もしもし情報局 > 1918年 > 5月18日 > 野球選手

藤本英雄の情報 (ふじもとひでお)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月15日】今日誕生日の芸能人・有名人

藤本英雄の情報(ふじもとひでお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

藤本 英雄さんについて調べます

■名前・氏名
藤本 英雄
(読み:ふじもと ひでお)
■職業
野球選手
■藤本英雄の誕生日・生年月日
1918年5月18日 (年齢78歳没)
午年(うま年)、牡牛座(おうし座)
■出身地・都道府県
山口出身

藤本英雄と同じ1918年生まれの有名人・芸能人

藤本英雄と同じ5月18日生まれの有名人・芸能人

藤本英雄と同じ出身地山口県生まれの有名人・芸能人


藤本英雄と関係のある人

嶋清一: 戦争がなければ職業野球(プロ野球)に入ってもっと活躍していただろう」と語ったり、大学の先輩である藤本英雄が「(岐阜商業出身の捕手・加藤三郎とともに)ぼくの知っている野球選手で、このふたりは今度の戦争で失ったのが最も悔やまれる」と記している。


小島利男: 同チームがこの年、巨人の藤本英雄にプロ野球史上初の完全試合を許した時は、代打として出場し最後の打者であったが、職業野球黎明期、澤村栄治がプロ野球史上最初のノーヒットノーランを達成した昭和11年9月25日、タイガースのスタメンで4番打者を務めたが、レフトフライに討ち取られ、無安打無得点試合が達成された最初の試合でも、最後の打者となっている。


田部輝男: 同年6月28日の巨人戦で藤本英雄に日本プロ野球史上初の完全試合を喫した試合では5番打者であった。


東晃平: これは1942年に10連勝を達成した藤本英雄以来(81年ぶり)史上3人目、2リーグ制後では史上初の快挙であった。


杉浦忠: また、同年は日本プロ野球史上5人目、リーグ分立後は2人目となる投手五冠王(勝利、防御率、奪三振、完封数、勝率)を達成しているが、この記録は2022年現在までに杉浦の他に沢村栄治(読売ジャイアンツ、1937年春)、ヴィクトル・スタルヒン(読売ジャイアンツ、1938年秋)、藤本英雄(読売ジャイアンツ、1943年)、杉下茂(中日ドラゴンズ、1954年)、江川卓(読売ジャイアンツ、1981年)、斉藤和巳(福岡ソフトバンクホークス、2006年)、山本由伸(オリックス・バファローズ、2021・2022年)の8名しか達成していない大記録である。


嶋清一: 当初は藤本英雄・林義一らの陰に隠れて活躍の機会は少なかった。


林義一: 卒業後は1938年に明治大学へ進学し、藤本英雄とチームメイトになったほか、後輩には甲子園で投げ合った嶋がいた。


水原茂: ここで、品川は若返りのための組織の一新としてチーム改革を主張し、投手コーチ・谷口五郎、二軍監督・藤本英雄、コーチ・内堀保の更迭、平井三郎と南村侑広の現役引退を打ち出す。


入谷正典: 藤本英雄の2番手としてマウンドに上がったが、小林章良に2ラン本塁打を打たれて降板。


稲尾和久: 得意の球種はスライダーで、青田昇は「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは、藤本英雄、稲尾和久、伊藤智仁の三人だけ」と評価している。


真田重蔵: この年の8月に宇高産業が新たなプロ野球チーム(のちの宇高レッドソックス)を結成して、日本野球連盟傘下の各球団の主力選手(巨人の藤本英雄、近畿の安井亀和・河西俊雄ら)に引き抜き攻勢をかけた際、ターゲットとなった真田は支度金を受け取ってしまう。


堀内庄: 別所毅彦・藤本英雄ら当時の巨人のベテラン投手陣は「新田理論」に対してコントロールが付かないと批判的な目で見ていたが、実際に堀内は速球の早さは別所にも負けない一方で、制球力に課題があった。


寺山修司: 1950年(昭和25年)、青森市営球場で藤本英雄が達成した日本プロ野球史上初の完全試合を現地で観戦する。


松田清: 大きく割れるカーブと藤本英雄から伝授されたスライダーを武器に、3年目の1951年から実力が開花。


多田文久三: しかし、1947年になると、前年度23勝の近藤貞雄が負傷、同21勝の藤本英雄が中日へ移籍という状況の中で、多田は投手に再コンバート。


川崎徳次: 1949年も藤本英雄(24勝)に次ぐ19勝を挙げ、巨人の戦後初優勝に貢献した。


大島信雄: 当時活躍していた藤本英雄を抑えて、セ・リーグ初代の最優秀防御率、最高勝率、新人王のタイトルに輝き、松竹のリーグ優勝にも貢献した。


児玉利一: 岩本義行、杉浦清、吉田正男、藤本英雄ら錚々たるメンバーと共に六大学史上初の4連覇に貢献。


東晃平: 2024年は4月4日の西武戦で7回3安打1失点で勝利投手となり『オール先発白星でのデビューから8連勝』を果たした(藤本英雄以来82年ぶり)。


多田文久三: 1950年6月28日、青森市営野球場で行われた対西日本パイレーツ戦で登板予定であったが、食当たりの腹痛で登板できなくなり、多田に代わって登板した藤本英雄が日本プロ野球史上初の完全試合を達成している。


山川武範: なお、同年6月28日の対西日本戦(青森)で藤本英雄が完全試合を達成したが、この試合で山川は遊撃手として先発。


石本秀一: 1942年秋に明治大学から中上英雄(藤本英雄)が巨人入りし大活躍した。


三浦方義: 五戸高校2年次の1950年6月28日に青森市営球場で行われた巨人-西日本戦を観戦し、この試合で巨人先発の藤本英雄が日本プロ野球史上初の完全試合を達成したのを目撃。


宇野光雄: 療養中の1948年には同じく肩を壊して調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習得のきっかけとなった。


水原茂: 品川は藤本英雄・谷口五郎の両コーチの解任と平井三郎・南村侑広の現役引退を決めるが、水原は藤本の解任に反対した。


塚本博睦: 迎えた6月28日、対読売ジャイアンツ戦で、チームは藤本英雄に日本プロ野球史上初の完全試合を喫した。


南村侑広: 麻雀の腕は悪くないが勝負には弱く、同僚の別所毅彦に大負けして1ヶ月の負けが12万円に達した(当時の南村の月給が10万円ほど)、あるいは別所が南村と藤本英雄から勝った金で自宅を建て増しして『南藤の間』と名付けたなどの逸話がある。


三原脩: 巨人監督時代に藤本英雄(1950年6月28日)、西鉄時代に西村貞朗(1958年7月19日)、大洋時代に島田源太郎(1960年8月11日)と佐々木吉郎(1966年5月1日)、近鉄時代に佐々木宏一郎(1970年10月6日)の完全試合を自軍監督として見届けている。


ジャイアント馬場: さらに馬場を評価し後ろ盾となっていた藤本英雄投手コーチが退団したこともあり、同年オフに巨人を自由契約となった。


大友工: 1年目は制球力に課題がありその年から出来た二軍暮らしとなるが、既にブルペンでは当時のエース格であった別所毅彦・藤本英雄に勝るほどの速球を投げていたという。26勝の藤本英雄が痔の手術、22勝の別所毅彦が怪我で投げられない中で、大友は10月以降9試合に先発を任されるなど積極的に起用されて4勝を挙げる。


藤本英雄の情報まとめ

もしもしロボ

藤本 英雄(ふじもと ひでお)さんの誕生日は1918年5月18日です。山口出身の野球選手のようです。

もしもしロボ

選手としての特徴、人物などについてまとめました。引退、卒業、現在、病気、結婚、テレビ、家族、映画に関する情報もありますね。78歳で亡くなられているようです。

藤本英雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

藤本 英雄(ふじもと ひでお、1918年5月18日 - 1997年4月26日)は、韓国釜山生まれ、山口県下関市彦島育ちのプロ野球選手(投手)・コーチ・監督、解説者。韓国名は李 八龍(이팔용)。日本名は後に中上 英雄(なかがみ ひでお)。

1940年代から50年代前半にかけての巨人の主力投手。明治大学では34勝するなどエースとして2度の優勝に貢献。1943年に巨人に入団するといきなり10連勝、翌1944年も34勝を挙げ優勝に貢献。この年に記録した、防御率0.73、19完封は日本プロ野球記録。1944年には史上最年少の25歳で監督に就任している。戦後は肩を痛めるも、スライダーをマスターして巨人の主力投手に復活し、1950年には日本プロ野球史上初の完全試合を達成した。通算成績でも防御率1.90、勝率.697の日本プロ野球記録を持つ。引退後は巨人の二軍監督・コーチを経て、社会人野球の大和証券の監督を務め都市対抗野球にも出場した。1976年に野球殿堂入り。

釜山で生まれ、8歳の時に下関市の彦島に移り、小学校4年で野球を始める。旧制下関商時代は1935年春と1937年春に甲子園へ出場。この頃は毎日彦島からの連絡船に乗って通学していたが、同じ船に同乗していた後の木暮実千代が、藤本のファンであったという。

下関商はどちらかというと法政大学系であったが、明治大学出身の迫畑正巳からコーチを受けたことから、1938年に明治大学に進学する。また、卒業に際して金鯱軍の岡田源三郎からも誘いを受けたが、進学を理由に断りを入れている。大学同期の投手に林義一がいる。藤本の直球の球威からケガを防止するため、捕手は投球練習であってもレガースとプロテクターを付けていたという。1940年に明治大学黄金時代のエース清水秀雄が中退して職業野球入りすると、藤本がエースとなり秋季リーグでは4勝無敗、防御率0.62を記録して優勝に貢献。1942年の春季リーグでも9勝1敗(うちノーヒットノーランを含む3完封)、さらには打撃でも.310でベストテンに入るなど一人気を吐いて、再び優勝に貢献した。しかし、同年9月に文部省の措置により繰り上げ卒業となった。明治大学時代は通算34勝9敗(勝利数は六大学歴代10位、明大の投手としては現在も最多)を記録している。

大学卒業に当たって、東京巨人軍のほか朝日軍・南海軍・阪急から勧誘を受ける。下関商業の先輩である巨人軍の平山菊二の誘いを受けて巨人軍代表の市岡忠男と会って入団を決心し、シーズン途中の9月25日に東京巨人軍へ入団。六大学随一の豪速球投手のプロ入りで、当時主将の水原茂が応召された直後ということもあり、9月27日の対大洋戦での初登板の際には読売新聞に先発予告が掲載されるなど大々的に宣伝され、当時の巨人主催試合の動員新記録(16,942名)を作った。しかし、この時の藤本は1か月ほど練習ができておらず調子は最低で、野口明や佐藤武夫に本塁打を打たれて3点を失い、8回からはスタルヒンのリリーフを受けてようやく勝利投手となった。監督の藤本定義によると、藤本が十分に調整をして臨んだら、当時の職業野球では到底打てるはずがなく、打てないとなると「なんだ職業野球は、六大学より弱いのか」と見られてしまう。そこで、職業野球の強さを見せておく必要があるため、藤本の調子が上がらないうちにデビューさせたという。藤本は10日ほどたつと体調も万全となり、3試合目の登板となる10月6日の朝日軍戦で2勝目を完封で飾るとその後も閉幕まで勝ち続け、新人ながら無傷の10連勝を果たす。

2年目の1943年には、前年度26勝のスタルヒンが病気で、21勝の広瀬習一が応召でそれぞれ戦列を離れる中、藤本はエースとして孤軍奮闘する。まず、5月22日の名古屋軍戦(後楽園)でノーヒットノーランを達成。また、夏場の7月16日から8月17日の1か月間に8完封を含む11連勝を記録し、100イニングでわずか自責点2、さらに8月1日から9月15日にかけて62イニング無失点と打者を圧倒した。結局、シーズンではチーム84試合中の46試合に先発し、34勝、防御率0.73、253奪三振で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠、さらに勝率.756で最高勝率を受賞し、19完封もリーグ1位で、1937年春の沢村栄治、1938年秋のヴィクトル・スタルヒンに次ぐ日本プロ野球史上3人目の投手五冠を達成した。防御率0.73、19完封は現在も日本プロ野球記録として残っている。このシーズン藤本は投手として圧倒的な成績を残すが、最高殊勲選手はリーグで唯一の三割打者であった呉昌征が選ばれたため、惜しくも選に漏れた。なお、この年に結婚して中上家の婿養子となるが、選手としての登録名は「藤本英雄」のまま引退まで通している。

1944年は投手ながら3番を打ち、監督と主将も兼任。人員不足の戦中にあってチームを支えた。25歳での監督就任は日本プロ野球史上最年少記録であり、これは未だ更新されていない。選手は産業戦士として午前中は東芝府中工場で働き、午後は野球の練習を許されたが、グラウンドはどこも芋畑になっていて使えなかったため、時々ではあったが藤本のつてで代田橋にあった明治大学グラウンドを借りて練習していたという。この状況の中で同年の春期シリーズでは、11勝3敗の勝率.786で阪神と同率首位となる。藤本は選手としても須田博(スタルヒン)の6勝に次ぐ5勝(2敗)、打率.320を記録して陣頭指揮でチームを牽引した。しかし、夏季シリーズでは国籍を理由に須田が出場できなくなり、負担がかかった藤本は調子を落として5勝6敗に終わる。チームも8勝11敗と負け越し、主力選手がほとんど残っていた阪神に優勝を掠われて巨人は7連覇を逃した。

1946年途中まで監督を兼任し、同年シーズン途中に中島治康が兼任監督として巨人に復帰したのを受けて選手専任に戻る。この年は近藤貞雄(23勝)に次ぐ21勝を挙げ、防御率2.11で再び最優秀防御率を獲得。しかし、藤本が巨人と再契約する時に受け取った5,000円の契約金について、球団代表・市岡忠男からの「シーズン後にまた返すから一旦返してほしい」の求めに応じて返還したが、シーズン後になっても返還されなかったことで球団に不信感を抱く。そのような状況の中で中部日本ドラゴンズ球団代表の赤嶺昌志の勧誘を受け、1947年に中日へ移籍する。中日への移籍については、中島との監督交代に伴う感情問題が原因ともされる。当時中日には清水秀雄・杉浦清といった明大出身の主力選手がいたが、明大関係での勧誘ではなく、かえってお互いをライバル視してしまい、簡単に団結はできなかったという。中日では17勝、防御率1.83(リーグ2位)を記録し、清水秀雄(23勝)・服部受弘(16勝)とともに中日の2位躍進の原動力となる。しかし、シーズン後半に肩を故障。8月上旬以降5連敗してしまい、勝ち星を伸ばせないまま9月末で戦列を離れた。

1948年に三原修総監督の要請で巨人に復帰するが、巨人は中日に対して6万円の移籍金を払ったともされる。シーズン初めは主に外野手として出場。今度は足を故障し、投手へと戻らざるを得なくなった。幸い、外野手に転向している間に投球ができる程度に肩は回復。投手復帰に向けた練習をしていた頃、同じく肩を痛めて二軍にいた宇野光雄とキャッチボールをしていたところ、藤本の投げたボールがぱっと右へ切れたことを宇野が指摘。これをきっかけに、ボブ・フェラーの投球術の本『ハウツウ・ピッチ』(あるいはハル・ニューハウザーの『ハウ・トゥ・ピッチング』)を参考にしてスライダーを習得。肩の故障で球威は落ちたものの復活し、1949年にはラビットボール導入でリーグ全体の投手成績が悪化する中、リーグでただ一人防御率1点台(1.94)を記録。自身3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得し、勝利数も24勝(リーグ2位)を挙げるなど安定した成績を残した。

1950年6月28日の西日本戦(青森)では蟹の食べ過ぎで腹痛を起こした多田文久三に代わって先発を務め、日本プロ野球史上初の完全試合を達成。藤本自身も前夜「青森での登板はないだろう」と判断して、函館から青森に移動する青函連絡船の中で徹夜マージャンに興じ、ほとんど睡眠をとらない状態で登板しての記録達成だった。しかし、この試合に新聞記者は4人いたがカメラマンがいなかったため、達成時の写真がないという華々しさが残らない結末となった(梅雨を避けての東北・北海道遠征の最中で前日の函館での試合のあと、遠征に帯同していた記者たちのほとんどが東京に戻ってしまっていたという)。当時中学生だった寺山修司がこの試合を観戦しており、バットボーイは少年時代のなかにし礼が務めた。この年も26勝(リーグ3位)、防御率2.44(同2位)の好成績を挙げる。

1951年は15勝、防御率3.13(リーグ10位)の成績だったが、23勝の松田清、21勝の別所毅彦を差し置いて、野手陣から推されて、南海ホークスとの日本シリーズ第一戦に先発登板する。この試合で10安打を打たれながら要所を押さえて完封勝利すると、第5戦でも2失点で完投勝利を挙げて胴上げ投手となった。その後も、1952年は16勝6敗、防御率2.36(リーグ6位)、1953年は17勝6敗、防御率2.08(リーグ2位)と安定的な記録を残すなど、1949年から1953年までの5年間に毎年15勝以上を記録し、別所毅彦・大友工らとともに第二期黄金時代の巨人の投手陣を支えた。1954年に指のケガにより1勝に終わる。

1955年になると球威が激減するなど急速に衰えが見られて、開幕から戦列を離れていた。唯一の登板となった10月11日の広島戦(和歌山)で、先発の堀内庄の後を受けて試合中盤の5回から登板。向かい風を活かしたカーブで好投して1安打無失点に抑え、200勝を達成。同年限りで現役を引退

1956年は巨人の二軍監督に就任するが、あまりに規則が厳しくて選手が困ったという。1957年は一軍投手コーチに遷るが、日本シリーズで西鉄に敗れると、品川主計球団社長によって谷口五郎と共にコーチを解任された。

巨人退団後は明大の先輩である小西得郎の招聘で大和証券監督(1958年 - 1961年)を務め、1961年にはチームを都市対抗に導いた。当時大和証券の役員の一人が偶然にも藤本と同じ下関商業出身で、この話はスムーズに運ばれ、形としては小西総監督・中上監督体制となった。チームでは後に明大で監督、総監督を務める別府隆彦、1年目の小弓場保・三田晃がプレーしていた。関東学院大学と対戦した際には青木宥明にノーヒットノーランに抑えられるが、藤本は「サイドからのシュートはプロ向きかな」と感じて古巣の巨人に紹介している。

その後は日本テレビ「○曜ナイター」解説者・報知新聞評論家を務め、1968年には祖国・韓国を訪問。ソウル・釜山・大田・大邱で少年野球教室を開いたほか、韓国野球協会設立にも尽力し、野球の普及に務めた。

1973年には妻と共にアメリカカリフォルニア州ロサンゼルスへ渡り、読売新聞ロサンゼルス支局駐在員に就任。事実上は巨人の米国担当スカウトとして活動し、スコアブックをつけながら、米国各地を回った。藤本がロサンゼルスで生活していた頃、子供達家族も夏休みになると、ロスで楽しい夏休みを過ごした。英語の勉強をしながらフジテレビ「アメリカ大リーグ実況中継」解説者(1978年 - 1979年)も務め、パイレーツが1勝3敗からオリオールズに逆転で世界一となった1979年のワールドシリーズでは報知新聞に全7戦の評論を寄稿。第1戦では「朝ホテルの窓から外を見たら雪が積もっていた…」と現地から報告し、午後に雪交じりの雨が止んで試合が決行すると、気温3度の中で行われた試合の様子を伝えた。原稿の締めでは「かつて日本人は内野守備がうまいといわれたが、守備範囲の広さなど、このシリーズを見ただけでもまだまだ差がある。確かにつまらぬミスも多い。またそこが楽しい」とメジャーの魅力を語った。1976年に野球殿堂入り。

1997年4月26日午前1時22分、心筋梗塞のため東京都千代田区の東京警察病院で死去。78歳没。

選手としての特徴

非常にスタミナがあり、試合前の投球練習で少なくとも100球投げ、試合中は前半より後半、連投であれば前日より翌日の方が調子が良かった。

藤本とは巨人軍入団同期の青田昇が語ったところによると、「藤本英雄のスライダーは、投げてから手元でホップするところまではストレートと同じで、そこからスッと曲がった。後のプロ野球で藤本英雄と同じスライダーを投げたのは、稲尾和久と伊藤智仁しかいない」という。

投手ながら打撃がよく、1944年に打率.268を打って打撃成績9位に入ったほか、1950年に放った7本塁打は、2010年代に二刀流の大谷翔平が登場するまで、長く投手としての最多本塁打記録となっていた。日本シリーズでも19打数6安打で打率.316の記録を残している。1946年12月に公開された映画「二死満塁」の宣伝企画として、同年11月に読売杯争奪日本野球大会において、大映が「二死満塁にホームランを打った選手に賞金一万円」懸賞を企画した際には、投手ながら野手を押しのけて本塁打を打ち、賞金を獲得した。

人物

二軍監督時代に知人の勧めでゴルフを始め、持前の練習熱心さを発揮して、めきめき上達しハンディーも5くらいになった。藤本の影響で、2人の息子も学生時代に入っていた野球部を辞めて、大学でゴルフ部に入った。家族で千葉カントリークラブのメンバーになり、娘も子育てが一段落してからゴルフを始めて、藤本親子でラウンドして楽しんだ。晩年は、孫もゴルフ部であったため、3世代でラウンドできた。

麻雀も好きであったが、役満に対して平和で突っ張るなど、相手が大きな手を作れば作るほど立ち向かっているところがあり、下手ではないが、勝負には弱かった。1950年に完全試合を達成した際に球団から5万円の賞金が出たが、全額が麻雀のつけとして川上哲治・青田昇・別所毅彦に取られてしまう。周囲は気の毒に思って、一時藤本をメンバーから外したところ、藤本は野球場へ移動する際に麻雀牌を1つユニフォームのポケットに入れて出かけるようになった。当時、麻雀牌を揃えることは簡単でなく、牌が1つ欠けるとゲームができなくなってしまったため、やむなく再び藤本がメンバーに加えられたという。

2024/06/10 03:34更新

fujimoto hideo


藤本英雄と同じ誕生日5月18日生まれ、同じ山口出身の人

受田 新吉(うけだ しんきち)
1910年5月18日生まれの有名人 山口出身

受田 新吉(うけだ しんきち、1910年5月18日 - 1979年9月21日)は、昭和期の政治家。衆議院議員(12期)。 山口県大島郡大島町(現周防大島町)出身。日本大学法科卒業。青年学校長、中学…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


藤本英雄と近い名前の人

藤本 隆宏_(俳優)(ふじもと たかひろ)
1970年7月21日生まれの有名人 福岡出身

1995年:劇団四季入団 1997年:初舞台 1998年:劇団四季退団 2004年:『エリザベート』エルマー役 2009年:『坂の上の雲』 藤本 隆宏(ふじもと たかひろ、1970年7月21日 - …

藤本 隆宏_(経営学者)(ふじもと たかひろ)
1955年6月12日生まれの有名人 東京出身

藤本 隆宏(ふじもと たかひろ、1955年6月12日 - )は、日本の経営学者。東京大学大学院経済学研究科教授 (1999年 - 2021年)を経て、早稲田大学大学院経営管理研究科ビジネス・ファイナン…

藤本 泉_(タレント)(ふじもと いずみ)
1991年10月21日生まれの有名人 埼玉出身

藤本 泉(ふじもと いずみ、1991年10月21日 - )は、日本の女優。埼玉県出身。 かつてはスターダストプロモーション芸能1部に所属していた。 中学時代、強い目力がスカウトの目に留まり、現所…

藤本 主税(ふじもと ちから)
1977年10月31日生まれの有名人 山口出身

藤本 主税(ふじもと ちから、1977年10月31日 - )は、山口県出身の元プロサッカー選手(MF)。元日本代表。サッカー指導者。徳島県育ちであることから、ゴールを決めると阿波踊りのパフォーマンスを…

藤本 淳吾(ふじもと じゅんご)
1984年3月24日生まれの有名人 神奈川出身

藤本 淳吾(ふじもと じゅんご、1984年3月24日 - )は、神奈川県大和市出身の元プロサッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー。元日本代表。 小学生の頃より地元の横浜マリノスプラ…

藤本 永治(ふじもと えいじ)
1931年7月5日生まれの有名人 東京出身

藤本 永治(ふじもと えいじ、1931年7月5日 - 2018年11月)は毎日放送(MBS)の元アナウンサーである。愛称は「MBSの永ちゃん」(矢沢永吉に対抗して)。 東京都出身。中央大学卒業後、…

藤本 万梨乃(ふじもと まりの)
1995年10月30日生まれの有名人 福岡出身

藤本 万梨乃(ふじもと まりの、1995年10月30日 - )は、フジテレビ所属の女性アナウンサー。 福岡県出身。福岡雙葉小学校、福岡雙葉中学校・高等学校を卒業後、一浪して東京大学理科二類に入学し…

藤本 真理子(ふじもと まりこ)
1970年1月29日生まれの有名人 福岡出身

藤本 真理子(ふじもと まりこ、1970年1月29日 - )は、日本の女優、タレント、モデル。福岡県出身。身長163cm。血液型O型。趣味は読書、料理。特技は剣道(2級)、テニス、ピアノ演奏。1999…

藤本 理子(ふじもと りこ)
2002年7月3日生まれの有名人 神奈川出身

藤本 理子(ふじもと りこ、2002年7月3日 - )は日本映画大学に在学する日本の女子大生タレント・YouTuber。 友達と趣味でやっている自主制作映画での共演がきっかけで知り合った友人から、…

藤本 統紀子(ふじもと ときこ)
1935年2月11日生まれの有名人 出身

藤本 統紀子(ふじもと ときこ、1935年〈昭和10年〉2月11日 - )は、日本のタレント、エッセイスト。作家・藤本義一の妻。義一との間に2女があり、次女はアーティストのフジモト芽子(まいこ)。 …

藤本 あき(ふじもと あき)
1962年12月15日生まれの有名人 愛知出身

藤本 あき(ふじもと あき、1962年12月15日 - )は、日本の元歌手、タレントである。本名︰君塚 明恵(きみつか あきえ)、旧姓︰加藤。アイドルグループ、トライアングルの元メンバー。 愛知県…

藤本 ゆき(ふじもと ゆき)
1988年1月14日生まれの有名人 兵庫出身

藤本 ゆき(ふじもと ゆき、1988年1月14日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント。兵庫県神戸市出身。愛称は「ゆっきゃ」。所属事務所はエイムプロモーション。かつてはノイエに所属していた。 …

藤本 綾(ふじもと あや)
1983年1月28日生まれの有名人 大阪出身

藤本 綾(ふじもと あや、1983年1月28日 - )は、日本の元グラビアアイドル、元スポーツキャスター、元タレント。大阪府出身。 2000年、第25回ホリプロタレントスカウトキャラバンでグランプ…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
藤本英雄
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手) 石山順征

グループ

TOKIO 私立恵比寿中学 Ya-Ya-yah PASSPO☆ SMAP SUPER EIGHT HKT48 SUPER☆GiRLS Rev.from DVL アイドリング 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「藤本英雄」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました