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金田正一の情報 (かねだまさいち)
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【6月14日】今日誕生日の芸能人・有名人

金田正一の情報(かねだまさいち) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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金田 正一さんについて調べます

■名前・氏名
金田 正一
(読み:かねだ まさいち)
■職業
野球選手
■金田正一の誕生日・生年月日
1933年8月1日 (年齢86歳没)
酉年(とり年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
愛知出身

(昭和8年)1933年生まれの人の年齢早見表

金田正一と同じ1933年生まれの有名人・芸能人

金田正一と同じ8月1日生まれの有名人・芸能人

金田正一と同じ出身地愛知県生まれの有名人・芸能人


金田正一と関係のある人

米田哲也: 米子と言う土地柄、プロ野球はラジオで聞く程度であったが、湊山球場で行われた大阪×国鉄戦を見たことがあり、その時の印象として「阪神の渡辺省三さんはコントロールはいいけど球は遅いし、国鉄のカネさん(金田正一)は球は速いけどコントロールは悪かった。


米田哲也: 投手として通算33本塁打は金田正一に次ぐ歴代2位。


稲尾和久: 1973年は、太平洋球団フロントが話題作りにと画策した「ロッテとの対立を演出する」という営業方針に、ロッテの金田正一監督からの誘いに応じる形で同意、オープン戦から舌戦を交わして遺恨を演出した。


権藤博: 一方で金田正一のNPB400勝の価値については、優勝を争ったところで投げていない(400勝の約90%にあたる353勝を弱小球団であった国鉄時代に挙げている)ということから否定している。


山中浩史: ヤクルトの投手による一軍公式戦シーズン初登板からの6連勝は、国鉄スワローズ時代の1958年に金田正一が9連勝を達成したことに次ぐ連勝記録である。


星野仙一: またこの年の10月10日の巨人 - 中日戦で金田正一(巨人)が通算400勝を達成した試合の中日の敗戦投手が星野であり、自身も「歴史的な試合で名を残せて良かった」と後々まで語っていた。


堀井恒雄: 肘と膝の故障を抱えながら臨んだ1990年4月30日の西武戦(川崎)では4.2回を投げて11安打と猛打を浴び、敗戦投手とはならなかったが無残なKOとなり、試合後に金田正一監督から監督室に呼び出された。


八木沢荘六: 1978年は前期シーズン中に金田正一監督に引退を勧告され、コーチに就任させる話もあったが、投手陣のリーダー格であったことから選手達が猛反発し、結局同年限りで金田監督が退任。


吉田義男: 特に400打席近く対戦した金田正一は「あいつとだけは対戦したくない」と常々口にしていたほどに吉田を苦手にしており(吉田から三振を奪ったのは15回だけである)、金田からプロで初めてサヨナラ本塁打を放った打者も吉田である。


徳永喜久夫: 2年生時の1949年には、愛知大会準決勝で金田正一を擁する享栄商業高校を4-0と完封で抑えて勝ち上がり、夏の甲子園大会に出場した。


江藤慎一: 1976年、金田正一監督の「プロとしての生きざまを若い選手に見てもらいたい」との誘いでロッテに復帰。


武上四郎: 同24日の巨人戦(後楽園)で5回表に金田正一から初本塁打となる中越ランニング本塁打を放ち、セ・リーグ初の「プロ初本塁打がランニング本塁打」という記録を打ち立てる。


槌田誠: 金田正一に「こら、負けたときはもっと悲しそうな顔をしろ!」と、冗談まじりで怒られても、笑顔は消えなかった。


田中久寿男: 8月19日の中日戦(後楽園)では1-1の同点で迎えた9回裏の1死2、3塁の場面、国松彰の代打に当日は登板のなかった金田正一を送るが、中日は金田を敬遠。


桜井薫: 4月25日には国鉄スワローズの金田正一と投げ合い、初完投を果たすが0-1で惜敗。


足立光宏: 第4戦は金田正一に投げ勝ち完投勝利、第5戦もリリーフで2勝目を挙げる。


村上義則: 入団時、背番号は小豆島を舞台にした壺井栄の名作「二十四の瞳」にちなんだ「24」と、村上自身が憧れていた同じ左腕の大投手である金田正一の「34」が用意されていたが、村上は迷わず「34」を選んだと言われている。


加茂喜久: 侍ジャイアンツ(金田正一


石川雅規: プロ1年目から20年連続勝利は鈴木啓示以来、36年ぶり7人目、セ・リーグでは金田正一に次ぐ2人目、左腕では4人目のタイ記録となった。


重松省三: 大会終了後の8月に退社して大洋ホエールズへ入団し、11日の国鉄戦(川崎)で初出場を果たすと、30日の国鉄戦(後楽園)で3番手登板の金田正一から初安打を記録。


阿部寛: 鉄人28号(2005年3月19日公開、東宝) - 金田正一郎 役


鵜飼勝美: 享栄商業高校ではエース金田正一を擁し、二塁手として1950年夏の甲子園県予選準決勝に進むが一宮高に惜敗。


金田賢一: 父は元プロ野球選手・監督の金田正一


福浦健次: 金田正一と投げ合い、5回を2安打3失点に抑えるが敗戦投手となった。


小川博: この試合では4回表に2死満塁のピンチを招き、金田正一監督から交代を提案されたが続投を志願して投げ続け、続く5回表にも1死二塁のピンチを招いた際に金田監督から強い口調で交代を求められるが、小川はこれを拒否して投げ抜いた。


稲尾和久: 25歳86日での達成は金田正一に次ぐ年少記録で、プロ入り7年目での達成は史上最速であった。


村山実: 1965年(1.96・307回2/3)、1966年(1.55・290回1/3)と2年連続でリーグ最多投球回を投げた上で低防御率に抑えるが、いずれの年も投球回数が約半分の金田正一(1.84・141回2/3)、堀内恒夫(1.39・181回)に及ばず、2位に甘んじ最優秀防御率のタイトルを逃している。


皆川睦雄: 葬儀では南海時代の先輩岡本伊三美が弔辞を読み、野村克也、吉田義男、金田正一、王貞治、母校の高校のOBらが参列した。


野村収: 1973年は新任の金田正一監督から多くの助言をもらったが、6勝10敗、防御率4.34と低迷。


大友工: 当時球速では金田正一と大友が双璧をなしていたが、金田も「大友さんの球が一番速い」と一目置いていたという。


金田正一の情報まとめ

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金田 正一(かねだ まさいち)さんの誕生日は1933年8月1日です。愛知出身の野球選手のようです。

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概説、経歴などについてまとめました。引退、現在、テレビ、事件に関する情報もありますね。86歳で亡くなられているようです。

金田正一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

金田 正一(かねだ まさいち、1933年8月1日 - 2019年10月6日)は、愛知県稲沢市生まれ、名古屋市北区出身のプロ野球選手(投手)・監督・解説者・評論家・実業家・タレント。

国鉄スワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)と読売ジャイアンツで活躍し、日本プロ野球史上唯一の通算「400勝投手」である。

同時に通算敗戦(298)、通算奪三振(4490)、通算完投(365)、通算イニング(5526回2/3)、通算対戦打者(22078)、通算与四球(1808)、連続シーズン20勝以上(14)、連続イニング無失点(64回1/3)、開幕投手回数(14)、連続シーズン100奪三振以上(16)はいずれもNPB記録。NPB史上最年少で200勝達成と共に最年少ノーヒットノーランを達成している。NPB最多記録となる最多奪三振を10回獲得。また、歴代NPB史上で2人のみで1人目の沢村栄治賞3回受賞者であり、3年連続受賞(1956年 - 1958年)も達成している。

引退後はロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)監督や日本プロ野球名球会初代会長を務めた。

概説

愛称は「カネやん」、「金ダー」。少年時代のあだ名は「電柱」「割り箸」など。プロ入り後は「巨人キラー」と言われた。

現役時代は国鉄スワローズ・読売ジャイアンツでプレーし、日本球界不滅の400勝を記録。引退後はロッテオリオンズ監督(1973年 - 1978年, 1990年 - 1991年)を務め、1974年には前期リーグ優勝、日本一を達成している。千葉ロッテマリーンズ取締役のほか、2009年12月3日まで日本プロ野球名球会会長(代表幹事、同社代表取締役社長)を務めた。2009年11月までは、経営する自身の個人事務所「カネダ企画」内に名球会事務局が置かれていた。

実弟は元プロ野球選手の金田高義・金田星雄・金田留広で、1軍経験があるのは留広のみ。息子は俳優の金田賢一。甥に元プロ野球選手の金石昭人がいる。

留広は1969年に東映フライヤーズへ入団。この年のオールスターゲームにおいて、正一がセントラル・リーグ、留広がパシフィック・リーグの監督推薦選手となり、7月19日に東京スタジアムで開かれた第1戦では、「投手・留広対打者・正一」という対戦が実現している(結果は正一が二塁へのフライで凡退)。なお、正一はこの1969年をもって引退した為、これがプロ野球における生涯唯一の対戦となった。

経歴

プロ入り前

1933年、愛知県稲沢市に在日韓国人2世として生まれる。名古屋市立大曽根中学校在学中に野球を始め、愛知県名古屋市の名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)を経て、同市の享栄商業高校(現・享栄高校)へ編入。この時点では14歳で、本来は高校に入学できないはずの年齢である。但し、ロッテ監督時代の1990年に金田の担当記者であったスポーツニッポンの大西純一曰く、本人から「終戦の頃に日本国籍を取得した際、書類に実年齢より2歳若い数字を書いて提出した所、そのまま受理された」として「2歳サバを読んでいた」と話されたことがあると言い、仮にこの話が正しければ金田は1931年生まれで享栄高校編入時には就学年齢に達していたことになる。ちなみに、名古屋電気高校の在学中までは電気技師を志していたという。

享栄商では野球部長兼監督の芝茂夫と出会い、金田は芝によって徹底して走り込みを教えられ投手としてのスタミナと体づくりを学んだ。後年、金田は「私の走る野球の原点はここにある」と記し、今でも「野球選手として育ててくれ、足を向けて寝られない」存在として芝を尊敬している。同年の夏の甲子園に補欠で出場したが、登板機会はなかった。

2年次の1949年には、エースとして夏の甲子園県予選準決勝に進むが、瑞陵高校の徳永喜久夫に抑えられ完封負け。しかしコントロールに難はあるものの、伸びのある快速球と鋭い縦のカーブは評判となる。

1950年3月、3年生になる直前の時点で、設立されたばかりの国鉄スワローズ・西垣徳雄監督にスカウトされた。同年夏も県予選準決勝に進むが一宮高校に1-2で惜敗。この時のチームメートには一塁手の高木公男、後にプロで同僚となる二塁手の鵜飼勝助がいた。予選敗退後すぐに高校を中退し、シーズン途中に国鉄へ入団。

現役時代

プロ初登板は1950年8月23日の広島戦(松山)で3番手で登板、好投したものの9回に捕まり、阪田清春にサヨナラ打を浴び初黒星を喫した。国鉄は17歳の金田を即戦力として積極的に起用し、8月デビューながら8勝を挙げた。野球界が特待生制度の是非で揺れた時期に、自身もかつては各プロスポーツ関係者から手厚い待遇を受けており、特に自分に対する待遇は他の者よりも優遇されており「自分は特待生の中の特待生」だったと明かしている。金田の弁によれば、この制度によって様々な経済的援助を受けたことにより、「中学・高校を通して学費を払ったことが一切ない」という程だった。金田本人はプロ入り後の収入でそれらの金を返済するつもりだったが、現役時どころか現在に至るまで返済を求める者が現れず、半ばなかったことになってしまったという。

1951年は全107試合中44試合に先発登板し、9月5日の対大阪タイガース戦(大阪球場)でノーヒットノーランを達成。18歳35日での達成は史上最年少記録であり、昭和生まれ初の達成となった。同年は22勝を挙げ、以後14年連続20勝を記録。タイトルでは無かったが、自身初の最多奪三振を達成する。

1952年、2年連続で最多奪三振を達成。

1953年、3年連続で最多奪三振を達成。

1954年8月8日の試合で球審の国友正一に対して暴言を吐き自身初の退場処分となった。

1955年、自身4度目の最多奪三振を達成。初の防御率1点台となり、1958年までリーグ屈指の投手成績を続ける。この年は自身最多の400投球回を記録したが、全130試合中62試合で投げ、うち37試合が先発、34試合が完投という異常な登板ぶりだった。終盤にはダブルヘッダーで連投し、うち1試合は完封、さらに翌日に先発登板して完投したことさえある(8月27日~28日)。

1956年、自身5度目の最多奪三振を達成。さらに自身初の沢村栄治賞を受賞する(昭和生まれ初)。

1957年8月21日の中日戦(中日)では完全試合を達成。登板の前日に下痢を発症して体調を崩した中での記録達成であった。しかも、達成直前の9回一死で酒井敏明のハーフスイングの判定を巡って中日が猛抗議し、観客もグラウンドに乱入して43分間の中断があったが、金田は全く動じなかった。再開後に対戦した2人の打者を共に全て空振りの3球三振に仕留め、大記録達成に花を添えた。中断の間、金田は「そんなにワシのことが嫌いか。そんなにワシの記録にケチをつけたいんかい!」と怒りに震えていたという。なお、NPBの公式戦において左腕投手で完全試合を達成したのは未だに金田ただ1人である。また、この年は自身初の最多勝、最優秀防御率を獲得し、 自身初のベストナインを受賞。さらに2年連続で沢村賞を受賞した。

1958年4月5日の開幕戦(巨人、後楽園)では長嶋茂雄から4打席連続三振を奪い、プロの意地を見せた。開幕戦直前、長嶋がオープン戦で左腕投手を打ち崩し「開幕戦でも金田投手を打ち崩せるかもしれません」との報道に金田が激怒したという。しかし、結果4連続三振を奪ったものの、試合後、金田は顔をこわばらせ「あの小僧、モノになるかもしれない。三振は全部フルスイングだった」と述べている。初対決で金田から4打席4三振を喫した長嶋は「カーブのキレがよく、特にドロップに手が出なかった。さすが金田さんだ」と感想を残した。次の対戦でも最初の打席で三振を奪い、長嶋のデビューから対戦5打席連続で三振に仕留めた。長嶋は1964年までの7年間で金田から打率.313、18本塁打を記録し、金田から最も多くの本塁打を打った打者となっている。同年6月5日に通算200勝を達成。24歳での達成は史上最年少記録である。6月12日には開幕より僅か70日の51試合目でシーズン20勝目を挙げ、いずれも史上最速。この時点での成績は9完封を含む20勝2敗(他に13イニング2失点の完投引き分け1)、防御率0.57という圧倒的なもので、64回1/3連続無失点の日本記録もこの間に達成。しかし、夏場に入ると肘痛に苦しみ、8月下旬から30日間白星に見放されるなどあって、シーズンでは31勝(14敗)に留まった。この年も最多勝と最優秀防御率(1.30)を獲得。防御率1.297は左投手のNPB最高記録、自身6度目の最多奪三振(311)を達成。ベストナインも受賞。さらに史上初の3年連続沢村賞受賞を達成した。このシーズンがキャリアハイとなる。

1959年には王貞治が巨人に入団し、4月11日の開幕戦で対戦、2打数2三振を奪った。王は同じく1964年までの6年間で打率.283、13本塁打を記録。金田は毎年最低1本は王に本塁打を打たれたが、特に最後の対戦となった1964年には1シーズンで7本塁打を打たれた。この年も自身7度目の最多奪三振を達成。

1960年、自身8度目の最多奪三振を達成。

1962年9月5日にウォルター・ジョンソンの記録を破る通算3509奪三振を達成。しかし、1959年からこの年まではシーズン中に好不調の波があり、20勝こそ達成していたが、1955年から1958年のような圧倒的な成績ではなかった。

1963年6月30日に通算311勝を記録。別所毅彦を抜き、プロ野球歴代1位となった。この年はシーズン30勝を記録しているが、これ以降セ・リーグでは達成した投手はいない。この年は、最多勝を獲得し、自身9度目の最多奪三振を達成。ベストナインも受賞する。

1964年までに14年連続20勝、通算353勝を挙げた。巨人戦通算65勝は歴代1位。国鉄時代の通算353勝という数字から見ると特に対巨人戦の勝ち星が多いというわけではなく、どのチームからもほぼ満遍なく勝ち星を挙げている。国鉄時代、最も勝ち星が多かった相手は広島で83勝。巨人戦では通算72敗を喫し、負け越している。この年は自身10度目の最多奪三振を達成。同年シーズン終了後に残留交渉がまとまらず、12月21日にB級10年選手制度を行使して15年間慣れ親しんだ国鉄を退団することとなった。金田が国鉄スワローズを見限ったのは、1962年に産経新聞社とフジテレビが球団経営に参加した時点に遡る。この時の産経・フジのやり方に反発し、この年の移籍につながったと言われている。また、金田は監督の林義一との関係がうまくいっておらず、コーチであった飯田徳治の監督昇格を主張する国鉄に反して、産経側が林を留任させたことも、金田の移籍に繋がった。

セ・リーグ会長の鈴木龍二は金田に対して、同年の順位の下位球団である、中日(6位)・広島(4位)と入団交渉するように指示。中日は地元名古屋出身の金田を強く勧誘し、契約金1億円を提示したとも言われるが、金田は拒否。次に、同年3位の巨人と交渉してまとまり、12月24日に巨人への移籍が正式に発表された。契約金7000万円、年俸2000万円(いずれも推定)とされる。

金田の巨人入団には、巨人ナインも金田に見習ってほしいという監督・川上哲治の思惑があった。金田入団後、巨人選手は「あれだけの実績を上げた人が俺達よりも走っている」と感嘆したという。長嶋も金田から身体作りの手ほどきを受けスランプを脱した。巨人時代の金田の成績はわずか47勝しかないが、選手の意識改革を促してチームの9連覇に貢献した。川上は金田のプライドを尊重し、勝ち星こそ少ないものの、金田が巨人に在籍した5年間で日本シリーズ第1戦先発に3度(1965年、1967年、1968年)、公式戦の開幕投手にも4度(1965年、1967~69年)指名している。大舞台に数々の修羅場をくぐってきた金田の経験を活かしたい川上の思いに、金田も見事に応えて好投した。そんな金田も、ある試合で本塁打を打った長嶋の頭を叩くなどしてホームで手荒く出迎えたところ、チームメイトから一斉に冷ややかな視線を向けられた。国鉄時代は「天皇」の異名を取った自分も巨人においては外様に過ぎないのだと思い知らされたという。

1965年4月10日の開幕戦(対中日)で先発に起用されると、2失点で完投勝利を飾る。またこの試合では6回に自ら試合を決める本塁打も放っている。翌々日の4月12日の阪神戦では、柿本実が長嶋に対して際どいシュートを投げたことから乱闘騒ぎになり、柿本を突いたとして柳田利夫と共に2度目の退場処分を受けた。この年は巨人への移籍により登板数が減るが、主戦投手として6月初旬までに6勝を挙げる。梅雨の到来とともに持病の左肘痛が悪化して調子を落とすと、約3ヶ月勝ち星から見放される。9月8日の対サンケイ戦で久々に7勝目を挙げると、閉幕までに5勝を重ねたがシーズンでは11勝に終わる。結局、連続シーズン20勝の記録は14年で途切れるが、防御率1.84で3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。なお、この年は不調の夏場に約1ヶ月間一軍選手登録を抹消され、9月4日の対東映戦では生涯唯一となる二軍での登板を果たした。南海との日本シリーズでも開幕戦に先発して完投勝利を飾るなど、2勝を挙げている。

1966年は左肘の調子が思わしくなく、開幕から3試合連続ノックアウトされて戦列を離れると、シーズンを通じて4勝に終わる。1967年は復活し、城之内邦雄(17勝)に次ぐ16勝に防御率2.28(リーグ4位)を記録。以降は徐々に成績を落とし、1969年10月10日の中日戦で日本球界初の通算400勝を達成。同年11月30日に記者会見を行い、現役引退を正式に表明した。巨人での背番号34は球団では4例目となる永久欠番に指定された。

金田は当初は引退するつもりがなかったが、石原慎太郎に「もう400勝を区切りに身を引くべきだ」と諭された。金田は「わしはまだできる」と抵抗したが、石原の「誰もあなたが打たれるのを見たくはない。なぜならあなたは金田正一だからだ」というセリフに、最終的には引退を受け入れた。このエピソードが『文藝春秋』に石原本人の執筆で掲載されたことがある。CS日本「巨人の魂」での金田の証言によると、川上が試合前のミーティングで金田に400勝をさせて辞めてもらおうと言ったという。金田がそれに気づいたのは400勝達成の胴上げの際、長嶋が泣きながら「御苦労様でした」と言ってきたことだった。

引退会見では長年の酷使で左腕が伸びきらないことを披露。この場面は野球漫画「巨人の星」にも描かれた。ただし、引退後に左腕は再びまっすぐ伸びるようになっている。

翌1970年4月2日に後楽園球場で古巣・ヤクルトとのオープン戦にて引退試合が行われた。

引退

引退後は日本テレビ(1970年 - 1972年)・ニッポン放送(1972年)で解説者を務める傍ら、タレントとしても活動していた。同時に実業家で会社を経営する経営者でもあった。1972年11月17日、ロッテの監督に就任。年俸は2400万円で巨人・川上哲治に次ぐ金額で新人監督として異例の好条件であった。「新人監督なのに年俸が高すぎる」という関係者もいた(阪急で黄金時代を築いていた阪急の西本幸雄監督の年俸は1300万円だった。)。しかし金田は「順調だった仕事をなげうってまで監督を引き受け引き受けようとしてるんやで。ワシの今までの働きからすれば安いもんや」と一蹴。また現役時代「天皇」と呼ばれたほどのワンマンだった金田が監督業が務まるのかという危惧にも「名選手必ずしも名監督あらず、というのはことわざや。野球界に金田旋風を起こすつもりや。」と意に介さなかった。当時のロッテの状況は取り巻くほどひっ迫していた。2軍監督は金田の高校の先輩高木公男が就任。この年に5位に沈んだロッテは観客動員がわずか31万人で閑古鳥が鳴いていた。黒い霧事件もあり観客動員が大幅に激減していた。金田は「ワシが野球界に戻そうとしているのはロッテだけの再建やないで、日本の野球界再建の為や。」、「ピンチのパリーグのお客さんを呼ばなきゃいかん。」、「お客さんを呼ぶためにはワシは球場で逆立ちしてもええ。」と述べた。金田就任からチームが千葉ロッテマリーンズになるまで19シーズンにわたって使用されたユニフォームは金田がデザインし、軽量化にも拘った。1974年にはチームをリーグ優勝・日本一に導く。

注目度は高く1973年のロッテの鹿児島キャンプの観客数は巨人に次ぐ2位。選手たちをまるで陸上部からと思わせるほどの徹底的な走り込みを課し体力強化に努め12球団と言われた豪華な食事を準備しトレーナーの数を増員するなどアフターケアも欠かさなかった。本拠地を失い地方ゲームが増えたというハンディを乗り越え3位に浮上した。同年のリーグ最小失点も記録し、防御率ベストテンに3人(成田文男・八木沢荘六・木樽正明)もランクイン。特に成田は21勝で最多勝を獲得。弘田澄男を中堅手のレギュラーに抜擢した。三井雅晴は一軍に上がった当初は打撃投手だったがそこでの投球が金田に評価され主力投手になった。観客動員は対前年比3倍増94万6500人(当時の球団記録)、その効果はパリーグにも波及し、総観客動員数が前年の253万9800人から406万200人に激増し理由は全て金田人気によるものだったわけではないにせよ金田の果たした役割が大きかった。この頃、大映倒産に伴う東京スタジアムの経営権問題が勃発、金田が球場の狭さを嫌がったこともあり、暫定的に経営権を所有していた国際興業社主の小佐野賢治が球場の廃業と閉鎖を決めてしまう。そのため、同年からは宮城球場を本拠地としながら各地で主催試合を行うことになり、「ジプシー・ロッテ」と揶揄された。そんな中で金田は行く先々で大人気となり、前期優勝のかかった神宮球場の試合にはファンが殺到。入場しきれないファンが球場を取り巻き、テレビ局も急遽中継するほどのフィーバーぶりであった。日本ハムと野村収との交換トレードで弟・留広を獲得。

1974年は前期阪急に優勝を許すが、後期は阪急の失速や弟・留広の活躍もあって終始首位をキープ。就任2年目で後期優勝を決めると、プレーオフでも阪急に3連勝を決め、日本シリーズではジョージ・アルトマンを負傷で欠き、有藤道世もケガを押しての出場と戦力的には不利だったが巨人のV10を阻止した中日を破る。日本一になった際には「長嶋が最後の年だから相手が巨人じゃなかったのは残念だが、わしは世界一のファミリーに恵まれた。幸せな男や」と喜び、外堀通りで行われた優勝パレードには約200万人の観衆が詰め掛けた。さんまのまんまに出演した際(1987年11月30日)には「どの番組や新聞を見てもロッテの優勝の事はほとんどやってなくて長嶋引退の事ばっかり取り上げてた」と語っている。

1975年は4月23日から5月5日まで心臓発作で休養し、高木公男二軍監督が代行を務めた。6月26日の近鉄戦(藤井寺)では矢頭高雄コーチを代理監督とし、ベンチ入り選手14人(投手:9人、野手:5人)で行い、1-4で敗戦して前期最下位が確定。金田や主力選手ら(有藤、木樽、弘田、山崎裕之、ラファエル・バティスタ、ビル・マクナルティ)は帰京して後期に向けた練習をしていたという状態で、後日リーグ理事会から手抜き試合であるとして厳重注意された。後期は2位に盛り返したが、総合4位に終わった。シーズンオフの10月23日には張本勲監督率いる「日本プロ選抜チーム」も同行し、韓国へ出発 。翌24日の韓国アマ選抜との試合では1点先行されたが、6回に同点、9回には決勝の1点を奪い、三井・成重春生・小川清一・村田兆治の継投で逃げ切った。

1976年は江藤慎一が加入。村田が最優秀防御率を獲得する活躍を見せたが、前後期ともに3位であった。1977年は白仁天・高橋博士・安木祥二が加入。国鉄時代同僚だった徳武定祐が金田の招きでコーチに就任。有藤が首位打者を、新加入のレロン・リーが本塁打王と打点王の二冠を獲得する活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフで阪急に敗退したため日本シリーズ出場はならず。1978年には川崎球場を本拠地とし、投手陣のリーダー格で前年に2年連続2桁の11勝を挙げていた八木沢を「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことから、一気に求心力を失う。金田の監督生活後半はワンマン気質がたたって選手との間に溝が出来ていた。前期の終盤に15連敗を記録して5位に転落し、その低迷のイライラを選手にぶつけて更に孤立。後期もなかなか勝ち上がれず、8月22日のスポーツ紙には「金田更迭」の大見出しが載る。優勝の可能性が消えてからはゴルフ場から球場に直行することが頻繁にあり、時には遅刻することもあった。最大の後見役であった重光武雄オーナーからの了承もあり、9月30日に辞表を提出し10月2日正式に退任した。なお、重光オーナーは金田の後任候補として前年オフに南海を解雇された野村克也を入団させており、選手兼任監督として就任要請をするも、野村は尊敬していた金田の代わりは恐れ多いと固辞し、退団。結果としてもう一人の監督候補であった球団OB(前身の毎日オリオンズ→大毎オリオンズに在籍)の山内一弘が後任として監督に就任し、1981年オフに再びロッテから監督候補として挙がったが再任は見送られた。1986年オフにも再びロッテの監督候補に挙がり総合コーチが高木公男が就任するなどコーチ陣も決まっていたが重光武雄オーナー、松井静郎球団社長が「金田じゃダメだ」と言い、有藤によると当時のロッテはオーナー、球団社長が監督を決めていた為一回監督就任を固辞した有藤が重光オーナーから再び監督要請を受けて就任した。レロン・リーは「現役時代に400勝を挙げた。となれば、並の選手には理解できない技術や指導論があるものです。金田さんも誤解されていた点が多かったと思います。実は私も最初、彼の言動を消化できないことがあった。でもその後、少しずつ目指す野球がわかってきて、今では尊敬する監督の一人です。最初に金田さんと出会えたおかげでいい野球人生を送ることができました」と述べている。暗黒時代のパリーグに光を当て、稲尾和久から「パリーグの宝」と言わしめ偉大な監督と評された。監督辞任後はロッテ球団に非常勤の取締役として残留する傍ら(この時点では元オーナーの永田雅一も、非常勤の取締役として名を連ねていた)、フジテレビ(1979年 - 1981年)・ニッポン放送(1979年 - 1983年)、日本テレビ(1981年 - 1989年)で解説者を務めた。1978年に日本プロ野球名球会を設立し、1981年の株式会社改組後は代表取締役を務めた。1988年、野球殿堂入り。

1989年10月27日ロッテの監督に復帰した。ヘッドコーチは徳武が就任。2期目の1年目は主砲のマイク・ディアズが2年連続の3割30本100打点を記録し、若手では前田幸長・小宮山悟の活躍もあり、広島からトレードで移籍してきた白武佳久がリリーフで10勝を挙げるも、同じく広島からトレードで移籍してきた高橋慶彦は成績が振るわず、前年2桁勝利を挙げた牛島和彦は故障によりシーズンをほぼ棒に振り、5位に終わる。高橋は「監督の金田さんと揉めてね。真夏のオールスター休みの日。立川の昭和記念公園に選手が集められて、朝10時から散歩、1時間。金田さんに『慶彦、どうや、この散歩いいやろ?』って言われて、『わかりません』って言ったの。もうオレ、33で若くないし、しんどいから。そしたら『なに⁉︎』って言われて、機嫌悪くされて。たぶんそれから関係が悪くなった。しかも、あるコーチからね、『慶彦、監督にゴマすれよ』なんて言われたから。それでまたカチンときてね。オレはそういう人間じゃないんで。だからもっと関係がギクシャクして、『阪神に行ってくれ』ってなったんだと思う。まあ、もともと『外野に行け』って言われた時もできる状態じゃなかったし、ショートには佐藤健一もいたしね」と述べている。4年連続盗塁王の西村徳文が首位打者を獲得し、長年エースとして活躍した村田が引退。オフのドラフトで8球団の競合だった小池秀郎をくじ引きで交渉権を得るも、入団を拒否される。この入団拒否は、元々ロッテが小池の意中の球団でなかったことと、金田の選手育成方針や言動などに小池が不信感を持ったことが原因と言われている。

1991年は4年目の堀幸一がレギュラーに定着し、観客動員100万人を達成したが、前年ブレークしかけた伊良部秀輝が不振で、前年は一時捕手も任せたマイク・ディアズが骨折によりシーズン途中で離脱するなど、最下位に終わる。平井光親が首位打者を獲得。本拠地川崎球場の老朽化や観客動員低迷への抜本的打開策として、球団側は翌シーズンからの千葉県千葉市の千葉マリンスタジアム(当時)移転を決めたため、川崎時代最後の監督となる。シーズン終了後の11月5日に金田の解任と八木沢の監督就任が発表された。皮肉にも、引退勧告を行ったことがきっかけで第一次時代に監督を辞任するきっかけとなった当事者であった八木沢に追い落とされる形となってしまった。八木沢によれば1991年夏に西武球場で当時西武投手コーチだった八木沢を食事に誘い東京・東銀座の料亭へ行くと重光昭夫オーナー代行も一緒で金田からいきなり「監督をやってくれ」と言われたという。

2008年4月11日から13日までの巨人対ヤクルト戦は「川上哲治/金田正一シリーズ」(永久欠番シリーズ)として開催された。この日付は1965年4月10日、「巨人の金田」としての初勝利を挙げていることにちなんでいる。

2000年代でも、金田の球歴を知る選手・OB・関係者にとっては畏れ多い存在であった。2008年に金本知憲の2000本安打達成記念の名球会ブレザーを進呈するために阪神甲子園球場を訪問したが、阪神側のベンチに座った際も選手は近寄れない様子だった。一方、2006年2月に巨人のキャンプを訪問した際には原辰徳監督が内海哲也に「あの方を知ってるか」と聞いたところ、「カネムラさん」と呼び間違えた上(勝利数を問われて)「300何勝でしたっけ?」と発言し、同行した広岡達朗が激怒したことがあった(金田本人は笑って許したという)。

2009年、金田が会長を務めていた名球会に対し、金田のワンマン運営であるという批判が上がった結果、金田は名球会の代表取締役を退任。名球会事務局も金田の個人マネジメントを行う「カネダ企画」から移転した。2010年に名球会は一般社団法人となったが、この改組に反対した金田は名球会から退会状態になっている事が報じられた。

2012年11月14日、『徹子の部屋』(テレビ朝日)に36年ぶりに出演した。

2015年6月25日には『アウト×デラックス』(フジテレビ)に出演し、「自分のことやから言うけど36歳で(現役を)終えてるの。皆40歳近くまでやってるでしょ。それが凄いんです」と発言。さっそく自らを絶賛し、山里亮太から「ダルビッシュとどっちが凄いんですか?」と訊かれると、「それは無礼だよ」と言い、矢部浩之から「現役時代180キロは出ていたと発言」といった金田の伝説が紹介されると、「その頃は測る機械もないじゃない。出たと思えばいい」と答えた。歯に衣着せぬキャラクターでロッテ監督退団後も引き続きタレントとして活動していた。

2019年7月、自宅で倒れ、心筋梗塞と診断される。11日間の入院生活を送るが、無事退院し、週刊誌の取材にも応えていた。

2019年10月6日午前4時38分、急性胆管炎による敗血症のため東京都内の病院で死去。86歳没。通夜・告別式は近親者のみで営んだ。最晩年のテレビ出演は2018年10月28日放送の『サンデーモーニング』(TBSテレビ)と、11月3日放送の『関口宏の人生の詩Ⅱ』(BS-TBS)だった。長男の賢一によると「あの世へ行っても仏様の弟子にはとてもなれない」との考えから、戒名は付けなかったという。

翌2020年1月21日、帝国ホテルにて「お別れの会」が開催され、約500名が参列した。この会合に参列した野村克也は、その21日後に死去した。

2024/06/12 12:24更新

kaneda masaichi


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