西沢道夫の情報(にしざわみちお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


西沢 道夫さんについて調べます
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西沢道夫と関係のある人
近藤義之: 日本プロ野球界では最年少記録であり、近藤の他には1936年に名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)にテスト入団した西沢道夫と2004年のドラフト会議で阪神タイガースに8巡目指名された辻本賢人しかいない記録である。 森山周一郎: 在学時は野球部に所属しプロ野球選手を目指していたが、先輩である本多逸郎の縁で実現した中日ドラゴンズとの練習試合で、当時の主力選手だった西沢道夫、児玉利一、杉山悟らの前に滅多打ちにされその夢を断念。 福留孝介: このうち打率3割・30本塁打・100打点・100得点は中日の選手としては1950年の西沢道夫以来2人目・56年ぶりの達成となった。 山本昌広: できれば、自分と同じ左投手に着用して欲しい」という山本自身の意向と、服部受弘の『10』と西沢道夫の『15』以外の背番号を永久欠番とみなさない中日球団の方針による。 松山昇: 8回まで4回二死から西沢道夫を歩かせただけの力投であったが、9回無死から一軍初出場であった代打の中利夫に投じた外角際どいシュートを三塁前にセーフティーバントで安打にされ、惜しくも逃した。 権藤博: 1965年の開幕を控えたころに西沢道夫監督から野手転向の話を受けたが、当時の権藤は1年目の成功体験が邪魔して周囲のアドバイスが素直に受け入れられなかった。 中村三郎: 「投手三本柱」と呼ばれた、松尾幸造,村松幸雄,西沢道夫が相次いで故障し、先発ローテーションでは繁里栄しか残っていなかったため、大沢清と共に野手から投手へ急遽登板する事になった。 児玉利一: 2年目の1952年からは定位置を確保し主力として活躍し、3年目の1953年からは西沢道夫、杉山悟と共に強力クリーンアップを組む。 立浪和義: 西沢道夫(初代)や高木守道(2代目)とともに「ミスタードラゴンズ」(3代目)と呼ばれる。 近藤貞雄: 1967年5月には成績不振のため休養した西沢道夫に代わって監督代行を務めるが、交代前の10試合で2勝7敗1分だったところ、交代後は8勝2敗と見事チームを立ち直らせている。 高木守道: 引退後はコーチ・監督を歴任し、初代・西沢道夫に続く2代目の「ミスタードラゴンズ」と呼ばれる。 野村克也: 川勝傳オーナーは、最下位に終わった球団を再建するため、この年限りで現役引退するドン・ブレイザー内野手を新監督に据えようとしたが、球団幹部らの猛反対に遭って頓挫し、代わりの候補として名前が挙がっていた西沢道夫や青田昇ら外部の大物のとの交渉も不調に終わったため、南海の取締役会は現役選手の野村を次期監督に推挙した。 江藤慎一: 当時の中日は吉沢岳男が正捕手としての地位を確立していたため、杉下茂監督は前年引退した西沢道夫が守っていた一塁へと江藤をコンバート、最終的に外野を守らせる構想もあった。 服部受弘: 1958年1月10日には助監督兼任となったが世代交代のあおりを受け、同年限りで西沢道夫と共に現役を引退。 野口二郎: この試合では当時世界最長の延長28回を344球で先発完投(名古屋軍の先発投手・西沢道夫も共に完投)。 今岡誠: 同年は得点圏打率.371(打数170)、満塁打率.600(25打数15安打の49打点)、満塁本塁打4本(歴代2位タイ、セ・リーグでは西沢道夫以来55年ぶり)を記録。 江藤愼一: 当時の中日は吉沢岳男が正捕手としての地位を確立していたため、杉下茂監督は前年引退した西沢道夫が守っていた一塁へと江藤をコンバート、最終的に外野を守らせる構想もあった。 黒江透修: 後ろへすっ飛んだ木俣のミットからは球がグラウンドにこぼれており、怒った西沢道夫監督が脱兎のごとくベンチを飛び出すと「ラフプレーだ!」と審判団に猛抗議。 関根潤三: さらに、通算50勝、1000本安打の双方の達成は2リーグ制以後唯一であり、1リーグ時代を含めても他に中日などで活躍した西沢道夫しか達成していない記録である。 川崎啓之介: 1957年は西沢道夫の故障もあって6月後半から一塁手の定位置を獲得。 天知俊一: ベテランの西沢道夫、児玉利一が天知へ「戻ってきてほしい」と懇願して実現したものだが、杉下は天知が肝臓を悪くしているのを知っていたため、日本シリーズを制した直後に「身体のために早く(監督を)辞めて下さい」と言われたという。 与那嶺要: 1954年には、渡辺博之・西沢道夫と激しく首位打者を争うが、9月中旬以降.433と好調を維持し、打率.361という自己最高の成績で、同僚の川上哲治(打率.322)を押しのけて自身初の首位打者を獲得。 岡林勇希: 8月12日の対広島東洋カープ戦(バンテリンドーム ナゴヤ)の第1打席で左前安打を放ち、1949年に西沢道夫が達成した球団歴代一位となる25試合連続安打に並んだ。 古川清蔵: 7月18日の対阪急戦では西沢道夫のノーヒットノーランに貢献した。 野口二郎: 達成当時は日本記録として知られることはなく、翌1947年に金星スターズの坪内道則が25試合連続安打を記録した際にはこれが日本記録とされている(その後、中日ドラゴンズの西沢道夫も1949年に野口の記録発掘前にタイ記録を達成)。 土井正三: なお、日本選手で引退年の規定打席到達者は土井を含め10名のみ(山本浩二=.276、西沢道夫=.275、正田耕三=.274、藤原満=.262、新庄剛志=.258、衣笠祥雄=.249、川上哲治=.246、長嶋茂雄=.244、王貞治=.236)。 タイロン=ウッズ: マジック1で迎えた10月10日の対巨人戦では46号先制3ラン、47号満塁本塁打を放ち7打点を挙げ、西沢道夫の持つシーズン本塁打球団記録(46本)を更新し、優勝を決めた。 野口正明: 翌1943年、投手に転向し12勝をあげ、石丸進一、西沢道夫らと共に投手陣の柱として活躍した。 長谷川良平: 実際に1試合でバットを3本折られた打者(西沢道夫だと言われている)がいて、試合後慌てて、「頼むからシュートを投げないでくれ。 杉下茂: 春季キャンプ直前になって監督の西沢道夫が健康上の理由で辞任し、杉下に球団から「何とかしろ」と就任要請が来たが、4月20日から9連勝で首位に立つも最下位に低迷、シーズン終了を待たず8月に解任された。 |
西沢道夫の情報まとめ

西沢 道夫(にしざわ みちお)さんの誕生日は1921年9月1日です。東京出身の野球選手のようです。

現在、引退、病気に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1977年に亡くなられているようです。
西沢道夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 西沢 道夫(西澤 道夫、にしざわ みちお、1921年9月1日 - 1977年12月18日)は、東京府荏原郡大崎町(現・品川区)出身のプロ野球選手(投手、内野手)・コーチ・監督、解説者。 現役時代は中日ドラゴンズ及びその前身球団を中心に活躍し、戦前には長身の快速球投手・打者転向後の戦後は細身のバット・華麗な打撃フォームの強打者として人気を集めた。初代「ミスタードラゴンズ」と呼ばれ、2代目・高木守道や3代目・立浪和義とともにファンから認知されている。セ・リーグ初のベストナイン(一塁手部門)も受賞している。 1936年12月、15歳で名古屋軍の入団テストを受け投手として入団。テスト受験当時、品川区立第二日野高等小学校高等科2年。最終学歴は旧制小学校卒となっているが、プロに進んでから、旧制鹿児島総合中、日本大学に在籍した。 年齢不足のため1年目となる1937年は当初養成選手(練習生)として過ごし、9月5日に公式戦初登板。満16歳と4日での公式戦出場は、現在も日本プロ野球史上最年少記録である。 練習生として入団した当時、小学生ながら高い身長であるのを見たコーチが、当時人気の巨漢大相撲力士出羽ヶ嶽文治郎に当てはめ「大きいなぁー、まるで文ちゃんみたいだな」とほめた事により、上記にもある「文ちゃん」の愛称が定着した。また、日本プロ野球の正式登録選手として初の「背番号0」は1983年、広島東洋カープ所属の長嶋清幸であったが、西沢はその46年前に0番を付けていた(正式登録後は5番に変更)。 戦前日本のリーグ戦では珍しい、六尺(身長182センチ)の長身を活かした速球投手として活躍。1939年に6勝を挙げると、翌1940年は20勝を挙げて一躍主力投手になった。しかし以降は好投するもなかなか勝ち星が付かず、2桁勝利は同年だけであった。 1942年5月24日対大洋戦(後楽園球場)に先発。大洋の鉄腕野口二郎と投げあい、世界最長となる延長28回を311球で完投した。同年7月18日にはノーヒットノーランも達成する。1943年のシーズンを最後に応召。 1946年に復員し、当時の中部日本軍に復帰。しかし応召中に肩を痛めていたせいで満足な成績は残せず、復帰した際には投手として活動できなかったため、ベンチを暖めるようになっていた。更に戦後新入団の杉浦清が監督に就任して以降、チームは内紛続きで雰囲気が悪くなり、居づらくなっていた。そこに新球団ゴールドスターの監督を務めていた元同僚であり先輩の坪内道典から入団を誘われた。打者として再生させるという条件付きだったが、中日の嫌な雰囲気から逃れたかった西沢は、シーズン途中でゴールドスターに移籍し、一塁手に転向。坪内の指導により、打者として再出発を図った。以来西沢は坪内を父のように慕い、1949年に中日が復帰を要請した際にも「坪内さんも一員に加えてください」と懇願し、共に復帰を果たした。 打者転向に3年を費やし、坪内と共に中日に復帰した後はスラッガーとして活躍。1949年に37本塁打を記録。翌1950年は46本塁打を記録したが、日本プロ野球史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンスの小鶴誠(51本)に及ばず、本塁打王は取れなかった。ちなみにシーズン打点記録も135と申し分なかったが、これも小鶴に負け、阪神の藤村富美男にも負けた。また、同年シーズンは5本の満塁本塁打を放ち、これは現在も日本記録である。 1951年から1952年は打撃コーチ兼任。1952年は打率.353・98打点で首位打者と打点王の2冠を獲得する。再び打撃コーチ兼任となった1954年には主砲として、チーム初のセ・リーグ優勝と日本一に貢献した。 1955年、監督を務めた天知俊一が球団の重役に栄転し、正捕手の野口明が選手兼任監督に就任。野口新監督は西沢に「今年一塁手として新人選手を獲得したから、今年から外野を守ってもらいたい」とコンバートを通告した。西沢は打者転向以来主軸として一塁を守っており、新人獲得を理由とした転向は不本意で、本来ならいがみ合いとなるところだったが、西沢は角突きあいを好まず、失踪により抵抗の意を示した。結局この行動が引退まで一塁のポジションを守る決め手となった。 1956年、助監督兼任。1958年に再び打撃コーチを兼任し、同年に現役引退。背番号「15」は、中日球団の永久欠番となった(ヘッドコーチ・監督として復帰後も使用)。同年に引退した服部受弘の「10」も欠番となったが、この処置については両選手を辞めさせるときの「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている。 投手・打者として活躍したというだけでも稀有な選手(他には同時期に同チームで活躍した服部受弘や、近鉄、巨人で投手・打者として活躍した関根潤三など)だが、その双方でレベルの高い活躍を見せた。後年の二刀流・大谷翔平のような投手・打者の同時進行というわけではないが、投手として20勝(1940年)、打者として40本塁打(46本塁打、1950年)の双方を記録したのは日本プロ野球史上では西沢だけである。 バットは、川上哲治も驚くほど極端にグリップの細いものを使っていた。そのため、長谷川良平のシュートには何本もバットを折られ、ある時長谷川に「これ以上シュートを投げないで欲しい」と懇願したという。 引退後は東京に戻って日野市に在住し、TBS「○曜ナイター・エキサイトナイター」解説者(1959年 - 1960年)を経て、古巣・中日でヘッドコーチ(1963年 - 1964年6月7日)→監督(1964年6月8日 - 1967年)を務めた。監督就任の第一声は「選手のご両親を思い浮かべてノックを打ちます」であり、在任中は恩師の坪内をヘッドコーチに招聘し、1965年から3年連続で2位となる。いずれも優勝した巨人に3年連続10ゲーム差以上は差をつけられての2位であったが、当時固定できていなかった中利夫をリードオフマンに抜擢し、2番に高木守道を固定。俊足巧打の1・2番コンビを置いたことでチームの得点力を大幅にアップさせたほか、小川健太郎を見出だした。1968年も務める予定であったが、十二指腸潰瘍の悪化で休養するなど身体を壊したこともあり、キャンプイン直前の1月17日に辞任。ただこの時は、この直前に自ら外国人選手獲得調査のためにアメリカに渡っていたこともあって、この辞任が不思議がられたこともあった。杉下茂が後任の監督に就任し、同年からTBS解説者に復帰。1970年に脳血栓で倒れてからは長期の闘病生活・車椅子生活を余儀なくされ、解説者生命も絶たれたが、1974年には中日の20年ぶりのリーグ優勝を病床で観戦。1977年1月には水原茂と共に野球殿堂入りを果たし、同年には不自由な体を圧して中日の浜松キャンプを訪問したが、12月18日に心不全のため立川市の川野病院で死去。56歳没。 2006年、首位打者のタイトルを獲得した福留孝介が、西沢の持つ「3割30本100打点100得点」のシーズン記録にドラゴンズの選手として56年ぶりに到達し、また同年打点王・本塁打王の2冠に輝いたタイロン・ウッズが、同じく西沢の135打点と46本塁打の球団記録を144打点・47本塁打でそれぞれ更新した。福留は前年にもこの記録に肉薄しており、2006年シーズン中盤から地元紙などを通じて、両名とも西沢の球団記録を更新する意欲を見せていた。 2023年8月12日、岡林勇希が西沢の持つ球団記録、25試合連続安打に並び、翌8月13日、26試合連続安打と西沢の球団記録を更新。 各年度の太字はリーグ最高 名古屋(名古屋軍)は、1946年に中部日本に球団名を変更 ゴールドスターは、1947年に金星(金星スターズ)に球団名を変更 中日(中日ドラゴンズ)は、1951年に名古屋(名古屋ドラゴンズ)に、1954年に中日(中日ドラゴンズ)に球団名を変更 各年度の太字はリーグ最高 名古屋(名古屋軍)は、1946年に中部日本に球団名を変更 ゴールドスターは、1947年に金星(金星スターズ)に球団名を変更 ※1 1963年から1965年までは140試合制 ※2 1966年から1996年までは130試合制 ※3 1964年、杉浦清監督休養後の6月9日から閉幕まで指揮(84試合36勝48敗 勝率.429) ※4 1967年、病気のため5月18日から5月28日まで休養(10試合8勝2敗)。監督代行は近藤貞雄 ※5 通算成績は、実際に指揮した試合 首位打者:1回 (1952年) 打点王:1回 (1952年) 最多出塁数:1回(1952年) ベストナイン:3回 (一塁手部門:1950年、1952年、1954年)※1950年は一塁手部門でのセ・リーグ史上初の受賞 野球殿堂競技者表彰(1977年) 日本シリーズ首位打点賞:1回 (1954年) オールスターゲームMVP:1回 (1955年 第2戦) 1000試合出場:1952年7月31日 ※史上12人目 ノーヒットノーラン:1回 (1942年7月18日、対阪急軍戦、後楽園球場) ※史上9人目 シーズン最多満塁本塁打:5本 (1950年) 25試合連続安打 (1949年4月3日 - 5月3日) 11試合連続打点 (1949年5月8日 - 5月29日) オールスターゲーム出場:5回 (1951年 - 1955年) 0 (1937年春) 14 (1937年春) 5 (1937年春 - 1937年秋) 17 (1938年 - 1943年、1946年) 23 (1946年途中 - 1947年) 15 (1948年 - 1958年、1963年 - 1966年)(永久欠番) 63 (1967年) ^ 『中日新聞』1977年12月19日朝刊第一社会面15頁「元中日の大打者“ブンちゃん” 西沢道夫氏死去」(中日新聞社) ^ 中日ドラゴンズ伝説2009(2009)、p.2-3 ^ 後に産業軍(1944年)→中部日本軍(1946年)→中部日本ドラゴンズ(1947年)→中日ドラゴンズ(1948年 - 1950年)→名古屋ドラゴンズ(1951年 - 1953年)→中日ドラゴンズ(1954年 - )と変遷。 ^ 野球殿堂に入った名選手 写真特集 ^ 雑誌『ベースボールマガジン』1998年夏季号(1998年7月1日、ベースボール・マガジン社発行)の編集後記より。また、西沢以後にも同じく練習生として、1946年 - 1947年に東京ジャイアンツ→読売ジャイアンツの長岡久夫、ブルペン捕手として、1948年に東急フライヤーズの太田義次がそれぞれ付けていたことが記載されており、西沢以外は同誌の球団別背番号年表の0の欄に名前が掲載された。 ^ この記録は2001年に西武ライオンズのアレックス・カブレラが49本塁打で本塁打王を逃す(大阪近鉄バファローズのタフィ・ローズが55本塁打で本塁打王)まで「タイトルに届かなかった最多本塁打」の日本プロ野球記録だった。なお、現在は2003年にカブレラが50本塁打でタイトルを逃したのが最高記録である(本塁打王は51本のローズ)。 ^ 今も破られぬ、70年前の「161打点」【フォーカス・レコードホルダー】 ^ 中日ドラゴンズ『中日ドラゴンズ70年史』中日新聞社、2006年。ISBN 4-8062-0514-1。 32頁 ^ 大阪猛虎「首将」が脱帽した酒仙投手と牛若丸の凄さ ^ よみがえる1958-69年のプロ野球 別冊ベースボール Part11 1968年編(ベースボール・マガジン社、2024年10月刊)68頁 ^ 『中日新聞』1977年1月22日朝刊第12版第一運動スポーツ面17頁「水原、西沢両氏 野球殿堂入り」 ^ 医療法人財団 川野病院 - 立川市 東京都出身の人物一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 大映ユニオンズの選手一覧 ノーヒットノーラン達成者一覧 日本大学の人物一覧 表 話 編 歴 池田豊 1936 桝嘉一 1937 根本行都 1938 - 1939 小西得郎 1939 - 1941 本田親喜 1941 - 1942 桝嘉一 1943 三宅大輔 1944 竹内愛一 1946 杉浦清 1946 - 1948 天知俊一 1949 - 1951 坪内道典 1952 - 1953 天知俊一 1954 野口明 1955 - 1956 天知俊一 1957 - 1958 杉下茂 1959 - 1960 濃人貴実 1961 - 1962 杉浦清 1963 - 1964 西沢道夫 1964 - 1967 杉下茂 1968 水原茂 1969 - 1971 与那嶺要 1972 - 1977 中利夫 1978 - 1980 近藤貞雄 1981 - 1983 山内一弘 1984 - 1986 星野仙一 1987 - 1991 高木守道 1992 - 1995 星野仙一 1996 - 2001 山田久志 2002 - 2003 落合博満 2004 - 2011 髙木守道 2012 - 2013 谷繁元信 2014 - 2016 森繁和 2017 - 2018 与田剛 2019 - 2021 立浪和義 2022 - 2024 井上一樹 2025 - 現在 表 話 編 歴 60 ヴィクトル・スタルヒン 62 池田豊 63 中島治康 64 若林忠志 65 川上哲治, 鶴岡一人 69 苅田久徳 70 天知俊一, 二出川延明 72 石本秀一 74 藤本定義, 藤村富美男 76 中上英雄 77 水原茂, 西沢道夫 78 松木謙治郎, 浜崎真二 79 別所毅彦 80 大下弘, 小鶴誠 81 飯田徳治, 岩本義行 83 三原脩 85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳 88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一 89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎 90 真田重蔵, 張本勲 91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎 92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男 93 稲尾和久, 村山実 94 王貞治, 与那嶺要 95 杉浦忠, 石井藤吉郎 96 藤田元司, 衣笠祥雄 97 大杉勝男 99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄 00 米田哲也 01 根本陸夫, 小山正明 02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎 03 上田利治, 関根潤三 04 仰木彬 05 村田兆治, 森祇晶 06 門田博光, 高木守道, 山田久志 07 梶本隆夫 08 山本浩二, 堀内恒夫 09 若松勉 10 東尾修 11 落合博満 12 北別府学, 津田恒実 13 大野豊 14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩 15 古田敦也 16 斎藤雅樹, 工藤公康 17 伊東勤 18 松井秀喜, 金本知憲 19 立浪和義 22 髙津臣吾, 山本昌 23 アレックス・ラミレス 24 谷繁元信, 黒田博樹 25 イチロー, 岩瀬仁紀 09 青田昇 10 江藤慎一 11 皆川睦雄 13 外木場義郎 16 榎本喜八 17 星野仙一, 平松政次 18 原辰徳 19 権藤博 20 田淵幸一 23 ランディ・バース 25 掛布雅之 59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿 60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎 62 市岡忠男 64 宮原清 65 井上登, 宮武三郎, 景浦將 66 守山恒太郎 67 腰本寿 68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三 69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧 70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚 71 小西得郎, 水野利八 72 中野武二, 太田茂 73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三 74 野田誠三 76 小泉信三 77 森茂雄, 西村幸生 78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎 79 平沼亮三, 谷口五郎 80 千葉茂 81 佐伯達夫, 小川正太郎 82 鈴木龍二, 外岡茂十郎 83 内村祐之 84 桐原眞二 85 田中勝雄, 山内以九士 86 中河美芳, 松方正雄 87 藤田信男, 山下実 88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一 89 池田恒雄, 伊達正男 90 佐伯勇 91 中澤良夫 92 吉田正男 94 廣岡知男 95 呉昌征, 村上實 96 牧野直隆, 保坂誠 97 山本英一郎 98 中尾碩志, 井口新次郎 99 吉國一郎 00 福島慎太郎 01 武田孟, 長谷川良平 02 中澤不二雄, 生原昭宏 03 松田耕平 04 秋山登 05 志村正順 06 川島廣守, 豊田泰光 07 松永怜一 08 嶋清一 09 大社義規, 君島一郎 10 古田昌幸 12 長船騏郎, 大本修 13 福嶋一雄 14 相田暢一 15 林和男, 村山龍平 16 松本瀧藏, 山中正竹 17 郷司裕, 鈴木美嶺 18 瀧正男 19 脇村春夫 20 前田祐吉, 石井連藏 21 川島勝司, 佐山和夫 22 松前重義 23 古関裕而 24 谷村友一 25 富澤宏哉 02 フランク・オドール, 正岡子規 03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄 表 話 編 歴 沢村栄治 V.スタルヒン 石田光彦 中尾輝三 亀田忠 浅野勝三郎 三輪八郎 森弘太郎 西沢道夫 天保義夫 藤本英雄 別所昭 石丸進一 呉昌征 梶岡忠義 真田重男 金田正一 林義一 大友工 山下登 杉下茂 大津守 大脇照夫 大矢根博臣 井上善夫 中山義朗 G.バッキー 外木場義郎 清俊彦 若生忠男 堀内恒夫 城之内邦雄 鈴木啓示 成田文男 渡辺秀武 鬼頭洋 藤本和宏 高橋直樹 江夏豊 神部年男 加藤初 戸田善紀 郭泰源 田中幸雄 近藤真一 柴田保光 湯舟敏郎 西崎幸広 佐藤義則 T.ブロス 渡辺久信 野口茂樹 石井一久 川尻哲郎 佐々岡真司 M.バンチ N.エルビラ 川上憲伸 井川慶 R.ガトームソン 山本昌 前田健太 杉内俊哉 西勇輝 山井大介 岸孝之 山口俊 菅野智之(CS) 千賀滉大 大野雄大 小川泰弘 東浜巨 今永昇太 山本由伸 C.ポンセ 石川柊太 戸郷翔征 大瀬良大地 表 話 編 歴 投 真田重男 捕 荒川昇治 一 西沢道夫 二 千葉茂 三 藤村富美男 遊 白石勝巳 外 小鶴誠 / 青田昇 / 岩本義行 表 話 編 歴 投 別所毅彦 捕 野口明 一 西沢道夫 二 千葉茂 三 藤村富美男 遊 平井三郎 外 与那嶺要 / 南村不可止 / 杉山悟 表 話 編 歴 投 杉下茂 捕 広田順 一 西沢道夫 二 箱田弘志 三 宇野光雄 遊 広岡達朗 外 与那嶺要 / 渡辺博之 / 杉山悟 表 話 編 歴 1950 藤村富美男 1951 川上哲治 1952 西沢道夫 1953 川上哲治 1954 与那嶺要 1955 川上哲治 1956 与那嶺要 1957 与那嶺要 1958 田宮謙次郎 1959 長嶋茂雄 1960 長嶋茂雄 1961 長嶋茂雄 1962 森永勝治 1963 長嶋茂雄 1964 江藤慎一 1965 江藤慎一 1966 長嶋茂雄 1967 中暁生 1968 王貞治 1969 王貞治 1970 王貞治 1971 長嶋茂雄 1972 若松勉 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 山本浩二 1976 谷沢健一 1977 若松勉 1978 水谷実雄 1979 F.ミヤーン 1980 谷沢健一 1981 藤田平 1982 長崎啓二 1983 真弓明信 1984 篠塚利夫 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 篠塚利夫, 正田耕三 1988 正田耕三 1989 W.クロマティ 1990 J.パチョレック 1991 古田敦也 1992 J.ハウエル 1993 T.オマリー 1994 A.パウエル 1995 A.パウエル 1996 A.パウエル 1997 鈴木尚典 1998 鈴木尚典 1999 R.ローズ 2000 金城龍彦 2001 松井秀喜 2002 福留孝介 2003 今岡誠 2004 嶋重宣 2005 青木宣親 2006 福留孝介 2007 青木宣親 2008 内川聖一 2009 A.ラミレス 2010 青木宣親 2011 長野久義 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.マートン 2015 川端慎吾 2016 坂本勇人 2017 宮﨑敏郎 2018 D.ビシエド 2019 鈴木誠也 2020 佐野恵太 2021 鈴木誠也 2022 村上宗隆 2023 宮﨑敏郎 2024 T.オースティン 表 話 編 歴 1950 小鶴誠 1951 青田昇 1952 西沢道夫 1953 藤村富美男 1954 杉山悟, 渡辺博之 1955 川上哲治 1956 宮本敏雄 1957 宮本敏雄 1958 長嶋茂雄 1959 森徹 1960 藤本勝巳 1961 桑田武 1962 王貞治 1963 長嶋茂雄 1964 王貞治 1965 王貞治 1966 王貞治 1967 王貞治 1968 長嶋茂雄 1969 長嶋茂雄 1970 長嶋茂雄 1971 王貞治 1972 王貞治 1973 王貞治 1974 王貞治 1975 王貞治 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 王貞治 1979 山本浩二 1980 山本浩二 1981 山本浩二 1982 掛布雅之 1983 原辰徳 1984 衣笠祥雄 1985 R.バース 1986 R.バース 1987 C.ポンセ 1988 C.ポンセ 1989 落合博満 1990 落合博満 1991 広沢克己 1992 L.シーツ 1993 広沢克己, R.ローズ 1994 大豊泰昭 1995 江藤智 1996 L.ロペス 1997 L.ロペス 1998 松井秀喜 1999 R.ローズ 2000 松井秀喜 2001 R.ペタジーニ 2002 松井秀喜 2003 A.ラミレス 2004 金本知憲 2005 今岡誠 2006 T.ウッズ 2007 A.ラミレス 2008 A.ラミレス 2009 T.ブランコ 2010 A.ラミレス 2011 新井貴浩 2012 阿部慎之助 2013 T.ブランコ 2014 M.ゴメス 2015 畠山和洋 2016 筒香嘉智 2017 J.ロペス 2018 W.バレンティン 2019 N.ソト 2020 岡本和真 2021 岡本和真 2022 村上宗隆 2023 牧秀悟 2024 村上宗隆 表 話 編 歴 1951 川上哲治, 野口明, 林義一 1952 飯島滋弥 1953 飯田徳治, 平井三郎, 堀井数男 1954 中西太, 山内和弘 1955 山内和弘, 西沢道夫 1956 森下正夫, 吉田義男 1957 大下弘, 宮本敏雄 1958 宮本敏雄, 中西太 1959 山内和弘, 中利夫 1960 森下整鎮, 金田正一, 張本勲 1961 広瀬叔功, 田宮謙次郎 1962 ブルーム, 張本勲 1963 近藤和彦, 王貞治, 古葉毅 1964 金田正一, J.マーシャル, J.スタンカ 1965 D.スペンサー, 高倉照幸, 江藤慎一 1966 広瀬叔功, 榎本喜八, 古葉竹識 1967 土井正博, 長池徳二, 大杉勝男 1968 江藤慎一, 柴田勲, 小池兼司 1969 土井正博, 船田和英 1970 長池徳二, 江夏豊, 遠井吾郎 1971 江夏豊, 長池徳二, 加藤秀司 1972 野村克也, 阪本敏三, 池田祥浩 1973 若松勉, 福本豊, 山崎裕之 1974 高井保弘, 福本豊, 張本勲 1975 山本浩二, 松原誠, 土井正博 1976 有藤道世, 門田博光, 吉田孝司 1977 若松勉, 野村克也, 王貞治 1978 A.ギャレット, 簑田浩二, 掛布雅之 1979 王貞治, B.マルカーノ, 山本浩二 1980 岡田彰布, 平野光泰, 江夏豊 1981 藤原満, 掛布雅之, 山倉和博 1982 福本豊, 柏原純一, 掛布雅之 1983 門田博光, 梨田昌崇, 落合博満 1984 簑田浩二, ブーマー, 江川卓 1985 高木豊, W.クロマティ, 松永浩美 1986 山本和範, 清原和博, 吉村禎章 1987 高沢秀昭, 石毛宏典, 清原和博 1988 ブーマー, 岡田彰布, 正田耕三 1989 村田兆治, 彦野利勝 1990 R.ブライアント, 清原和博 1991 古田敦也, 広沢克己 1992 石井浩郎, 古田敦也, 駒田徳広 1993 清原和博, T.オマリー 1994 秋山幸二, G.ブラッグス 1995 落合博満, 松井秀喜 1996 山本和範, 清原和博, 金本知憲 1997 松井稼頭央, 清原和博 1998 川上憲伸, 松井秀喜 1999 松井秀喜, R.ローズ, 新庄剛志 2000 R.ペタジーニ, 山﨑武司, 清原和博 2001 松井稼頭央, R.ペタジーニ, 中村紀洋 2002 G.アリアス, 的山哲也 2003 高橋由伸, 金本知憲 2004 松坂大輔, SHINJO 2005 金城龍彦, 前田智徳 2006 青木宣親, 藤本敦士 2007 A.ラミレス, 阿部慎之助 2008 山﨑武司, 荒木雅博 2009 青木宣親, 松中信彦 2010 阿部慎之助, 片岡易之 2011 畠山和洋, 中村剛也, 稲葉篤紀 2012 中村紀洋, 前田健太, 陽岱鋼 2013 澤村拓一, 新井貴浩, 内川聖一 2014 B.エルドレッド, 柳田悠岐 2015 藤浪晋太郎, 會澤翼 2016 筒香嘉智, 大谷翔平 2017 内川聖一, A.デスパイネ 2018 森友哉, 源田壮亮 2019 森友哉, 近本光司 2020 (中止) 2021 菊池涼介, 島内宏明 2022 清宮幸太郎, 柳田悠岐 2023 柳田悠岐, 万波中正 2024 牧秀悟,佐藤都志也 日本の野球選手 日本大学硬式野球部の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 大映ユニオンズ及びその前身球団の選手 二刀流の野球選手 首位打者 (NPB) 打点王 (NPB) NPBオールスターゲーム選出選手 NPBオールスターゲームMVP 日本の野球監督 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督 野球解説者 日本の野球殿堂表彰者 日本プロ野球永久欠番保持者 東京都出身のスポーツ選手 東京都区部出身の人物 1921年生 1977年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 2025/04/08 11:45更新
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nishizawa michio
西沢道夫と同じ誕生日9月1日生まれ、同じ東京出身の人


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