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キラー・カーンの情報 (きらーかーん)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月20日】今日誕生日の芸能人・有名人

キラー・カーンの情報(きらーかーん) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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キラー・カーンさんについて調べます

■名前・氏名
キラー・カーン
(読み:きらーかーん)
■職業
格闘家
プロレス
■キラー・カーンの誕生日・生年月日
1947年3月6日 (年齢76歳没)
亥年(いのしし年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
新潟出身

(昭和22年)1947年生まれの人の年齢早見表

キラー・カーンと同じ1947年生まれの有名人・芸能人

キラー・カーンと同じ3月6日生まれの有名人・芸能人

キラー・カーンと同じ出身地新潟県生まれの有名人・芸能人


キラー・カーンと関係のある人

平田淳嗣: この日のメインに抜擢された高野だったがリングインしたウォリアーズに急襲され試合前に血だるまKOされたところにキラー・カーンが代役を買って出てスラックスのまま試合を行う。この日からマシーンはキラー・カーンと合流する。


小林邦昭: その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州、斎藤、キラー・カーン、アニマル浜口、谷津嘉章、寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士ということで多くタッグを組む。


藤波辰爾: 入門同期には佐藤昭雄、キラー・カーンなどがいる。


プロフェッサー・タナカ: 並行してジョージア地区にも出場し、キラー・カーンとタッグを結成。


アニマル浜口: 1984年、維新軍の長州やマサ斎藤、キラー・カーン、谷津嘉章らと共にジャパンプロレスの創立メンバーとなり、全日本プロレスに参戦する。


ウィリアム=ピーター=ブラッティ: 映画『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』原作


タイガー=ジェット=シン: WWFでのキラー・カーンとの試合で足を負傷したアンドレの代打として参戦だった。


ハルク=ホーガン: 坂口征二とのタッグチームでは、キラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた。


長州力: 造反後、1982年11月のWWFへの短期遠征(ヒールのポジションでマサ斎藤のパートナーとなり、22日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてロッキー・ジョンソン&トニー・ガレアと、25日にはフィラデルフィアのスペクトラムにてペドロ・モラレス&サルバトーレ・ベロモと対戦)を経て、師と仰ぐ斎藤やキラー・カーンと共に、1983年より「革命軍」を結成。


テリー=ゴディ: 本拠地のWCCWでも、キラー・カーン、ブルーザー・ブロディ、ワンマン・ギャング、カマラ、ミッシング・リンクらとシングルマッチで抗争している。


タイガー戸口: その間、1983年の新日本プロレスでは軍団抗争が繰り広げられており、キラー・カーンとの絡みなどから長州力が率いる維新軍団の一員としての扱いを受けるが、7月開幕の『サマー・ファイト・シリーズ』と11月開幕の『第4回MSGタッグ・リーグ戦』の2シリーズのみの新日本参戦だったため実体はなかった。


ウィリアム=ピーター=ブラッティ: トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン (


マサ斉藤: 米良明久(ザ・グレート・カブキ)と武藤敬司が弔辞を述べ、通夜・告別式には長州力、坂口征二、天龍源一郎、木戸修、アニマル浜口、キラー・カーン、前田日明、蝶野正洋、佐々木健介・北斗晶夫妻、永田裕志、小島聡、西村修、古舘伊知郎らが参列した。


ペロ=アグアヨ: アンドレ・ザ・ジャイアント、ハルク・ホーガン、ディック・マードック、マスクド・スーパースター、キラー・カーンなど、遥かに体格差のあるスーパーヘビー級の大型選手とタッグマッチで対戦した。


大木金太郎: さらに大木は坂口に無断で、坂口と坂口の付き人である木村聖裔(木村健悟)、小沢正志(キラー・カーン)、大城勤(大城大五郎)の4人の新日本プロレスへの移籍を発表してしまい、大木と坂口とは口を聞かない冷戦状態になったうえに、団体内も大木ら残留派と坂口ら移籍派の抗争状態となった。


坂口征二: 日本陣営に加わったハルク・ホーガンともタッグを組み、1983年2月にはキラー・カーン&ブラックジャック・マリガンとの日米混合のスーパーヘビー級タッグマッチも行われた。


スコット=ビガロー: ハルク・ホーガンのタッグパートナーにも起用され、キラー・カーン、キングコング・バンディ、ワンマン・ギャング、そしてアンドレ・ザ・ジャイアントとの巨漢対決も実現した。


マサ斉藤: 1983年からは長州力やキラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格となって活躍。


スタン=ハンセン: なお、『ワールドプロレスリング』における1981年最後の放送となった12月25日放送の愛知県体育館大会(12月1日開催)で行われたハンセンVSキラー・カーンは未放送となった。


ワンマン・ギャング: 1986年2月には全日本プロレスへの3度目の来日を果たし、キラー・カーンやクラッシャー・ブラックウェルとの巨漢対決もタッグマッチで実現した。


谷津嘉章: 以降もザ・グレート・ヤツをリングネームに、ベビーフェイスのポジションでWWFを半年間サーキットし、ジョニー・ロッズ、バロン・ミケル・シクルナ、ブルドッグ・ブラワー、ザ・ハングマン、ラリー・シャープ、サージェント・スローター、キラー・カーンらと対戦した。


三橋美智也: その他に野球界では荒川博・張本勲、相撲界では大鵬幸喜、プロレス界では力道山・キラー・カーン、競馬界では増沢末夫・小島太と親交があった。


ダスティ=ローデス: 以降もMSG定期戦にはスペシャル・ゲストの立場で何度となく出場し、スパイロス・アリオン、スタン・スタージャック、トーア・カマタ、ユーコン・ピエール、ジミー・バリアント、キラー・カーン、アンジェロ・モスカらと対戦(1979年12月17日の定期戦では王者ハーリー・レイスVS挑戦者ローデスのNWA世界ヘビー級タイトルマッチも行われた)。


テッド=デビアス: しかし1981年末のスタン・ハンセン全日本移籍の報復措置として新日本プロレスから誘われ、キラー・カーンの仲介で契約寸前まで行くも、団体間で紳士協定が結ばれ移籍は白紙撤回された。


フレッド=ブラッシー: キラー・カーン


平田淳嗣: 直前にはキラー・カーンからフリッツ・フォン・エリックが主宰していたWCCWへの参戦をアプローチされていたが、帰国命令により立ち消えになった。


ウィリアム=ピーター=ブラッティ: 1980年に映画『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』で監督デビュー(脚本も)、ゴールデングローブ賞脚本賞を受賞した。


アンドレ・ザ・ジャイアント: 1982年4月1日には蔵前国技館にてキラー・カーンを下し第5回MSGシリーズも制覇している(新日本のシングルのリーグ戦における外国人選手の優勝はこれが初めて)。


グラン浜田: 2017年、キラー・カーンとの対談で前立腺癌の手術をしたことを明かした。


タイガー戸口: その後は日本とアメリカを行き来し、1982年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』ではキラー・カーンと組んで準優勝を果たした。


キラー・カーンの情報まとめ

もしもしロボ

キラー・カーン(きらーかーん)さんの誕生日は1947年3月6日です。新潟出身の格闘家
プロレスのようです。

もしもしロボ

得意技、獲得タイトルなどについてまとめました。卒業、引退、事件、テレビ、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。76歳で亡くなられているようです。

キラー・カーンのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

キラー・カーン(Killer Khan、1947年3月6日 - 2023年12月29日)は、春日野部屋所属の元大相撲力士、プロレスラー。新潟県西蒲原郡吉田町(現:燕市)出身。本名は小澤 正志(おざわ まさし)。キラー・カンとも表記。ニックネームは「蒙古の怪人」「蒙古の殺し屋」など。大相撲時代の四股名は越錦(こしにしき)で、最高位は幕下40枚目。

日本人離れした大柄な体格をしており、プロレス転向後の全盛時はモンゴリアン・ギミックの大型ヒールとして国内外で活躍。1970年代末から1980年代にかけてWWF(現:WWE)をはじめ、アメリカやカナダの主要テリトリーで実績を築くなど、国際的な成功を収めた数少ない日本人レスラーの一人である。

吉田中学校を卒業後、バスケットボールでの活躍を目指すため、新潟市立白山高等学校体育科に入学。しかし、挫折をしてしまい1年生の時にバスケットボールを諦め、そのまま高校を退学した。

恵まれた体格を活かすべく春日野部屋に入門。自分の友人が春日野親方(元横綱:栃錦)の知り合いであることから部屋を紹介され、小澤も勉強が余り好きじゃなかったため、親から大きな体を貰ったことで「やってみようか」と思い入門を決意する。

1963年3月場所にて小沢将志の名で初土俵を踏む。入門当初は身長186cm・体重90kgと力士としては軽量であり、肉が無いため腰骨が廻しに直接当たって痛むほどであった。廻しと腹の間に指が4本入るほど痩せていたため、紙を畳んで腰骨に当てていた。

1967年7月場所より「越錦」の四股名を与えられたが、伸び悩んでしまい三段目上位から幕下下位を行き来し、1970年5月場所を最後に廃業した。また、大相撲時代は先代・元関脇の栃東(13代玉ノ井親方)の付き人を務めていた。

大相撲を廃業後、1971年1月に日本プロレスへ入門。プロレス入りのきっかけは大相撲時代末期に怪我をして整形外科に通院していた際、北沢幹之から「背も高いんだし、プロレスラーになってみたらいいんじゃない? 私が紹介してあげるから」と勧誘されたのが元で、親方に「辞めさせて下さい」と言っても辞めさせて貰えなかったため、夜逃げをしたという。その後、痛めていた腰痛を完治させてから改めて北沢へ連絡し、テスト生として入門を許可された。

入門後は吉村道明の付き人を務める。1971年6月26日、鎌倉市大船駅前広場大会において、小沢正志のリングネームで木戸修を相手にデビュー(同年11月20日の栃木県大田原市大会での桜田一男戦でデビューしたともされるが、本人は自著で否定している)。1973年3月3日、吉村の母校である近畿大学記念館で行われた引退記念セレモニーで「ラバウル小唄」が流れる中、付き人の小沢は吉村を肩車しながら有終の美を飾った。

その1ヶ月後の1973年4月、坂口征二、木村聖裔、大城大五郎、レフェリーの田中米太郎らと共に新日本プロレスへ移籍。ヘビー級の希少な戦力となり、小柄なリトル浜田との凸凹対決で前座戦線を湧かせ、1974年12月のカール・ゴッチ杯争奪リーグ戦では藤波辰巳と決勝を争った。

その巨体から海外で通用する大型選手として期待され、1976年8月にドイツへ遠征。ホースト・ホフマンやクリス・テイラーと対戦した。12月にはアントニオ猪木のパキスタン遠征(アクラム・ペールワン戦)にも同行している。その後、1978年より本格的な海外武者修行としてメキシコのUWAに参戦。メキシコではテムヒン・エル・モンゴル(Temjin El Mongol)を名乗り、モンゴル人レスラーに変身。1月28日にはエル・トレオでミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑戦した。

1979年3月からはアメリカ本土に進出し、NWA圏のフロリダ地区(エディ・グラハム主宰のチャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)でキラー・カーン(Killer Khan)に改名。辮髪に髭をたくわえ、毛皮のベストとモンゴル帽子をコスチュームとしたモンゴリアン・スタイルを確立した。このモンゴル人ギミックおよびリングネームは、カール・ゴッチ、グラハム、デューク・ケオムカ、ジャック・ブリスコ、ダスティ・ローデスら5人のアイデアによるものだと本人が明かしている。旧リングネームのテムジン(テムヒン)から出世したのがカーンであるからと、モンゴルの太祖チンギス・カンに由来した経緯で名付けられた。

フロリダではパク・ソンやキング・カーティス・イヤウケア、そして日本プロレス時代の先輩ミスター・ヒトやミスター・サクラダと共闘し、主力ヒールとなってローデスやジャック&ジェリー・ブリスコ、スウィート・ブラウン・シュガー、マニー・フェルナンデス、レイ・スティーブンスらと抗争。バディ・ロジャースともタッグマッチで対戦し、テリー・ファンクのパートナーも務めた。

1980年にはジョージア地区(ジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリング)に登場して、トミー・リッチ、トニー・アトラス、ミスター・レスリング2号、レイ・キャンディ、テッド・デビアス、そして当時ジョージアでベビーフェイスのポジションにいたスタン・ハンセンらと対戦。同地区でもヒールの主要メンバーとして迎えられ、アブドーラ・ザ・ブッチャー、イワン・コロフ、マスクド・スーパースター、プロフェッサー・タナカ、マサ斎藤ともタッグを組んだ。

1980年末よりWWFに参戦。12月29日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦した。その後もWWFではフレッド・ブラッシーをマネージャーに、ペドロ・モラレスのインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも挑戦するなど主力ヒールとして活躍。アンジェロ・モスカや同時期にWWFへ遠征していたストロング小林をパートナーに、リック・マーテル&トニー・ガレアのWWF世界タッグ王座にも挑戦した。

アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級抗争も開始し、1981年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターにてアンドレの右足をニー・ドロップで骨折させたとして、ヒール人気は急上昇。瞬く間に世界的なメインイベンターへ昇格させることになった。実際のところアンドレはアクシデントで足を負傷しており、異変に気付いたカーンがトップロープからニー・ドロップを決めて試合を成立させた。後日入院中のアンドレをマネージャーのブラッシーが見舞いに訪れたが、逆に試合中の機転をアンドレに感謝されており、後の遺恨ストーリーも提案してくれたという。また、カーン本人がアンドレを見舞っている所をファンに目撃されてしまうと、ベビーフェイス対ヒールのアングルが破綻してしまうため、見舞いには行けなかったと著書で語っている。

アンドレ足折り事件の直前となる1981年3月開幕の『WWFビッグ・ファイト・シリーズ第1弾』に凱旋帰国。後半戦に特別参加するタイガー・ジェット・シン&上田馬之助との共闘も噂されたが、最終的には日本陣営に収まった。開幕戦ではメインイベントでアントニオ猪木とタッグを組み、ハルク・ホーガン&ドン・ムラコと対戦。ムラコに反則負けを喫したものの、日本においてもトップグループの地位に着いた。足折り事件直後の6月24日には蔵前国技館において、後にタッグを組むタイガー戸口と対戦(流血戦の末、反則負け)。

翌1982年4月1日に蔵前国技館で行われた『第5回MSGシリーズ』の優勝戦では、右膝負傷(実際には糖尿病の悪化とされる)で棄権した猪木の代打として因縁のアンドレと覇を争い、敗れはしたもののファンの「オザワ・コール」に支えられ名勝負を演じた。年末の『第3回MSGタッグ・リーグ戦』では戸口と組んで準優勝を果たした。

1983年より斎藤や長州力と共に、維新軍の前身である革命軍を結成して新日本プロレスの反体制勢力にまわる。ブラックジャック・マリガンとも日米スーパーヘビー級の大型タッグを組んだ。その間、海外にも精力的に遠征しており、アンドレとの遺恨試合はカナダのモントリオールやトロント、ルイジアナやオクラホマなどのミッドサウス地区(ビル・ワット主宰のMSWA)でも行われ、ニューオーリンズのスーパードームにおいても両者の対戦が実現した。1983年下期からは戸口と共に維新軍に加入し、新日本正規軍との軍団抗争を展開した。

並行してアメリカでの活動も続け、テキサス州ダラス地区(フリッツ・フォン・エリック主宰のワールド・クラス・チャンピオンシップ・レスリング)ではファビュラス・フリーバーズ(マイケル・ヘイズ、テリー・ゴディ、バディ・ロバーツ)の用心棒となり、ケビン・フォン・エリックやケリー・フォン・エリックと抗争。ノースカロライナ地区(ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック・チャンピオンシップ・レスリング)やカルガリー地区(スチュ・ハート主宰のスタンピード・レスリング)なども転戦し、日本と北米を股にかけて活躍した。

1985年、長州らが設立したジャパンプロレスに参画し、全日本プロレスのリングに登場。同年3月14日に長州と組んでロード・ウォリアーズのAWA世界タッグ王座に、9月13日には谷津嘉章と組んでジャンボ鶴田&天龍源一郎のインターナショナル・タッグ王座にそれぞれ挑戦したが、1986年5月にジャパンプロレス勢に造反。11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはダラス地区で共闘していたゴディとのコンビで出場している。また、当時はモンゴル人ギミックだけではなく、KKKのような出で立ちで入場したり、顔にロード・ウォリアーズ風のペイントを施すなど、ヒール性をより強調したスタイルであった。

1987年4月に全日本プロレスを去り、WWFと再契約。ミスター・フジをマネージャーにWWF世界王者ハルク・ホーガンと短期抗争を展開した他、ランディ・サベージ、バンバン・ビガロ、ジャンクヤード・ドッグ、ジム・ドゥガン、ジェイク・ロバーツなど当時のベビーフェイス陣営のスーパースターと対戦した。この2回目のWWF参戦時には、ザ・グレート・カブキのような毒霧(アジアン・ミスト)を使用することもあった。

同年11月末、ニュージャージーで行われたジョージ・スティール戦を最後に現役を引退した。長州力率いるジャパンプロレスの分裂騒動でプロレス界の人間関係に対して、嫌気がさしてしまったことを理由にしている。ホーガンやビンス・マクマホンから、引退を撤回するように慰留されたという。しかしカーン自身に気力が失っていたために引退後、レスラーへの再復帰は生涯一切無かった。

現役引退後もそのままキラー・カンを名乗り、東京都新宿区中井に飲食店「スナックカンちゃん」を開店。その後は西新宿六丁目に店を移し、ちゃんこ料理を主とした「ちゃんこ居酒屋 カンちゃん」を経営し、足立区綾瀬にも店を構えたが2012年に閉店。2015年9月、歌舞伎町に「歌謡居酒屋 カンちゃん」を開店。大きな体を駆使してカーン自ら毎日お店に顔を出して働いており、接客対応もこなしている。

2005年には歌手として『ふるさと真っ赤っか』でCDデビューを果たす。居酒屋経営と並行してバラエティー番組など、各種メディアにも出演して幅広く活躍。また歌番組の『ロイ白川の心の演歌』(とちぎテレビ)にはセミレギュラーとして出演する。これが縁となって毎年12月に、とちぎテレビなどで放送されるロイ白川プロデュースの『全日本オールスター紅白歌合戦』には、毎年出場している。

2013年8月、故郷である新潟県・燕市から『燕市PR大使』に任命された。

2014年に足元が雪によって滑り転倒してしまい、その弾みにより頚椎を損傷した。病院まで一緒に付き添った店の従業員に担当医が「手術をして治っても、99%車椅子生活になります」と宣告するほどの重傷であり、病院で自殺をしようにも窓を開けたり、割ることも出来ないくらいに麻痺していた。担当医が回診の時に「モルヒネで安楽死させて貰いたい」と自ら頼んだが、担当医に「死ぬ前でしたら私も医者ですので、手術をさせて下さい」と説得されて思い止まった。その後、歩行器を使ってのナースステーション周りの歩行を30周、廊下の手すりに捕まってのスクワット500回以上と、汗をかきながらのリハビリを毎日行い、その熱心に挑む姿は病院の看護師・担当医も関心していた。その後は右半身にピリピリと痺れが残ったが、懸命なリハビリで日常生活や店の業務に支障が無いまでに回復した。区の介護サービスも「人に頼っていたら体が動かなくなるよね。そうなると店にも出られないから、全部自分でやることに決めたんだよ」という理由で断っていた。

2016年8月27日、歌舞伎町の店舗を閉店した。同年9月14日には新宿区・百人町で「居酒屋カンちゃん」を新規にオープンした。来客と共に、現役プロレスラーだった頃のエピソードや選手との思い出などを語ることがあり、それらをまとめたものを2017年4月に発売した『 "蒙古の怪人" キラー・カーン自伝』に綴ったと自著で語っている。

2021年5月6日、同月22日をもって「居酒屋カンちゃん」が閉店することになった。理由はこの街が好きになれなかったのと、新大久保駅前という立地、店名のために「韓国料理店」と間違って来店する客が多かったのをはじめ、飲食もせずにトイレ目的の客が来たり、店の前にゴミを放置する不届き者など、マナーの悪い行為が目立つ様になる。この状況に「毎回毎回、掃除をしていて疲れたよ」と嘆き、それに嫌気と我慢が出来ずついに閉店を決意する。カーンは「プロレスの時もそうだけど、イヤと思ったらスパッと辞めるから。(プロレス引退を)ホーガンに止められた時もスパッとね。俺はこの街を好きになりたくて頑張っていたけど、結局好きになれなかった。それはそれでいいじゃないですか」と心境を語った。

2022年3月19日、自身のYouTubeチャンネル配信でS状結腸がんを患っていることを公表。

2023年3月6日、東京都新宿区・西新宿に新たな店舗として「カンちゃんの人情酒場」を開店する。最初に開業した店舗から通算10店舗目であった。

2023年12月29日午後8時半頃、接客中にカウンター席で意識を失い、頭が下がり机に伏せるような状態となったため、蘇生措置を受けて病院に救急搬送されたが意識を回復すること無く同日午後10時4分、動脈破裂のため死去した。76歳没。倒れた当日、普段は午後1時位に店に出てくるところ、この日は午後4時頃に店へ出て来ており、疲労感と首の痛みを訴えていたという。しかし、営業前には自身の写真とともにXにメッセージを投稿していた。関係者によれば、循環器系の持病はなかったが、最近では首の痛みや寒気を訴えていたという。

年が明けた2024年1月4日、新宿区内の斎場で家族葬が営まれ、荼毘に付された。法名「喜楽院釋成将(きらくいんしゃくせいしょう)」。当人の死去に伴い経営していた居酒屋は閉店する意向であったが、常連客からの要望を受けて1月中の営業が決まり、同月9日から完全閉店の27日まで「お別れの会」の形で「特別営業」を行った。期間中はかつての同僚であった藤波辰爾や、ザ・グレート・カブキなどが同店を訪れている。

得意技

ダイビング・ダブル・ニー・ドロップ - 主なフィニッシュ・ホールド。ランニング式とトップロープからのダイビング式の両方を得意技とした。大きな奇声をあげながら豪快に跳び下りる様から、アルバトロス殺法と呼ばれた。

モンゴリアン・チョップ - 同じく奇声を上げながら、両手により首元を狙うインパクトあるチョップ攻撃の一つ。後年では天山広吉などに継承されている。

クロー・ホールド

ペンデュラム・バックブリーカー

カナディアン・バックブリーカー

エルボー・ドロップ

ギロチン・ドロップ

クロス・チョップ

獲得タイトル

NWA USタッグ王座(フロリダ版):1回(w / パク・ソン)

    1979年3月31日にトーナメント決勝でブロンド・ボンバーズ(ラリー・レイザム&ウェイン・ファリス)を破って獲得。

    ミッドサウス・ルイジアナ・ヘビー級王座:1回

      1982年7月6日にトーナメント決勝でジャンクヤード・ドッグを破って獲得。

      ミッドサウス・ミシシッピ・ヘビー級王座:1回

        1982年8月27日にミスター・オリンピアから奪取。

        スタンピード北米ヘビー級王座:1回

          1984年1月20日にアーチー・ゴルディーから奪取。

          WCCW TV王座:1回

            1984年5月7日、負傷した前王者ケリー・キニスキーの後任として王座を継承。

2024/06/19 21:59更新

kirakan


キラー・カーンと同じ誕生日3月6日生まれ、同じ新潟出身の人

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キラニン卿(Lord Michael Morris Killanin)
1914年7月30日生まれの有名人 出身

紋章記述 キラニン男爵(英: Baron Killanin, of Galway in the County of Galway)は、イギリスの男爵位。連合王国貴族。1900年6月15日に法…

アベベ=ビキラ(Abebe Bikila)
1932年8月7日生まれの有名人 出身

アベベ・ビキラ(Abebe Bikila、 1932年8月7日 - 1973年10月25日)は、エチオピア出身の陸上競技(長距離走)選手で、オリンピックのマラソン種目で史上初の2大会連続優勝を果たし、…

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キラー・カーン
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