田中友幸の情報(たなかともゆき) 映画プロデューサー 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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宝田明: 同作品の撮影現場では、第1作からプロデューサーを務めてきた田中友幸が病身をおして宝田を訪ねており、対面した際に田中は涙していたという。 永原秀一: 東宝プロデューサーの田中友幸は、永原の脚本であればもう少し成功していたかもしれないと述べている。 丘美丈二郎: SF小説の愛読者でもあった東宝のプロデューサー田中友幸の依頼により東宝特撮映画の原作を手掛けた。 志村喬: 田中友幸とは、関西大学の後輩であり、演劇活動時代から旧知の仲でもあった。 ティム=バートン: この時に「ゴジラの生みの親」田中友幸、特技監督の川北紘一と会見している。 門脇三郎: 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。 川島一平: 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。 田中文雄: 1975年に田中友幸が社長にスライド就任した東宝映画に移籍、1976年には短編ミステリ「さすらい」(滝原満名義)が第1回幻影城新人賞の佳作となった。 川北紘一: これについて大森は、製作の田中友幸が現場に出なくなったことで川北を抑えられる人物がいなくなったといい、東宝側も特撮が多い方が面白いという考えであったと述べている。 井上泰幸: 東宝プロデューサーの田中友幸は、折衷案として4メートルとする案を提示し、井上はこれを受け入れなかったものの田中への敬意として7メートル20センチメートルで制作した。 福田純: 『電送人間』で特撮作品の監督に起用されたのは、それまで東宝特撮のほとんどを手掛けてきた本多猪四郎一人ではスケジュールなどの問題が生じやすいためであったといい、プロデューサーの田中友幸からは本多以外のSF路線を育成したいとして白羽の矢を立てられたという。 馬渕薫: 東宝特撮路線を支えたプロデューサーの田中友幸や常連出演者の志村喬とは関西大学からの演劇仲間だが、上京しての映画界入り後も関西演劇界とはつながりがあり、演劇青年時代の筒井康隆とも親交があり、香村菊雄に紹介している。 米山善吉: 「インタビュー 小高恵美」『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [スペースゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1994年12月10日、49頁。 藤本真澄: 東宝には藤本派と田中友幸派の二大派閥があって、非常に仲の悪い時期があった。 伊福部昭: 東宝プロデューサーの田中友幸から依頼を受け、『山小屋の三悪人』(公開題名は『銀嶺の果て』)で初めて映画音楽を担当。 佐原健二: 2006年の『ウルトラマンメビウス』では『ウルトラセブン』に登場した「タケナカ参謀」の後の姿である「タケナカ最高総議長」、2004年の『ゴジラ FINAL WARS』ではゴジラの生みの親であり、東宝の名プロデューサーであった田中友幸のペンネーム「神宮寺八郎」の役名がついた博士として出演した。 トニー・セテラ: 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。 佐伯秀男: 『黒帯三国志』(『黒帶三国志』) : 製作田中友幸、監督谷口千吉、原作下村明、脚本松浦健郎・山崎巌・谷口千吉、主演三船敏郎、製作・配給東宝、1956年1月29日公開 - 出演・「伊庭八郎」役 山本亘: 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。 香山滋: 1954年には、香山のファンであった東宝プロデューサーの田中友幸に、『G作品』(ゴジラ)のストーリー作りを任され、原案を提供。 高井英幸: 田中文雄『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年。 土屋嘉男: 同会には、田中友幸や森岩雄、本多、円谷といった面々を、土屋が会費を払って無断で入会させていた。 大森一樹: 当時は村上龍の『テニスボーイの憂鬱』を映画化しようとしていたが、プロデューサー補の富山省吾から突然連絡があり、田中友幸からストーリー募集の最終候補を読ませられ、細胞の話が面白いと言ったことで、『vsビオランテ』の脚本を直々に打診され、監督も担当することとなったが、ゴジラの依頼がなぜ自分にあったのか、自身もよくわからないという。 永山一夫: 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。 薩摩剣八郎: 薩摩は『ゴジラ』での演技に悔いが残っていたため、薩摩流のゴジラを作り出そうと改めて研究したといい、撮影で東宝映画会長の田中友幸から評価されたことにより、自信を得られたと語っている。 土屋嘉男: 土屋は「すぐ捨てるんだろう」と本気にしていなかったが、数年後、田中友幸が訪米した際にアダムスの自宅を訪ねたところ、本当に自宅に飾ってあったという。 門脇三郎: 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [メカゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1993年12月10日。 藤本真澄: 同じ東宝プロデューサーの田中友幸がアクション映画、東宝特撮、時代劇などを得意としたのに対して、藤本は『社長シリーズ』などのサラリーマン喜劇、『若大将シリーズ』『お姐ちゃんシリーズ』などの青春もの、セクシー・コメディ、成瀬巳喜男監督作品などの文芸作品を主として製作し、共にドル箱路線を確立したふたりは東宝映画の両輪として会社を支えた。 本多猪四郎: しかしながら、プロデューサーの田中友幸からの評価は低く、1962年の『妖星ゴラス』の際に、「あなたの演出はおとなしすぎるという意見が多く、この作品の監督を任せるについても強い抵抗があった。 石上三登志: 『キネマ旬報』に東宝のプロデューサー田中友幸論を執筆したことから、田中友幸との関係ができ、1978年に設置されたゴジラ復活会議に参加。 |
田中友幸の情報まとめ
田中 友幸(たなか ともゆき)さんの誕生日は1910年4月26日です。大阪出身の映画プロデューサーのようです。
映画、テレビ、趣味、父親、母親、卒業、退社、引退、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1997年に亡くなられているようです。
田中友幸のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)映画『惑星大戦争』では、神宮寺八郎のペンネームで原作を担当した。大阪府下堅下(現・柏原市)出身。趣味は旅行。通り名として、「友幸」を「ゆうこう」と読むことが多い。
田中コウ(母親) 田中友信(弟・軍人、1992年に78歳で他界) 田中由起子(妹) 中北千枝子(妻・女優) 大阪府立八尾高等学校卒業 関西大学経済学部卒業(1935年) 1940年(昭和15年) - 大宝映画に入社。 1941年(昭和16年) - 会社合併により東宝映画株式会社に転ずる。 1944年(昭和19年) - 東宝東京撮影所に転ずる。 1947年(昭和22年) - 東宝争議に伴い退社。映画芸術協会に身を置く。 1952年(昭和27年) - 東宝に復帰。 1971年(昭和46年)
4月1日 - 東宝映像代表取締役社長就任。 1975年(昭和50年) - 東宝映画代表取締役社長。 1978年(昭和53年) - 東京映画映像部を吸収に伴い東宝映像代表取締役会長。 1988年(昭和63年) - 東宝映像と東宝美術が合併し東宝映像美術となったため、会長職を退任。 1989年(平成元年) - 東宝映画代表取締役会長。 1992年(平成4年) - 日本創造企画株式会社取締役会長。 1995年(平成7年) - 東宝映画相談役。 1997年4月2日午後5時 - 脳梗塞で死去(享年88)。 大阪協同劇団での演劇活動を経て、東宝の映画プロデューサーとして活躍。『ゴジラ』(1954年)以降、同社の看板シリーズとなった怪獣・SF映画のほとんどをプロデュース。また、「8.15」シリーズをはじめとするアクション映画や戦記大作、黒澤明、岡本喜八などの監督作品も手掛け、喜劇・文芸作品を専門分野としていたプロデューサー・藤本真澄とともに東宝の黄金時代を牽引した。なお、関西大学から演劇活動にかけての仲間からは、俳優の志村喬、脚本家の木村武がのちに結集して特撮路線を支えている。 元々健全市民カラーの強い東宝にあって、ひたすら非日常の世界、豪快な男性路線(時代劇を含むアクション映画、怪獣・SF映画、戦争・パニック映画)にこだわり続けた。東宝社内で異端派に終わるべきところ、数回にわたって日本映画の興行成績記録を更新するという空前絶後のヒットメーカーぶりを発揮。結局は会社の色まで染め替えてしまった。今日では東宝の名は創立以来のサラリーマン喜劇や文芸映画以上に、田中が主導した特撮&アクション路線の印象が強くなっている。とりわけ『日本沈没』で大ヒットを飛ばして以後は東宝系の映画館主から絶大な信頼を受けた。黒澤明作品も、田中がプロデュースした1960年から1980年にかけての時期は娯楽性が強く、大ヒット作が多い。 1976年、前半期の黒澤映画を一手にプロデュースして名声を博しながら東宝を追われ、ピンク映画の監督に転じていたかつての同僚・本木荘二郎が窮死した際は東宝関係者で唯一葬儀に出席した。その少し前には宝塚映画あたりで本木をカムバックさせられないか打診していたといわれる。 三船プロダクションの設立と運営にも森岩雄、藤本真澄、川喜多長政らと大きく尽力した。 没後に製作された『モスラ3 キングギドラ来襲』(1998年)の劇中に、主人公の祖父の肖像として田中の写真が飾られている。 ゴジラの生みの親として紹介されるのは円谷英二であることが多いが、一般に知られているゴジラの基本設定を思いつき、実際の企画を立ち上げたのは田中である。田中は、映画『キング・コング』を観て特撮の可能性を感じ『ゴジラ』のような映画を目指すようになったといい、世界的なキャラクターを創造できたことは自身の誇りであると述べている。田中はこのことに強い自負を抱いていたらしく、キネマ旬報誌上で北島明弘が執筆したゴジラ関連記事に自分への言及がないことに不満を抱いて呼び出し、インタビューを掲載させたこともある。 『メカゴジラの逆襲』(1975年)でゴジラシリーズが一旦終了した後も、田中が陣頭に立ってゴジラ復活へ向けた活動を行い、『ゴジラ』(1984年)を実現させるに至った。東宝プロデューサーの富山省吾は、田中はネバーギブアップの人であったと評している。 『ゴジラ』(1984年版)では、9年ぶりに復活するゴジラであることから特に力を入れていたといい、原案として脚本作業に直接意見を行ったり、撮影でも現場で直接指示をしたりするなどしていた。制作協力の田中文雄は、人生最後の作品であるかのように情熱を傾け、自身の怪獣映画の総決算のようであったと評している。また、監督の橋本幸治は、田中がゴジラを侮辱するようなセリフに憤っていたことに際し、田中は自身とゴジラを重ね合わせているのだと解釈している。一方で、同作品がゴジラ復活を求めていたファンからの評価が芳しくなかったことについては重く受け止め、次作『ゴジラvsビオランテ』(1989年)ではストーリーの公募を行い、バイオテクノロジーの設定を取り入れるなどハリウッド映画のようなエンターテイメント性を重視し、スタッフの世代交代も図るなど、新たな要素を精力的に取り入れていった。 ゴジラを通じて核問題を描くことも重視しており、『ゴジラ』(1984年版)ではスタッフの反対を押し切ってゴジラが原子力発電所を襲撃するシーンを盛り込んだほか、『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)では日本企業が原子力潜水艦を用いてゴジラを誕生させるという展開を強く反対した。特技監督の中野昭慶は、ゴジラから核の要素を外すことを提案したところ、田中は「核の申し子」であることがゴジラのテーマだと述べたことを証言している。一方で、『vsキングギドラ』では水爆実験でゴジラが誕生する瞬間を描くことにも反対しており、東宝プロデューサーの富山省吾によればエンターテイメントとしてどこまで踏み込むべきか田中は懸念していたといい、映画のテーマは隠すという美学の持ち主でもあったと述べている。 『vsビオランテ』の監督を務めた大森一樹は、田中は高齢ながら自身で決めて動いて映画を作っているという姿勢であり、「ゴジラとは私だ」という田中の意志を強く感じていたといい、事実上同作品が田中の最後のゴジラ映画であったと語っている。完成後に田中から握手を求められ「ありがとう」と言われ、大森はすごい仕事をしたのだと実感したと述懐している。 富山によれば、『vsビオランテ』では特技監督の川北紘一による改訂脚本もあったとされるが、田中は「円谷にもやらせなかったことは川北にやらせない」として、特撮監督が脚本を書くことを受け入れなかったという。大森は、田中がプロデューサーとして目を光らせ自身と川北をうまくコントロールしていたと述懐している。 ゴジラを自分の息子とも称しており、『vsキングギドラ』でのインタビューでは「ゴジラだけは誰にも作らせられないし、作らせたくない」とも述べていた。しかし、『vsキングギドラ』以降は、田中の体調の問題があり、プロデューサー業務は富山省吾に比重が置かれていった。1992年の『ゴジラvsモスラ』からは広尾の自宅でリハビリ療養をとりながら東宝スタジオへ視察する形となり、打ち合わせは富山と林芳信社長が自宅へ訪問して行う形となった。平成ゴジラVSシリーズの最終作にして、田中が携わった最後のゴジラ作品でもある『ゴジラvsデストロイア』(1995年)では、ゴジラを死なせることを了承しつつ、シリーズ自体は継続できるような結末とすることを要望したという。 1998年に公開された『GODZILLA』のエンドクレジットの最後には、「田中友幸の思い出に捧ぐ」という一文が記されている。 その硬派で一貫した作品群、上記のインタビューのような強気なエピソード、三菱や創価学会とも太いパイプを築き東宝グループ製作部門に君臨した晩年のポジションなどから、強面なイメージで語られることも多いが、実際は柔和で温厚な調整型の人物であったとされる。試写でまずいところがあると、隣席の監督をつねってくるなど、お茶目な面もあった。なお、1970年代後半には本社の専務取締役である西野一夫が社長を兼ねる東宝映像の会長をつとめるなど、藤本引退後は年齢もあって本社役員陣の上手に立つ長老として遇されながらも、森、藤本とは異なって一度も本社取締役には就かなかった。そのため、本体中枢入りと引き換えにプロデューサーの肩書きを外さざるを得なかった彼らと違って、終生製作部隊である株式会社東宝映画を膝下に抱え、オーナー型でさえ海外にも類のない、86歳まで切れ目なく作品を発表するという映画プロデューサー人生を、しかもサラリーマン型でまっとうすることとなった。 ゴジラ委員会委員長を務めた東宝の堀内實三は、田中について熱心でしつこい人物であったと評しており、時間を問わず電話をかけてきて既に会議した内容について何度も話すことも多かったという。また、田中は特にゴジラに対して思い入れが深かったと述べている。 富山も、田中は夜中でも仕事の電話をかけてきて、出てしまうと30分では済まなかったと証言している。 『暁の追跡』で初めて田中と組んだ映画監督の市川崑は、「あの人は若いころから、”田中牛五郎”なんて言われるくらい、粘り屋で有名だったんですよ」と、後年の取材で証言している。『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』で再び田中と組んだ際、主役の起用に関して、大谷友右衛門を推したい田中が突然、市川監督の自宅にやって来て話し合いを始めたが、元々池部良主演で映画化を進めていた市川との間で折り合いがつかず、挙句の果てに応接間のソファーに平然と横になって粘る態度を見せ始めたため、最初は妻の和田夏十の助言もあって断るつもりでいた市川も、ついに根負けして大友を起用するに至った逸話を持つ。富山は、見た目も喋りも華やかではないが、力強く諦めずに突き進むことから「ウシの田中」と呼ばれていたと証言している。 中野は、田中は勉強家で、新聞を全紙とっており、自宅には週刊誌が積み重ねられており、それらからアイデアを得た記事を破り取って持ち歩いていたと証言している。時には百科事典を破り取っていたこともあったという。また、田中は円谷英二に次ぐ粘り強さを持っていたといい、藤本に企画の許可を求めた際には、寝入った藤本のベッドの横で待ち続けていたこともあった。 撮影現場では、プライベートで撮影風景を8ミリカメラに収めており、モノクロ映画である『用心棒』のカラーメイキングや、カットとなりフィルムが現存しないとされる『モスラ』の九州ロケの様子など、貴重な映像も残されている。田中の死後、これらのフィルムはカメラマンであった古山正が保管している。 中野は、田中が正面からの正義のドラマ作りを好んでおり、また破壊描写も好み、画面が派手であれば喜んでいたと証言している。富山は、田中から映画作りのコツとして「10分に1回の見せ場、30分に1回の大きな見せ場、最後にクライマックス」と教えられたという。 戦争映画では『連合艦隊』(1981年)が自身の集大成であると語っており、同作品とゴジラ映画が自身の双璧であると述べている。 田中は乗り物好きであったといい、鉄道旅行を好んでいたほか、仕事でも他の映画プロデューサーが使用していないころから運転手付きの車で移動していたという。
交友関係主な製作担当作品東宝社員時代・契約プロデューサー時代
1946年 - 『陽気な女』 1947年 - 『銀嶺の果て』 1949年 - 『ジャコ万と鉄』 1950年 - 『暁の脱走』 1951年 - 『愛と憎しみの彼方へ』 1952年 - 『戦国無頼』、『港へ来た男』、『思春期』 1953年 - 『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』、『続思春期』 1954年 - 『さらばラバウル』、『潮騒』、『ゴジラ』 1955年 - 『恋化粧』、『ゴジラの逆襲』、『おえんさん』、『獣人雪男』 1956年 - 『乱菊物語』、『白夫人の妖恋』、『空の大怪獣 ラドン』 1957年 - 『智恵子抄』、『地球防衛軍』 1958年 - 『無法松の一生』、『大怪獣バラン』、『美女と液体人間』 1959年 - 『暗黒街の顔役』、『宇宙大戦争』、『孫悟空』、『独立愚連隊』、『日本誕生』、『或る剣豪の生涯 』 1960年 - 『暗黒街の対決』、『電送人間』、『ガス人間第一号』、『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』、『悪い奴ほどよく眠る』、『独立愚連隊西へ』 1961年 - 『暗黒街の弾痕』、『真紅の男』、『大坂城物語』、『モスラ』、『用心棒』、『世界大戦争』 1962年 - 『椿三十郎』、『キングコング対ゴジラ』、『妖星ゴラス』 1963年 - 『太平洋の翼』、『天国と地獄』、『五十万人の遺産』、『青島要塞爆撃命令』、『マタンゴ』、『海底軍艦』、『国際秘密警察 指令第8号』、『秘剣』 1964年 - 『士魂魔道 大龍巻』、『国際秘密警察 虎の牙』、『今日もわれ大空にあり』、『ああ爆弾』、『モスラ対ゴジラ』、『宇宙大怪獣ドゴラ』、『国際秘密警察 火薬の樽』、『三大怪獣 地球最大の決戦』 1965年 - 『侍』、『赤ひげ』、『フランケンシュタイン対地底怪獣』、『太平洋奇跡の作戦 キスカ』、『姿三四郎』、『国際秘密警察 鍵の鍵』、『怪獣大戦争』、『100発100中』、『血と砂』 1966年 - 『奇巌城の冒険』、『ゼロ・ファイター 大空戦』、『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』、『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』、『遊撃戦』(テレビ) 1967年 - 『殺人狂時代』、『国際秘密警察 絶体絶命』、『上意討ち 拝領妻始末』、『キングコングの逆襲』、『日本のいちばん長い日』、『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』 1968年 - 『怪獣総進撃』、『連合艦隊司令長官 山本五十六』、『100発100中 黄金の眼』、『斬る』 1969年 - 『風林火山』、『緯度0大作戦』、『日本海大海戦』、『地獄変』、『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』 1970年 - 『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』、『幽霊屋敷の恐怖 血を吸う人形』 1971年 - 『ゴジラ対ヘドラ』 1972年 - 『地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン』 1973年 - 『ゴジラ対メガロ』、『日本沈没』、『人間革命』、『流星人間ゾーン』(テレビ) 1974年 - 『ゴジラ対メカゴジラ』、『ノストラダムスの大予言』、『エスパイ』、『日本沈没』(テレビ) 1975年 - 『メカゴジラの逆襲』、『東京湾炎上』 1976年 - 『大空のサムライ』、『続・人間革命』 1977年 - 『八甲田山』、『惑星大戦争』 1980年 - 『東京大地震マグニチュード8.1』、『影武者』、『地震列島』 1981年 - 『連合艦隊』 1984年 - 『さよならジュピター』、『零戦燃ゆ』、『ゴジラ』 1987年 - 『竹取物語』 1989年 - 『ガンヘッド』 1989年 - 『ゴジラvsビオランテ』 1991年 - 『ゴジラvsキングギドラ』 1992年 - 『ゴジラvsモスラ』 1993年 - 『ゴジラvsメカゴジラ』 1994年 - 『ゴジラvsスペースゴジラ』 1995年 - 『ゴジラvsデストロイア』 1996年 - 『モスラ』 1997年 - 『モスラ2 海底の大決戦』 1974年 - 日本映画テレビプロデューサー協会賞 1981年 - 勲三等瑞宝章、第7回おおさか映画祭特別功労賞 1992年 - 藤本賞、第47回毎日映画コンクール特別賞 1993年 - 日本映画批評賞特別賞 1994年 - 全興連マネーメイキング・スター賞 ^ 資料によっては、1939年と記述している。 ^ 書籍『ゴジラ来襲』では、「1948年」と記述している。 ^ 円谷は第1作では実質カメラを有川貞昌に任せて特撮全体を指揮していたものの、タイトル上は特殊撮影担当者として、特殊美術や合成と並ぶ3人の「特殊技術」の1人としてしか扱われていない。 ^ 北島はその思い入れの強さに感じ入ったと記している。 ^ 同作品監督の大森一樹は、このころから田中はあまり意見を出さず、譲歩することが多くなったと証言している。 ^ あるいは田中の後で東宝映画社長に就いた林芳信、島谷能成、市川南。 ^ 藤本は退社後にフリープロデューサーに転じる予定だったが死によって果たせなかった。 ^ 東宝プロデューサーの田中文雄は、プロデューサー業は消耗が激しいので5年もてばいい方だといい、これを続けている友幸は凄い人だと評し、旗振り役としても重要であったと述べている。 ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 52–53, 「田中友幸 特撮映画の思い出」 ^ ゴジラ大百科 1990, pp. 36–37, 「INTERVIEW 『ゴジラ』映画のファーザー 田中友幸」 ^ 最新ゴジラ大百科 1991, pp. 32–33, 「GODZILLA PEOPLE INTERVIEW 1 田中友幸」 ^ ゴジラ大百科 1992, pp. 65–69, 「BIG対談 田中友幸vs川北紘一」 ^ ゴジラ画報 1999, pp. 262–263, 「forever田中友幸」 ^ 平成ゴジラクロニクル 2009, pp. 220–221, 「第7章 平成ゴジラシリーズを作った男たち 堀内實三」 ^ 未発表資料アーカイヴ 2010, p. 4 ^ 1984コンプリーション 2019, pp. 50–51, 「“ゴジラ復活”への思い 再録メッセージ 田中友幸」 ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 538, 「特撮映画スタッフ名鑑」 ^ ゴジラ来襲 1998, pp. 172–173, 「第5章 東宝・特撮映画主要スタッフ紳士録」 ^ 野村宏平、冬門稔弐「4月26日」『ゴジラ365日』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、114頁。ISBN 978-4-8003-1074-3。 ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 198, 「『惑星大戦争』資料館」 ^ ヒットブックスVSモスラ 1992, pp. 84–85, 「製作者インタビュー 怪獣映画は娯楽の王様です」 ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 50–51, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ以前」 ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 68–69, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 チャンピオンまつりの時代」 ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 72–73, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 特撮復権にむけて」 ^ 「「ゴジラ」の生みの親」読売新聞1997年4月3日朝刊35面 ^ 黒井和男『映像の仕掛け人たち』キネマ旬報社、1986年7月、68頁。 ^ 「MAIN STAFF INTERVIEW 監督:米田興弘」『モスラ3 キングギドラ来襲』東宝〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.13〉、1998年12月12日、39頁。ISBN 4-924609-74-9。 ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 52–53, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ誕生」 ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 5, 「『ゴジラ』作品解説」 ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 28–37, 「序之壱 復活への長い道のり」 ^ ゴジラ大全集 1994, pp. 74–75, 「東宝特撮映画史 ゴジラ誕生 ゴジラ再生」 ^ 未発表資料アーカイヴ 2010, pp. 134–139, 富山省吾(聞き手・清水俊文)「プロデューサー・田中友幸の想い出」 ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 45–51, 「序之弐 復活『ゴジラ』 再燃する“ゴジラ - 核”問題」 ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 68–70, 「序之弐 復活『ゴジラ』 友幸のゴジラ、ゴジラの友幸」 ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 84–99, 「破之壱 『ゴジラVSビオランテ』」 ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 139–140, 「破之弐 『ゴジラVSキングギドラ』 準備稿と決定稿の違い」 ^ VSギドラコンプリーション 2020, pp. 77–79, 「プロジェクト『ゴジラvsキングギドラ』企画から公開後まで ヒットシリーズ継続への道」 ^ 1984コンプリーション 2019, pp. 52–57, 「中野昭慶インタビュー」 ^ VSギドラコンプリーション 2020, p. 66, 「富山省吾インタビュー」 ^ VSビオランテコンプリーション 2015, pp. 68–71, 「スペシャルインタビュー 大森一樹」 ^ VSビオランテコンプリーション 2015, pp. 65–67, 「スペシャルインタビュー 富山省吾」 ^ 平成ゴジラクロニクル 2009, pp. 222–225, 「第7章 平成ゴジラシリーズを作った男たち 富山省吾」 ^ 平成ゴジラクロニクル 2009, pp. 226–229, 「第7章 平成ゴジラシリーズを作った男たち 大森一樹」 ^ 田中文雄 1993, p. 8 - 9. ^ 平成ゴジラ大全 2003, pp. 284–285, 「急之参 『ゴジラVSデストロイア』 ゴジラ死す!」 ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 251, 「『ゴジラVSデストロイア』撮影秘話」 ^ 『完本 市川崑の映画たち』、2015年11月発行、市川崑・森遊机、洋泉社、P95 ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 105, 「東宝特撮映画作品史 ゴジラ」 ^ モスラ映画大全 2011, p. 21, 文・中村哲「幻の九州ロケ」 ^ ゴジラとともに 2016, pp. 92–93, 構成・文 友井健人「夏木陽介」 ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ ^ 映画全史1983">『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸、東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5。 Gakken MOOK(Gakken)
『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA 最新ゴジラ大百科』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1991年12月1日。 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 新モスラ編』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1992年12月10日。 『ゴジラvsモスラ』構成・執筆・編集 岩畠寿明、小野浩一郎(エープロダクション)、講談社〈講談社ヒットブックス30〉、1992年12月18日。ISBN 4-06-177730-0。 田中文雄『神を放った男 映画製作者田中友幸とその時代』キネマ旬報社、1993年。ISBN 4-87376-070-4。 井上英之『検証・ゴジラ誕生―昭和29年・東宝撮影所』朝日ソノラマ、1994年。ISBN 4257033940。 『テレビマガジン特別編集 誕生40周年記念 ゴジラ大全集』構成・執筆:岩畠寿明(エープロダクション)、赤井政尚、講談社、1994年9月1日。ISBN 4-06-178417-X。 坂井由人、秋田英夫『ゴジラ来襲!! 東宝特撮映画再入門』KKロングセラーズ〈ムックセレクト635〉、1998年7月25日。ISBN 4-8454-0592-X。 『ゴジラ画報 東宝幻想映画半世紀の歩み』(第3版)竹書房、1999年12月24日(原著1993年12月21日)。ISBN 4-8124-0581-5。 前田茂雄『博覧会と田中友幸』日本創造企画、2003年。 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾、双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1。 『平成ゴジラ クロニクル』川北紘一 特別監修、キネマ旬報社、2009年11月30日。ISBN 978-4-87376-319-4。 木原浩勝、清水俊文、中村哲 編『「ゴジラ」東宝特撮未発表資料アーカイヴ プロデューサー・田中友幸とその時代』角川書店、2010年3月31日。ISBN 978-4-04-854465-8。 映画大全2011">『別冊映画秘宝 モスラ映画大全』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2011年8月11日。ISBN 978-4-86248-761-2。 映画大全集2012">『東宝特撮映画大全集』執筆:元山掌 松野本和弘 浅井和康 鈴木宣孝 加藤まさし、ヴィレッジブックス、2012年9月28日。ISBN 978-4-86491-013-2。 コンプリーションシリーズ(ホビージャパン)
『ゴジラ1984コンプリーション』ホビージャパン、2019年1月31日。ISBN 978-4-7986-1853-1。 『ゴジラVSキングギドラ コンプリーション』ホビージャパン、2020年3月31日。ISBN 978-4-7986-2176-0。 別冊映画秘宝編集部 編『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日。ISBN 978-4-8003-1050-7。 田中友幸 - 日本映画データベース 田中友幸 - allcinema 田中友幸 - KINENOTE Tomoyuki Tanaka - IMDb(英語) 田中友幸 - MOVIE WALKER PRESS 田中友幸 - テレビドラマデータベース 田中友幸 - 東宝WEB SITE 表 話 編 歴 キング・コング(1933年版) - コングの復讐 ウィリス・オブライエン - デヴィッド・O・セルズニック - フェイ・レイ 猿人ジョー・ヤング(マイティ・ジョー) キングコング対ゴジラ - キングコングの逆襲 田中友幸 - 関沢新一 - 馬淵薫 - 伊福部昭 - 開米栄三 - 浜美枝 - 広瀬正一 - 中島春雄 ゴジラ - 大ダコ - ゴロザウルス SF交響ファンタジー 行け! グリーンマン キングコング(1976年版) - キングコング2 ディノ・デ・ラウレンティス - リック・ベイカー - ジェシカ・ラング - リンダ・ハミルトン キングコング2 怒りのメガトンパンチ - キングコング2 甦る伝説 キング・コング(2005年版) ナオミ・ワッツ - アンディ・サーキス ブレインデッド キングコング:髑髏島の巨神 トム・ヒドルストン - ブリー・ラーソン モンスターバース(GODZILLA ゴジラ - ゴジラ キング・オブ・モンスターズ) ゴジラvsコング - ゴジラxコング 新たなる帝国 アレクサンダー・スカルスガルド - レベッカ・ホール モンスターバース(GODZILLA ゴジラ - ゴジラ キング・オブ・モンスターズ) 和製キング・コング - 江戸に現れたキングコング - ドンキーコング - クィーン・コング - 北京原人の逆襲 - テレビ朝日 - 東映アニメーション - テレビ朝日系列水曜夜7時台枠のアニメ 表 話 編 歴 ゴジラ(海外版) ゴジラの逆襲 キングコング対ゴジラ モスラ対ゴジラ 地球最大の決戦 怪獣大戦争 南海の大決闘 ゴジラの息子 怪獣総進撃 オール怪獣大進撃 対ヘドラ 対ガイガン 対メガロ 対メカゴジラ メカゴジラの逆襲 ゴジラ(1984年版)(海外版) vsビオランテ vsキングギドラ vsモスラ vsメカゴジラ vsスペースゴジラ vsデストロイア 2000 ×メガギラス 大怪獣総攻撃 ×メカゴジラ 東京SOS FINAL WARS シン・ゴジラ -1.0 GODZILLA三部作
決戦機動増殖都市 星を喰う者 GODZILLA GODZILLA ゴジラ ゴジラ キング・オブ・モンスターズ ゴジラvsコング ゴジラxコング 新たなる帝国 モナーク: レガシー・オブ・モンスターズ 流星人間ゾーン Godzilla (1978年のテレビアニメ) 冒険!ゴジランド ゴジラ王国 ゴジラアイランド ゴジラ ザ・シリーズ ただいま!ちびゴジラ S.P ちびゴジラの逆襲 怪獣プラネットゴジラ ALWAYS 続・三丁目の夕日 キングコング:髑髏島の巨神 モスラ(第1作) 平成モスラ三部作
モスラ2 モスラ3 モスラの歌 かえせ! 太陽を ゴジラ (TALIZMANの曲) ゴジラ伝説 Welcome to the stage! シン・ゴジラ対エヴァンゲリオン交響楽 ゴジラ (ブルー・オイスター・カルトの曲) Pray INTO THE DEEP 東宝特撮 東宝特撮映画の怪獣対策組織 東宝特撮映画の登場兵器
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IdRef 日本の映画プロデューサー 20世紀日本の実業家 東宝の人物 大阪府出身の人物 大阪府立八尾高等学校出身の人物 関西大学出身の人物 1910年生 1997年没 2024/11/20 14:49更新
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tanaka tomoyuki
田中友幸と同じ誕生日4月26日生まれ、同じ大阪出身の人
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