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富野由悠季の情報 (とみのよしゆき)
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富野 由悠季さんについて調べます

■名前・氏名
富野 由悠季
(とみの よしゆき)
■職業
アニメ演出家
■富野由悠季の誕生日・生年月日
1941年11月5日
巳年(へび年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

富野由悠季と同じ1941年生まれの有名人・芸能人

富野由悠季と同じ11月5日生まれの有名人・芸能人

富野由悠季と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


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富野由悠季と関係のある人

佐藤順一: 自ら「アニメ屋」と名乗ることがあるが、由来は富野由悠季の言葉。


かんべあきら: 新機動戦記ガンダムW EPISODE ZERO(原作:矢立肇・富野由悠季、シナリオ:隅沢克之、1997年)


谷田部勝義: その後富野由悠季、高橋良輔のもとで演出を学び、フリーランスとなる。


朴璐美: 演劇集団 円の研究所で一つと下の期にいたところ、同い年の富野由悠季の長女の富野アカリが演出部に入り、その時は、「『ガンダム』の娘がいる」と話題になっていた。


カトキハジメ: ガンダムの原作者富野由悠季からは、Vガンダムのデザインワークに対し「彼の絵の晴れやかなルックスがあったおかげで、救われた」「エンジェル・ハイロウのデザインを彼にまかせたらもっといい形になっていたでしょう」と評価する一方、「旧来のガンダム的なものに汚染されている」「オーバーデコレーションにしかならない」との酷評もある。


久織ちまき: 機動戦士ガンダム ハイ・ストリーマー(著:富野由悠季


千明太郎: 機動絶記ガンダムSEQUEL(『コミプレ』、2022年7月より連載中) - 脚本:井上敏樹、原作:矢立肇、富野由悠季


亀井希生: 2019年11月7日(古川がアシスタントを務める木曜日)に放送された「美術館にいこう! 特別編」では、「富野由悠季の世界」(兵庫県立美術館で同年10月12日から12月22日まで開催)の作品紹介を兼ねた館内ロケで、古川との夫婦共演を果たした。


伊東恒久: 機動戦士ガンダムF91 ※富野由悠季と共同執筆


鴨志田一: 機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ 月鋼(「ガンダムエース」2016年6月号 - 2018年5月号 全4巻)- 原作:矢立肇、富野由悠季/作画:寺馬ヒロスケ、団伍


高千穂遥: 1980年代に富野由悠季と行った対談の冒頭で「OUTに文章を書くと、ファンにやたらと"富野さんをいじめないで"といわれるよ。


吉川惣司: 1970年代後半から1980年代にかけては富野由悠季監督や高橋良輔監督のサンライズのロボットアニメに数多く参加し、脚本を提供した。


山下明彦: 10代の頃、富野由悠季作品に影響を受け、なかでも湖川友謙に憧れ絵描きを志すようになる。


飛田展男: 後で主役に決まった際は監督たちはコメントを聞いていないんだろうと思っていたが、監督の富野由悠季から作品への思い入れや続編を作ることになった理由などを話され納得したという(富野からは作品に対する思い入れや業界の事情から、『機動戦士ガンダム』の続編を作ることになった理由を全部話されたといい、ひと通り話し終わったところで飛田の方を向き「あなた、納得しましたか!?」と言った)。


星山博之: 1999年に、ガンダムシリーズ放映20周年を記念した原点回帰を意図した作品『∀ガンダム』を製作するに当たって、富野由悠季が最初にコンタクトをとった人物でもある。


海部正樹: 富野由悠季が監督を務めたテレビアニメ『ブレンパワード』でアニメプロデューサーとしてデビュー。


吉川惣司: 代役は富野由悠季が務めた。


出﨑統: 富野由悠季は後年、同作に各話演出で参加した際に出﨑の仕事を見て「日本のテレビアニメ界に天才がいる」と衝撃を受け、年下の出﨑を大先輩と敬い、頭を下げることができたと述べている。


出渕裕: ちょうどその頃、入れ替わるようにアニメ監督の富野由悠季らが大人の興味を引き付けるような複雑なストーリーの作品を制作するようになったため、興味はアニメに移った。


木崎ひろすけ: 小説「密会〜アムロとララァ」(作:富野由悠季、『角川mini文庫』1997年刊行))


永野護: 互いに学生時代の頃から12年の交際を経て1991年に挙式し、富野由悠季夫妻が仲人を、ガンダムの登場人物であるギレン・ザビ役の声優・銀河万丈が披露宴の司会を務めた。


池原しげと: その際、富野由悠季に絵コンテの描き方などを教わった。


ゴツボ×リュウジ: 『ガンダム Gのレコンギスタ』第1巻(原作:富野由悠季、漫画:太田多門、2014年12月26日発売) - 寄稿


川村万梨阿: その頃、友人の手伝いでアニメ雑誌でアニメ監督の富野由悠季を取材し、しばらくして新作のオーディションを受けるように誘われて、1983年(昭和58年)に『聖戦士ダンバイン』(チャム・ファウ役)で声優デビュー。富野由悠季作品には、その後も、1985年(昭和60年)の『機動戦士Ζガンダム』(ベルトーチカ・イルマ役)と、同枠の作品に続けて出演。


今川泰宏: 以後、日本サンライズの富野由悠季監督作品『重戦機エルガイム』『機動戦士Ζガンダム』の両ロボットアニメで絵コンテと演出を継続し、『Ζガンダム』の途中で降板した。


湖川友謙: 日本サンライズでは1980年の『伝説巨神イデオン』から富野由悠季とコンビを組み、1984年の『重戦機エルガイム』まで片腕として活躍した。


石垣純哉: アベニールをさがして(1995年、イラスト、著・富野由悠季


杉崎ゆきる: ブレンパワード(原作:富野由悠季


高松信司: 高橋良輔監督の下で『装甲騎兵ボトムズ』『機甲界ガリアン』などの制作進行を務めた後、1985年、富野由悠季監督の下で『機動戦士Ζガンダム』の設定制作を経て同作品の第31話「ハーフムーン・ラブ」で演出デビュー、『機動戦士ガンダムΖΖ』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争』とガンダムシリーズに携わる。


福山潤: CLAMPが関連する作品、富野由悠季が監督の作品に多く出演している。


富野由悠季

もしもしロボ

富野 由悠季(とみの よしゆき)さんの誕生日は1941年11月5日です。神奈川出身のアニメ演出家のようです。

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富野家、経歴などについてまとめました。テレビ、現在、映画、卒業、母親、退社、父親、結婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。

富野 由悠季(とみの よしゆき、1941年〈昭和16年〉11月5日 - )は、日本のアニメーション監督、演出家、脚本家、漫画原作者、作詞家、小説家。本人は演出家・原案提供者としている。日本初の30分テレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』の制作に携わるなど、日本のテレビアニメ界をその創世期から知る人物。祖父は東京府南葛飾郡大島町(現・東京都江東区の一部)町長を務めた富野喜平次。

代表作は『機動戦士ガンダム』などのガンダムシリーズ、『伝説巨神イデオン』、または『聖戦士ダンバイン』他のバイストン・ウェル関連作品など。

本名は漢字表記が異なる富野 喜幸(読み同じ;よしゆき)で、1982年以降は富野由悠季というペンネームを原作、監督、小説執筆の時に使うようになった。喜幸という名前は、両親の喜平と幸子の一文字ずつをとって付けられた。

作詞家としては井荻 麟(いおぎ りん)で、日本サンライズ事務所のあった上井草駅が西武新宿線井荻駅の隣であることに由来する。ほか、絵コンテ、脚本、演出にとみの善幸、斧谷 稔(よきたに みのる)、斧谷 喜幸(よきたに よしゆき)、作画監督に井草 明夫(いぐさ あきお)、声の出演に井荻 翼(いおぎ つばさ)などの別名義を使う。

富野家

富野家は代々地方の旧家であり、東京・大島(江東区)の大地主であった。祖父・喜平次は大島町長や大塚護謨工作所監査役を務めた。また伯父・徳次郎はのち家督を相続し、喜平次を襲名した。なお、父・喜平は兄8人姉8人の末っ子で両親に育てられず、本家で腹違いの長男(徳次郎)夫婦に育てられた。

曽祖父・喜平治(1832年9月 - 没年不明)

    地主。

    祖父・喜平次(前名:佐太郎、1857年11月12日 - 没年不明)

      大島町長。大塚護謨工作所監査役。所得税調査委員。

      父・喜平(1909年2月 - 2005年頃)

        喜平次の九男。日本加工織布社員。日本大学文科卒。96歳で死去。

        母・幸子(1915年生)

          大島町会議員・田中佐吉の長女。府立第七高等女学校卒。のち夫・喜平とともに分家。実家はセルロイド玩具製造業。富野曰く、大正期にはセルロイドの人形をアメリカに輸出してかなり成功していたという。

          伯父・喜平次(前名:徳次郎、1886年8月9日 - 1965年3月13日)

            喜平次の長男(または三男)。地主。東京府会議員。

            従兄・正男

              徳次郎(喜平次)の長男。第三高等学校卒。

              経歴

              1941年、神奈川県小田原市生まれ。同年生まれのアニメ監督に宮崎駿や同じ虫プロ出身のりんたろうがいる。富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。母についてはあまり語っていないが、幼少期の冨野に「おまえは弱い子なんだよ」と刷り込みのように言い聞かせ、自身の虚弱体質ぶりを自覚させていたという。父は写真家を志し、20歳を過ぎて日大芸術学部の美術・美学専攻学科に入学して、30歳近くまで学生であったが、在学中に太平洋戦争が始まると、徴兵を嫌って化学分野の技術者として小田原の軍需工場で零戦の与圧服の開発スタッフとして勤め、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという。この父の影響で、小学4年の頃は航空宇宙学に携わる仕事に就きたいと考え、中学1年の頃には理工学系、若しくは機械系の仕事を志すようになるが、中学2年になって数学で挫折し、高校受験で工業高校に落ちたことで、理工学系の夢を捨て、文系に切り替えざるを得なくなり、高校の3年間は物語を書くための基礎的な勉強や、小説を書くための練習を行う傍ら投稿を行うようになる。

              幼児期の冨野は食が細く、オムツ離れや走ることも遅い方だった。また神経が過敏なところがあり、空から降る雪や砂浜に押し寄せる波を極度に恐れていたという。小学生の頃は同級生たちから孤立していた。また、本人曰く「英単語や数字を覚えることが苦手で、あまり勉強出来なかった」という。当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。小学生の時に手塚治虫の「アトム大使」(「鉄腕アトム」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」を連載していた雑誌『少年』を毎月買ってくれるように頼む。この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる。この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。

              戦後に流入したアメリカ合衆国の『月世界征服』や『禁断の惑星』などのSF映画を鑑賞してショックを受けると同時に、映画作りは途方もない労力がかかることを知る。また工業系ではない普通の相洋高等学校に入学したことで、卒業後に就職が出来ず、大学に進まざるを得なくなり、日本大学芸術学部映画科しか入学できる余地がなかったため、親から借金をして進学する。同大学には一年先輩に山本晋也、同窓に神山征二郎がいるが、どちらも面識はなく、交流もなかった。映画学科の演出コースを専攻したものの、1年と2年の授業は一般教養が主で、それに付随する形で映画関係者の講座が散発的に行われる編成だった。1年の時に演出を志す者としてシナリオを理解するために、シナリオを数本書く課題があり、高校時代に小説を執筆した経験が活かされて無事こなすことが出来たが、映画関係者が行う講座には全く魅力を感じず、学生にアーカイブの映画フィルムを貸し出すシステムも存在しなかったので、1年の2学期から3年の1学期いっぱい迄、ほとんど授業には出なかった。また、当時の映画産業は先細りの時代を迎えており、富野が3年生となった年に、大手の映画会社は軒並み新規の採用を取りやめ、ドラマ業界は映画会社から移った関係者たちに独占されて、富野のような新卒者が入り込める場所はなくなっていた。

              日大に入学した1960年は、俗に「60年安保」と呼ばれる安保闘争の年で、1年に学部の自治会に入会し、2年時には自治会長を務めていた富野も、自治会連合の執行部である中央執行委員会(以下、中執)に出入りするようになり、そこで初めて安保闘争の概要を把握するようになる。当時、日大の中執は全日本学生自治会総連合のような反社会的な行動は取らず、産学共同を命題に掲げた御用自治会あり、富野は突拍子もない発想を口にする学生たちが物珍しく、2年の秋頃まで入り浸っては彼らを傍観していたが、中執が御用自治会であると把握した途端に嫌気が差し、中執の事務所に隣接していた日本私立大学団体連合会(以下、私学連)の執行部に入り浸るようになる。しかし3年時の夏休みに、私学連の中執総会で副委員長に推薦された際、委員長への推薦ではなかったことに不満を抱き、総会の土壇場で副委員長への就任を拒否したため、総会終了後に周囲から糾弾され、執行部から、1年受諾を条件に卒業後の日大学生課への就職を打診されるも、これも拒否して中執を脱会した。中執とは確執を残したまま卒業したことから、学生課に就職した同期の職員たちから目の敵にされ、彼らが退職した後の2006年に特別講義として招かれるまで、日大とは不和が続いた。このように、学生運動には直接関わらず、一歩引いた立ち位置の傍観者であり続けた富野だったが、一度だけ、司法長官だったロバート・ケネディが1962年2月に来日した際、日大会頭だった古田重二良と面会する折のお先棒を担いだことがあり、学生課の課長からの動員で、赤坂にある日大の迎賓館内にある平屋に、会談が終わるまで他の動員者たちと共に待機し、帰りは古田会頭が手配したベンツのハイヤ-で、中執のメンバーの自宅まで帰った逸話を持っている。

              1964年、手塚治虫の虫プロダクション入社。就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、上述の通り、富野の大学卒業前、すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている。大学3年の10月に、3行広告を見た母親から虫プロが見込み(新卒)採用を行っているという話を聞き、大学から近かったことや、志望していた演出の仕事ができるならばこの際なんでも構わないという気持ちで学園祭の準備期間中に採用面接を受け、学園祭が終わった11月頃に「3月の卒業前でも良いから早く来るように」と通知が届いて採用が決まった。なお、虫プロが見込み採用を行ったのは、後にも先にもこの時一度きりであった。当時アニメは子供のものという認識しかなかったため、大の大人がおもちゃ屋の宣伝番組であるアニメの仕事をやるのは非常に恥ずかしかったと述べている。現在でも、実写ドラマの監督がやりたいという野心があると語っている。

              当時の虫プロダクション(以下虫プロ)は全員を社員として採用しており、『ジャングル大帝』のアニメ制作で別棟を借りる迄、手塚治虫の自宅脇にあるスタジオに百数十人の社員が犇めき合っていた。富野は最初、制作進行および演出助手を担当し、動画→仕上げ→撮影を行うため、必要なカット袋を運ぶ係を担当した。虫プロで富野に仕事を教えていたのは、後にシャフトを起こす若尾博司だった。富野はそこでテレビアニメの業態と基本構造を学び、演出家として、スタジオ内での作業工程の全体把握こそがアニメ制作の肝であることを身体に叩き込んだ。後に人手不足も手伝い、手塚から直々に「演出やらない?」と頼まれた富野は演出・脚本なども手掛けるようになる。富野は自分より年下のスタッフの絵のうまさに衝撃を受け、「彼らに負けない仕事をするにはどうするか?」と悩んだ末に出た答えが「誰よりも早くコンテを描く(切る)」ことだった。

              『鉄腕アトム』では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当する。ある日、鉄腕アトムのシナリオ公募が社内で行われ、富野もシナリオを書いたが没となった。その後、コンテが不足する事態が発生して、没シナリオを元に描いた絵コンテの前半が手塚治虫に認められ、後半部分を描いて制作されたのが、1964年11月放送の第96話「ロボット・ヒューチャー」であり、新田修介の名で演出家としてデビューした。同話では脚本と絵コンテ、及び制作進行を担当している。その翌週から演出部に移行し、同話を含め『アトム』では、最終担当回の「メドッサの館」迄、合計25本の演出と絵コンテを担当し、自ら脚本を書いたエピソードも多い。この演出本数はアトム全体で最も多く、2話連続コンテなども何度かある。そのほとんどがオリジナルストーリーで、原作のエピソードを担当したのは、179話と180話の前後編となった「青騎士」だけである。

              富野は鉄腕アトムについて、アニメ化に際しては虫プロ内で決められた基本設定があり、それに沿って制作した手前、作家性と呼べるようなイメージを持っていたとは思えないと、後年の取材で述懐して、唯一の原作回を担当した「青騎士」を引き合いに、「自分に演出は向いていないことを見せつけられた」と語り、演出家として全てがいい加減で、敗北感に取りつかれたことが悔しく、最後の担当回となった「メドッサの館」では、オリジナル回で演出家としてのセンスを引き出せるか本気で挑戦したことを明かしている。

              鉄腕アトムのアニメ制作現場は、4つのエピソードを同時進行で制作する体制で、週1の放送では3ヵ月に1回の穴が開く事態が、放送から2年目頃になると発生して、再放送で穴を埋める状態が続いていた。虫プロの経営状態も悪化して、鉄腕アトムだけでは食えない状況を打破するために、『ジャングル大帝』のカラーアニメ化が決定されるが、山本暎一らが主導して、労働組合を設立して手塚治虫を切り離す策動を行った上に、富野のような大卒出身者は、軒並みジャングル大帝への関与を拒否されるなど、プロダクション内で軋轢が広がり、富野はアニメ村化する虫プロに嫌気が差して行った。

              当時の虫プロでの軋轢について「アニメだって映画、動かなくてはいけない。それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。最初は仕事と割り切っていたが、半年もすると不満が沸いてきた。当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。僕は映画的な演出ができる確信があったので、アニメとは言えない電動紙芝居でも、作りようはあると思うようになった。そんな体質が分かるのか、僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、みんなの視線が冷たかった。『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」と語っている。ただし富野は「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても伝えられるということを教えてもらった」とも語っている。

              ジャングル大帝から外され、鉄腕アトムの尻拭いを続けた富野だったが、虫プロ内での人付き合いは薄く、上記のように先輩のスタッフ達からは目の敵にされた。特に鉄腕アトムで当初のメインスタッフだったりんたろうからは、演出本数を上回ったことで恨まれ、90年代に和解するまでは険悪な関係が続いた。そして自身初のカラー演出作品となった『リボンの騎士』で4本のエピソードを演出した後に、虫プロを退社する。

              鉄腕アトムの最終担当話となった「メドッサの館」を演出中、日大の同級生だった女性と出会い、交際するようになる。「CM制作会社を立ち上げたので進行から始める気はないか」と打診され、虫プロに不満を募らせていたこともあって、「この女に騙されよう」と思い立ち、1967年3月に虫プロを退社する。入社した制作会社であるシノ・プロダクションは、富野の同級生と社長のみという零細企業であり、そこでバスクリンやキンカンなどのCMアニメを手掛け、受注された仕事の進行も行うようになるが、次第にCM用のコンテを本気で書けなくなり、名前が明記される仕事でなければ満たされないことを悟ると、交際していた同級生を残して、1968年2月にシノ・プロダクションを退社する。入社中の月給は、虫プロの初任給と同等の1万円に満たない金額で、社長から「時間が空いた時はアニメの仕事をやっていい」と許可を貰っていたため、生活費を稼ぐ目的で、1967年の9月から翌年の3月まで日本テレビ系列で放送された10分アニメ『冒険少年シャダー』の絵コンテを担当している。

              伝手を頼って新興のプロダクションへ入社するも、半年で困窮する事態となり、ついには虫プロに土下座をして仕事を求めるまでに追い詰められてしまう。父親の後輩が学院長を務める東京デザイナー学院で講師として講義を持つかたわら、アニメ界への復帰を模索するようになり、フリーのコンテ書きとして仕事を請け負うようになる。1968年3月から始まった東京ムービーの『巨人の星』でコンテを担当したことを皮切りに、虫プロ子会社の虫プロ商事製作の『アニマル1』、東京テレビ動画の『夕やけ番長』、フジテレビエンタプライズの『海底少年マリン』、虫プロダクションの『どろろ』、タツノコプロ(当時は竜の子プロダクション)の『紅三四郎』などで演出や絵コンテを担当して、順当に実績を積み重ねていった。虫プロ時代は以前使った絵を使い回してうまく話を作るという作業が多かったため、タツノコでは一般的な映像演出能力の不足を指摘されることが多く、「うぬぼれを認めざるを得なかった」という。この経験以降「才能を持つ人間に負けたくない」という思いがさらに強まる。ジャンルを問わず精力的に仕事をこなし、業界内で「富野が絵コンテ千本切りを目論んでいる」と半ば非難と冗談を交えて噂された。

              当時、どこのスタジオに行っても見かける「さすらいのコンテマン」として有名だったという。この時期の富野は、ある程度の作風は確立していたものの、演出家として評価が高いとは言えず、そこそこのコンテをとにかく早く上げられるため、業界の便利屋として使われている部分が多かった。『未来少年コナン』ではコンテを宮崎駿に全て描き直され(ただし、宮崎は誰のコンテでも全て自分で手直しする)、畏敬の念もあり『機動戦士ガンダム』の制作時には「コナンを潰すのが目標」と語っていたが、番組終了時には「ついにコナンは一度も抜けなかった」と語った。しかし、スタジオジブリ代表取締役の鈴木敏夫は、富野が『アルプスの少女ハイジ』の各話演出スタッフを務めていた当時、高畑勲と宮崎駿が「富野さんの仕事には一目置いていた」と話している。苦手なコンテはギャグ方面のアニメで、『いなかっぺ大将』では何度もやり直しを受け「下卑たギャグと舐めてかかったがゆえに惨敗した」、また『巨人の星』については「アニメで畳部屋を描くことに抵抗を感じた」と吐露している。富野は2作の作者川崎のぼるについて著作で嫌悪感を明らかにしていたが、日本人のメンタリティに訴えかけることについては評価するとも発言している。他方、『ど根性ガエル』のような作品は「またやってみたい」と発言している。

              1971年、結婚結婚式当日でさえ絵コンテ用紙を手放せなかったと回想している。このころに埼玉県新座市に引っ越す(『無敵鋼人ダイターン3』の「シン・ザ・シティ」の元ネタとなる)。

              1972年、『海のトリトン』で実質的に初のチーフディレクター・監督・絵コンテを務める。手塚治虫の新聞連載漫画『青いトリトン』(後にアニメに合わせて原作漫画も『海のトリトン』に改題して単行本化)を原作としているが、「トリトンやピピはトリトン族である」といったキャラクター設定以外には共通点は薄い。放送当時は視聴率が伸びずに2クールで終了した。

              1974年、『宇宙戦艦ヤマト』に関して本人は第3話(実際には第4話)の絵コンテを西崎義展プロデューサーに強引に引き受けさせられたと語っている。そのストーリーが気に入らなかった富野は、ストーリーに手を加えて渡し、西崎を激怒させた。翌日か翌々日に本来のストーリーに修正した絵コンテを再納品したが、それきり二度と西崎からの依頼は来なかったと言う。のちに「ガンダムを作るきっかけですが、以前にも少し話したんですけど、本音はただ一つです。ごたいそうなものじゃなくてね、『ヤマトをつぶせ!』これです。他にありません。松崎君(松崎健一)も1話でヤマトを越えたと言ってくれましたんで安心してます(笑)」と語っている。

              1975年、『勇者ライディーン』の監督、絵コンテも担当。オリジナル・ストーリーをやれると思って引き受けた仕事だったが、原作(鈴木良武)が持っていたオカルト的要素が、諸事情により第1話の作画作業に入ってから決まった放送局の方針と合わずに、急な方向転換を余儀なくされるという不運の中、前半2クール(第26話)で降板となった。後任の長浜忠夫は、富野への横暴な人事に激怒しながらも引き受け、富野も鬱憤を感じながらも、後半でも長浜の下で何本か絵コンテを切るなどの形で番組自体には関わり続けた。この機会に長浜忠夫の下で技法を吸収することに努め、監督の立場から作品全体をコントロールする術を学んだと自身で回想している(後に長浜ロマンロボシリーズにも演出、絵コンテとして参加している)。同年、途中降板した出崎哲の後任として『ラ・セーヌの星』の最終話までの3クール目(第27話〜第39話)を、総監督の大隅正秋の下で監督を務める。

              1977年、創映社が日本サンライズとして改組・独立。サンライズ初のアニメーション作品である『無敵超人ザンボット3』の総監督・原作(共同原作/鈴木良武)・演出・絵コンテ・原画を担当。『ライディーン』途中降板の経験を受け、企画段階からスポンサー・放送局に「まず要求を全部言って下さい」と談判し「戦闘シーンは何分いるのか」「武器は何種類出せばいいのか」など、全ての条件を受けいれた上で「その中でどこまで劇を入れられるか実験を試みた」という。当作品は、本来ヒーローであるはずの主人公たちが周辺住民から嫌われ追われる、登場人物が次々と非業の最期を迎えるなど、「アニメは子どもが見るもの、子どもに夢を与えるもの」という考え方が一般的だった当時の常識を覆すものであった。

              1978年、『無敵鋼人ダイターン3』の原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当(井草明夫名義)。前作『ザンボット3』の暗さを吹き飛ばすかのように全体的にコミカルな作品となった。衝撃的な『ザンボット3』の後番組だったため、初期の視聴率は伸び悩んだが、最終話はシリアスなストーリーで締めくくった。その後もノベライズやオーディオドラマによる後日談など関連作品が生み出されていった。

              1979年:自身の代表作といえる『機動戦士ガンダム』の総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、「リアルロボットもの」と呼ばれるジャンルを確立したエポックメイキングな作品。ロボットものでありながら、人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、スポンサーの玩具売上で苦戦し、スポンサーであるクローバーの意向によりテコ入れの路線変更が決定され、2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、新商品Gメカと毎回敵メカが出てくるスーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。また、玩具の売上不振により4クール52話の予定から39話への短縮を要求され、結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。しかし、年末商戦のフラッグアイテムであるDX合体セットがヒットしたため、クローバーはサンライズに放映延長を打診する。しかしスケジュール的に話数の変更は不可能であり、翌年1月に放映は43話で終了。そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。熱心なファンの再放送嘆願により、再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。

              1980年7月にスポンサーではなかったバンダイから300円のキャラクタープラモデル(いわゆるガンプラ)が発売され、ガンダムの盛り上がりと呼応するようにラインナップを増やし、劇場版公開を境に一大ブームが発生。岡田斗司夫は、「社会現象となったのはガンダムブームではなく"ガンプラブーム"なのだ」と語っている。1982年からは劇中設定から離れたオリジナル展開であるMSVの機体も多数発売されてユーザーの支持を受け、このバンダイの成功が後のΖガンダムの制作要請へと繋がっていく。

              1980年、『伝説巨神イデオン』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。『機動戦士ガンダム』終了のわずか3ヶ月半後に放送開始された。前作『機動戦士ガンダム』同様に残り4話を残して打ち切りとなるが、折からのアニメブームの中、「本当の結末が見たい」というファンの声援に後押しされて、後にテレビ版総集編と完結編が2本同時に劇場公開される運びとなる。

              1981年、映画『機動戦士ガンダム』の総監督を務める。他に井荻麟名義で「スターチルドレン」(主題歌のカップリング曲、本編未使用)を作詞。劇場版3部作の第1作であり、テレビシリーズでホワイトベースがサイド7から地球に辿り着き、敵・ジオン公国の脅威を認識する場面(ランバ・ラルとの遭遇と、その後のギレン・ザビの演説)までのエピソード。当時、テレビアニメで評判の高かったものを再編集して劇場公開するケースは多かったが、それらのほとんどは劇場版となった途端に実写畑の監督や監修者が立てられていた。そのことに違和感を持っていた富野は、あらかじめ会社側に対し「将来ガンダムが映画化されることがあった際、監修者なり監督という形で外部(実写)の人間を導入するならフィルムを渡さない」と正式文書で申し立てていたため、監督権を勝ち取ることができた。1981年5月22日、続編第2作映画『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』の主題歌発表記者会見にて、作詞家「井荻麟」の正体が自分であることを公表。『アニメージュ』のアニメグランプリ演出家部門でこの年から3期連続で1位となる。1981年7月11日、『機動戦士ガンダムII 哀・戦士編』公開。総監督、井荻麟名義で「哀 戦士」(テーマソング)、「風にひとりで」(挿入歌)作詞。テレビシリーズで地球に降下してから連邦軍の本拠であるジャブローにたどり着き、ジオン軍との決戦のために再び宇宙へ旅立とうとするところまでのエピソード。1982年第3作『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』公開。総監督、井荻麟名義で『めぐりあい』(テーマソング)、『ビギニング』(挿入歌)作詞(ただし売野雅勇との共同作詞)。再び宇宙に舞台を移してから最終決戦を経て終戦に至る最終話までのエピソード。テレビシリーズ制作時に病気で現場を離れていた作画監督の安彦良和によるリターンマッチということもあり、ほとんど新作に近い量の新規作画が起こされた。

              同じ1982年、『THE IDEON (伝説巨神イデオン)接触篇/発動篇』の総監督・原作・絵コンテを務める。他に井荻麟名義で挿入歌「セーリング フライ」「海に陽に」を作詞。2本同時公開であり、『接触篇』がテレビ版の物語の中盤程度までの総集編。『発動篇』は終盤の総集編から、打ち切られて描かれなかった物語の完結までを高クオリティの完全新作映像で描写し、壮絶なその展開はアニメファンに大きな衝撃を与えた。しかし接触篇は所詮ダイジェスト版にすぎず、テレビシリーズをあらかじめ見ていなければ発動篇のストーリーがわからないというハードルの高さがあり、再放送の放映状況もあまり芳しくなかったためか、結局ガンダムのようなブームを起こすには至らなかった。とはいえ、イデオンが庵野秀明や福井晴敏をはじめ、後進のクリエーターに与えた影響は非常に大きい。

              この時期の富野は、ガンダムの劇場版第3作である『機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙編』を制作しながら、一方で映画化さえ決まっていなかった『THE IDEON (伝説巨神イデオン)発動篇』の作画作業を見切り発車で進めるという慌ただしさだったが、『発動編』の作業に本腰を入れる段階で急遽、飛び込んで来た企画が、後述の『ザブングル』であった。

              同1982年、『戦闘メカ ザブングル』原作(鈴木良武と共同)・総監督・ストーリーボード・作詞。元々は吉川惣司が監督となる予定であったが降板したため、富野が後を引き受けた。初めの1クール半は『ガンダムIII』や『イデオン劇場版』の仕事で手一杯で人任せにしていたが、自分の求めた動きになって来ないと見て取るや、時間を捻出して他人のコンテを全面的に直したりコンテに動画の中割りまで指定した。そのため一時はスタッフとの間にかなり険悪なムードが立ちこめたが、終了後には「転機になった」「つらかったけど楽しかった」など、新境地を見出したらしい言葉が多く聞かれた。停滞や馴れ合いを嫌う富野はしばしばスタッフとの間に軋轢を生み出すが、その姿勢に刺激を受けた者も少なくない。1983年、劇場版『ザブングル グラフィティ』監督。テレビ版の再編集版で、『ドキュメント 太陽の牙ダグラム』、『チョロQダグラム』と併映。上映時間が90分以内という制約のため、まともなストーリーを作るのは無理と判断、割り切って楽屋落ちにして本編の勢いを悪乗りさせた作品となった。

              1983年、『聖戦士ダンバイン』の総監督、原作・脚本・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。放映がファミリーコンピュータの発売と同時期であり、王侯・騎士と神話・妖精が織りなす中世ヨーロッパ的ファンタジーは、まだ一般にさほど認知されていなかった。したがって、リアルロボットものが隆盛をきわめつつあった当時、ファンタジーの舞台にテクノロジーを据えた同作は異色だったといえる。富野自身が放送終了前に失敗作宣言をしたり、放映中にスポンサー企業のクローバーが倒産するなどのトラブルが発生した。舞台となる異世界「バイストン・ウェル」は、富野がしばしば同じ世界観で小説を書くライフワークとして続くこととなった。

              1984年、『重戦機エルガイム』の原作・総監督・ストーリーボード。井荻麟名義で作詞。キャラクターデザインとメカニックデザインに永野護を起用。物語としては、前半は明るい作風だったが、後半、物語がシリアスな展開を見せる。テレビアニメでの富野の単一の作品としては総話数が全54話と最も多い。デザイナーとして起用した永野が、世界観についての提案をたびたび行っている。過去に作られたロボットを使っているなどの世界観は永野が元々構想していたものであり、そこに富野による具体的なキャラクター原案や基本のストーリーラインが入ることで両者の共作のような形となった。ただし、著作権などの諸権利の譲渡が行われた訳ではなく、従って永野の『ファイブスター物語』とエルガイムの間に権利的な関連性はない。

              1985年、自身初の続編シリーズ物の『機動戦士Ζガンダム』総監督。後の本人の口から良い意味でも、悪い意味でも「思い入れのある作品」と答えている。原作・総監督・脚本・ストーリーボード・オープニング、エンディングの絵コンテ・挿入歌の作詞。それまでの続き物にありがちだった続編とは違う続編の作り方を意図的に試みた作品。前作の登場人物が年齢を重ねて再登場したり、時代の変化によって彼らの立場や考え方が変わっているなど当時としては斬新な作品となった。2005年に20年の歳月を経て富野自身の手により劇場版3部作に「新訳」されて公開された。

              1986年、『Ζガンダム』の続編『機動戦士ガンダムΖΖ』原作・総監督・脚本・ストーリーボード・絵コンテ。井荻麟名義で「一千万年銀河」作詞。スポンサー側からの提案で前作『機動戦士Ζガンダム』放送中に急遽制作が決まった続編(ただし、本人は予測の内だったと語っている)。時代的には前作から連続し、前作の主要キャラクターは脇に退き、ミドルティーンの少年少女を主役グループに置いて「暗い」「カタルシスがない」と評された前作とは正反対に「明るいガンダム」を目指した。しかし、中盤以降は『Zガンダム』と同様のシリアスなストーリーへと路線変更が行われた。

              1988年、当時ガンダムシリーズの最終作品として作られた『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』の原作・監督・脚本・絵コンテ。初の劇場版オリジナル作品。「シャアとアムロの物語に決着をつける」ために作った作品と本人は述べている。小説版も富野自身が手がけており、徳間書店版『ハイ・ストリーマー』と角川書店版『ベルトーチカ・チルドレン』の二種類がある。角川書店版は同作の初期案をベースとし、アムロとベルトーチカの関係が続いており、ベルトーチカがアムロの子供を身篭っているという設定は上層部から「ヒーローに子供ができるのはどうか」と指摘を受け、映画版では取り下げた。

              1991年、新たなるガンダムシリーズとして作られた『機動戦士ガンダムF91』の原作・監督・脚本(伊東恒久と協同)・絵コンテ・挿入歌の作詞。日本アニメ大賞・最優秀作品賞を受賞。背景となる時代は一気に下り、『逆襲のシャア』までのキャラクターが引き継がれることはなかった。キャラクターやメカニカルデザインに『機動戦士ガンダム』当時のスタッフを起用。本来はTVシリーズの予定で企画されたが、劇場公開用として再編集された。本作公開時にスタッフは、テレビシリーズかビデオシリーズかで本作の続編を作るつもりでいたが、映像作品としては立ち消えとなってしまい、企画は最終的に長谷川裕一の漫画「機動戦士クロスボーン・ガンダム」に流用された(後述)。

              1993年、『機動戦士Vガンダム』の原作・総監督・絵コンテ・構成。井荻麟名義で作詞(みかみ麗緒との共同作詞)。第1話に主役機のガンダムが出てこないため、スポンサーの意向により第4話が第1話と置き換えられた。制作における心労や上層部からの指示による軋轢・混乱が大きく、制作途中から数年間に渡って徐々に鬱状態が進行し、最終的には立っていられないほどの目まいがしたり、ほとんど気絶するような感じで眠りについていたという。自らの評価も手厳しく、本作DVD-BOX発売時には、同梱リーフレットに「この作品は見られたものではないので買ってはいけません!」との見出しをつけ、「全てにおいて考えが足りなかった」「本当にひどい作品である」と記している。一方で、作品や人を褒めることが決して多くない富野にしては珍しく、音楽を担当した千住明を絶賛しており、逢坂浩司によるキャラクターデザインについても好意的なコメントを残している。

              『Vガンダム』放送終了後、富野は次回作ガンダムの監督を拒否して代わりに今川泰宏を指名し、戦争ものではなくロボットプロレスをやるようにと指示した。その結果誕生したのが、『機動武闘伝Gガンダム』である。前述の鬱状態から心身が回復するまでの期間は、いくつかの作品で脚本や絵コンテを手がけているが、監督は引き受けていない。Vガンダム以降、テレビ版の「ガンダム」は富野の手を離れ、複数の監督が制作を続けた結果、「『ガンダム』はすでにジャンルである」と言われるほどに多様化した。そのことは今日なお「ガンダムシリーズ」が作り続けられる理由の一つとなっている。

              1994年、『機動戦士ガンダムF91』の続編となる漫画『機動戦士クロスボーン・ガンダム』の原作(作画は長谷川裕一)。原作者の肩書きだけだった富野が、初めて漫画制作に携わり、1997年まで連載された。

              1996年、初のOVA作品の『バイストン・ウェル物語 ガーゼィの翼』の原作・監督・脚本・絵コンテ。『ダンバイン』と同じくバイストン・ウェルの世界を舞台にしているが、ロボット(オーラバトラー)の出てこない、純粋なファンタジー作品。富野が前述の鬱状態の中制作した作品。後年作品を見直した富野は「糸が伸び切っているという印象」との感想を残している。

              1997年、この頃に虫プロ時代の同期である高橋良輔から、高橋がプロデューサーを務めた『勇者王ガオガイガー』のシナリオ執筆を依頼されたものの、「ストーリーを考えるのが面倒だから嫌だ。コンテならいくらでも切るけど」という理由でこれを辞退している。

              1998年、WOWOW初のオリジナル有料アニメ『ブレンパワード』の原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。1993年の『機動戦士Vガンダム』以来5年ぶりのテレビ作品放映。スクランブル放送だったため、視聴者数はある程度限られた。富野は「自分たちは子供たちを『親なし子』にしてしまったのではないか」という危機感から「人と人とが絆を結ぶとはどういうことか」を示そうとした、と語っている。また、当時企画が進行中だったガンダム作品(『∀ガンダム』)の制作に向けた、鬱症状からアニメ制作現場へ戻るためのリハビリと位置づけている。『エルガイム』以来14年ぶりのオリジナル・ロボットアニメ。初期の数話でスタッフからガンダム作品と同じ演出になっているとたしなめられるエピソードがあったという。ロボットデザインに旧知の永野護を起用する一方、キャラクターデザインにいのまたむつみを抜擢した。

              1998年、『機動戦士ガンダム』誕生20周年記念作品として、『∀ガンダム』の原作・総監督・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。「∀」は、数学や論理学などで「すべての〜」という意味で用いられる全称記号で、全てを包括して原点に返るという意味を込めて、タイトル「ターンエー」として用いられた。過去に作られた「ガンダム」と名の付くすべての作品を、全否定かつ全肯定する作品を目指したものである。キャラクターデザインにはカプコンの安田朗を、メカニックデザインはアメリカの工業デザイナー・シド・ミードを起用した。ミードがデザインした革新的なガンダムのデザイン(見た目と劇中の俗称から「ヒゲ」と呼称されることが多い)は放送前から意見が分かれたが、放送が始まると徐々に評価が高まり、2002年には劇場版2部作『∀ガンダム I 地球光/II 月光蝶』として公開された。劇場版は『∀ガンダム』テレビシリーズ全50話に新作カットを加え再編集した作品。「サイマル・ロードショー」方式という日替わりで1部・2部を上映する公開方法がとられた。43話の初代ガンダムでさえ映画は3部作だったが、50話の『∀ガンダム』を2部構成にまとめている上、∀には編集する上で省略しやすい戦闘シーンが少なく、ストーリーも複雑なので、非常に展開が早く、富野自身も、1stガンダムに比べて編集が困難と語る。なお、この作品のノベライズを福井晴敏と佐藤茂が個別に引き受けており、両小説ともに富野による初期構想案メモを元にしている。なお福井小説版においては、構成案メモから先の物語は福井晴敏独自の展開にすることを富野自身が了解している。安田朗のカプコンによる「ガンダムのゲーム作っていいですか?」という質問に「いいよ」と答えたのが、ガンダムゲームの代表作のひとつ『機動戦士ガンダム vs.シリーズ』である。

              2002年、WOWOWでのスクランブル放送アニメ『OVERMANキングゲイナー』原作・総監督・脚本・演出・絵コンテ。井荻麟名義で作詞。富野と田中公平による元気なオープニングアニメと主題歌が作品世界を象徴し、当時、富野自身が多く発言していた芸能・祭といった要素が、作品の内容や演出に取り入れられている。富野は「当作品のライバルは『クレヨンしんちゃん』」と発言している。前作の『∀ガンダム』同様、スタッフの意見を取りまとめる立場を強く意識して制作に携わった。本作ではキャラクターデザインにグループワークという概念を取り入れ、中村嘉宏、西村キヌ、吉田健一の3名の共同作業により、高いレベルのデザインを実現。富野の案、登場メカは人工素材「マッスルエンジン」で柔軟な動きが可能で、オプション装備の「オーバーコート」を着用することによりそれぞれが特殊な能力を発揮するロボットという設定から出発した。メカニックデザインには安田朗を再起用。若手のスタッフが「いかに凄惨に描くか」を話していた時に、「もう悲惨な話はいいよ」と諭したこと、「100歳まで現役でやれる」と発言し、周囲を驚かせたという。

              2003年:金沢工業大学客員教授に就任。「ガンダム創出学」の講義を担当。雑誌『ガンダムエース』で各界のスペシャリストとの対談記事『教えてください。富野です』が連載開始(2012年まで連載)。

              2004年:上井草(井荻の隣の駅)に転居。名実ともに「井荻麟」となった。

              2005年:劇場版『機動戦士Ζガンダム』三部作を制作し、順次公開。映画『ローレライ』には、反乱軍として通信所を占拠する海軍大尉としてカメオ出演(画面での確認は困難)。12月から自身初のWEBアニメ『リーンの翼』の監督を務める。富野が初めてネット配信という形式で作ったアニメで、自身の小説『リーンの翼』を多少アレンジし、その数十年後の物語である。ダンバインで出てきた「オーラバトラー」が登場する。オーラバトラーなどにCGが使用されている。独特のセリフ回しと非常に早い展開が特徴。

              2006年:映画『日本沈没』にカメオ出演(京都の高僧役)。

              2008年:映画『少林少女』に主人公(柴咲コウ)の亡き祖父としてカメオ出演。

              2009年:ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞を受賞。同年、アニマックスの「機動戦士ガンダム30周年記念 みんなのガンダム 完全版」という番組に富野を初めとしたスタッフが出演。特に富野のガンダムに対するインタビューが多く語られた。8月、東京ビッグサイトで開催の「GUNDAM BIG EXPO」で初公開された短編アニメ『リング・オブ・ガンダム』を制作。

              2010年:映画『日本のいちばん長い夏』に元陸軍大将・今村均役で出演。

              2014年:TVアニメ『ガンダム Gのレコンギスタ』の原作・総監督を務める。

              2016年:一般社団法人「アニメツーリズム協会」理事長に就任。

              2019年:全国8か所の美術館で展覧会「富野由悠季の世界」が2022年にかけて開催。同じく2022年にかけて公開された劇場版『Gのレコンギスタ』五部作の原作・総監督を務める。

              2021年:小田原市のふるさと大使に就任

              2021年秋:文化功労者に選出。集英社「kotoba」2021年秋号の特集「人間拡張はネオ・ヒューマンを生むか?」に平沢進、稲見昌彦などと共にインタビューが掲載。

2024/05/26 14:00更新

tomino yoshiyuki


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