小林よしのりの情報(こばやしよしのり) 漫画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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小林 よしのりさんについて調べます
■名前・氏名 |
小林よしのりと関係のある人
藤尾正行: 中曽根が藤尾を罷免したことについて、小林よしのりは『戦争論2』のなかで「中曽根は韓国のご機嫌を取るために藤尾氏を罷免」したと述べている。 角南攻: 小林よしのり『東大快進撃』の角南塾頭 - 同作は『東大一直線』が『少年ジャンプ』で打ち切られた後に『ヤングジャンプ』に掲載された。 鈴木邦男: オウム、村井氏は非常にかわいそうだ」「組織な背景はないと思う」 と持論を展開したが、徐が羽根組若頭の指示で刺殺したと供述し、小林よしのりから批判されている。 濤川栄太: 1999年7月27日の理事会で藤岡との間で互いに面罵する事態となり、小林よしのりから双方が副会長を降りるよう提案があったが拒否し、退会した。 芳賀徹: 1996年12月2日、藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりらは「新しい歴史教科書をつくる会」(略称:つくる会)の結成記者会見を開催。 新田均: 2010年4月、皇位継承問題をめぐって、女系容認論者の小林よしのりと論争を展開。 はすみとしこ: その点は、小林よしのりとは違うと、ラジオ番組は伝えた。 平岡正明: その断筆祭を批判した小林よしのりに対して、著書『筒井康隆断筆をめぐるケンカ論集』の収録の、『「ゴーマニズム」の薄甘い正義』で反論した。 鈴木邦男: 2017年、立憲民主党の応援演説に、鈴木や小林よしのりが登場したことが話題となる。 新田均: 2011年1月、小林よしのりとの論争をまとめた「墜ちたゴーマニズムー小林よしのり氏の皇統論を糺す」を『別冊正論』Extra.14に発表。 北村浩一: 小林よしのり 呉智英: 漫画家、小林よしのりの漫画『ゴーマニズム宣言』のブレーン的立場にあり、また作中にたびたび登場し、そのユーモラスな人柄と共に知名度が上がった。 藤尾正行: 小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論2』幻冬舎、2001年10月1日。 宅八郎: 7月5日号『週刊SPA!』掲載の「週刊宅八郎」で「小林よしのりへの決闘状」発表。 山本夏彦: 呼びかけ人は藤岡、西尾、山本および、小林よしのり、坂本多加雄、高橋史朗、深田祐介、阿川佐和子、林真理子の計9人であった。 宅八郎: 1995年に地下鉄サリン事件が起こるとオウム真理教の扱いを巡って性急な犯人視報道を批判したため、同じ『SPA!』の連載陣であった小林よしのりと対立する。 石堂淑朗: 1996年12月2日、藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりらは「新しい歴史教科書をつくる会」(略称:つくる会)の結成記者会見を開催。 浅羽通明: 小林よしのり 共著『知のハルマゲドン』幻冬舎〈幻冬舎文庫〉、1998年2月。 永江朗: 石原慎太郎、小林よしのりら保守系の文化人や、保守派の政治家を嫌い、痛烈に罵倒しているが、福田和也に対する正面からの批判は避けている。 田母神俊雄: これらの発言から、原発に批判的な考えを持つ小林よしのりとは対立するに至っている。 東浩紀: 3月25日、小林よしのり、宮台真司をゲストに迎えてゲンロンカフェにて「日本を変えるにはテロしかないのか?」と題したトークイベントを行った。10月、小林よしのり、宮台真司との鼎談をまとめた『戦争する国の道徳 安保・沖縄・福島』を幻冬舎より刊行。 切通理作: 映画『ゲイのおもちゃ箱』(山本竜二監督)、『アクアリウム』(須藤真澄原作)、アニメ『おぼっちゃまくん』(小林よしのり原作)、テレビドラマ『月のベンチで、待っているから』(石坂啓原作)などでシナリオを執筆している。 副島隆彦: 雑誌の対談等で漫画家小林よしのりに対し自身の学問上の師である小室直樹、岡田英弘に次ぐ師であると絶賛し告白する。 日下公人: 1996年12月2日、藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりらは「新しい歴史教科書をつくる会」の結成記者会見を開催。 保阪正康: 小林よしのりは「戦争の原因を自国の中でのみ探り、外国の視点がまったく抜け落ちているため、狭い蛸壺に入ってしまったような歴史観になっている」として、保阪の歴史観を「蛸壺史観」と評している。 宅八郎: 月刊『宝島30』1995年9月号掲載、切通理作の「小林よしのり言いたい放題インタビュー」について、宅は切通に対し「地の部分で小林に追従し、宅の思考や『週刊SPA!』の編集方針さえ全部決めつけた内容だった」として処刑宣告。 坂本多加雄: 声明文には藤岡、西尾、小林よしのり、坂本、高橋史朗、深田祐介、山本夏彦、阿川佐和子、林真理子の計9人が呼びかけ人として名を連ねた。 金城哲夫: テレビドラマでの最後の脚本作品となった『帰ってきたウルトラマン』第11話「毒ガス怪獣出現」について漫画家・小林よしのりは自身の漫画『沖縄論』の中で、「本エピソードは、明らかに他の『帰マン』の話に比べて浮いていた。 小熊英二: 2002年の『〈民主〉と〈愛国〉』の出版動機として、小林よしのり『戦争論』や新しい歴史教科書をつくる会をめぐる論争の中で、小林や「つくる会」もその批判者も戦後史に対する無知が目立っていたことを見て、戦後に対する認識をきちんとしておかなければいけないと思ったことを挙げている。 渡辺美智雄: 雑誌「SPA!」誌上で漫画家小林よしのりとの対談に応じ、小林の漫画「ゴーマニズム宣言」にも登場している。 |
小林よしのりの情報まとめ
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小林 よしのり(こばやし よしのり)さんの誕生日は1953年8月31日です。福岡出身の漫画家のようです。
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略歴、人物などについてまとめました。卒業、テレビ、父親、母親、家族、病気、映画、趣味、現在に関する情報もありますね。去年の情報もありました。小林よしのりの現在の年齢は70歳のようです。
小林よしのりのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小林 よしのり(こばやし よしのり、本名:小林 善範(読み同じ)中国語: 小林善紀、1953年〈昭和28年〉8月31日 - )は、日本の漫画家・評論家。「よしりん企画」社長、「ゴー宣道場」主宰者、「大東亜青年塾」名誉塾長。血液型O型。 福岡県筑紫郡大野町(現・大野城市)生まれ、福岡県福岡市出身。福岡大学人文学部フランス語学科卒業。1976年に『ああ勉強一直線』を投稿しデビュー。『東大一直線』『おぼっちゃまくん』などのヒット作を持つ。令和初期に『おぼっちゃまくん』が人気アニメとしてテレビ放送されているインドでも知名度が高い。1992年の『ゴーマニズム宣言』以降、ギャグ路線だけでなく政治思想路線や時事ネタなどの社会評論的な活動も行うようになり、また2002年から季刊誌『わしズム』責任編集長なども務める。設定の矛盾をものともしない展開と飛びぬけた発想を身上としている。これは「細かい設定にこだわっていると、結果として内容がつまらなくなる」との作者の考えのためであり、より良い設定を思いつけば、あえて過去の設定は切り捨てるという。 略歴出生 (小林家)1953年(昭和28年)に母方の寺院で二人兄妹の長男として生まれる。男系家系の小林家の父親は1927年(昭和2年)生まれ。祖先は土佐勤王党を弾圧した土佐藩士の小林伝七から続き、父は元日本兵で、昭和20年に赤紙によって徴兵されて沖縄県(沖縄戦)に行く予定であったが間に合わず、宮崎県で本土決戦に備えていた。小林の父は昭和20年代に復員した後に公務員(郵便局職員)として就職した。労働組合に加入して戦後期にマルクス主義者になっていた。戦後において父は昭和天皇のものまねを皇室冗談として好んでしていた。戦後の郵便局人間であり真面目な貯金主義の人物であった。 「母親は終戦当時12歳であった」との内容を本で記載していることから、母親は1932年(昭和7年)の8月16日 - 1933年(昭和8年)8月15日の間に生まれた昭和一桁世代の女性と推測される、真言宗(密教思想)寺院の娘。母方の曾祖父は明治時代の日清戦争及び日露戦争に従軍した近衛兵だった。理想主義の共産主義を支持する父親と現実主義の仏教を支持する母親の思想対立があった。1950年代以降に生まれたしらけ世代の人物であるが、同じ世代の人物と違う特異な人物と自覚している。1990年代の平成初期に日本の差別問題を描いた本の『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』の題材となった被差別部落民への部落差別問題を福岡の地域社会の中で見て育った。昭和戦後期に周囲で発言していた大人(左翼による戦前の大日本帝国の先祖や国防や愛国心への批判)や文化人を見て育った小林は、その周囲の異常な感覚に日ごろから違和感を持った。30歳頃には戦後の日本社会に違和感を持つ若手の漫画家となっていた。小林は戦後思想に真っ向から逆らう思想家として、団塊の世代とは異なる思想を持っている。『逆噴射家族』のアイドル歌手と女子プロレスラー両方志望の少女は、自身の妹がモデルである。 漫画の内容で「自分が30代になって愛する者が手術室に入っていった」「妻が婦人科系の病気で子供を出産できない身体になった」と語っており、小林には子供が一人もいない。また、小林の妻は小林と他の女性との交遊には寛容である。ただし、子供がいない要因としては、妻の不妊症以外に金銭の都合上もある。 幼少時代幼少の頃から喘息を患い、ひどい時は気管が細くなり、腕立て伏せのポーズでないと息ができなかった。ガリガリにやせており、あだなは「もやし」「ガイコツ」「黄金バット」。両親は「あんたは大人になるまでに死ぬんだからね。保険金もかけてあるんだから」と言い、小林専用の離れ部屋を作るなど、突き放した態度を取っていた。自立心を養うためであったというが口実であり、当時はたびたび父親が近所の住民と麻雀をしており、その騒音に小林が激昂したために離れ部屋ができたとのことであった。 夏休みなど長期の休みには、地方で密教寺院の住職を務める祖父篠原龍照の寺に預けられた。祖父は僧侶ながら女性関係もあったなど、型破りな立ち振る舞いはあったものの、大東亜戦争中ニューギニア島へ派遣された際に、俳優の加東大介と共に現地で将兵向けの慰問芝居を行い、これが後年『南の島に雪が降る』として映画化されたことを誇りに思っており、小林もその自慢話をよく聞かされた。この寺で体験したことはその後『ゴー宣』を中心とする各所に影響を与えており、小林は自らのことを「不動明王の生まれ変わり」と称している(ただし、実際に文字通りに信じているのでなく、自身の精神力に関する比喩である)。 子供の頃は親の方針であまり物を買ってもらえず、その経験が物欲に対する執着心を弱めるに至ったと語る。長年にわたって自家用車を持たなかったのもその影響による。 小学校半ばの頃は、まだ体も弱かったがクラスメイトから親しまれ、級長を務めていた。しかし、担任の男性教師が当時は多く見かけられたスパルタ教師で(戦後軍人帰りの中年が、教職に多数復帰したのも理由)男女問わず殴っていた。小林はこの担任から、ホームルームなどの学級行事進行を手厳しく叩き込まれた。 精神薄弱気味でブタ鼻のクラスメートがおり、遠足の弁当の時間、同席させてもらえる仲間がいない時は、彼と笑い合って一緒にいた。 テレビ番組が子供文化にも入り込むと「忍者部隊月光」「宇宙大作戦」などを視聴した。子供の頃の憧れの人物は「宇宙家族ロビンソン」のドクター・スミスだと語っている。 小学6年生だった1964年にベトナム戦争が勃発し、小林は父の影響でしんぶん赤旗の記事をスクラップブックにして夏休みの宿題として提出。この戦争はアメリカ合衆国による侵略戦争であるとして批判していた。なお、この宿題は学校の自由研究のコンクールで佳作となり展示された。なお、しんぶん赤旗の記事を使用した事に関しては反共主義者であった母に叱られたという。 中学生の時に、クラスメートと3人で、手作りのマンガ雑誌「きまぐれ」を制作。 高校時代 - デビュー前漫画家になるため受験勉強をしないで済む学校が最適であると判断して、福岡市立福岡商業高等学校(現福岡市立福翔高等学校)に在籍した。珠算、簿記、税務会計の授業がある地元の実業家の子弟が通う高校であった。併願で進学校にも合格したが、あえて商業高校へ入学した理由は「家から近い」「暇なので漫画が描ける」「学校の3分の2が女」「勉強する奴がいないから、少し勉強すれば優等生」であったという。商業関係の資格取得が卒業条件であったため、日商簿記検定2級および珠算3級の資格を1年次に取得して、後の高校生活はほぼギターを弾いて遊んで過ごしたとのこと。中学時代は坊主だった髪を伸ばすなど、しばしば生活指導の先生に叱られていた。同級生に甲斐よしひろがいた。 高校卒業後の希望は、上京して石ノ森章太郎の弟子になり漫画家修行をするつもりでいた。しかし、担任教師に「大学へ行って本を読め」と勧められ、福岡大学人文学部フランス語学科に入学。このときに受験勉強の準備に取り掛かったことが後に『東大一直線』を描くきっかけになったと述べている。フランス語の上級会話能力者でフランス語を専攻した動機は、大学へ進学するにしても自分には合わない商学部には進学したくなかったことや、当時はミッシェル・ポルナレフなどのフレンチ・ポップスが流行っていたことから、「フランス語でミッシェル・ポルナレフが歌えたらカッコいいし、女にモテるだろう」というものであった。フランス語学習の影響で、『いろはにほう作』の「ふまんたれぶー」や『茶魔』のカメ達の名前など、フランス語由来の名称・語句が多数使われている。また、フランスに旅行した際に、日本語しか話せない日本人観光客を無視し続ける現地の女性店員に、フランス語で話しかけたところ、非常に怪訝な目で見られたことがあるという。 大学時代、左翼活動に若干ながら関わったことがあった。しかし、日々の左翼活動の中で、勧誘活動で人々の反応がいまひとつであったり、宗教活動の勧誘のほうが信者をより多く集めているなど、当時の左翼活動が人々の支持を失っているという現実を目の当たりにし、違和感を募らせた結果「自分とは違う世界だ」と気づき、左翼活動の仲間と袂を分かち、独自の世界を作るべく、その後は「今これをやっておかなきゃ後悔する気がする」と、貧血になるほどに読書にのめり込んだり、アルバイトにも精を出した。 アルバイト先の喫茶店の常連客で、相撲の話が好きなヤクザの幹部と話を合わせねばならず、相撲のうんちくを本で必死に勉強したこともあった。建設業のバイト先の先輩と車に同乗した際に、併走している車に対し「おい!学生!文句言え!」などと理不尽な命令をされたり、探し物が見つからなかったことを弁解したら、「どこかにあるから探して来い!」などと怒鳴られたり理不尽な扱いを受けつつも、虚弱体質ゆえに肉体労働に向かず解雇寸前になった時、アルバイト先の先輩達が「いい奴だから雇い続けてくれ。その分は俺たちがカバーする」と雇い主に訴えたなどの逸話があり、その出来事の中で、仲間の優しさに触れたと同時に、自分の小ささを自覚せざるを得なかったと述懐している。 『戦争論2』では女性にもてる大学時代の親友が、小林が漫画家となりヒットした頃に、小林と深夜の時間に長電話して「また会おう」と言って切った後に、自殺したと語っている。 東大一直線とその後の苦闘当時は福岡で執筆活動を行っていたが、1982年に上京、信濃町に住む。どうせなら東京の真ん中に住もうと思ったが、どこが真ん中なのかわからず、ここがそうだろうと東宮御所のすぐそばに居を構えたものの、生活に不便が生じたため、その後すぐ引っ越したという逸話がある。『東大快進撃』終了後、『週刊ヤングジャンプ』当時副編集長の角南攻から、どんな作品を描いても大丈夫と太鼓判を押された小林は、ラブコメなどの軟弱化した若者に喝を与える「(誅)天罰研究会」を連載開始。これが連載第1回から、人気投票でグラビアページ以下の最下位を記録し、打ち切りとなる。その後、集英社との専属契約を終了。当時の作品は、『風雲わなげ野郎』『メンぱっちん』など。 この頃に、手塚治虫の手法として有名なスター・システムを、小林も一時的に使っており、その一例として『東大一直線』のチョンマゲ先生や『(誅)天罰研究会』の首長の竜などが挙げられる。小林が最も手を加えてやりたいと思っていたのは『東大一直線』の名脇役、多分田吾作で、『メンぱっちん』の敵役の他、主役とした読切「多分・ザ・ジゴロ」などを発表した。 後に多分を発展させたキャラクターで『ヤングジャンプ』に読切「布抜呆作伝」を掲載。さらに『週刊少年チャンピオン』にて『いろはにほう作』として連載を行い、単行本にして全9巻と『東大一直線』に次ぐ記録となる。 おぼっちゃまくんで大ブレイク『ほう作』終了と入れ替わりに1986年 『月刊コロコロコミック』で連載された「おぼっちゃまくん」が大ヒットとなり、これによって小林自身も大ブレイクする。「おぼっちゃまくん」は1989年からはテレビ朝日系でアニメ化され、人気番組になった。『コロコロ』編集部は『おぼっちゃまくん』以外の小林の漫画も求め、「いなか王兆作」の同時連載(『おぼっちゃまくん』後に連載を開始するも先に終了)、『救世主ラッキョウ』のリメイク、前述の『ほう作』の『コロコロ』における再録などが行われた。なお、小林は『救世主ラッキョウ』のリメイクについては「ちょっと"ヒネリ"が入りすぎてて、いまひとつ小さな子供にはピンとこなかったみたいやね」と『ゴーマンガ大事典』で語っている。 『おぼっちゃまくん』は1989年に第34回小学館漫画賞を受賞。授賞式での審査員に、陰湿で皮肉めいた批判発言をされたことに対して激怒した小林は「こんな下品な漫画に賞をくれた審査員の度胸に感謝します」と、痛烈な皮肉を込めたコメントで反撃し、翌年以降の審査員が刷新される事態にまで発展。この顛末は当時『宝島』に連載していた「おこっちゃまくん」で描かれた。この一件が後に自身の漫画作品の作風を180度転換させる主因となった。 その頃より、時事論評を展開しつつ、漫画による時事論評という新しい手法が注目された。 ゴーマニズム宣言で作風を180度転換1992年にこれまでの小林の作品スタイルを180度転換して書き上げた自身第3のヒット作「ゴーマニズム宣言」を『SPA!』誌上で連載。そこから続く思想関連書で『わしズム』を創刊。 2006年、ストーリーギャグ漫画として「遅咲きじじい」を『ビッグコミック』にて連載開始する。これは小林の眼病罹患以降の心境の変化が大きいとされる。 2009年5月CRぱちんこおぼっちゃまくんを京楽産業から発売。 2018年から2020年には『小説幻冬』にて『新・おぼっちゃまくん』を連載。登場人物の年齢はそのままに舞台を(連載当時の)現代に置き換えている。 人物愛称・通称かつて「小林先生」「よしのり」だったが、『おぼっちゃまくん』半ばから「よしりん」が登場した。 一人称は「わし(儂)」。 「ゴー宣」読者の間、主に「ゴー宣道場」参加者の間で、Twitter及び小林よしのりライジングコメント欄上で「小林よしのりさんを何と呼ぶか」の投票が行われた。投票者56人のうち32人が「よしりん先生」と回答。 漫画
漫画そのものに対する侮辱、漫画家であることをもって批判することに対しては、激しく怒る。先述の授賞式での一件や後述する西部邁との一件もそこから勃発した。当初は『ゴー宣』の作中で「権威主義に負けるな」と漫画を低く見ることを批判していたが、その後に西部の発言に一定の理解を示し、漫画はあくまでもサブカルチャーと考え、サブカルチャーに過ぎない漫画が日本で各世代から幅広く支持され、また日本の文化の担い手的立場を求められていることを批判し、その原因がメインカルチャーである文学などが堕落していることにあるとして、「自分のような漫画家に、知識人が負けてはならないのだ」と主張している。 これを『新ゴー宣』1巻で主張するに先立ち、1995年7月放送の討論番組「朝まで生テレビ!」にて、小林は西部と同席し、西部の主張に同意する形で、「朝生で、西部さんが電車の中で漫画を読んではいけないと言ったが、昔なら凄く怒っていたが、今は駄目だと思うようになった」と主張した。番組では宮台真司や大島渚らから反論を受け、大島からは「メイン、サブと、カルチャーの高さを分ける事に意味はないよ」という趣旨の批判を受け、観覧からも、西部を批判していた頃の『ゴーマニズム宣言』を礼賛しながら、同様の意味の批判を受けた。 趣味・好きなもの
『中洲界隈天罰研究会』(1981年)…自主映画化。 『逆噴射家族』(1984年)…没になった漫画のアイデアが脚本になった。 生活・健康
ペン等細長い物を持つ場合、通常は人差し指と中指の間で挟むが、小林は人差し指と親指の間で挟む。このため人差し指と親指の間にペンだこが6つもあり「日本一多くのペンだこを持つ漫画家」と自称する。風変わりなペンだこは、自らをモデルにした漫画家・小林やしゃのりが主人公の『夜叉』にも登場したことがある。 生活サイクルは「2日間起きて6時間寝る」と『おぼっちゃまくん』時代のアシスタントが語り、本人も長らく夜型生活であると語っていたが、視力回復手術を行った後は朝型生活に変わったと語る。 歴代秘書曰く、「潔癖症レベルの清潔好き」。自宅以外のトイレには行きたくないがために、外での水分摂取を極度に避けていた時期もあった(現在は医師に水分の不足を指摘され、積極的に摂っている)。また、バスタオルが敷かれた椅子(通称「タオルイス」)を愛用している。 2005年秋に白内障のため視力が著しく悪化した事により手術を行い、『新ゴー宣』を休載する。旧『ゴー宣』時代、『噂の真相』の記事が引き金となって、当時の秘書である末永直海が退職したショックで原稿を落として以来の休載となった。視力は回復したものの、「眼圧が強すぎる」との理由で翌週も休載。 討論番組
日本国憲法第9条護憲に関して「本当に、日米安保も自衛隊もなくして、丸裸の状態になり、それでもやっていく覚悟があるのか。あるのならわしはそれに賛同しますよ?」「命が大事なら、ガンジー主義はできませんよ?」と発言し、その覚悟がないなら改憲すべきと主張した。 2024/06/22 18:12更新
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kobayashi yoshinori
小林よしのりと同じ誕生日8月31日生まれ、同じ福岡出身の人
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小林よしのりと近い名前の人
話題のアホネイター
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最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
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