・ストリート、ザ・UFOなどと対戦した。

1982年よりヘビー級に転向したが、タイガーマスクや長州力がプッシュされる中、引き立て役的なポジションに甘んじ、TV中継試合ではボブ・オートン・ジュニアやジミー・スヌーカなどニューカマーの外国人レスラーのジョバーを務める。しばらく活躍の機会に恵まれなかったものの、1985年5月24日、藤波とのタッグチームでディック・マードック&アドリアン・アドニスを破り、WWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。WWFと新日本プロレスとの提携解消に伴い、同王座は10月31日付で返上に至るも、12月12日に藤波と組んでアントニオ猪木&坂口に勝利し、IWGPタッグ王座の初代王者チームとなった。

1986年8月には藤波と共にアメリカ南部のメジャーテリトリーに遠征しており、同月12日にはフロリダ州タンパのCWFにて藤波とのタッグでファビュラス・ワンズ(スティーブ・カーン&スタン・レーン)と、16日にはテキサス州ダラスのWCCWにてシングルでキラー・ブルックスと対戦した。

その後、藤波と敵対関係となり抗争を繰り広げる。1987年1月14日には後楽園ホールにて藤波対木村のワンマッチ興行が行われた。敗れた木村は再起を図るべく渡米し、ベニー・ユキーデのもとでフルコンタクト・キックボクシングを習得。帰国後はパンタロンスタイルとなり、3月26日に大阪城ホールにてプロ空手のケリー・J・ウイルソンと異種格闘技戦を行い、バックドロップ、右ストレートのコンビネーションで勝利を飾った。

1987年11月9日、後楽園ホールで開幕した「’87ジャパンカップ争奪タッグリーグ戦」で藤波と組み長州&斎藤組と闘う。13分1秒、スモールパッケージホールドで長州からフォール勝ちを収めた。長州は、1984年8月2日に蔵前国技館で猪木にフォール負けして以来、3年3ヶ月ぶりのフォール負けだった。しかし、木村がスモールパッケージを仕掛ける直前で生放送が切れたため、3カウントが入った瞬間はテレビに映らなかった。

1988年のスーパー・ファイト・シリーズ開幕戦より、リングネームの表記を木村健吾から木村健悟に改めた。 改名後最初の試合は4月11日の後楽園ホール大会における藤原喜明と組んでのスコット・ホール&クラッシャー・クランチキー戦で、ワールドプロレスリングの放送が土曜16時に移行して最初の大会だった(木村の試合は放送なし)。

1992年8月、越中詩郎らと反選手会同盟、のちの平成維震軍を結成し、副将格として活躍する。1993年2月には天龍源一郎とシングルマッチを行い、敗れはしたが天龍へのパワーボムを成功させた。

体力が衰え始めた平成維震軍解散前後(1999年解散)には、自身の役割が長らく“やられ役”であったことも重なり、露骨に弱々しさを感じさせる事が多くなっていた。木村もそれを自覚しており、2003年4月18日の後楽園ホールでの西村修とのシングルマッチ(キャッチレスリングルール)を最後に現役引退した。木村の引退試合の相手には、長年のライバルでもある藤波を希望していたが藤波の体調が優れず、ついには実現しなかった。引退後は、新日本プロレスのスカウト部長の要職に就き、ワールドプロレスリングの解説も行なっていたが、2006年3月27日付で退職した。

新日本プロレス退職後の2006年4月、株式会社円天興行の代表取締役社長となる。母体会社の会長を坂口征二から紹介してもらったと新聞インタビューで語っていたが、2007年9月に社長職を辞し、2008年2月、都内にリサイクルショップを開業した。

2011年4月24日、第17回統一地方選挙にて実施された東京都品川区議会議員選挙に出馬し、初当選。

2014年に黄色靭帯骨化症に罹患し、手術を受けたことを公表した。

2015年4月26日、第18回統一地方選挙にて前回より600票上乗せし2798票で品川区議会議員選挙2期目当選を果たした。

2019年4月21日、第19回統一地方選挙にて前回より600票下回ったものの2198票で品川区議会議員選挙3期目当選を果たした。

2023年4月23日、第20回統一地方選挙にて2476票で品川区議会議員選挙4期目当選を果たした。

人物

プロレスラーには気性が荒い者が多い中、非常に温厚な性格で、他者を押し退けてまで自己主張することがないため、プロレスラーには向いていない性格だと言われる。(闘魂Vスペシャル~猪木・エリックVS木村・武藤~にてターザン山本が発言)。

デビュー直後に巡業先の徳之島にて、当時東京スポーツの記者であった門馬忠雄に対して「この会社(日本プロレス)、潰れるね…」と漏らしていた(デビュー当初は日本プロレス選手会のメンバーではなかった)。門馬は木村の発言を受けて「日プロ崩壊寸前」の記事を送信しようとしたがためらっていた他(実際、東スポにも記事は掲載されなかった)、ジャイアント馬場が抜けた日本プロレスが将来的に崩壊することを確信していた。日本プロレス最後の試合となった1973年3月8日の栃木県佐野市大会では(当日木村は伊藤正男と対戦)、桜田一男に顔面流血を負わされた大城大五郎を救出に行こうとした坂口を、同じ新日本プロレス移籍組である小沢正志と共に坂口による救出行動を阻止することに成功した(坂口が大城の救出に行った場合、坂口は大木金太郎、高千穂明久、桜田などの日プロ残留組に袋叩きにされていたのは明らかであった)。結果、日本プロレスは木村の新日本プロレス入団の半月後である1973年4月に崩壊した。

新日本プロレス入団の経緯からも、直接の師匠筋である坂口派と見られることが多かったが、猪木を崇拝している。これについて健悟は度々、「(尊敬する人物は)人間としては坂口征二。プロレスラーとしては、これはもう、絶対に、アントニオ猪木」と述べている。ちなみに木村は夫人との結婚を決めた理由を「社長(猪木)の奥さん(倍賞美津子、当時)に瓜二つだったから」と公言している。また、息子と孫娘の名前に猪木の本名寛至の寛の字を付けている。

若手時代のあだ名は、一線を超えて試合相手を怪我させてしまうことから「クラッシャー」だった。なおこのあだ名は、後に前田日明→橋本真也へと受け継がれていく。

温厚とされる一方で、キレると収拾がつかない事も時折あり、武藤のスペース・ローンウルフ時代に急遽組まれた猪木&ケビン・フォン・エリック組VS木村&武藤組では、猪木が武藤を試合そっちのけで血だるまにしたことに激怒し、試合後に「あそこまでやることねぇじゃねえか!」と、パイプ椅子を持って猪木の控え室に乗り込んでいった。この時は猪木と坂口が必死になだめた。また海外武者修行時には、日本人を侮辱する態度を取ったアメリカ人相手に、ストリートファイトで制裁した(同様のエピソードは、新日の後輩・前田日明にもある)。

『FIGHTING TV サムライ』の番組内にて「稲妻人生相談コーナー」をしていたこともある。

プロレスラーとして

新日本プロレス創世期は、創設組の猪木派(山本小鉄、魁勝司、柴田勝久、木戸修、藤波辰巳とその後の入門組の浜田広秋、荒川真、藤原喜明、栗栖正伸ら)と合流組の坂口派(永源遥、木村、小沢正志、大城大五郎)の派閥があり、それによって選手の売り出し方に差が出ていた。若手の登竜門カール・ゴッチ杯は第1回優勝者が藤波、準優勝が小沢。第2回優勝者が藤原、準優勝が木村。第3回は若手のリーグ戦にベテランの魁が入り優勝、木村は準優勝に終わり、すべて猪木派が優勝している。木村は海外遠征に出るのも藤波より約3年遅く、また4年も後輩の佐山サトルよりも遅かった。藤波はニューヨークでWWWFジュニアヘビー級王座を獲得し、金曜8時のゴールデンタイムで放送されたが、木村がメキシコでNWA世界ライトヘビー級王座を獲得しても大きくは報じられず、凱旋帰国第1戦も放送されなかった。

他者を押し退けてまで前に出ることをしない性格や、受け身・受けの演技の上手さ、さらにはレスリング技術と攻めの組み立ての苦手さなどから、引き立て役・負け役を一手に引き受けていた。

木村は大技をほとんど使わず、ブック上ほぼ全ての試合で、いわゆる最終的な“勝利”に結び付く試合運びをしない。相手の攻撃を受けに受けて、相手の攻めの魅力を引き出し、グロッキー状態の演技またはダメージが大きいように見せることに長けている。さらには負けてもすぐに立ち上がらず、ずっとのびていて勝利者を引き立たせるなど、名ジョバーぶりを発揮していた。

新外国人の初戦で試合を組まれることも多く、木村のやられっぷりによってその新外国人の強さがファンや視聴者に印象付けられた。

木村のこれらの働きぶりは、プロレス団体において非常に重要な役割であると言えるが、木村のそれは、あまりにも弱々しさのみを感じさせるものが多かったため、批判的な評価も多い。

ファイトスタイルはタッグ戦においても変わることはなく、「散々攻撃を受けてグロッキー状態になり、攻撃の隙を見計らって四つん這いになりながらコーナーまで帰ってタッチをする」、もしくは「タッチできそうなポジションまで這って行くと、対戦相手に足を引っ張られながらリング中央まで引き戻される」等がお決まりのムーブであった。なお、足を引っ張られる時は自軍のコーナーに手を差し伸べながら引っ張られ、タッチできる場合の這い方は大変素早い。

その見た目から、効かないのでは?と言われるプロレス技の代表格であるが、初披露した際には谷津の鎖骨を折っている。そのため以降は、当て方や高さを調整したり、ヒットする左スネにサポーターを着けたりという工夫をしている。それでもマトモに入った場合には、藤波や佐々木健介を失神させている。

脚の攻撃は腕の3倍の威力が出せるという理由で、脚のラリアットである稲妻レッグラリアットを開発。人差し指を掲げ「イナヅマ!」と叫んでから技を放つことが多かった。

当初は梶原一騎原作の「悪役ブルース」の主人公・吹雪純也が覆面レスラーとして使っていた技と酷似していた為、「ジャパニーズ・ラリアット」とプロレス専門誌で書かれたこともあったが、実況の古舘伊知郎が「稲妻のような電光石火で叩き込む、足でのラリアート」と叫んだことから、(1983年の年末あたりから)この名前が使われるようになった。

木村は、「当時必殺技と言えば、アントニオ猪木の延髄斬り、スタン・ハンセンのウェスタン・ラリアットだった。その2つを合わせたらスゴイだろうと、考えたのが稲妻レッグラリアット」とも語っている。

放つ高さを使い分け、胸板を打ち抜く稲妻と喉元を打ち抜く稲妻があった。一試合(タッグ戦)で喉元を打ち抜く稲妻で健介を失神KOし、胸板を打ち抜く稲妻で長州にフォール勝ちしたこともある(越中・木村 VS 長州・佐々木 :平成維震軍自主興行)。

喉元を打ち抜く稲妻レッグラリアットに対しては、猪木が「俺にはあんな(危険な)技を使うな」とも言っていたことがある。

この技は文字通り木村の代名詞となっており、脇役ながら確実に観客を沸かせることができた。また「稲妻」は木村の決めゼリフとなっており、インタビュアーなどに「一言お願いします」と言われるとほぼ「イナヅマ!」と答えるのがお約束である。ワールドプロレスリングの放送で、フィリピン遠征の際にいきなり木村の顔のアップが画面に登場し、「フィリピンからイナヅマ!」と叫んだこともある。

対抗戦になると強さを発揮。

    1980年3月31日、後楽園ホールでの国際プロレスとの対抗戦で永源遥と組み、マイティ井上&アニマル浜口の保持するIWA世界タッグ王座に挑戦し、プランチャで浜口を失神KO、長期欠場させた。

    1990年2月10日、東京ドームでの全日本プロレスとの対抗戦で木戸修と組み、ジャンボ鶴田&谷津嘉章と対戦。鶴田を相手に、普段の受け主体の試合スタイルとは異なる激しい攻防を繰り広げた。

    1992年10月23日、後楽園ホールでのWARとの対抗戦で越中詩郎と組み、天龍源一郎・北原光騎と対戦、激闘を展開した。それ以前にも木村・越中VS冬木・北原や木村・越中・青柳VS天龍・北原・折原など、WAR との対抗戦では昨今の木村のファイトからは想像できないほど積極的な攻め(ラフ殺法)やたたみかけを見せ、両軍のファンを大変驚かせた。

    武藤敬司はCSの『FIGHTING TV サムライ』で「おれは木村健悟さんの付き人で楽でよかった。あの人は怒らないから」とコメント。「ほかの人の付き人だったら辞めていたかもしれない」とまで言っている(木村は付き人に、「大変だろうから」と、ポケットマネーで毎月5万円をあげていた)。

    天龍は健悟を大変高く評価しており、「木村の顔を見ただけで、『コノ野郎!』と思う。長年新日本を支えていたので背負っているものがデカイ」、「アイツ、俺とやるときは、(稲妻を)キッチリ首に入れてくるんだよ」「木村健悟ほどのレスラーがあの位置でくすぶってる新日本の層の厚さがうらやましい」などと話した。

    長州は「木村は強いよ。木村が本気出してたら、アイツだって天下獲れてたよね」と讃えた。

    発端は、1986年10月9日に開催されたINOKI闘魂LIVEの公開スパーリング(10月6日)に遡る。ランス・フォン・エリックとの対戦を予定されていた武藤敬司の凱旋帰国日程が遅れたことによるカード変更を受けて、木村が藤波への挑戦を表明したが、9月23日にIWGPタッグ王座を二人で奪回したばかりであり、時期尚早と藤波が対戦を拒否した。

    翌シリーズでも木村は対戦を執拗にアピール。前田日明が闘魂LIVEの異種格闘技戦でのダメージからシリーズを全試合欠場となり、11月3日に予定されていたIWGPタッグ防衛戦(藤波&木村vs前田&藤原喜明戦)が流れたことから、藤波も対戦を受諾した。しかし、10月27日の奈良大会で、藤波がコンガ・ザ・バーバリアンにジャーマンを仕掛けた際に負傷(奥歯が抜け、手術して元に戻した)して欠場したため、対戦がまた実現せず(11月3日の代替カードはアントニオ猪木&ケビン・フォン・エリックvs木村&武藤)。

    次の'86ジャパン・カップ争奪タッグリーグでは藤波は武藤と、木村はジョージ高野とタッグを組んでエントリーしたが、共に決勝には進めず、12月10日の大阪城ホールで急遽シングルマッチが組まれたが、木村は淡白な内容で藤波に回転エビ固めで敗れた。

    翌1987年、新日本の新春シリーズ「ニューイヤー・ダッシュ」開幕戦後楽園ホール大会(1月2日)において木村のアピールで藤波vs木村戦が組まれた。木村は試合前に「正々堂々と戦って勝つ」、そして、選手紹介前に田中リングアナからマイクを取り上げ、「この試合に負けたら俺は海外に行くから! お前もそのぐらいの気持ちで来い!」とコメントした。(この試合のレフェリーはミスター高橋)

    試合は、ゴング前のボクシング・パンチの奇襲攻撃から始まった。その後も気合のこもったストンピングなどのラフ攻撃を中心としたスタイルで藤波を追い詰めた。 これは前述の大阪城ホールでの試合があまりにも淡白な内容に終始してしまった自らの試合運びに対する苛立ちを払拭するかのような戦い方であった。そんな意気込みは、ファンの間で幻の必殺技と言われていた変形のサソリ固めである「足あやとり殺法」トライアングル・スコーピオンを久々に見せたことにも現れている。試合終盤、レッグサポーターに「スパナ」といわれる凶器を入れた稲妻レッグ・ラリアットを敢行。 フォール勝ちを奪うも、反則行為が発覚してノーコンテストとなった。木村は試合後に「勝つためには手段を選ばない」とコメントした。なお、この試合は1月5日に「ワールドプロレスリング」にて録画中継された。

    翌1月3日に再戦が即マッチメイクされたが、藤波が暴走して反則負けとなる。これを不服とした藤波から再戦の申し入れが出たことを受け、1月14日、後楽園ホールでワンマッチ興行開催の運びとなった。ワンマッチ興行に際しては、1月14日に興行自体が組まれていなかったため、再戦直後に急遽後楽園ホールを押さえた他、開催2日前である1月12日放送の「ワールドプロレスリング」にて告知がなされた。当日のチケットは2000円均一の当日券のみとし、2200人の超満員札止めとなった。

    試合前半より中盤は木村の攻勢が目立ったが、先日の試合で見せたトライアングル・スコーピオンを封じられたり、この遺恨のポイントのひとつであったボクシング式パンチもあまり出さなかったためか、徐々に試合巧者である藤波に主導権を奪われていった。 結局終盤、勝負を賭けた稲妻を藤波に空中でキャッチされ、サソリ固め→逆エビ固め→バックドロップ→片逆エビ固め、の波状攻撃で最後は無念のギブアップ。今度は藤波が勝利し遺恨に決着がついた。この試合のレフェリーは上田馬之助が務めた。 なお、この試合は1月19日にTVマッチとして録画中継されたが、急遽組まれたために、既にタレント活動もしていた古舘伊知郎の都合がつかず、映像に後で実況を被せる手法が取られた。これは音声では解説をしているはずの山本小鉄が、リングサイドで立ち働く姿が映像に何度も出てくるところから判明した。 

    両者の試合運びで注目すべきは、当日「完全決着戦」の色合いが濃かったため、リング中央のスプリングがはずされ、両者はわざと急角度でボディスラムを敢行したり、意識的にグラウンドでの攻防を魅せたりと、試合の前半は非常に原始的でオーソドックスな展開となった。木村はロープワークの流れでカウンターでの絶妙な稲妻を見せたりした。

    木村は、普段は地方会場はもちろんのこと、大会場での試合においてであっても自らの持ち技以外めったに大技(言い方を変えれば観客をアッと言わせる決め技)を使わないが、この日は、トップロープ上に駆け上がった藤波に対して(つまり上空に向かって)稲妻を敢行するなど、非常に積極的な動きが目立っていた。

    木村の藤波に対する執念は相当なものであり、毎年の初詣で「高級車を買う、家を買う、藤波に勝つ」と3つの祈願と絵馬奉納をしていた。しかし初めの2つの願いは叶ったが、藤波に勝つ願いは遂に叶わなかった。

2024/05/22 10:21更新

kimura kengo


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木村 拓也(きむら たくや)
1972年4月15日生まれの有名人 宮崎出身

木村 拓也(きむら たくや、1972年4月15日 - 2010年4月7日)は、宮崎県宮崎郡田野町(現:宮崎市)出身のプロ野球選手(内野手・外野手・捕手・右投両打)、コーチ。 愛称は「キムタク」。 ア…

木村 裕子(きむら ゆうこ)
1982年8月17日生まれの有名人 愛知出身

木村 裕子(きむら ゆうこ、1982年8月17日 - )は、日本の女性タレントである。 本名は芸名と同じで、肩書として「鉄旅タレント」を名乗る。以前は「鉄道アイドル(鉄ドル)」を自称した。 愛知県…

木村 美菜(きむら みな)
1月13日生まれの有名人 岡山出身

木村 美菜(きむら みな、1月13日 - )は、関東で活躍しているタレント。オフィスキイワード所属。 「桂枝太郎のいいじゃん横浜」ナレーション(2016年4月 -、ジェイコム南横浜「デイリーニュー…

木村 美紀(きむら みき)
1985年1月19日生まれの有名人 東京出身

木村 美紀(きむら みき、1985年1月19日 - )は、生島企画室所属のタレント、ファッションモデル、作家、薬学者。かつてはアミューズに所属していた。 東京都出身。 女子学院中学校・高等学校を…

木村 まこ(きむら まこ)
1987年6月22日生まれの有名人 福岡出身

木村 まこ(きむら まこ、1987年6月22日 - )は、日本の女性ローカルタレント、ディスクジョッキー。埼玉県生まれ、福岡県育ち。ワタナベエンターテインメント九州事業本部所属。 博多女子高等学校…

木村 葉月(きむら はづき)
2000年8月11日生まれの有名人 茨城出身

木村 葉月(きむら はづき、2000年〈平成12年〉8月11日 - )は、日本の女優、モデル、元子役。茨城県出身。ワイケーエージェント所属。 4歳の時に知り合いの薦めでカタログモデルを始めた後、2…

木村 咲愛(きむら さきあ)
2009年2月20日生まれの有名人 東京出身

木村 咲愛(きむら さきあ、2009年2月20日 - )は、日本のアイドル、タレント、子役。さくら学院の元メンバー。アミューズ所属。 2019年5月にさくら学院のメンバーとして活動を開始し、202…

木村 好珠(きむら このみ)
1990年2月28日生まれの有名人 東京出身

木村 好珠(きむら このみ、1990年2月28日 - )は、日本の精神科医、産業医、スポーツメンタルアドバイザー、健康スポーツ医、『このみ こころとからだクリニック』 院長。大学時代にミス日本グランプ…

木村 綾子(きむら あやこ)
1980年7月19日生まれの有名人 出身

木村 綾子(きむら あやこ、1980年7月19日 - )は、日本の作家、小説家、ライター、エッセイスト、タレント、下北沢の書店B&Bスタッフ。 静岡県浜松市出身。 1999年3月、静岡県…

木村 阿美菜(きむら あみな)
1988年8月4日生まれの有名人 千葉出身

木村 阿美菜(きむら あみな、1988年8月4日 - )は、日本のアイドル、歌手、女優、タレント。 千葉県出身。 佐倉市立臼井西中学校卒業。

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「木村健悟」を素材として二次利用しています。

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