村山聖の情報(むらやまさとし) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
村山 聖さんについて調べます
■名前・氏名 |
村山聖と関係のある人
田村康介: 1996年度は早指し将棋選手権で活躍を見せ、予選から怒涛の9連勝で決勝まで進出する(決勝戦で村山聖に敗れ準優勝)。 大崎善生: 2000年、将棋棋士の村山聖の生涯を追ったノンフィクション小説『聖の青春』で作家デビュー。 谷川浩司: 第42期王将戦(谷川4-0村山聖)では防衛に成功したものの、第18期棋王戦(谷川2-3羽生)ではフルセットの戦いの末、奪取に失敗した。 山田道美: 現役A級で死去した棋士としては他に大山、村山聖がいる。 羽生善治: その傍ら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖・森内俊之・丸山忠久・郷田真隆・有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取った。 木村一基: 1998年3月30日、村山聖と対局(第39期王位戦挑戦者決定リーグ白組3回戦)して敗れた。 屋敷伸之: 入会時の年齢が違うために単純な比較は難しいものの、屋敷以前に奨励会を記録的な速さで駆け抜けたことで話題となった谷川浩司(11歳で入会し所要3年8か月)、羽生善治(12歳で入会し所要3年)、村山聖(14歳で入会し所要2年11か月)らよりも短期間でプロ入りしている。 谷川浩司: 1998年度のA級順位戦は、村山聖の休場(同年に死去)により9人でのリーグ戦となった。 村山慈明: 序盤戦の深い研究で知られ、同じ名字の村山聖が存命で新鋭の頃に「終盤は村山に聞け」と呼ばれたことにあやかり、「序盤は村山に聞け」(あるいは「終盤は聖に聞け、序盤は慈明に聞け」とも)と呼ばれる。 東出昌大: 同作の主人公である村山聖を演じた松山ケンイチと東出の二人に対して日本将棋連盟が初段免状を贈呈することとなり、同作公開時の舞台挨拶の際に、羽生善治が登壇して二人に免状を手渡した。 先崎学: 佐藤康光(2回戦 = 準々決勝)、村山聖(決勝)の両名に勝っている。 萩元晴彦: 遺作は、2001年の新春スペシャルドラマで、病身で勝負に打ち込む棋士・村山聖を描いたドラマ『聖の青春』。 丸山忠久: その第2戦は、病苦に耐える村山聖(丸山とともにA級昇級した後に死去)との深夜に及ぶ173手の激闘として知られる。 森信雄: 広島県広島市出身の弟子が村山聖含めて多い。 大内延介: 1991年の竜王戦予選で、当時五段の村山聖と対局した際、爪を切るのを嫌って伸ばしていた村山に、「駒に傷もつくし、相手にも失礼だろう」と年長棋士として遠慮なく注意した。 松山ケンイチ: 聖の青春(2016年11月19日) - 主演・村山聖 役 糸谷哲郎: 村山聖、山崎隆之、片上大輔は、広島将棋センターの先輩であり、森信雄門下の兄弟子でもある。 瀬川晶司: 1969年度生まれ(佐藤康光、村山聖と同学年)であり、羽生世代の強豪棋士たちと年齢が重なる。 森下卓: 1993年度では第51期順位戦のB級2組で9勝1敗となり、1位でB級1組に昇級(村山聖との同時昇級)。 片上大輔: 村山聖、山崎隆之、糸谷哲郎などの棋士を生んだ広島将棋センター出身。 杉本昌隆: 杉本の振り飛車は奨励会時代から定評があり、先に四段に上がった村山聖は「全振り飛車党の中で唯一の本格正統派」「メチャクチャ格調が高い」と評していた。 滝誠一郎: 甥弟子(自身の弟弟子・森信雄の弟子)の村山聖が順位戦A級に昇進し東京で一人暮らしをしていた時期(1995年頃)には村山の面倒をよく見ていたという。囲碁将棋チャンネル・村山聖没後10年特別番組「まっすぐに生きて」によると、村山に洒落っ気が著しく欠如していることに業を煮やし、派手なデザインのアロハシャツを無理やり購入させたことがあるという。 山本おさむ: 夭折した非凡の棋士村山聖の人生を基にした『聖-天才・羽生が恐れた男』を描くことになったきっかけは、後に死別した妻の久木田が村山と同じ病気を患っていたことであり、間もなく久木田は連載中に亡くなった(後に福島県岩瀬郡天栄村出身の女性と再婚)。 森信雄: 自身最初の弟子として育て上げたのが村山聖である。没後に村山の生地で顕彰するために行われている村山聖杯将棋怪童戦に、一門が協力として名を連ねている。 大山康晴: A級在籍のまま死去した将棋棋士は山田道美に続き史上2人目であり、後に村山聖もA級在籍のまま死去したが、山田と村山は将棋棋士として絶頂期と言える若い年齢(36歳と29歳)で死去したのに対し、大山は69歳という高齢でA級の地位を維持し続けていた点が特筆に値する。 森信雄: 村山聖が将来にランクが下がってきたら師弟で対局できるとして楽しみにしていたが、村山の死去で叶わなくなってしまった。 谷川浩司: なお、直後の第46期王将戦(谷川0-4羽生)でも、王将リーグで村山聖との4勝2敗同士のプレーオフを制して羽生に挑戦したが、敗退した。 南口繁一: 村山聖をはじめとする森門下の棋士及び阿久津主税(滝の弟子)は孫弟子にあたる。 青野照市: 村山聖の最後の順位戦の相手。 屋敷伸之: 第46回(1996年度)NHK杯戦で村山聖・佐藤康光・島朗らに勝ち決勝進出。 |
村山聖の情報まとめ
村山 聖(むらやま さとし)さんの誕生日は1969年6月15日です。広島出身の将棋棋士のようです。
病気、結婚、家族、映画、兄弟、テレビ、ドラマ、引退に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1998年に亡くなられているようです。
村山聖のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)村山 聖(むらやま さとし、1969年(昭和44年)6月15日 - 1998年(平成10年)8月8日)は、日本の将棋棋士、九段(追贈)。森信雄七段門下。棋士番号は180。いわゆる「羽生世代」と呼ばれる棋士の一人。 広島県安芸郡府中町出身。血液型はAB型。 3兄姉の次男として生まれる。5歳のとき、腎臓の難病であるネフローゼ症候群にかかっていることが発覚。府中町立府中小学校に入学するも病状が悪化し、広島市民病院の院内学級・引続き広島県立原養護学校(国立療養所原病院に隣接)で6年生の1月まで過ごす。ともに入院していた子が亡くなることもあったという。 入院中に父から将棋を教わり、それに没頭するようになる。体に障るからと何度注意されても朝から晩まで指し続けた。母には、小学館の学習雑誌や「将棋世界」などの本を持ってきてもらったという。初めて読んだ将棋の本は「将棋は歩から」(加藤治郎著) 10歳の時、広島市内の元奨励会員が開く将棋教室に、療養所の月3回の外出日を利用し通い、アマチュア四段を認定される。その後、11歳から名門将棋道場「広島将棋センター」に移ってさらに腕を磨き、中国こども名人戦で4大会連続優勝。また、当時タイトルホルダーの森安秀光(棋聖)を飛車落ちで破るまでに至った。1981年の小学生将棋名人戦の3回戦で佐藤康光と対局し敗れたという。1982年府中町立府中中学校1年の中学生将棋名人戦でベスト8に入り(優勝は中川大輔)、それによる上京の際に真剣師として知られる小池重明と遭遇し、彼と指し合い勝利したエピソードも記録されている。 当時名人候補であった谷川浩司を倒したいという目標より、中学1年生となった1982年にプロ棋士を目指す(谷川の名人就位は1983年)。両親にとってその知らせは青天の霹靂であったが、病気の背景もあってか「好きなことをやらせたい」という思いがあり、師匠探しをすることに。 しかし、プロ棋士への道はうまくはいかず、以前将棋を教わっていた元奨励会会員は、まだ師匠の紹介は早いと告げ、態度を保留した。しかしながら、病身であり猶予がないことから、これにめげず両親は他に師匠探しを始める。その結果、「広島将棋センター」の日本将棋連盟広島将棋同好会支部の支部長より、大阪の森信雄の紹介を受けた母は聖を引き合わせた。当時30歳であった森は「一目で気に入った。好きなタイプ。普通の子ではない」と思い、聖を絶賛したという。この時、村山は暑がりなのか真冬なのに裸足でズックを履き、ワイシャツを腕まくりしていたと伝えられている。 1982年、森を師匠とし奨励会を受験、合格する。しかし、当初相談を受けた元奨励会員も、実は親交のあった灘蓮照に紹介をしており、灘は弟子としての申請を進めていた。灘はこれを理由に入会に反対し、結果として認められなかった。その後、森の師匠であり当時病床にあった南口繁一の仲裁もあり、翌1983年再受験して5級で入会する。 入会後、大阪で単身で暮らす病身の村山を、師匠の森が同居して親身な世話をして支えた。村山はしょっちゅう熱を出し、「40度になったら死にます」と言っていたが、実際に41度であっても森は「40度になってない。大丈夫や」と嘘をついて村山を安心させた。村山の体調が悪いとき、森はお使いにも出かけた。村山が少女漫画をたくさん求めると、どこで売っているかさえわからなかった森が、あちこちの書店へ奔走した。「どちらが師匠かわからない」ということで知られる逸話である。 その後、師匠の家から1分のところで一人暮らしをはじめ、3000冊の少女漫画などの漫画に囲まれて過ごす。購入するにあたっては同じ巻のものを3冊揃えた。その内訳は、読む分、書棚に飾る分、保存する分だったという。また、読書家でもあり、のちに1998年の「将棋年鑑」アンケートで「好きな作家」に河あきら、麻耶雄嵩、太刀掛秀子、森博嗣、ジェイムズ・ティプトリー・Jr.、アガサ・クリスティ、梶尾真治、倉知淳、ピーター・ラヴゼイを挙げている。また、1997年のインタビュー記事では好きな漫画家として萩尾望都、塀内真人をあげている。しかし、関西将棋会館には体調の許す限り毎日のように通い、研究にいそしんだ。将棋に打ち込みたいあまり、無理をしてでも出かけたことも度々あったという。 1986年11月5日にプロデビュー。奨励会入会からプロ入りまで2年11か月は、谷川浩司や羽生善治をも超える異例のスピードであった(しかも村山は病気による止むを得ない不戦敗がたびたびあった)。風貌のイメージともあわせ、「怪童丸」の異称で呼ばれる。 しかし有名になったため、悪口も言われるようになる。村山は髪の毛や爪にも命があり、それを切るのは忍びないという繊細な思いから切ることを極端に嫌がり、ネフローゼ症候群による浮腫もあいまって独特の風貌であったため、周りから不潔だと噂されていた。ある日、森に「僕、不潔と言われるんですが、悪いんですかね」と泣きそうな顔で相談すると、森は「不潔なのは誰でもいややろう。だけど、強くなったら言われなくなる」と励ました。また、ある日森が日本将棋連盟雑誌編集部の大崎善生とともに公園の中を歩いていると、村山と遭遇。村山が「しまった」という感じのバツが悪い様子で歩み寄ったところ、森は「飯食うとるか。髪切りや。たまには歯ぁ磨き。手ぇ出し。(手を握って)まあまあやな」と語りかけ、大崎は強い師弟愛を目の当たりにした。なお、弟弟子に山崎隆之がおり、村山は「肉丸」、山崎は「ちん丸」というあだ名で呼び合っていたという。 奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほどであった。その代表的なエピソードとして、村山を含む棋士達が、A級順位戦の対局を関西将棋会館の控え室で検討していた際、関西の大御所で詰将棋作家でもある内藤國雄が入室してきて「駒(持駒)はぎょうさんある。詰んどるやろ」と言った。そこでほとんどの棋士達が一斉に詰み手順を検討し始めたところ、「村山くんが詰まんと言っています」という声が上がった。後に内藤は「詰みを発見しようという雰囲気の中で『詰まない』と発言するというのは相当な実力と自信」と賞賛している。 村山の目標は他の多くの棋士と同じく「名人」だったが、10代の終わりで「名人になって早く将棋を辞めたい」とも語っていた。自分の時間が残り少ないことの裏返しの言葉だとされている。 1989年6月15日夜、雀荘にいる森のところまで村山がわざわざ姿を見せ、「二十歳になりました」と話す。その理由は「20歳まで生きることができて嬉しい」ということであった。 棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意を剥き出しにすることが多かったが、羽生に対してだけは特別の敬意を払っていたという。当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士になった者らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれ、羽生、佐藤康光、森内俊之と村山の4名が、その有力なメンバーであった。この世代が後に「羽生世代」と呼ばれ、将棋界の中心となった。また、「東の羽生、西の村山」と並び称され期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できないこともあり、実績では羽生に遅れを取った。 1989年9月6日、若獅子戦決勝で羽生に敗れる。その6日後のC級1組順位戦でも羽生に敗れたが、感想戦が終わって羽生が席を立つ時、「がんばって昇級してください」と声をかけたという。 翌年、1990年10月1日、第13回若獅子戦決勝で佐藤康光を破り、棋戦初優勝。 1994年1月12日に師匠の森が結婚式を挙げる。結婚するという話を直接聞かされていなかった村山は、披露宴のスピーチで「新聞に出るまで弟子に黙っているなんて、考えられないと思いますけどねぇ」と笑顔で述べ、列席者達を爆笑させた。 その後村山は関西から関東への移籍を決心。森も村山自身のためになるとして賛成し、『将棋世界』編集長となっていた大崎がアパート探しをして数軒の候補に絞った結果、村山は会館から徒歩5分のところに決めた。東京では遊びも覚え、先崎学、郷田真隆ら棋士仲間と麻雀、酒を楽しみ、人生を語り合い、その際結婚願望も口にしたという。「聖」の名から「ひじりちゃん」というあだ名をつけられた。 1995年4月、A級八段まで登りつめ、名人位が射程圏となる。 1996年度の終わり、第30回早指し将棋選手権で優勝。これが村山にとっては新人棋戦以外での唯一の優勝である。また、同時期の1997年2月28日に竜王戦1組の1回戦で羽生と対戦し、強手△7五飛(70手目)から優勢を保って124手目までで羽生に勝ち、通算対戦成績を6勝6敗としている。しかし、この頃から病状が悪化、脱力感や血尿に悩まされるなどして、持ち時間の長い順位戦では成績が振るわず、1997年春、B級1組に降級してしまう。 その直後、進行性膀胱癌が見つかり、東京のアパートを引き払って地元の広島大学病院に入院。村山は「子供を作れなくなるのが嫌だから」と手術を一旦拒否したが、同じ手術をした経験のある男性と会わせて体験談を聞かせるなどして医師が説得。手術を受けることを決断させた。1997年6月16日に行われた手術は、片方の腎臓と膀胱を摘出するという8時間半の大手術であったが、休場することなく棋戦を戦い続けた。抗癌剤や放射線治療については、「脳に悪影響があって将棋に支障が出ては困る」という理由で拒否していた。 手術後早くも復帰の意思を見せ、医者には「脱走してでも行く」と告げるほどであった。同年7月14日、復帰第1戦となった第56期B級1組順位戦2回戦の対丸山忠久戦は、角換わり腰掛け銀の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ戦いとなる。持ち時間の残りがなくなり1分将棋となっていたところで、村山は強引に丸山の玉を詰ましにいったが詰まなかった。結果は丸山の勝ちで、33手詰めであった。しかし、病苦に耐えながら指していたとはとても思えない内容の激闘・名局として伝説化されている。この一戦では敗れたものの、1期でA級復帰を決める。同年度は、NHK杯戦でも決勝まで勝ち上がる活躍。決勝の相手は羽生であった。村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミス(68手目△7六角)をして優勝を逃す。しかし、局後のインタビューでは、「優勝したはずなんですが、ポカしてしまいました」と笑顔で冗談混じりに答えた。これで羽生との対戦を通算6勝7敗で終えた(休場による4月の不戦敗も含めると6勝8敗)。 1998年春、癌の再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。森は「1年休んだら弱くなるぞ」と言ったが、村山は「命のほうが大事ですから」と答え、彼は「変わったな」と思ったという。同年3月の最後の対局を5戦全勝で終えて将棋対局の場から離れ、A級復帰祝賀会が村山最後の表舞台となった。1998年版「将棋年鑑」のプロフィールでは、「今年の目標は?」との項目に「生きる」と書き残している。 以降、広島大学病院の名札の無い病室でひっそりと過ごし、8月8日に死去(享年29)。名人になる夢は叶わなかった。薄れていく意識の中でも棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最期の言葉であったという。遺志により葬儀は家族のみの密葬とし、葬儀終了後にその死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟は、その功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。また、「将棋世界」は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。A級在籍のまま逝去したのは、山田道美、大山康晴に続き史上3人目である。 死後、地元府中町では「村山聖杯将棋怪童戦」を、日本将棋連盟広島将棋同好会支部・中国放送・中国新聞社と共催し、顕彰に努めている。 村山はかなりの負けず嫌いな性格であった。将棋以外にも、囲碁や麻雀で負けた際も非常に悔しがっていた。生前、徹夜で麻雀に付き合った当時奨励会三段だった瀬川晶司は「なんて子供っぽい人だろう」と思い、「A級がそんなことを言うたらあかんがな」と言ったことがある。これがきっかけとなり、村山は、亡くなるまで彼と親交を持った。 麻雀については映画『聖の青春』でも語られ、ライバルの羽生は将棋と共にチェス(チェスは将棋と同じインドのチャドランガを祖とする兄弟関係であり、ルールも似ている)との二刀流であるのに対し、村山は囲碁や麻雀(特に麻雀は劇中で語られる)など将棋とルールや先読み能力などが全く異なるゲームも並行して三刀流以上であった。 指導棋士の加藤昌彦は、奨励会から去る時の送別会の酒席で村山から「加藤さんは負け犬ですよ」と言われたことに怒り、殴り合いの喧嘩に発展したことがあると語っている。映画『聖の青春』にもこのエピソードが描かれており、映画を見た加藤は「ほぼ、あの通りです。25年前のことなんですが、何とも言えない複雑な気持ちになる。ぼくは将棋界に帰ってくるつもりはなかったし、村山君もぼくとの別れが寂しかったんでしょう」とコメントしている。 晩年に病気に苦しめられた時に母に治療しろと強く言われるが、聖は麻酔による脳へのダメージで将棋が弱くなるとして治療を拒否し、母は説得を諦めた。 他棋士の間でゴルフブームが起きた時に、村山もゴルフをやりたいと言ったが師匠森信雄がゴルフなんかやったら病弱で死んでしまうとしてゴルフ厳禁にし、村山は抗議し殴り合い状態にまでなった。(聖の青春で描かれている) 1983年12月01日 : 5級(奨励会入会) 1984年06月01日 : 4級(9勝2敗) 1984年08月01日 : 3級(9勝2敗) 1984年09月01日 : 2級(6連勝) 1985年01月20日 : 1級(9勝3敗) 1985年08月01日 : 初段(12勝4敗) 1986年01月10日 : 二段(12勝4敗) 1986年07月10日 : 三段(12勝4敗) 1986年11月05日 : 四段(13勝4敗) = プロ入り(奨励会在籍2年11か月) 1988年04月01日 : 五段(順位戦C級1組昇級) 1991年10月31日 : 六段(勝数規定 /五段昇段後公式戦120勝) 1993年04月01日 : 七段(順位戦B級1組昇級) 1995年04月01日 : 八段(順位戦A級昇級) 1998年08月08日 : 現役死去(享年29) 1998年08月09日 : 九段(追贈) 王将挑戦(第42期 = 1992年度)
若獅子戦 1回(第13回 = 1989年度、決勝は1990年10月1日) 早指し将棋選手権 1回(第30回 = 1996年度)
第20回(1992年度) 敢闘賞 第26回(1998年度) 特別賞 『驚きももの木20世紀』「村山聖・29歳無念の死」(1999年1月29日、テレビ朝日) 『知ってるつもり?!』「聖の青春 村山聖」(2001年2月11日、日本テレビ) 『にっぽん紀行』「29歳で逝ったあなたへ〜東出昌大 伝説の棋士を巡る旅〜」(2016年11月23日、NHK総合) 『聖の青春』(2000年・大崎善生著):第13回新潮学芸賞、将棋ペンクラブ大賞を受賞。
2016年:映画化され、村山役を演じる松山ケンイチは腎臓病の影響がある風貌の役作りのために20kg以上の体重増を実行した。 ネフローゼ症候群患者の側面に焦点を当てた書評に、月刊ノーマライゼーション2004年4月号(日本障害者リハビリテーション協会)がある。 道徳の教科書でもその生涯が取り上げられている。『小学道徳6 はばたこう明日へ』(2022年・教育出版)、『中学生の道徳 自分を考える2』(2022年・あかつき教育図書) 『聖 -天才・羽生が恐れた男-』作画:山本おさむ、監修:森信雄。 『月下の棋士』に登場する棋士「村森聖」は、彼がモデルである。 『3月のライオン』に登場する棋士「二海堂晴信」も彼をモデルとしているといわれている 。
2017年:実写映画化、演:染谷将太。 『聖の青春』(大崎善生・著、2002年5月、講談社、ISBN 4-06-273424-9) 『村山聖名局譜』(羽生善治/先崎学・共著、2000年11月、日本将棋連盟、ISBN 4-8197-0211-4) 『聖 -天才・羽生が恐れた男-』(山本おさむ・著、森信雄・監修、全9巻、小学館、ISBN 4-09-185601-2 ほか) 『村山聖自筆原稿』2006年(フリー編集者の堀内恭が発行しているミニペーパー「入谷コピー文庫」の一冊) 名勝負の解説村山聖特集 第一回 第二回 第三回 第42期 王将戦 挑戦者決定リーグ戦 村山聖六段 vs 羽生善治王座 対局日:1992年12月9日 第42期 王将戦 挑戦手合七番勝負-1 村山 聖六段 vs 谷川浩司王将 対局日:1993/1/13. 第六回 第七回 第30回 早指し将棋選手権戦 準決勝-1 村山 聖八段 vs 内藤國雄九段 対局日:1997年1月18日 ^ 大崎善生『聖の青春』 ^ 2016年11月23日放送『にっぽん紀行』 ^ 1999年1月29日放送『驚きももの木20世紀』 ^ 大崎善生『聖の青春』P55-57 ^ https://blog.goo.ne.jp/goonobuo1952/e/8b7be536fdf4a8d032b31543e8965d7e ^ 『将棋世界』1997年9月号「先崎学の気楽にいこう」に掲載の観戦記が有名 ^ “村山 聖八段死去(棋界情報局)”. 日本将棋連盟. 1998年12月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月16日閲覧。 ^ https://mainichi.jp/articles/20170327/ddl/k27/040/313000c 盤上の風景/10 将棋 加藤昌彦指導棋士六段 村山聖と殴り合った夜/大阪 2017年3月27日 毎日新聞地方版 ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。 ^ 「竜王戦」『日本将棋連盟』。 ^ [1] ^ [2] ^ [3] ^ [4] ^ [5] ^ [6] ^ [7] ^ [8] ^ [9] ^ [10] ^ [11] ^ [12] ^ [13] ^ 文学にみる障害者像-大崎善生『聖の青春』 ^ 『月下の棋士』第7巻 ^ 羽海野チカ『3月のライオン』1巻 ^ ナンダロウアヤシゲな日々 将棋棋士一覧 片上大輔(広島将棋センターの後輩で、森門下の弟弟子) 糸谷哲郎(同) 石橋幸緒(病弱のため養護学校に通っていた将棋女流棋士) 病弱児 村山聖 - 日本将棋連盟 ドラマ「聖の青春」(中国放送サイト) 聖の青春(映画公式サイト) 表 話 編 歴 関根金次郎 (※1938名人退位) 坂田三吉 (※1940引退) 永沢勝雄 (1946引退) 金易二郎 (1947引退) 渡辺東一 (1985引退) 加藤治郎 (1949引退) 奥野基芳 (1949引退) 土居市太郎 (※1949引退) 金子金五郎 (1950引退) 志沢春吉 (1950引退) 北楯修哉 (1951引退) 木村義雄 (1952引退) 中井捨吉 (1952引退) 市川一郎 (1956引退) 吉田六彦 (1956引退) 佐藤豊 (1956引退) 加藤恵三 (1957引退) 畝美与吉 (※1957引退) 増田敏二 (1958引退) 浅沼一 (1958引退) 梶一郎 (1959引退) 荒巻三之 (1959引退) 板谷四郎 (1959引退) 京須行男 (※1960引退) 高島一岐代 (1962引退) 高柳敏夫 (1963引退) 萩原淳 (1964引退) 平野広吉 (1965引退) 山本武雄 (1968引退) 木川貴一 (1968引退) 山川次彦 (1970引退) 津村常吉 (1970引退) 賀集正三 (1970引退) 山田道美 (※1970現役死去) 佐藤庄平 (1971引退) 岡崎史明 (1972引退) 神田鎮雄 (1972引退) 大友昇 (1972引退) 西本馨 (1973引退) 大村和久 (1975引退) 塚田正夫 (1977現役死去) 清野静男 (1977現役死去) 熊谷達人 (1977現役死去) 升田幸三 (1979引退) 大野源一 (1979現役死去) 高田丈資 (1979現役死去) 二見敬三 (1980現役死去) 松下力 (1981引退) 本間爽悦 (1981現役死去) 原田泰夫 (1982引退) 北村秀治郎 (1982現役死去) 灘蓮照 (1984現役死去) 坂口允彦 (1985引退) 角田三男 (1985引退) 松田茂役 (1985引退) 南口繁一 (1985引退) 下平幸男 (1985引退) 橋本三治 (1985引退) 花村元司 (1985現役死去) 山中和正 (1986引退) 星田啓三 (1986引退) 小堀清一 (1987引退) 北村文男 (1987引退) 芹沢博文 (1987現役死去) 廣津久雄 (1988引退) 五十嵐豊一 (1988引退) 板谷進 (1988現役死去) 伊達康夫 (1989引退) 佐瀬勇次 (1990引退) 加藤博二 (1990引退) 二上達也 (1990引退) 大原英二 (1990引退) 木村嘉孝 (1991引退) 木村義徳 (1991引退) 有野芳人 (1991引退) 吉田利勝 (1992引退) 大山康晴 (1992現役死去) 長谷部久雄 (1993引退) 森安秀光 (1993現役死去) 小野敦生 (1993現役死去) 富沢幹雄 (1994引退) 北村昌男 (1994引退) 関屋喜代作 (1994引退) 丸田祐三 (1996引退) 佐藤大五郎 (1996引退) 高島弘光 (1996現役死去) 村山聖 (1998現役死去) 宮坂幸雄 (1999引退) 田辺一郎 (1999引退) 剱持松二 (2000引退) 木下晃 (2000引退) 若松政和 (2000引退) 池田修一 (2000引退) 青木清 (2000引退) 瀬戸博晴 (2000引退) 安恵照剛 (2001引退) 関根茂 (2002引退) 佐伯昌優 (2002引退) 山口英夫 (2002引退) 河口俊彦 (2002引退) 椎橋金司 (2002引退) 山口千嶺 (2003引退) 米長邦雄 (2003引退) 野本虎次 (2003引退) 本間博 (2003引退) 森安正幸 (2004引退) 中田章道 (2004引退) 鈴木輝彦 (2004引退) 西村一義 (2006引退) 酒井順吉 (2006引退) 桜井昇 (2007引退) 桐谷広人 (2007引退) 小野修一 (2007引退) 関浩 (2007引退) 真部一男 (2007現役死去) 達正光 (2007現役死去) 菊地常夫 (2008引退) 加瀬純一 (2008引退) 中原誠 (2009引退) 坪内利幸 (2009引退) 沼春雄 (2009引退) 有吉道夫 (2010引退) 大内延介 (2010引退) 小阪昇 (2010引退) 依田有司 (2010引退) 勝浦修 (2011引退) 飯野健二 (2011引退) 伊藤果 (2011引退) 松浦隆一 (2011引退) 児玉孝一 (2011引退) 神吉宏充 (2011引退) 石田和雄 (2012引退) 櫛田陽一 (2012引退) 滝誠一郎 (2013引退) 武者野勝巳 (2013引退) 植山悦行 (2013引退) 野田敬三 (2013引退) 佐藤義則 (2014引退) 前田祐司 (2014引退) 武市三郎 (2014引退) 大野八一雄 (2014引退) 飯田弘之 (2014引退) 内藤國雄 (2015引退) 田中魁秀 (2015引退) 淡路仁茂 (2015引退) 大島映二 (2015引退) 安西勝一 (2015引退) 熊坂学 (2015引退) 田丸昇 (2016引退) 伊藤能 (2016現役死去) 加藤一二三 (2017引退) 森雞二 (2017引退) 宮田利男 (2017引退) 森信雄 (2017引退) 堀口弘治 (2017引退) 中尾敏之 (2018引退) 高田尚平 (2019引退) 土佐浩司 (2020引退) 伊藤博文 (2020引退) 東和男 (2021引退) 西川慶二 (2021引退) 金沢孝史 (2021引退) 桐山清澄 (2022引退) 小林健二 (2022引退) 田中寅彦 (2022引退) 小林宏 (2022引退) 藤倉勇樹 (2022引退) 石川陽生 (2023引退) 上野裕和 (2023引退) 中田宏樹 (2023現役死去) 青野照市 (2024引退) 室岡克彦 (2024引退) 中座真 (2024引退) 伊奈祐介 (2024引退) 永作芳也 (1988退会) 橋本崇載 (2021引退、2022退会) 表 話 編 歴 1 中原誠 2 大山康晴 3 中原誠 4 大山康晴 5 米長邦雄 6 松田茂行 7 大山康晴 8 桐山清澄 9 大山康晴 10 加藤一二三 11 米長邦雄 12 有吉道夫 13 米長邦雄 14 米長邦雄 15 加藤一二三 16 真部一男 17 桐山清澄 18 森安秀光 19 中原誠 20 田中寅彦 21 有吉道夫 22 森雞二 23 南芳一 24 加藤一二三 25 森内俊之 26 羽生善治 27 深浦康市 28 小林健二 29 羽生善治 30 村山聖 31 郷田真隆 32 土佐浩司 33 藤井猛 34 丸山忠久 35 丸山忠久 36 羽生善治 1 田中寅彦 2 塚田泰明 3 脇謙二 4 脇謙二 5 小野修一 6 塚田泰明 7 森内俊之 8 森内俊之 9 佐藤康光 10 佐藤康光 11 小林宏 12 深浦康市 13 畠山成幸 14 行方尚史 15 鈴木大介 16 藤井猛 17 野月浩貴 18 深浦康市 19 深浦康市 20 深浦康市 21 山崎隆之 テレビ東京 テレビ将棋対局 表 話 編 歴 1 小林健二 2 谷川浩司 3 福崎文吾 4 大島映二 5 南芳一 6 南芳一 7 脇謙二 8 堀口弘治 9 井上慶太 10 羽生善治 11 中川大輔 12 羽生善治 13 村山聖 14 先崎学 近代将棋 表 話 編 歴 74 原田泰夫 75 熊谷達人 76 大内延介 77 真部一男 78 花村元司 79 石田和雄 80 淡路仁茂 81 桐山清澄 82 田中寅彦 83 桐山清澄 84 田中寅彦 85 中村修 86 塚田泰明 87 中村修 88 羽生善治 89 南芳一 90 森下卓 91 屋敷伸之 92 羽生善治 93 村山聖 94 深浦康市 95 深浦康市 96 森雞二 97 屋敷伸之 98 郷田真隆 99 郷田真隆 00 鈴木大介 01 久保利明 02 森内俊之 03 佐藤康光 04 渡辺明 05 山崎隆之 廃止 表 話 編 歴 74 木村義雄 75 大山康晴 76 大山康晴 84 谷川浩司 85 加藤治郎 86 大山康晴 87 大内延介 90 二上達也 92 大山康晴 94 米長邦雄 95 谷川浩司 96 羽生善治 97 清水市代 99 村山聖 03 谷川浩司 09 中原誠 13 羽生善治 17 加藤一二三 18 藤井聡太 20 木村一基 VIAF 日本 将棋棋士 広島県出身の人物 膀胱癌で亡くなった人物 1969年生 1998年没 Pages using the JsonConfig extension 名無しリンクを引用している記事/2024年9月 名無しリンクを引用している記事/2024年8月 ウィキデータにある棋士番号 VIAF識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2024/11/16 23:01更新
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murayama satoshi
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