上田馬之助の情報(うえだうまのすけ) 格闘家/プロレス 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
上田 馬之助さんについて調べます
■名前・氏名 |
上田馬之助と関係のある人
坂口征二: 新日本プロレス合流後6年を経て、ようやく団体内のシングル王者となり、上田馬之助、クレージー・レロイ・ブラウン、タイガー・ジェット・シン、マスクド・スーパースターらと防衛戦を行った。 ストロング金剛: 1992年3月1日、横浜アリーナにて開催された、新日本プロレス設立20周年記念大会の企画として、坂口征二とタッグを組みエキシビション・マッチに出場、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助と対戦した。 タイガー=ジェット=シン: 同年12月27日、『元気ですか!! 大晦日!! 2011』では、相棒だった上田馬之助の遺影を持ってリングに上がり、故人を称えた。 ストロング金剛: タイガー・ジェット・シン&上田馬之助とも同王座を巡り抗争を繰り広げ、新日本プロレスにおいて猪木と坂口に次ぐ主力レスラーとして人気を博した。 ミル・マスカラス: 年末の世界最強タッグ決定リーグ戦には1979年と1983年に出場しており、1979年大会ではザ・ファンクスやアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク、1983年大会ではスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディやタイガー・ジェット・シン&上田馬之助などのチームと対戦した。 豊登道春: 時代劇の登場人物や侠客・剣客をイメージしたもの(例・田中忠治、上田馬之助、松岡巌鉄、小鹿雷三〈後のグレート小鹿〉、山本小鉄、星野勘太郎など) タイガー=ジェット=シン: メインを張っていた全盛期は、「会場にいる者全てが俺の敵だ、だから俺は観客でもカメラマンでも殴る」と、自身のヒール哲学を徹底的に貫いていたシンだが、体力的な衰えとかつての盟友だった上田馬之助の交通事故が転機となり、ファンに愛されるヒールに転向。 タイガー=ジェット=シン: 猪木との抗争と並行して、タッグ戦線では1977年1月より上田馬之助との極悪コンビを結成、坂口征二&ストロング小林のパワー・ファイターズを相手に北米タッグ王座を巡る抗争を展開した。 平田淳嗣: 更に全日プロから移籍してきた上田馬之助が参戦しヒロ斎藤と金狼コンビを結成し強大化すると思われたが、のちにマシーン軍団と仲間割れ、上田、斎藤は軍団から離脱しマシーン軍団と血で血を洗う抗争をする。 ニック=ボックウィンクル: 来日中は上田馬之助やルー・テーズとのタッグも実現した。 安生洋二: 主に竹刀を持って登場し、相手に対して攻撃する姿は上田馬之助に酷似している。 フリッツ=フォン=エリック: 日本プロレスの最後のシリーズに参戦した1973年4月の来日時には、エリックのナチ・ギミックを継承していた「青銅の爪」キラー・カール・クラップをパートナーに、4月18日に焼津で大木金太郎&上田馬之助からインターナショナル・タッグ王座を奪取している(帰国後に王座を返上し、後任にカール・フォン・スタイガーがクラップのパートナーとなって戴冠)。 矢野通: ヒール転向後は、往年の悪役レスラー上田馬之助を彷彿させるような金髪に法被姿のラフ殺法を織り交ぜた悪党ファイトを主体に相手を小バカにする挙動が目立ち、華々しい実績を有すアマチュアレスリングのテクニックを見せることは極僅かであった。 キラー・カーン: 後半戦に特別参加するタイガー・ジェット・シン&上田馬之助との共闘も噂されたが、最終的には日本陣営に収まった。 大木金太郎: 1979年10月5日に後楽園ホールで行われた国際プロレスの3大タイトルマッチへも特別参戦し(当日は国際プロレスのシリーズに参戦していたジョー・ルダックが全日本プロレスに大木の代役で出場)、上田馬之助とのコンビでマイティ井上&アニマル浜口が保持するIWA世界タッグ王座に挑戦したものの、試合中に上田と仲間割れを起こし敗退。 維新力: NOWでは上田馬之助との抗争から「AGAマッチ」(通称:「出刃包丁マッチ」)を展開するなど、団体の中心選手として活動したが、NOWの活動停止を経て、天龍が設立したWARへ移籍。 丹古母鬼馬二: 痛快なりゆき番組 風雲!たけし城(1986年 - 1989年) - ※第5回からストロング金剛の相棒として、上田馬之助に代わり悪魔の館に登場。 アニマル浜口: このコンビではサモアンズ、上田馬之助&マサ斎藤、大木金太郎&上田、ジョー&キラー・ブルックス、ジョー&キラー・カール・クラップ、マイク・ジョージ&ボブ・スウィータンら強豪チームを退けて王座を防衛している。 ブルーザー=ブロディ: このシリーズ中には、宮城県スポーツセンターでのザ・ファンクス対上田馬之助&バック・ロブレイ戦の試合直後に乱入し、父親の援護にとリングに上がったドリーの息子に攻撃を加え、素人である彼にキングコング・ニー・ドロップを放つなど、凶暴なキャラクターを印象付けるためのアングルも展開された。 剛竜馬: 11月にはマツダ率いる『狼軍団』の一員としてプレ日本選手権にも出場し、杉山・上田馬之助・マサ斎藤と共闘。 鶴見五郎: 当初は外国人サイドにつき、タイガー・ジェット・シンや上田馬之助との共闘や全日本に入団したマイティ井上や阿修羅・原との抗争を行う。 ヒロ斉藤: 翌年1985年元旦より上田馬之助が加入、金狼コンビを結成するが、ワカマツらマシン軍団と仲間割れ。 矢口壹琅: まったくサンボ技を使わずに巨体を生かした大技や、凶器攻撃・反則攻撃ばかりのファイトスタイルに変わったのは本人のアメリカンプロレス志向と、上田馬之助の影響があったという。 高野佐三郎: 佐三郎は幕末の生き残りである上田馬之助、逸見宗助、梶川義正らの指導を受けた。 ジャンボ鶴田: この当時の鶴田について上田馬之助は「ジャンボはなぁ…。 大木金太郎: インターナショナル・タッグ王座:4回(w / 坂口征二、上田馬之助、キム・ドク×2) 徳光和夫: 上田馬之助とは上田の若手時代から親しかったこともあって、上田のことを「馬さん」とその生前には呼んでいた。 ジョニー=バレンタイン: キラー・カール・クラップをパートナーに、2月23日に大阪にて大木金太郎&坂口征二からインターナショナル・タッグ王座を、3月2日には横浜にてUNヘビー級王座を坂口から奪取し2冠を獲得したが、タッグ王座は3月6日に愛知県体育館にて大木&上田馬之助に、UN王座は3月8日に佐野にて高千穂明久にそれぞれ奪還された。 サンダー杉山: 1976年には上田馬之助と共闘し、同年7月7日に上田と組んで草津&マイティ井上が保持するIWA世界タッグ王座に挑戦したが敗退。 アントニオ猪木: 2月8日、上田馬之助と釘板デスマッチで対戦、KO勝ち。 |
上田馬之助の情報まとめ
上田 馬之助(うえだ うまのすけ)さんの誕生日は1940年6月20日です。愛知出身の格闘家
プロレスのようです。
1890年に亡くなられているようです。
上田馬之助のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)上田 馬之助(うえだ うまのすけ、1831年(天保2年)- 1890年(明治23年)4月1日)は、日本の武士(肥後新田藩藩士)、剣術家(鏡新明智流)、警察官。諱は美忠(よしただ)。 遠江国浜松藩出身の新選組隊士、上田馬之助は同姓同名の別人である。上田馬之丞、上原馬之介、植原右馬之助等も新選組の上田馬之助の別名である。 肥後熊本新田藩細川氏の家中に生まれる。藩主が江戸定府であったことから江戸を出生地としている。 鏡心明智流士学館(4代目桃井春蔵)に入門し、頭角を現す。坂部大作、久保田晋蔵、兼松直廉とともに桃井の四天王と謳われ、士学館の筆頭的存在になった。 1855年(安政2年)5月24日、桃井に随行して、久留米藩士松崎浪四郎と築地の岡藩江戸藩邸で試合した。師の桃井は松崎に敗れ、上田は引き分けた。このとき松崎は「馬之助儀殊之外力量御座候」と書き記している。 薩摩へ廻国修業中、日向で天自然流の吉田某と立ち合うことになったが、吉田の流儀は面・籠手だけで胴をつけていなかった。胴の着用について押し問答が続いたが、上田が木に巻きつけた竹胴を竹刀で折ってみせ、さらに四分板を突き割ると、吉田はしおしおと胴をつけた。 1867年(慶応3年)、新両替町(銀座)の料亭に鳥取藩士武信久次郎を伴い入ったところ、先客の天童藩槍術師範中川俊造(中島一郎)、同剣術師範伊藤慎蔵と喧嘩になり、2人を斬った。2人ともほぼ即死であった。付近で夕餉の買物をしていた同門の秋山多吉郎と高山峰三郎が桃井に報告すると、桃井は「またやったか」と言ったことから、上田の刃傷沙汰はこれ以前にもあったと考えられている。上田と武信は形式的に入獄しただけで済んだが、武信はその後、帰藩の道中で天童藩士たちに討たれた。 1867年(慶応3年)12月、稽古納めを終えた上田ら士学館一行が市谷田町を歩いていると、巡回中の新徴組と出くわした。隊士たちが「道の片側に寄れ、もっと寄れ」と凄んだため、上田が怒ると、隊士たちが抜刀し、あわや斬り合いになりかけた。桃井が身分を明かし、ここにいるのは士学館の弟子であると言うと、新徴組が謝罪して喧嘩は収まった。 廃藩置県後は東京府日本橋蛎殻町でアルコール製造にたずさわっていたが、1879年(明治12年)、警視庁に撃剣世話掛が創設されるや梶川義正、逸見宗助と共に最初に登用された。仇持ちの身は常に剣を持っていなければならないと考え警察官になったという(当時の警察官は帯刀が許されていた)。逸見宗助らと共に警視庁武術を取り仕切り、警視流撃剣形・居合形を制定した。 1883年(明治16年)9月29日、警視庁在職のまま宮内省済寧館御用掛に採用された。同年11月4日、向ヶ岡弥生社撃剣大会で逸見宗助に勝った。 1887年(明治20年)11月11日、伏見宮邸で催された天覧兜割り試合に、上田、逸見、榊原鍵吉の3人が選ばれて出場した。上田と逸見は失敗したが、榊原は名刀同田貫を用いて成功した。 1890年(明治23年)4月1日、腸チフスにより死去した。 上田の強さについて三橋鑑一郎(警視庁の後輩で、大日本武徳会範士)は、「上田馬之助先生の稽古は、ウマイの何のと言って、それはとても口では言えぬ。私などボロクソに言われたものだが、どうしても敵わないのだから仕方が無い」と語った。 司馬遼太郎『斬ってはみたが』 ^ 1834年(天保5年)ともいわれる。 ^ 『明治剣客伝 日本剣豪譚』27頁。 『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年。 戸部新十郎『明治剣客伝 日本剣豪譚』〈光文社文庫〉光文社、1996年。 『警視庁武道九十年史』警視庁警務部教養課、1965年。 上田馬之助 (プロレスラー) - リングネームはこの人物に因む。 江戸時代の剣客 男性剣道家 鏡新明智流剣術 警視庁剣道の人物 宮内省剣道の人物 日本の警察官 幕末熊本藩の人物 武蔵国の人物 腸チフスで死亡した日本の人物 1831年生 1890年没
2024/11/13 15:09更新
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ueda umanosuke
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