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別所毅彦の情報 (べっしょたけひこ)
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【1月29日】今日誕生日の芸能人・有名人

別所毅彦の情報(べっしょたけひこ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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別所 毅彦さんについて調べます

■名前・氏名
別所 毅彦
(読み:べっしょ たけひこ)
■職業
野球選手
■別所毅彦の誕生日・生年月日
1922年10月1日 (年齢1999年没)
戌年(いぬ年)、天秤座(てんびん座)
■出身地・都道府県
兵庫出身

別所毅彦と同じ1922年生まれの有名人・芸能人

別所毅彦と同じ10月1日生まれの有名人・芸能人

別所毅彦と同じ出身地兵庫県生まれの有名人・芸能人


別所毅彦と関係のある人

松園尚巳: 別所毅彦


高橋重行: 1964年に別所毅彦ヘッドコーチから認められ、先発として速球と大きなカーブを武器に17勝を記録(シュートも投げたが、渡米前はおもに速球と大きなカーブで投球を組み立てていた)。この年はもみあげを剃らないことを験担ぎとしていたことから、その様子を当時の別所毅彦コーチから「アルゼンチン・タンゴ」と言われていたことがあった。


入谷正典: 同年は大友工・藤本・別所毅彦・中尾碩志に次ぐ先発投手として活躍し、自身最初で最後の2桁勝利となる11勝を挙げてチームのリーグ3連覇に貢献。


三原脩: 1948年は中島に代わって全試合で三原が指揮を執って2位の好成績を残すが、同年オフに別所毅彦の移籍を巡る「別所引き抜き事件」が発生する。


王貞治: その試合前の監督コーチ会議にて、別所毅彦ヘッドコーチが八つ当たりぎみに「王が打てないから勝てないんだ」と荒川に言い、荒川も頭に血が上り、思わず「私は王に三冠王を取らせようと思って指導しているんだ、ホームランだけならいつでも打たせてやる」と返してしまった(荒川は後年『三冠王を取らせる』というのは咄嗟にホラを吹いてしまったものだったと語っている)。


豊田泰光: 月曜スポーツ討論会の最終回(このとき豊田がフジテレビ解説に復帰することが報告される)でダンカンより本をプレゼントされるが、その本は確執があったとされる別所毅彦著作の『剛球唸る!―栄光と熱投の球譜』であったため、やや引きつった笑みで、「(本を)ありがとう」と言っていた。


川上哲治: コーチ兼任となった別所毅彦が鬼軍曹的な役割を担い、選手たちに猛練習を課した。


樋笠一夫: スコアは4-3であったが、当日の試合前から樋笠は杉下との対戦を予想し、杉下に球質が似ていたチームメイトの別所毅彦・大友工の投球練習のブルペン捕手を買って出て、その球質を熱心に観察していたという。


山田久志: 通算最多被本塁打(23)、シリーズ最多タイ自責点を2度(1976年、1978年の12)、シリーズ最多敗戦のタイ記録(1984年の3敗、他には1956年の別所毅彦、1964年の村山実)といった不名誉な記録も残している。


ルー=ジャクソン: 「楽天家のルー、おとぼけのルー……」という別所毅彦監督の弔辞に、周囲からは嗚咽が漏れた。


神崎安隆: 公式戦では1952年に放った安打1本で終わるが、その安打で別所毅彦の完全試合を阻止した。


森祇晶: 試合どころか練習を観察することさえ叶わなかったが、この時に当時のエースであった別所毅彦と出会い、別所に気に入られた森は猛烈なピッチング練習に付き合わされる。


坪内道則: ナゴヤ球場がドラゴンズの一軍本拠地としての役目を終えた1996年末、同球場で行われた中日対巨人OB戦では、巨人・別所毅彦との“合計156歳”の対決に球場が沸き返ったが、高齢(当時82歳)のため打席後方で寮長時代の寮生だった牛島和彦が坪内の“即代走”を務め、坪内が打つと同時に牛島が一塁へ走った。


細田正彦: 翌1968年に監督に就任した別所毅彦も大きな期待をかけていたが、春のキャンプで右足を複雑骨折する重傷を負った。


平井三郎: また、別所毅彦と組んでの二塁走者の牽制プレーは絶妙で、ノーサインで牽制してしばしば二塁走者を刺した。


杉浦忠: 1960年も31勝を挙げ、シーズン30勝以上を2度以上記録したのも杉浦以外にはスタルヒン、野口二郎、別所毅彦、杉下、稲尾和久、金田正一、権藤博だけの大記録を達成した。


東富士欽壹: 横綱昇進を決めた頃、灰田勝彦(歌手)・別所毅彦(プロ野球選手)と3人で義兄弟の契りを結ぶ交友もあったという。


大友工: 1年目は制球力に課題がありその年から出来た二軍暮らしとなるが、既にブルペンでは当時のエース格であった別所毅彦・藤本英雄に勝るほどの速球を投げていたという。26勝の藤本英雄が痔の手術、22勝の別所毅彦が怪我で投げられない中で、大友は10月以降9試合に先発を任されるなど積極的に起用されて4勝を挙げる。


楠安夫: 引退後は日本テレビ・日本教育テレビ・フジテレビ・ニッポン放送・文化放送解説者や日刊スポーツ評論家を経て、1968年からは別所毅彦監督の招聘でサンケイアトムズ→アトムズのヘッドコーチとなり、1969年まで務めた。


広岡達朗: また、長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や、前任の藤田元司が辞任した際も会長候補として名が挙がったが、就任は実現しなかった。


及川宣士: 同年オフには高橋重行らとともに整理対象寸前であったが、翌年からコーチ就任予定の別所毅彦に手の大きさを着目されて現役を続けることになる。


武宮敏明: 非常に強肩で、別所毅彦からバッテリーを組んだ捕手の中では藤尾茂と比肩すると評された。


佐々木吉郎: しかし当時の別所毅彦投手コーチから「ヒットを1本も打たれていないから打たれるまで投げてこい」と言われ、最後まで1本のヒットも打たれることなく完投し完全試合を達成した。


岡本伊三美: 1959年の日本シリーズ第1戦では4打数4安打3打点を記録し、別所毅彦から2打席連続で本塁打を放つなど活躍、同シリーズの技能賞を獲得した。


宮田征典: 同期の城之内邦雄が社会人からの入団ということもあって1年目から開幕投手を務め、24勝を挙げる活躍を見せたが、一方の宮田は別所毅彦コーチの下で雌伏の日々が続いた。


藤本英雄: 1950年に完全試合を達成した際に球団から5万円の賞金が出たが、全額が麻雀のつけとして川上哲治・青田昇・別所毅彦に取られてしまう。


坂井豊司: 岐阜市立岐阜商業学校(現・岐阜県立岐阜商業高等学校)に進学し、在学中に1940年と1941年の選抜中等学校野球大会に出場している(1941年は準々決勝で別所毅彦・青田昇の滝川中学校と対戦。


梶原しげる: 若手時代はプロ野球中継の実況アナウンサーを務めたが、野球を知らなかったことで野球解説者の別所毅彦に叱られ、以降はスポーツ中継の実況は務めていない。


豊田泰光: 続いて出場した読売ジャイアンツとの日本シリーズでも第3戦で別所毅彦から逆転につながる2点本塁打を放つなど、24打数11安打と活躍。


小川善治: 1970年にはヤクルトの監督だった別所毅彦がチーム不振でシーズン途中に解任され、二軍監督だった小川が代理監督としてシーズン終了まで務めた。


別所毅彦の情報まとめ

もしもしロボ

別所 毅彦(べっしょ たけひこ)さんの誕生日は1922年10月1日です。兵庫出身の野球選手のようです。

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事件、現在、引退、卒業、母親、結婚、テレビに関する情報もありますね。1999年に亡くなられているようです。

別所毅彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

別所 毅彦(べっしょ たけひこ、本名及び旧名:別所 昭(べっしょ あきら)、1922年10月1日 - 1999年6月24日)は、兵庫県淡路市出身のプロ野球選手(投手)、コーチ、監督、また野球解説者、評論家。愛称はべーやん、鬼軍曹。

旧制滝川中学校から剛球投手として鳴らし、1941年の春の甲子園では骨折を押して投げ続け「泣くな別所、センバツの花」と賞賛された。1942年にプロ入りすると南海軍のエースとなり2度の優勝の立役者となる。1949年に別所引き抜き事件によって巨人への移籍後は第二期黄金時代の主軸投手として長く活躍した。投手として最多のベストナイン6回を誇る。通算310勝は金田正一に破られたが、シーズン47完投(1947年)は現在も日本プロ野球記録。現役引退後は、巨人・大洋でのコーチを経て、1968年からはサンケイの監督も務めた。1979年に野球殿堂入り。

1922年に父・精一、母・てるとの間の五男二女の末っ子として生まれる。1933年の小学5年生の時に、新設された名倉尋常小学校に転校すると、法政大学の島秀之助の弟とらと軟式野球チームを作る。盆正月には帰省した島秀之助から野球の基本プレーを教えられた。小学校6年生の時には健康優良児コンテストの兵庫県代表に選ばれている。

楠高等小学校では野球部に入り、2年次の神戸市・近畿地方の少年野球大会で優勝する。大会での活躍により勧誘を受けて、滝川中学校に進学。野球の素質を見込まれて進学したはずだが、野球部の入部テストは非常に熾烈なもので、全国大会に出場したこともある名門であっても、現在では考えられない以下のようなメニューを課せられた。結局入部希望者は150名であったが、残ったのは別所を含めて4名だけだったという。

いつ「止めろ」と言われることも無く延々とランニングをさせられ、最後まで走り続けられた者だけが次のテストへ進む。これを3日間続ける。

地面に描いた円の中央に立ち、5m程離れたところから先輩選手が投げ続けるボールを素手(または厚みのないペラペラのグローブ)で3分間捕球し続ける。これも3日間続ける。

滝川中学在籍当時の監督の一人にかつて巨人の投手であった前川八郎がおり、前川からはボールの握り方から腰の使い方、全体のフォームなどピッチング技術の全てを習った。別所自身も、授業中は常に軟式球を右手で握力の強化に努め、夜寝る前には、板宿にあった実家と学校の間約6㎞を走って足腰を鍛えた。さらに蒲団に入ると天井に向かってボールを投げて回転を確かめる。回転数が多いほど直球のスピードは増すはず、リリースの際に人差し指に力を入れるとシュート回転に、中指に力を入れるとスライダー回転になることを確認するなど研究を重ねた。また、飛田穂州の『中等野球読本』をボロボロになるまで読みふける。この本に書かれた「投手は大胆にして細心であれ。しかし小心であってはいけない」の言葉を、別所はその後の人生で何度も繰り返し思い起こしたという。

甲子園大会へは春の選抜に2度出場。1940年の春の甲子園では、準々決勝で福岡工業に5-4で敗れる。一方で、打点6を挙げて生還打賞を獲得した。翌1941年の春の甲子園では、準々決勝で岐阜商業の鳥居兵治と投げ合う。9回表の攻撃の際に、青田昇の三塁ゴロを三塁手が悪送球したため、一塁走者だった別所がその隙を突いて本塁へ突入するも転倒して左肘を骨折する重傷を負う。しかし、控えの投手はいなかったため、包帯で左肘を縛り上げて左腕を三角巾で吊ったまま投球を続ける。本来の上手からはバランスを崩して投げられないので、アンダースローで投げ続けたという。試合は延長に入り、別所は延長12回裏二死まで投げたが、痛みが限界に達して降板。捕手の小林章良が代わりに登板するが、延長14回裏に二死満塁で内野安打を打たれてサヨナラ負けを喫した。骨折しながらも力投するが、力尽きてベンチに戻って号泣する別所に、翌日の大阪毎日新聞神戸版は「泣くな別所、センバツの花」との賛辞を贈った。これは後々まで別所の代名詞ともなった。

卒業後は滝川中の先輩である阪井盛一がいる慶応義塾大学への進学を検討していた。しかし、戦争の影響で野球選手の特待生制度が廃止されたため、あわてて勉強するが間に合わず、入学試験は不合格となる。やむを得ず、1年浪人して慶大を目指すことにし、旧制大阪専門学校を経て日本大学へ進学した。そこへ、近所に住む元ライオン軍監督の高田勝生(1943年から南海軍の監督)から職業野球入りを勧められる。別所は島秀之助の母親に職業野球の内情を聞きに行くと、十分やっていけるとの話だったことから、職業野球入りを決めた。後輩の青田昇が在籍しており、恩師の前川八郎もかつて在籍していた関係で、別所は東京巨人軍への入団を志望。1942年秋に監督の藤本定義の家に挨拶に行き巨人との契約を結ぶ。しかし、その間に高田が別所の実家を訪れて南海軍との入団を交渉し、実家の母と兄は、別所を近くにおいておきたいという理由で南海軍と契約を結んでしまう。二重契約となったために巨人側は連盟に提訴したが、親権者の契約が優先される裁定で南海へ入団することとなった。この入団の経緯は「別所引き抜き事件」の遠因となった。南海軍との契約は契約金3,000円、月給160円であった。

投手で入団したが打撃が良かったことから、10月10日の対巨人戦で三番左翼手として初出場。2安打を放つが、自らの失策をきっかけに2失点し敗れた。同年11月10日の対大洋戦で初登板、野口二郎と投げ合い1失点で完投するが、1-0で敗戦投手となっている。この年はわずか2試合の登板で未勝利に終わった。

翌1943年5月26日の対大和戦(神戸市民)でノーヒットノーランを達成。さらに、次の登板となる5月30日の大和軍戦(甲子園)では1安打完封勝利を収めた。同年はチーム勝利数26勝の半数以上となる14勝(23敗)を挙げてエースに成長した。この頃、最晩年の沢村栄治と話す機会があった。当時の別所にとって沢村は憧れのスーパースターであり、声をかけるのも自重するほどだったという。それでも思い切って「どうしたら沢村さんのような速い球が投げられるようになりますか」と聞いたところ、沢村は少し考えてから「走りなさい」と一言だけ返答した。それ以来、別所は走り込みを大切にした。別所によれば、ランニングは下半身強化の効果もさることながら、肩や腕を振ることで地肩を強くする効果があるという。

同年12月に学徒動員令により召集を受ける。別所は「飛行機に乗りたい」という理由で特攻隊を志願するが、身体が大きすぎるとの理由で叶わず、212工兵隊に配属され、満州の渤利に渡った。そこで幹部候補生試験を受験することになり、甲種合格を果たして、1944年2月に松戸の陸軍工兵学校へ入学するために内地へ戻る。終戦は後免(高知県南国市)で迎えた。

1945年11月に東西対抗戦が行われると早速参加し、11月23日の第1戦に登板する。2年目の1946年7月15日の対ゴールドスター戦(旧制高岡工専グラウンド)では7安打に抑え、26-0で完封勝利を挙げたが、この試合は完封試合としてはプロ野球史上最大得点差の試合であった。シーズンでは丸山二三雄(25勝)に次ぐ19勝(13敗)を挙げるとともに、防御率も2.47(リーグ3位)を記録して南海の初優勝に大きく貢献。僅差で競っていた巨人が敗れて優勝が決まった直後の11月5日の対中日戦で先発するが、5回途中でめまいを起こして降板。すぐに、病院に行くが病名は栄養失調であった。戦後の食糧事情の悪い中、大食漢の別所は監督の山本一人に掛け合い、勝利投手になると球団から米2合をもらえるようになっていたが、それでは足りなかった。なお、試合途中で病院へ行ったため、この年の優勝記念写真に別所は写っていない。

1947年には丸山に代わってエース格となる。8月10日の対中部日本戦では0-2で敗れるが、8回を完投し67球の最少投球数の記録を作る。シーズンではNPB記録であるシーズン47完投、別所が責任投手であった49試合のうち完投でなかったのは僅か2試合という凄まじい記録を残した。また、投球回もリーグ最多となる448回1/3を投げ、これは1946年の真田重蔵(464回2/3)に次ぐ戦後2位の記録となっている。30勝(19敗)防御率1.84(リーグ4位)、191奪三振(リーグ1位)の成績で、最多勝・ベストナインを獲得。この年から設立された沢村賞の初代受賞者にもなった。

1948年は中原宏・柚木進らの加入もあって登板機会は減るが、26勝10敗、防御率2.05(4位)、勝率.722で最高勝率を獲得し、2年連続でベストナインも受賞。優勝に大きく貢献し、別所自身も最高殊勲選手の獲得を期待したが、監督兼四番打者の山本一人が選ばれている。

同年1月に別所は懇意にしていた銀座の料亭『小松』の娘すずと結婚していたが、夫人が妊娠して一軒家が必要になったこと(当時、別所は実兄宅に借住まいしていた)、および他球団の主力選手に比べて別所の待遇が劣っていたことから、南海球団に対して一軒家と報酬アップを要求するが、交渉は決裂。一方で、別所の不満を聞きつけた巨人が別所に接触し、移籍を働きかけていた。これを受けて、南海は日本野球連盟に提訴したため、連盟事務局の裁定により、巨人は10万円の制裁金を、別所は翌1949年の開幕から2ヶ月間の出場停止を課せられるが、結果的に別所の巨人移籍は認められた(別所引き抜き事件)。移籍に当たって、巨人から契約金50万円と50万円相当の家一軒を受け取っている。

1949年3月28日に読売ジャイアンツへの移籍が実現。移籍を機に、千葉のある神社の神主の勧めで、昭から毅彦に登録名を改めた。しかし、生え抜きのベテラン選手は強引な移籍に対して批判的で、移籍当初は冷淡な態度を取られたという。出場停止期間中の4月14日の巨人対南海戦に発生した「三原ポカリ事件」には別所も観戦しており、「南海戦にはとても投げられない」とのコメントが伝わっている。球団側も南海戦の登板は避ける配慮をし、閉幕近い11月13日になってようやく南海戦に先発登板するが、3回7失点と打ち込まれ敗戦投手となった。シーズンでは2ヶ月の出場停止が響き、防御率2.35はリーグ2位に付けながら14勝9敗の成績に終わる。しかし、巨人は別所が加わったことで、藤本英雄(24勝)以下、二桁投手を5人出すなど投手陣の厚みが増し、戦後初優勝を飾る。一方でエースを失った南海は4位に転落した。同年の日米野球で来日したサンフランシスコ・シールズのオドール監督から、変化球で打者を打ち取ることを勧められ、併殺を取るための小さく鋭く曲がるカーブと、空振りを取るための大きく曲がり落ちるカーブ(ドロップ)の二種類のカーブを覚えた。

移籍に際して、アメリカの大型爆撃機B29にあやかって背番号は29を付けていた。しかし、同年オフにニューヨーク・ヤンキースのリリーフエースでワールドシリーズで好投しベーブ・ルース賞を獲得したジョー・ペイジ(英語版)の背番号11を気に入り、別所も背番号11に変更している。

同年オフに発生した三原監督排斥運動では、別所も造反側に回って連判状に判を押したとされる。しかし、議論がエスカレートして球団納会で連判状を幹部に突きつけて謝罪を求める、遂には納会で幹部を殴るというような話に発展してきた。そこで、トラブルを危惧した別所は巨人入りに際に世話になった読売新聞常務の武藤三徳に次第を報告。これによって、読売新聞副社長の安田庄司ら球団幹部が遠征先までやってきて選手たちを説得し、納会は事なきを得て終わり、連判状はうやむやになった。また、同年オフにはセ・パ両リーグ分立に伴って大量の選手の引き抜き合戦が発生。あまりに大規模な球界の一大転機に、マスコミも傍観するばかりであったことから、前年度の巨人移籍でマスコミに騒ぎ立てられた別所は、この年に巨人入りしていれば、と思いさえしたという。

1950年は22勝(11敗)で2年ぶりに20勝投手に復帰するとともに、防御率2.55でリーグ3位に入った。1951年に初めてオールスターゲームが開催されるが、第1戦に別所は全セ・リーグの先発として登板。3回を投げて三塁を踏ませず無失点に抑え、投球内容から勝利投手第1号となる。シーズンでは21勝(9敗)防御率2.44(4位)でいずれもタイトルには及ばなかったが、最多勝の杉下茂(28勝)、最優秀防御率の松田清(2.01)を抑えて、3年ぶりにベストナインを獲得している。

1952年6月15日の松竹戦(大阪)では9回二死まで完全に抑えていたが、ブルペン捕手であった神崎安隆に内野安打を浴びて完全試合を逃す。この試合で球審を務めていた金政卯一は、別所が完全試合寸前だったことに気付いておらず、後に「気が付いていたら、2ストライク後のボールと判定した際どいコースを温情でストライクと判定したかもしれない」と語っている。なお、神崎は4年間のプロ在籍中、この時の安打が唯一の記録だった。同年は自己最多の33勝(19敗)を挙げて最多勝を獲得。防御率も1.94で2位に付けるなど抜群の働きで優勝に貢献し、自身初の最優秀選手を受賞。2年連続4度目のベストナインも獲得した。同年の日本シリーズでは、第1戦,第4戦に完投勝利を飾ると、最終の第6戦も救援登板して4回を無失点で抑えて胴上げ投手となり、日本シリーズMVPに選ばれている。

1953年は6月末までに10勝を挙げる。7月上旬のオールスターゲームでは、第1戦・第2戦と無難に投げるが、第3戦の9回表から登板するが、投球練習の途中で足を滑らせ踏ん張ったところギックリ腰となり、1球も投げずに降板する羽目となった。このケガのために8月中旬まで1ヶ月半も登板できず、前年度から登板機会が半減して16勝(8敗)に終わり、4年ぶりに20勝に到達できなかった。同年オフに来日したメジャーリーグ選抜の団長であったエド・ロパット(英語版)がスクリューボールを投げているのに注目。31歳になり新しい球種が欲しいと思っていた別所は、早速投げ方を教えてもらいこれをシンカーとして習得し、選手寿命を延ばした。

1954年は26勝(12敗)防御率1.80(リーグ3位)と復活するが、優勝した中日のエース・杉下茂が32勝を挙げるなど投手五冠王の活躍で、別所はタイトルを逃している。1955年7月9日の対中日戦から7月31日の対広島戦まで49回1/3無失点の当時のセ・リーグ記録を作る。シーズンでは23勝を挙げるとともに、自己最高の防御率1.33で最優秀防御率を獲得し、5度目のベストナインと8年ぶりとなる沢村賞を受賞した。同年の日本シリーズでは、第7戦では古巣・南海を完封して胴上げ投手となるなど、7試合中5試合に登板して3勝(現在のルールでは1セーブ)を挙げ、1952年に続く2度目の日本シリーズMVPを受賞。この時の投球を、別所は生涯最高の投球と語っている。1956年は27勝(15敗)で最多勝を獲得し、2度目の最優秀選手と6度目のベストナインも受賞した。しかし、この年の日本シリーズ開幕5日前に右手の人差し指と中指のマメが取れて調子を崩し、0勝3敗、防御率10.00に終わった。

1957年に14勝で4年ぶりに20勝を切ると、1958年にはチームは4連覇を達成するも、別所は26試合で9勝に終わり、13年間にわたって続けた2桁勝利が途絶える。別所は同年オフの契約更改で「35試合登板」を条件に入れるよう要望した。当時、通算294勝であり、このままでは300勝が達成できないと考えてのことであったが、監督の水原茂から「選手が起用法について条件を出すなんてとんでもない」と反対され、自らの非を認めて要求を取り下げている。

1959年は開幕から2ヶ月勝てないなどスタートでつまずくが、9月15日の広島戦に救援登板して5勝目を挙げ、通算299勝となり300勝に王手をかける。その後3回先発して3連敗するなど、あと1勝がなかなかできず苦しむが、10月14日の対国鉄戦で2回裏からのロングリリーフを1失点に抑え、史上二人目の300勝を達成した。翌1960年4月29日に302勝目を挙げて通算最多勝記録を更新すると、同年9勝を挙げて通算勝利を310勝まで延ばす。同年11月26日に一軍投手コーチ兼任が発表された。翌1961年シーズンは試合での登板は一度も無く、同年から監督に就任した川上哲治を支えて「鬼軍曹」的役割を果たし、1955年以来6年ぶりの日本一を奪回したのを花道に現役を引退。1962年3月20日の西鉄とのオープン戦が引退試合となった。

通算310勝は当時のプロ野球記録だったが、この記録は別所の引退から僅か2年後に金田正一が更新した。別所はこれ以外にも多くの投手の通算記録を保持していたが、巨人の球団通算最多勝記録(221勝)を除いた全てを金田によって更新されている。

1962年からはコーチに専念したが、同年7月の名古屋遠征時に、宿舎にて消灯時間を過ぎた後に選手の部屋を見回ったところ、翌日先発予定の中村稔が当時禁止されていたビールを飲んでいたのを見つける。別所は中村を監督の川上哲治の部屋に連れて行き説教したが、1ヶ月後の8月に週刊誌で報道されたことで表沙汰となり、8月11日に球団から謹慎処分を受ける。処分は2日で解除された。この時、川上は別所を二軍へ配置転換することを考えていたが、別所はこれを川上が自分を積極的に守ってくれなかったと受け止め憤慨し、14日にコーチを辞任して退団した。

退団後はTBS野球解説者(1963年)を経て、1964年に三原脩監督に招聘され、大洋ホエールズヘッドコーチに就任。就任前の1963年オフに、それまで公式戦登板がなく解雇予定であった高橋重行と及川宣士を見出して、のちに活躍させている。1965年から一軍投手コーチを務める。しかし、大洋の一部の選手が親会社の大洋漁業からの出向社員であることを批判したことがスポーツ新聞に掲載されて会社批判と受け取られたことや、1965年以降チームが下位に低迷するなどあって、1966年に退任した。

大洋退団後は2度目のTBS野球解説者(1967年)を挟み、1968年にオーナーの水野成夫に請われてサンケイアトムズの監督に就任。同年はチームを5年ぶりの4位に浮上させる。しかし、1970年は開幕から不振に喘ぎ、8月18日の巨人戦に敗れてシーズン二度目の11連敗となり、翌19日に球団から監督を解任された。当時、選手兼任コーチで、後年にはフジテレビ・文化放送野球解説者として再び一緒に仕事をした豊田泰光は「やる気がある方だったんですが、選手の扱い方が拙劣。気持ちを察する事が出来ない。甲子園での阪神戦、打線が打てなくて負けたことがありました。監督は私に『打者は途中でバスから降りて素振りだ』と命じました。困ったことを言う人だと思いましたよ。でもその通りにしました。で、宿に帰ると首脳陣はみんなで麻雀です。こんなことをやってちゃチームはまとまりませんよ」と述べている。また、主力投手の松岡弘は「とにかく『走れ』しか言わなかった。今のように科学的なトレーニングなんて無いから、とにかく倒れるまで走った。でもそれが良かったと思っているよ。怪我せず、一年間投げ抜くための基礎はその3年間で作ったと思うから。練習も習慣も。能力じゃなく、体力が鍛えられた」「別所さんは『巨人に勝て』しか言わなかった。精神論ばっかりで体力があればよかった」と語っている。

監督退任後は一度もユニフォームを着ることは無く、フジテレビ・文化放送野球解説者・日刊スポーツ野球評論家(1971年 - 1999年)を務め、白髪眉毛・巨人贔屓・貧乏ゆすり・高笑いで人気を得る。その容姿はやくみつるの四コマ漫画で何度も取り上げられるなど豪快なキャラクターもあり、「球界の彦左」と呼ばれていた。1979年には野球殿堂入りを果たし、1992年からは高齢になった川上哲治に代わって巨人OB会の会長を務めていた。川上と対立してコーチを辞任した際はマスコミを通じて川上批判を繰り広げたが、その陰で川上は、別所が辞任後も生活が困窮しないように解説者の仕事を探していた事実を知ると態度を変え、川上と和睦した。別所を後任の巨人OB会長に推薦したのも川上である。

1999年6月24日に急性心不全のため自宅で死去。76歳没。

登板間隔について、本人は中3日が最も調子が良いと主張し、それ以上間隔が空くと監督に食ってかかることもあったという。身体は非常に頑健で、旧制中学時のエピソードもさることながら、引退までついに投手の職業病とも言える肩や肘の故障とは無縁だった。夏に遠征で夜行列車に乗った際、暑いために窓を開けてランニングシャツ一枚になり、一晩中夜風に右腕を晒したまま眠っていたが、翌日は平然と完投勝利を挙げたこともあった。

打撃が良く、登板日以外に野手として出場したことも多い(初出場は1942年10月10日巨人戦の3番左翼手、翌年には投手、野手として4番も務める)。また、プロ生活中送り犠牲バントのサインを出されたことがない。1947年から1950年にかけて656打席で一度も犠打を記録していない。

投手としての出場がメインでありながら通算500安打は特筆すべき点である。通算打撃成績は打率.254(2111打席)、35本塁打、248打点を記録した。1950年には161打席に立って打率.344、4本塁打、28打点、OPS.915の成績を残した。本塁打の通算35本のうち投手として出場したときに31本を記録しており、投手として出場した試合の本塁打数としては、金田正一、米田哲也に次ぎ歴代3位の記録となっている。この中には1955年6月9日の中日ドラゴンズ戦で杉下茂から放ったサヨナラ本塁打も含まれている。1946年7月15日の対ゴールドスター戦で、グレートリングは8回に1イニング11安打、1試合28安打などの当時の日本プロ野球記録で26対0で圧勝しているが、8回の攻撃時に別所は本塁打と三塁打を記録した。

1勝に対するこだわりが極めて強かった。ノックアウトされて勝利投手を逃した日は、宿に戻ると襖を蹴っ飛ばし柱を叩いて怒るなど非常に荒れていた。一方で、他の投手が投げている時に少しでも打たれ出すと、別所は監督の隣に座り込んで「危ないなあ。オレが助けに行かんと負けそうやなあ」と売り込む。監督もそうまで言われると、負けたくないのでつい別所を登板させた。別所はこの方法で勝ち星を数多く稼いだ。

麻雀を好んだが、勝つためには手段を選ばず非常に強かった。相手が監督の水原茂や先輩の川上哲治であっても、形勢が不利になると「監督もクソもあるかーッ」と麻雀卓を蹴っ飛ばす。また、水原には「先発投手は、試合前に麻雀で勝つと最高の気分でマウンドに立てるんですよ」といつも囁き、水原もついつい別所のペースに乗せられていた。別所が勝てば麻雀は早く終了するが、負けていると「もう1回」「ワンスモア」と延長を繰り返し、夜が明けてくると疲れ切ってくる相手を尻目に、体力に勝る別所が最終的に勝利を得ていた。それでも負けた時には、翌朝に前夜の相手の部屋を回り「尋常に勝負しろ!」「勝ち逃げする気か!」と叩き起こして再挑戦。気合いが入った別所と寝ぼけた相手では勝負にならず、別所はぼろ勝ちして、気分良く球場入りしていた。別所は麻雀で稼いだ金で自宅を建て増しした際、勝った相手の南村不可止・藤本英雄の名前に因んで「南藤の間」と名付けた。

類い希なる食欲の持ち主だった。旧制滝川中学5年生の時、学校近くの板宿にあった屋台の寿司屋で「寿司百個食べたらタダの上、賞金一円」の店自慢に挑戦し、別所本人は見事、米だけで二升分もありそうな寿司100個を完食、1個3銭の寿司代を浮かしたうえ、賞金を手にした。一緒に食した後輩(3年生)青田昇も途中でリタイアしたが、70個のネタを平らげている。70歳を過ぎても、講演の際の昼食には300グラムもありそうな巨大なビーフステーキをきれいに食べきっていた。後日、同じところに青田が講演に行くと、別所が食べたのと同じような巨大なステーキが出され、閉口したという。食事は肉しか食べない偏食家であった。

遠征の際は必ず千葉茂と同室にされた。歯ぎしりが酷かった千葉に対して、別所はいびきが凄く、お互いに先に寝付けないと相手の音に悩まされたが、別所は横になるのといびきが聞こえ始めるのとどちらがが早いかわからないほど寝付きが良かったという。

1954年の雑誌『婦人倶楽部』付録「家庭料理の作り方」で別所独自のすき焼きが紹介されている。大切りにした牛肉ロースとキャベツのざく切りをバターで炒め、砂糖のみで味付けする。大根おろし、卵黄、ポン酢をつけて食べる。醤油を使わず、バターの塩味とポン酢の醤油味だけで食べる鉄板焼きに近い料理であった。別所は「これなら僕は百匁から百五十匁(380~500グラム)はぺろりですよ。ポン酢は酢の方をぐっと利かせて、好みで七色唐辛子をふりかけてもいいんです。(中略)この別所家独特の料理が、試合で消耗した僕の体力を一ぺんに回復させてくれるんですよ」と語っている。

各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

南海は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更

南海は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に、1946年にグレートリングに、1947年途中に南海(南海ホークス)に球団名を変更

※1 1968年から1996年までは130試合制

※2 1970年、成績不振により8月18日解任。監督代行は小川善治

※3 1970年、欠場した52試合(12勝37敗3分)は監督通算成績に含まない

サンケイ(サンケイアトムズ)は、1969年にアトムズ、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更

最多勝利:3回 (1947年、1952年、1956年)

最優秀防御率:1回 (1955年)

最多奪三振:1回 (1947年)※当時連盟表彰なし

最高勝率:1回 (1948年)

沢村栄治賞:2回 (1947年、1955年)※8年のブランク受賞は史上最長

最高殊勲選手(MVP):2回 (1952年、1956年)※1952年は投手としてセ・リーグ初の受賞

ベストナイン:6回 (投手部門:1947年、1948年、1951年、1952年、1955年、1956年)※投手最多記録

野球殿堂競技者表彰 (1979年)

日本シリーズMVP:2回 (1952年、1955年)

日本シリーズ最優秀投手賞:1回 (1955年)

ノーヒットノーラン:1回、1943年5月26日対大和軍戦(神戸市民運動場野球場) ※史上12人目

シーズン完投:47、1947年 ※日本記録

シーズン先発:50、1947年 ※林安夫(51先発、1942年)に次ぐ歴代2位

連続イニング無失点:49回1/3、1955年7月9日 - 7月31日 ※当時のセ・リーグ記録

最少投球完投勝利:67球、1947年8月10日対中部日本戦 ※8イニングのため参考記録

オールスターゲーム出場:6回 (1951年 - 1956年)

複数球団での最多勝 ※史上2人目

シーズン被本塁打なしでの最多投球回数:319回1/3、1943年 ※NPB記録

リーグ最多被安打なしでの通算被安打:3629 ※歴代最多

初出場:1942年10月10日対巨人軍戦(阪急西宮球場)

初登板:1942年11月10日対大洋軍戦(阪神甲子園球場)

22 (1942年 - 1943年)

12 (1946年 - 1948年)

29 (1949年)

11 (1950年 - 1962年)

50 (1964年 - 1966年)

60 (1968年 - 1970年)

別所 昭 (べっしょ あきら、1942年 - 1948年)

別所 毅彦 (べっしょ たけひこ、1949年 - )

TBSラジオ エキサイトベースボール - TBSラジオのプロ野球中継の2017年の番組終了時点でのタイトル。

SAMURAI BASEBALL - TBSテレビのプロ野球中継の現行タイトル。

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とんねるずのみなさんのおかげです - おかげです定時制高校野球部(生徒役)、涙目怪人選手権(審査員)

タモリのボキャブラ天国 - 「氷の別所(『氷の微笑』のパロディー)」(本人役)

寺島・ナースの爆発120分 - 文化放送のラジオ番組。コメンテーターとして登場し、野球の話題だけではなくリスナーからの悩み相談にも真摯に答えていた。

とんねるずのハンマープライス - 出品者として「別所毅彦が草野球のワンポイントで登板してくれる権利」で登場。

^ 2019年9月6日に、後身の球団である福岡ソフトバンクホークスの千賀滉大がノーヒットノーランを達成するまで球団としては76年間誰も達成していなかった。

^ この試合から59年後の2005年3月27日に行われた千葉ロッテマリーンズ対東北楽天ゴールデンイーグルス(千葉マリンスタジアム)でも、同様に26-0の完封試合が発生した。なお、この年は東北楽天ゴールデンイーグルスが創設された年で、この試合は通算2試合目だった。

^ 当時はこの時点で新記録達成だったが、のちにスタルヒンの記録が303勝に戻されたため、実際には同年7月9日にマークした304勝目が新記録となる。

^ 当時、現在の価値で1万円相当かと思われる

^ 投手の引退試合は奪三振で終わるべき? 過去の名場面を回顧

^ 『剛球唸る!』12-13頁

^ 『剛球唸る!』15-16頁

^ 『日本経済新聞』1986年12月8日付p.32「私の履歴書」

^ 『豪球伝説』100-101頁

^ 『剛球唸る!』24-26頁

^ 永井良和『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』ソフトバンククリエイティブ、2008年、63 - 64頁。ISBN 9784797348972。 

^ 『剛球唸る!』38-40頁

^ 『剛球唸る!』40-41頁

^ 『剛球唸る!』45-46頁

^ 『剛球唸る!』47-49頁

^ 『剛球唸る!』51頁

^ 「別所引き抜き事件」「三原ポカリ事件」…球史を彩った1リーグ時代の鷹と巨人 Full-Count 2019年10月16日

^ 『剛球唸る!』61頁

^ 『剛球唸る!』67-68頁

^ 『剛球唸る!』66頁

^ 『豪球伝説』101-102頁

^ 『剛球唸る!』69頁

^ 『剛球唸る!』73-75頁

^ 『剛球唸る!』76頁

^ 『剛球唸る!』85-86頁

^ 『剛球唸る!』99-101頁

^ 『剛球唸る!』132頁

^ 『剛球唸る!』152頁

^ 『プロ野球記録大鑑』202頁

^ 鈴木陽一『巨人軍監督の決断』講談社、1988年、p348

^ 鈴木[1988: 349-350]

^ 『剛球唸る!』178頁

^ 読売新聞1970年8月19日11面「渡辺完投、巨人逃げ切る ヤクルト11連敗」読売新聞1970年8月p549

^ 読売新聞1970年8月20日11面「ヤクルト 別所監督を解任 代理監督に小川コーチ」読売新聞縮刷版1970年8月p583

^ スワローズ 2011, p. 33

^ スワローズ 2011, p. 41

^ 「私だけが知る「巨人V9の真実」ライバル編 松岡弘」『週刊ポスト』、小学館、2015年2月20日、140頁。 

^ やくみつるの故意死球(ドリームクエスト)204-205頁

^ 『サムライ達のプロ野球』158-159頁

^ 『プロ野球記録大鑑』321頁

^ 『巨人軍の男たち』123頁

^ 『巨人軍の男たち』124-125頁

^ 『巨人軍の男たち』143頁

^ 『サムライ達のプロ野球』159頁

^ 『サムライ達のプロ野球』154-155頁

^ 平松政次さん、エモやんのソフトな(?)毒舌をお楽しみください。 - YouTube

^ 『巨人軍の男たち』124頁

^ 『プロ野球記録大鑑』502頁

『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.26~ほか

『1950-2011 わが愛しのスワローズ 国鉄から始まった栄光の軌跡』ベースボール・マガジン社〈週刊ベースボールプラス6〉、2011年10月3日。ASIN B005PYWONC。 

別所毅彦『剛球唸る! - 栄光と熱投の球譜 (野球殿堂シリーズ)』ベースボール・マガジン社、1989年

ナンバー編『豪球伝説』文春文庫、1986年

宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年

千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年

青田昇『サムライ達のプロ野球』ぱる出版、1994年

兵庫県出身の人物一覧

福岡ソフトバンクホークスの選手一覧

読売ジャイアンツの選手一覧

個人年度別成績 別所毅彦 - NPB.jp 日本野球機構

西垣徳雄 1950 - 1953

藤田宗一 1954 - 1955

宇野光雄 1956 - 1960

砂押邦信 1961 - 1962

浜崎真二 1963

林義一 1964 - 1965

砂押邦信 1965

飯田徳治 1966 - 1967

別所毅彦 1968 - 1970

三原脩 1971 - 1973

荒川博 1974 - 1976

広岡達朗 1976 - 1979

武上四郎 1980 - 1984

土橋正幸 1984 - 1986

関根潤三 1987 - 1989

野村克也 1990 - 1998

若松勉 1999 - 2005

古田敦也 2006 - 2007

高田繁 2008 - 2010

小川淳司 2011 - 2014

真中満 2015 - 2017

小川淳司 2018 - 2019

髙津臣吾 2020 - 現在

60 ヴィクトル・スタルヒン

62 池田豊

63 中島治康

64 若林忠志

65 川上哲治, 鶴岡一人

69 苅田久徳

70 天知俊一, 二出川延明

72 石本秀一

74 藤本定義, 藤村富美男

76 中上英雄

77 水原茂, 西沢道夫

78 松木謙治郎, 浜崎真二

79 別所毅彦

80 大下弘, 小鶴誠

81 飯田徳治, 岩本義行

83 三原脩

85 杉下茂, 白石勝巳, 荒巻淳

88 長嶋茂雄, 別当薫, 西本幸雄, 金田正一

89 島秀之助, 野村克也, 野口二郎

90 真田重蔵, 張本勲

91 牧野茂, 筒井修, 島岡吉郎

92 廣岡達朗, 坪内道則, 吉田義男

93 稲尾和久, 村山実

94 王貞治, 与那嶺要

95 杉浦忠, 石井藤吉郎

96 藤田元司, 衣笠祥雄

97 大杉勝男

99 中西太, 広瀬叔功, 古葉竹識, 近藤貞雄

00 米田哲也

01 根本陸夫, 小山正明

02 山内一弘, 鈴木啓示, 福本豊, 田宮謙次郎

03 上田利治, 関根潤三

04 仰木彬

05 村田兆治, 森祇晶

06 門田博光, 高木守道, 山田久志

07 梶本隆夫

08 山本浩二, 堀内恒夫

09 若松勉

10 東尾修

11 落合博満

12 北別府学, 津田恒実

13 大野豊

14 野茂英雄, 秋山幸二, 佐々木主浩

15 古田敦也

16 斎藤雅樹, 工藤公康

17 伊東勤

18 松井秀喜, 金本知憲

19 立浪和義

22 髙津臣吾, 山本昌

23 アレックス・ラミレス

24 谷繁元信, 黒田博樹

25 イチロー, 岩瀬仁紀

09 青田昇

10 江藤慎一

11 皆川睦雄

13 外木場義郎

16 榎本喜八

17 星野仙一, 平松政次

18 原辰徳

19 権藤博

20 田淵幸一

23 ランディ・バース

25 掛布雅之

59 正力松太郎, 平岡凞, 青井鉞男, 安部磯雄, 橋戸信, 押川清, 久慈次郎, 沢村栄治, 小野三千麿

60 飛田忠順, 河野安通志, 桜井彌一郎

62 市岡忠男

64 宮原清

65 井上登, 宮武三郎, 景浦將

66 守山恒太郎

67 腰本寿

68 鈴木惣太郎, 田邊宗英, 小林一三

69 三宅大輔, 田部武雄, 森岡二朗, 島田善介, 有馬頼寧

70 田村駒治郎, 直木松太郎, 中馬庚

71 小西得郎, 水野利八

72 中野武二, 太田茂

73 内海弘蔵, 天野貞祐, 広瀬謙三

74 野田誠三

76 小泉信三

77 森茂雄, 西村幸生

78 伊丹安広, 吉原正喜, 岡田源三郎

79 平沼亮三, 谷口五郎

80 千葉茂

81 佐伯達夫, 小川正太郎

82 鈴木龍二, 外岡茂十郎

83 内村祐之

84 桐原眞二

85 田中勝雄, 山内以九士

86 中河美芳, 松方正雄

87 藤田信男, 山下実

88 横沢三郎, 芥田武夫, 永田雅一

89 池田恒雄, 伊達正男

90 佐伯勇

91 中澤良夫

92 吉田正男

94 廣岡知男

95 呉昌征, 村上實

96 牧野直隆, 保坂誠

97 山本英一郎

98 中尾碩志, 井口新次郎

99 吉國一郎

00 福島慎太郎

01 武田孟, 長谷川良平

02 中澤不二雄, 生原昭宏

03 松田耕平

04 秋山登

05 志村正順

06 川島廣守, 豊田泰光

07 松永怜一

08 嶋清一

09 大社義規, 君島一郎

10 古田昌幸

12 長船騏郎, 大本修

13 福嶋一雄

14 相田暢一

15 林和男, 村山龍平

16 松本瀧藏, 山中正竹

17 郷司裕, 鈴木美嶺

18 瀧正男

19 脇村春夫

20 前田祐吉, 石井連藏

21 川島勝司, 佐山和夫

22 松前重義

23 古関裕而

24 谷村友一

25 富澤宏哉

02 フランク・オドール, 正岡子規

03 ホーレス・ウィルソン, 鈴鹿栄

1950 小鶴誠

1951 川上哲治

1952 別所毅彦

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 川上哲治

1956 別所毅彦

1957 与那嶺要

1958 藤田元司

1959 藤田元司

1960 秋山登

1961 長嶋茂雄

1962 村山実

1963 長嶋茂雄

1964 王貞治

1965 王貞治

1966 長嶋茂雄

1967 王貞治

1968 長嶋茂雄

1969 王貞治

1970 王貞治

1971 長嶋茂雄

1972 堀内恒夫

1973 王貞治

1974 王貞治

1975 山本浩二

1976 王貞治

1977 王貞治

1978 若松勉

1979 江夏豊

1980 山本浩二

1981 江川卓

1982 中尾孝義

1983 原辰徳

1984 衣笠祥雄

1985 R.バース

1986 北別府学

1987 山倉和博

1988 郭源治

1989 W.クロマティ

1990 斎藤雅樹

1991 佐々岡真司

1992 J.ハウエル

1993 古田敦也

1994 桑田真澄

1995 T.オマリー

1996 松井秀喜

1997 古田敦也

1998 佐々木主浩

1999 野口茂樹

2000 松井秀喜

2001 R.ペタジーニ

2002 松井秀喜

2003 井川慶

2004 川上憲伸

2005 金本知憲

2006 福留孝介

2007 小笠原道大

2008 A.ラミレス

2009 A.ラミレス

2010 和田一浩

2011 浅尾拓也

2012 阿部慎之助

2013 W.バレンティン

2014 菅野智之

2015 山田哲人

2016 新井貴浩

2017 丸佳浩

2018 丸佳浩

2019 坂本勇人

2020 菅野智之

2021 村上宗隆

2022 村上宗隆

2023 村上頌樹

2024 菅野智之

1950 大島信雄

1951 松田清

1952 梶岡忠義

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 渡辺省三

1957 金田正一

1958 金田正一

1959 村山実

1960 秋山登

1961 権藤博

1962 村山実

1963 柿本実

1964 G.バッキー

1965 金田正一

1966 堀内恒夫

1967 権藤正利

1968 外木場義郎

1969 江夏豊

1970 村山実

1971 藤本和宏

1972 安田猛

1973 安田猛

1974 関本四十四

1975 安仁屋宗八

1976 鈴木孝政

1977 新浦寿夫

1978 新浦寿夫

1979 平松政次

1980 松岡弘

1981 江川卓

1982 斉藤明夫

1983 福間納

1984 小林誠二

1985 小松辰雄

1986 北別府学

1987 桑田真澄

1988 大野豊

1989 斎藤雅樹

1990 斎藤雅樹

1991 佐々岡真司

1992 盛田幸妃

1993 山本昌広

1994 郭源治

1995 T.ブロス

1996 斎藤雅樹

1997 大野豊

1998 野口茂樹

1999 上原浩治

2000 石井一久

2001 野口茂樹

2002 桑田真澄

2003 井川慶

2004 上原浩治

2005 三浦大輔

2006 黒田博樹

2007 高橋尚成

2008 石川雅規

2009 チェン

2010 前田健太

2011 吉見一起

2012 前田健太

2013 前田健太

2014 菅野智之

2015 K.ジョンソン

2016 菅野智之

2017 菅野智之

2018 菅野智之

2019 大野雄大

2020 大野雄大

2021 柳裕也

2022 青柳晃洋

2023 村上頌樹

2024 髙橋宏斗

1950 真田重男

1951 杉下茂

1952 別所毅彦

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 大友工, 長谷川良平

1956 別所毅彦

1957 金田正一

1958 金田正一

1959 藤田元司

1960 堀本律雄

1961 権藤博

1962 権藤博

1963 金田正一

1964 G.バッキー

1965 村山実

1966 村山実

1967 小川健太郎

1968 江夏豊

1969 高橋一三

1970 平松政次

1971 平松政次

1972 堀内恒夫

1973 江夏豊

1974 松本幸行, 金城基泰

1975 外木場義郎

1976 池谷公二郎

1977 高橋里志

1978 野村収

1979 小林繁

1980 江川卓

1981 江川卓

1982 北別府学

1983 遠藤一彦

1984 遠藤一彦

1985 小松辰雄

1986 北別府学

1987 小松辰雄

1988 小野和幸, 伊東昭光

1989 斎藤雅樹, 西本聖

1990 斎藤雅樹

1991 佐々岡真司

1992 斎藤雅樹

1993 今中慎二, 山本昌広, 野村弘樹

1994 山本昌広

1995 斎藤雅樹

1996 斎藤雅樹, B.ガルベス

1997 山本昌

1998 川崎憲次郎

1999 上原浩治

2000 M.バンチ

2001 藤井秀悟

2002 上原浩治, K.ホッジス

2003 井川慶

2004 川上憲伸

2005 下柳剛, 黒田博樹

2006 川上憲伸

2007 S.グライシンガー

2008 S.グライシンガー

2009 吉見一起, 館山昌平

2010 前田健太

2011 吉見一起, 内海哲也

2012 内海哲也

2013 小川泰弘

2014 R.メッセンジャー, 山井大介

2015 前田健太

2016 野村祐輔

2017 菅野智之

2018 大瀬良大地, 菅野智之

2019 山口俊

2020 菅野智之

2021 青柳晃洋, 九里亜蓮

2022 青柳晃洋

2023 東克樹

2024 菅野智之

 投  別所毅彦

 捕  野口明

 一  川上哲治

 二  千葉茂

 三  藤村富美男

 遊  平井三郎

 外  金田正泰 / 青田昇 / 岩本義行

 投  別所毅彦

 捕  野口明

 一  西沢道夫

 二  千葉茂

 三  藤村富美男

 遊  平井三郎

 外  与那嶺要 / 南村不可止 / 杉山悟

 投  別所毅彦

 捕  広田順

 一  川上哲治

 二  井上登

 三  児玉利一

 遊  吉田義男

 外  渡辺博之 / 与那嶺要 / 町田行彦

 投  別所毅彦

 捕  藤尾茂

 一  川上哲治

 二  井上登

 三  児玉利一

 遊  吉田義男

 外  与那嶺要 / 田宮謙次郎 / 青田昇

投手:須田博

捕手:田中義雄

一塁手:川上哲治

二塁手:苅田久徳

三塁手:水原茂

遊撃手:上田藤夫

外野手:鬼頭数雄, 山田伝, 中島治康

投手:別所昭

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:杉浦清

外野手:大下弘, 坪内道則, 金田正泰

投手:別所昭, 中尾碩志, 真田重男

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:木塚忠助

外野手:青田昇, 別当薫, 坪内道則

投手:藤本英雄

捕手:土井垣武

一塁手:川上哲治

二塁手:千葉茂

三塁手:藤村富美男

遊撃手:木塚忠助

外野手:小鶴誠, 別当薫, 大下弘

1936秋 景浦將

1937春 沢村栄治

1937秋 御園生崇男

1938春 御園生崇男

1938秋 V.スタルヒン

1939 若林忠志

1940 須田博

1941 森弘太郎

1942 広瀬習一

1943 藤本英雄

1944 若林忠志

1946 藤本英雄

1947 御園生崇男

1948 別所昭

1949 藤本英雄

1936秋 沢村栄治

1937春 沢村栄治

1937秋 西村幸生, V.スタルヒン, 野口明

1938春 V.スタルヒン

1938秋 V.スタルヒン

1939 V.スタルヒン

1940 須田博

1941 森弘太郎

1942 野口二郎

1943 藤本英雄

1944 若林忠志

1946 白木義一郎

1947 別所昭

1948 川崎徳次, 中尾碩志

1949 V.スタルヒン

1936秋 内藤幸三

1937春 沢村栄治

1937秋 沢村栄治

1938春 亀田忠

1938秋 V.スタルヒン

1939 V.スタルヒン

1940 亀田忠

1941 中尾輝三

1942 野口二郎

1943 藤本英雄

1944 藤本英雄

1946 真田重蔵

1947 別所昭

1948 中尾碩志

1949 武末悉昌

1947 別所昭

1948 中尾碩志

1949 藤本英雄

1950 真田重男

1951 杉下茂

1952 杉下茂

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 金田正一

1957 金田正一

1958 金田正一

1959 村山実

1960 堀本律雄

1961 権藤博

1962 小山正明

1963 伊藤芳明

1964 G.バッキー

1965 村山実

1966 村山実, 堀内恒夫

1967 小川健太郎

1968 江夏豊

1969 高橋一三

1970 平松政次

1972 堀内恒夫

1973 高橋一三

1974 星野仙一

1975 外木場義郎

1976 池谷公二郎

1977 小林繁

1978 松岡弘

1979 小林繁

1981 西本聖

1982 北別府学

1983 遠藤一彦

1985 小松辰雄

1986 北別府学

1987 桑田真澄

1988 大野豊

1989 斎藤雅樹

1990 野茂英雄

1991 佐々岡真司

1992 石井丈裕

1993 今中慎二

1994 山本昌広

1995 斎藤雅樹

1996 斎藤雅樹

1997 西口文也

1998 川崎憲次郎

1999 上原浩治

2001 松坂大輔

2002 上原浩治

2003 井川慶, 斉藤和巳

2004 川上憲伸

2005 杉内俊哉

2006 斉藤和巳

2007 ダルビッシュ有

2008 岩隈久志

2009 涌井秀章

2010 前田健太

2011 田中将大

2012 攝津正

2013 田中将大

2014 金子千尋

2015 前田健太

2016 K.ジョンソン

2017 菅野智之

2018 菅野智之

2020 大野雄大

2021 山本由伸

2022 山本由伸

2023 山本由伸

1950 別当薫

1951 南村不可止

1952 別所毅彦

1953 川上哲治

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 豊田泰光

1957 大下弘

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 近藤昭仁

1961 宮本敏雄

1962 土橋正幸, 種茂雅之

1963 長嶋茂雄

1964 J.スタンカ

1965 長嶋茂雄

1966 柴田勲

1967 森昌彦

1968 高田繁

1969 長嶋茂雄

1970 長嶋茂雄

1971 末次民夫

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 弘田澄男

1975 山口高志

1976 福本豊

1977 山田久志

1978 大杉勝男

1979 高橋慶彦

1980 J.ライトル

1981 西本聖

1982 東尾修

1983 大田卓司

1984 長嶋清幸

1985 R.バース

1986 工藤公康

1987 工藤公康

1988 石毛宏典

1989 駒田徳広

1990 O.デストラーデ

1991 秋山幸二

1992 石井丈裕

1993 川崎憲次郎

1994 槙原寛己

1995 T.オマリー

1996 T.ニール

1997 古田敦也

1998 鈴木尚典

1999 秋山幸二

2000 松井秀喜

2001 古田敦也

2002 二岡智宏

2003 杉内俊哉

2004 石井貴

2005 今江敏晃

2006 稲葉篤紀

2007 中村紀洋

2008 岸孝之

2009 阿部慎之助

2010 今江敏晃

2011 小久保裕紀

2012 内海哲也

2013 美馬学

2014 内川聖一

2015 李大浩

2016 B.レアード

2017 D.サファテ

2018 甲斐拓也

2019 Y.グラシアル

2020 栗原陵矢

2021 中村悠平

2022 杉本裕太郎

2023 近本光司

2024 桑原将志

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 稲尾和久

1957 稲尾和久

1958 稲尾和久

1959 杉浦忠

1960 秋山登

1961 堀本律雄

1962 安藤元博

1963 高橋明

1964 J.スタンカ

1965 宮田征典

1966 城之内邦雄

1967 城之内邦雄

1968 金田正一

1969 高橋一三

1970 堀内恒夫

1971 堀内恒夫

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 村田兆治

1975 山田久志

1976 足立光宏

1977 足立光宏

1978 松岡弘

1979 山根和夫

1936夏 沢村栄治

1936秋 沢村栄治

1937春 沢村栄治

1937秋 沢村栄治

1938春 V.スタルヒン

1938秋 前川八郎

1939 川上哲治

1940 V.スタルヒン

1941 須田博

1942 広瀬習一

1943 須田博

1944 藤本英雄

1946 近藤貞雄

1947 川崎徳次

1948 川崎徳次

1949 多田文久三

1950 藤本英雄

1951 別所毅彦

1952 藤本英雄

1953 別所毅彦

1954 大友工

1955 別所毅彦

1956 別所毅彦

1957 大友工

1958 藤田元司

1959 伊藤芳明

1960 伊藤芳明

1961 中村稔

1962 城之内邦雄

1963 伊藤芳明

1964 高橋明

1965 金田正一

1966 金田正一

1967 城之内邦雄

1968 金田正一

1969 金田正一

1970 高橋一三

1971 渡辺秀武

1972 堀内恒夫

1973 堀内恒夫

1974 高橋一三

1975 堀内恒夫

1976 堀内恒夫

1977 堀内恒夫

1978 堀内恒夫

1979 新浦寿夫

1980 江川卓

1981 西本聖

1982 江川卓

1983 西本聖

1984 江川卓

1985 西本聖

1986 江川卓

1987 西本聖

1988 桑田真澄

1989 桑田真澄

1990 斎藤雅樹

1991 槙原寛己

1992 槙原寛己

1993 斎藤雅樹

1994 斎藤雅樹

1995 斎藤雅樹

1996 斎藤雅樹

1997 斎藤雅樹

1998 桑田真澄

1999 B.ガルベス

2000 上原浩治

2001 上原浩治

2002 上原浩治

2003 上原浩治

2004 上原浩治

2005 上原浩治

2006 上原浩治

2007 内海哲也

2008 高橋尚成

2009 S.グライシンガー

2010 内海哲也

2011 東野峻

2012 内海哲也

2013 宮國椋丞

2014 菅野智之

2015 菅野智之

2016 菅野智之

2017 M.マイコラス

2018 菅野智之

2019 菅野智之

2020 菅野智之

2021 菅野智之

2022 菅野智之

2023 T.ビーディ

2024 戸郷翔征

1938秋 鈴木芳太郎

1939 政野岩夫

1940 清水秀雄

1941 神田武夫

1942 神田武夫

1943 清水秀雄

1944 清水秀雄

1946 松川博爾

1947 別所昭

1948 別所昭

1949 柚木進

1950 柚木進

1951 江藤正

1952 江藤正

1953 柚木進

1954 大神武俊

1955 柚木進

1956 柚木進

1957 野母得見

1958 杉浦忠

1959 杉浦忠

1960 杉浦忠

1961 J.スタンカ

1962 J.スタンカ

1963 J.スタンカ

1964 三浦清弘

1965 杉浦忠

1966 森中千香良

1967 皆川睦男

1968 皆川睦男

1969 泉嘉郎

1970 西岡三四郎

1971 西岡三四郎

1972 西岡三四郎

1973 江本孟紀

1974 江本孟紀

1975 江本孟紀

1976 山内新一

1977 山内新一

1978 山内新一

1979 藤田学

1980 山内新一

1981 山内新一

1982 山内新一

1983 山内孝徳

1984 山内和宏

1985 山内孝徳

1986 山内孝徳

1987 山内孝徳

1988 西川佳明

1989 山内孝徳

1990 藤本修二

1991 村田勝喜

1992 村田勝喜

1993 村田勝喜

1994 吉田豊彦

1995 工藤公康

1996 工藤公康

1997 武田一浩

1998 工藤公康

1999 西村龍次

2000 西村龍次

2001 西村龍次

2002 田之上慶三郎

2003 斉藤和巳

2004 斉藤和巳

2005 和田毅

2006 斉藤和巳

2007 斉藤和巳

2008 杉内俊哉

2009 和田毅

2010 杉内俊哉

2011 和田毅

2012 攝津正

2013 攝津正

2014 攝津正

2015 攝津正

2016 攝津正

2017 和田毅

2018 千賀滉大

2019 千賀滉大

2020 東浜巨

2021 石川柊太

2022 千賀滉大

2023 大関友久

2024 有原航平

1950 大島信雄

1951 藤本英雄

1952 別所毅彦

1953 大友工

1954 杉下茂

1955 別所毅彦

1956 大友工

1957 義原武敏

1958 藤田元司

1959 義原武敏

1960 鈴木隆

1961 中村稔

1962 小山正明

1963 伊藤芳明

1964 村山実

1965 金田正一

1966 城之内邦雄

1967 金田正一

1968 金田正一

1969 堀内恒夫

1970 堀内恒夫

1971 堀内恒夫

1972 堀内恒夫

1973 高橋一三

1974 松本幸行

1975 外木場義郎

1976 堀内恒夫

1977 小林繁

1978 安田猛

1979 北別府学

1980 山根和夫

1981 江川卓

1982 小松辰雄

1983 江川卓

1984 山根和夫

1985 池田親興

1986 北別府学

1987 桑田真澄

1988 小野和幸

1989 斎藤雅樹

1990 槙原寛己

1991 佐々岡真司

1992 岡林洋一

1993 荒木大輔

1994 桑田真澄

1995 T.ブロス

1996 斎藤雅樹

1997 石井一久

1998 野村弘樹

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2025/01/25 15:47更新

bessyo takehiko


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Bluem of Youth(ブルームオブユース)は、ボーカルの別所悠二とギターの松ヶ下宏之からなる日本の音楽ユニット。 1992年に上京しユニット結成。 1995年10月10日、シングル『最後の願…

別所清一(べっしょ せいいち)
1963年9月28日生まれの有名人 大阪出身

別所 清一(べっしょ せいいち、1963年9月28日 - )は、日本の元お笑い芸人。 大阪府大阪市出身。元吉本興業所属。2010年5月頃まで吉本新喜劇に出演していた。 1985年に中田カウス・ボタ…

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別所毅彦
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