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川端 康成さんについて調べます

■名前・氏名
川端 康成
(かわばた やすなり)
■職業
作家
■川端康成の誕生日・生年月日
1899年6月14日 (年齢32歳没)
亥年(いのしし)、双子座(ふたご)
■出身地・都道府県
大阪出身

川端康成と同じ年に生まれた芸能人(1899年生まれ)

川端康成と同じ誕生日の人(6月14日)

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川端康成

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川端 康成(かわばた やすなり)さんの誕生日は1899年6月14日です。大阪出身の作家のようです。

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生涯、創作の主題・源流などについてまとめました。卒業、趣味、父親、兄弟、母親、家族、結婚、映画、事故、引退、ドラマ、姉妹、テレビ、事件に関する情報もありますね。32歳で亡くなられているようです。

川端 康成(かわばた やすなり、1899年〈明治32年〉6月14日 - 1972年〈昭和47年〉4月16日)は、日本の小説家・文芸評論家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞した。位階・勲等は正三位・勲一等。大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学を代表する作家の一人である。

代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など。

ノーベル文学賞をはじめ、多くの文学賞を受賞し、日本ペンクラブや国際ペンクラブ大会で尽力したが、多忙の中、1972年(昭和47年)4月16日夜、72歳でガス自殺した。なお、遺書はなかった。

大阪府出身。東京帝国大学国文学科卒業。大学時代に菊池寛に認められ文芸時評などで頭角を現した後、横光利一らと共に同人誌『文藝時代』を創刊。西欧の前衛文学を取り入れた新しい感覚の文学を志し「新感覚派」の作家として注目され、詩的、抒情的作品、浅草物、心霊・神秘的作品、少女小説など様々な手法や作風の変遷を見せて「奇術師」の異名を持った。

その後は、死や流転のうちに「日本の美」を表現した作品、連歌と前衛が融合した作品など、伝統美、魔界、幽玄、妖美な世界観を確立させ、人間の醜や悪も、非情や孤独も絶望も認識した上で、美や愛への転換を探求した数々の日本文学史に残る作品を描き、近代日本文学の代表者としての地位を築いた。日本人として初のノーベル文学賞も受賞し、受賞講演で日本人の死生観や美意識を世界に紹介した。

初期の小説や自伝的作品は、川端本人が登場人物や事物などについて、随想でやや饒舌に記述している。そのため、多少の脚色はあるものの、純然たる創作(架空のできごと)というより実体験を元にした作品として具体的実名や背景が判明し、研究・追跡調査されている。

川端は新人発掘の名人と称されたことでも知られ、ハンセン病の青年・北條民雄の作品を世に送り出し、佐左木俊郎、武田麟太郎、藤沢桓夫、少年少女の文章、山川彌千枝、豊田正子、岡本かの子、中里恒子、三島由紀夫などを後援し、数多くの新しい才能を育て自立に導いたことも特記できる。また、その鋭い審美眼で数々の茶器や陶器、仏像や埴輪、俳画や日本画などの古美術品の蒐集家としても有名で、そのコレクションは美術的価値が高い。

※以下、川端康成の作品や随筆内からの文章の引用は〈 〉で括っています(論者や評者の論文からの引用部との区別のため)。

生涯

1899年(明治32年)6月14日、大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に、医師の父・川端栄吉(当時30歳)と、母・ゲン(当時34歳)の長男として誕生(川端自身は6月11日生れと最晩年まで信じていた)。7か月の早産だった。4歳上には姉・芳子がいた。父・栄吉は、東京の医学校済生学舎(現・日本医科大学の前身)を卒業し、天王寺村桃山(現・大阪市天王寺区筆ケ崎町)の桃山避病院などの勤務医を経た後、自宅で開業医をしていたが、肺を病んでおり虚弱であった。また、栄吉は浪華の儒家寺西易堂で漢学や書画を学び、「谷堂」と号して漢詩文や文人画をたしなむ多趣味の人でもあった。蔵書には、ドイツ語の小説や近松、西鶴などの本もあった。

しかし栄吉は自宅医院が軌道に乗らず、無理がたたって病状が重くなったため、康成が1歳7か月となる1901年(明治34年)1月に、妻・ゲンの実家近くの大阪府西成郡豊里村大字天王寺庄182番地(現・大阪市東淀川区大道南)に夫婦で転居し(ゲンはすでに感染していたため)、子供たちは実家へ預け、同月17日に結核で死去した(32歳没)。栄吉は瀕死の床で、「要耐忍 為康成書」という書を遺し、芳子のために「貞節」、康成のために「保身」と記した。

2人の幼子が預けられたゲンの実家・黒田家は、西成郡豊里村大字三番745番地(現・大阪市東淀川区豊里6丁目2-25)にあり、代々、「黒善」(黒田善右衛門の二字から)と呼ばれる素封家(資産家)で、広壮な家を構える大地主であった。ところが、ゲンも翌1902年(明治35年)1月10日に同病で亡くなった(37歳没)。幼くして両親を失った康成は、祖父・川端三八郎と祖母・カネに連れられて、原籍地の大阪府三島郡豊川村大字宿久庄小字東村11番屋敷(のちの大阪府茨木市大字宿久庄1540-1。現・茨木市宿久庄1丁目11-25)に移った。

宿久庄の川端家は、豪族や資産家として村に君臨していた旧家で代々、豊川村の庄屋で大地主であったが、祖父・三八郎は若い頃に様々の事業に手を出しては失敗し、三八郎の代で財産の大半は人手に渡っていた。三八郎は一時村を出ていたが、息子・栄吉の嫁・ゲンの死を聞き村に戻り、昔の屋敷よりも小ぶりな家を建てて、3歳の孫・康成を引き取った。その際、7歳の芳子は、ゲンの妹・タニの婚家である大阪府東成郡鯰江村大字蒲生35番屋敷(現・大阪市城東区蒲生)の秋岡家に預けられ、芳子と康成の姉弟は離ればなれとなった。タニの夫・秋岡義一は当時衆議院議員をしており、栄吉とゲンの遺した金3千円もその時に預かり、康成と祖父母はその月々の仕送りの金23円で生活をした。

川端の家系は北条泰時から700年続き、北条泰時の孫・川端舎人助道政が川端家の祖先である(道政の父親・駿河五郎道時は、北条泰時の九男)。道政は、宿久庄にある如意寺(現・慧光院の前身)の坊官で、同寺は明治期まで川端家の名義であった。川端家の29代目が三八郎で、30代目が栄吉、康成は31代目に当たる。祖母・カネはゲンと同じく黒田家出身(伯母と姪の関係)で、血縁の途絶えようとしていた川端家に嫁いだ人であった。父母の病死は幼い康成の胸に、〈(父母が)死んだ年頃までに、自分もまた死ぬであらう〉という〈病気と早死との恐れ〉を深く彫りつけたと同時に、記憶のない父母(特に母性)への思慕や憧憬が川端の諸作品に反映されることになる。

幼い頃の康成には一種の予知能力のようなものがあり、探し物の在り処や明日の来客を言い当てたり、天気予報ができたりと小さな予言をし、便利がられ、「神童」と呼ばれることもあった。また、康成は父親の虚弱体質を受け継いだ上、月足らずで生れたため、生育の見込みがないほど病弱で食が細く、祖母に大事に〈真綿にくるむやう〉に育てられていた。

1906年(明治39年)4月、三島郡豊川尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)に入学した康成は、入学式の時は、〈世のなかにはこんなに多くの人がゐるのかとおどろき〉、慄きと恐怖のあまり泣いた。

康成は学校を休みがちで、1年生の時は69日欠席し(258日のうち)、しばらくは近所の百姓女の田中みとが授業中も教室まで付き添っていた。小学校時代の旧友によると、康成の成績はよく、作文が得意で群を抜いていたという。小学校に上がる前から祖母に、〈うんと醤油をふくませたかつを節を入れて巻いた、からい海苔巻〉を食べさせてもらいながら、〈いろは〉を習っていたため、〈学校で教はることは、ほとんどみなもう知つてゐて、学校がつまらなかつた。小学校に入る前から、私はやさしい読み書きはできた〉と川端は当時を述懐している。なお、笹川良一とは小学の同級生であった。祖父同士が囲碁仲間で、笹川の父・鶴吉も、易学に凝っていた三八郎から私生活万端にわたって指示を受けていたという。

しかし、小学校に入学した年の9月9日に優しかった祖母・カネが死去し(66歳没)、祖父との2人暮らしとなった。別居していた姉・芳子も翌1909年(明治42年)7月21日、誕生日前に13歳で夭折した。川端にとって〈都合二度〉しか会ったことのない姉の姿は、祖母の葬儀の時のおぼろげな一つの記憶しかないという。熱病に倒れた芳子の危篤を知った祖父は悲しみ、目が悪いながらも孫の身を易で占った。10歳の康成は姉の訃報をしばらく祖父に隠しておいてから、決心して読んで聞かせた。これまでも何人もの子供を早くに亡くし、孫にも先立たれた祖父を康成は憐れむ。女手がなくなった家に何かと手伝いにくる人への好意に涙脆く有難がる祖父が、康成にとっての〈ただ一人の肉親〉となった。

小学校5、6年になると、欠席もほとんどなくなり、成績は全部「甲」であった。康成は絵が得意であったため、文人画をたしなんでいた祖父の勧めで画家になろうと思ったこともあったが、上級生になると書物を濫読することに関心が向き、小学校の図書館の本は一冊もらさず読んでしまった。康成は毎日のように庭の木斛の木に登り、〈楽々と仕事をする植木屋のやうに〉樹上に跨って本を読み、講談や戦記物、史伝をはじめ、立川文庫の冒険小説家・押川春浪に親しんだ。

1912年(明治45年・大正元年)、尋常小学校を卒業した康成は、親戚の川端松太郎を身許保証人として、4月に大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)に首席で入学し「甲組」となった。茨木中学校は質実剛健の校風で体操や教練に厳しく、マラソンも盛んで、生徒の勤労奉仕で水泳プールが作られ、オリンピック選手も輩出していた。登校後は教室でも運動場でも裸足となり、寒中だけ地下足袋が許されていた。康成は学校まで約一里半(約6キロメートル)の道を毎日徒歩通学し、虚弱体質が改善され、1年の時は「精勤賞」をもらった。

しかし夜になると家にいる寂しさに耐えられず、康成は祖父を一人残して毎日のように、〈二組も兄弟もそろつてゐる〉友人(宮脇秀一、憲一の兄弟)の家に遊びに行き、温かい家庭の団欒に交ぜてもらっていた。そして家に戻ると祖父を独りきりにしたことを詫びる気持ちでいつもいっぱいになった。この当時の手記には、〈父母なく兄弟なき余は万人の愛より尚厚き祖父の愛とこの一家の人々の愛とに生くるなり〉と記されている。

康成は中学2年頃から作家になることを志し、『新潮』『新小説』『文章世界』『中央公論』など文芸雑誌を読み始めた。亡き父・栄吉の号に拠って、『第一谷堂集』『第二谷堂集』と題して新体詩や作文を纏めてみることもあった。学内では、欠田寛治、清水正光、正野勇次郎などの文学仲間とも知り合った。祖父からも作家になることを許された康成は、田舎町の本屋・乕谷誠々堂に来る目ぼしい文学書はほとんど買っていた。〈本代がたまつて祖父と共に苦しんだ。祖父が死んだ後の借金には、中学生としては法外な私の本代もあつた〉と川端は述懐している。そのため秋岡家から仕送りの月々23円では不足で、毎日おかずは汁物と梅干ばかりであった。徐々に文学の世界に向き始めた康成は、学校での勉学が二の次となり宿題の提出などを怠ったため、作文の成績が53点で全生徒88名中の86番目の成績に下がったとされる。

中学3年となった1914年(大正3年)5月25日未明(午前2時)、寝たきりとなっていた祖父・三八郎(この年に「康壽」と改名)が死去した(73歳没)。祖父は家相学や漢方薬の研究をしていたが、それを世に広めるという志は叶わなかった。この時の病床の祖父を記録した日記は、のちに『十六歳の日記』として発表される。川端は、人の顔をじろじろと見つめる自分の癖は、白内障で盲目となった祖父と何年も暮していたことから生まれたかもしれないとしている。祖父の葬列が村を行く時、小さな村中の女たちは、孤児となった康成を憐れんで大きな声を上げ泣いたが、悲しみに張りつめていた康成は、自分の弱い姿を見せまいとした。祖父の骨揚げの日のことを康成は、以下のように綴っている。

川端はその頃の自身について、〈幼少の頃から周囲の人々の同情が無理にも私を哀れなものに仕立てようとした。私の心の半ばは人々の心の恵みを素直に受け、半ばは傲然と反撥した〉と語っている。他人の世話で生きなければならない身となり、康成の中で〈孤児根性、下宿人根性、被恩恵者根性〉が強まった。遠慮しがちで、面と向って明るく感謝を表現できなかった当時のことを川端は、〈恥づかしい秘密のやうなことであるが、天涯孤独の少年の私は寝る前に床の上で、瞑目合掌しては、私に恩愛を与へてくれた人に、心をこらしたものであつた〉と語っている。また自身の出自(生命力の脆弱な家系)と自身の宿命について以下のように語っている。

両親、祖父母、姉の全ての肉親を失ったことは、康成に虚無感を抱かせると同時に、「霊魂」がどこかに生きて存在していてくれることを願わずにはいられない思いを与えた。親戚や周囲の人々の多くは親切に接してはくれても、それは本当の肉親のように、お互い悪口やわがままを言い合っても後が残らない関係とはならず、もしも自分が一度でも悪態をついたならば、生涯ゆるされないだろうということを知っていた康成は、常に他人の顔色を窺い、心を閉ざしがちな自身のあり方を〈孤児根性〉として蔑んだ。そして、どんなわがままもそのまま受け入れてくれる母親的な愛の有難さに対して、康成は人一倍に鋭敏な感受性や憧れを持つようになる。

8月に康成は、母の実家・黒田家の伯父・秀太郎(母の実兄)に引き取られ、吹田駅から茨木駅間を汽車で通学するようになったが、康成が本屋で買う本代がかさむために翌年3月から寄宿舎に行くことになった。

1915年(大正4年)3月から、中学校の寄宿舎に入り、そこで生活を始めた康成は、寄宿舎の机の上には、美男子であった亡父・栄吉の写真の中でも最も美しい一枚を飾っていた。2級下の下級生には大宅壮一や小方庸正が在学していた。大宅と康成は、当時言葉を交わしたことはなかったが、大宅は『中学世界』や『少年世界』などの雑誌の有名投書家として少年たちの間でスターのような存在であったという。康成は、武者小路実篤などの白樺派や、上司小剣、江馬修、堀越亨生、谷崎潤一郎、野上彌生子、徳田秋声、ドストエフスキー、チェーホフ、『源氏物語』、『枕草子』などに親しみ、長田幹彦の描く祇園や鴨川の花柳文学にかぶれ、時々、一人で京都へ行き、夜遅くまで散策することもあった。

同級生の清水正光の作品が、地元の週刊新聞社『京阪新報』に載ったことから、〈自分の書いたものを活字にしてみたいといふ欲望〉が大きく芽生え出した康成は、『文章世界』などに短歌を投稿するようになったが、落選ばかりでほとんど反応は無く、失意や絶望を感じた。この頃の日記には、〈英語ノ勉強も大分乱れ足になつてきた。こんなことではならぬ。俺はどんな事があらうとも英仏露独位の各語に通じ自由に小説など外国語で書いてやらうと思つてゐるのだから、そしておれは今でもノベル賞を思はぬまでもない〉と強い決意を記している。

意を決し、1916年(大正5年)2月18日に『京阪新報』を訪ねた康成は、親切な小林という若い文学青年記者と会い、小作品「H中尉に」や短編小説、短歌を掲載してもらえるようになった。4月には、寄宿舎の室長となった。この寄宿舎生活で康成は、同室の下級生(2年生)の清野(実名は小笠原義人)に無垢な愛情を寄せられ、寝床で互いに抱擁し合って眠るなどの同性愛的な恋慕を抱き(肉体関係はない)、〈小笠原はこんな女を妻にしてもよからうと思ふ位柔和な本当に純な少年だ〉と日記に綴っている。

川端は、〈受験生時分にはまだ少女よりも少年に誘惑を覚えるところもあつた〉と述懐している。小笠原義人とはその後、康成が中学卒業して上京してからも文通し、一高と帝国大学入学後も小笠原の実家を訪ねている。康成は、〈お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した〉と、小笠原に送ろうとしてとどまった手紙の後半で綴っている(この後半部分の手紙は、一高の授業で作文として提出した)。小笠原義人との体験で康成は、〈生れて初めて感じるやうな安らぎ〉を味わい、〈孤児の感情〉の虜になっていた自分に、〈染着してゐたものから逃れようと志す道の明り〉を点じた。川端は、清野(小笠原義人)との関係について、〈それは私が人生で出会つた最初の愛〉、〈初恋〉だとし、以下のように語っている。

この年の9月には、康成と同じ歳の中条百合子が坪内逍遥の推薦で『中央公論』に処女作を発表し、〈田舎者の私〉である康成を驚かせ、次第に康成の内に、中央文壇との繋がりを作りたいという気持ちが動き出していた頃であった。また同年には、康成の作家志望を応援していた母方の従兄・秋岡義愛の紹介で、義愛の友人であった『三田文学』の新進作家の南部修太郎と文通が始まった。なお、この年の秋には、祖父と暮らした豊川村大字宿久庄の家屋敷が、分家筋の川端岩次郎(川端松太郎の妹の婿)に売られた。

1917年(大正6年)1月29日に急死した英語の倉崎先生のことを書いた「生徒の肩に柩を載せて」が、国語教師・山脇成吉(のち満井)の紹介により、3月に雑誌『団欒』に掲載され、発行者の石丸悟平(山脇の同級)から、感動したという返事をもらう。3月、康成は茨木中学校を卒業した。この学校の卒業者は、ほぼ学校の先生か役場に就職し、末は町村長になる者が多く、少数の成績優秀者は京都の三高に進学していた。その雰囲気の中、康成は行く末は〈三田か早稲田の文科〉に行くつもりだったが、首席で入学以来どんどん席順の下がったことへの屈辱や、〈肉体的にも学力的にも劣者と私を蔑視した教師と生徒への報復の念が主な原因〉で、〈突如として帝大が浮び〉、一高への進学を決意した。

教師や校長は、「成績をよく考へ大それたことをするな。お前の学力では師範の二部が適当だ」と忠告するが、康成は教師らの反対を押し切り、すぐ3月21日に上京して、最初に上村龍之助(祖母の妹・トミの長男)を訪ね、その後浅草区浅草森田町11番地(現・台東区浅草蔵前)にいる従兄・田中岩太郎と伯母・ソノ(母の異母姉)の暮らす家に居候しながら、日土講習会や駿河台の明治大学の予備校に通い始めた。この田中ソノ親子に川端は恩義を感じ、〈息子は苦学をしたほどだから、余裕のない暮しで、私のために質屋通ひもしてくれた。伯母は息子にさへかくして、私に小遣銭をくれた。それが伯母にとつてどんな金か私にはよく分つてゐた〉と語っている。康成は、浅草公園などにもよく出かけ、上京一番に麻布区新龍土町12番地(現・港区六本木7丁目)にいる文通相手の南部修太郎宅も訪ねた。南部宅へはその後一高入学後も何度か通った。

9月に第一高等学校の文科第一部乙類(英文科)に入学した(茨木中学出身の同級では康成だけ)。同級には石濱金作、酒井真人、鈴木彦次郎、三明永無、守随憲治、池田虎雄、片岡義雄、辻直四郎らがいた。一高時代は3年間寮生活となる。初め寮で隣室となった石濱は、予備校でも康成を一度見かけていて、その時の強い印象を忘れられていなかったという。川端は石濱の影響で、菊池寛、芥川龍之介、志賀直哉、ロシア文学をよく読んだ。浅草オペラなどによく一緒に行き、オペラ小屋で谷崎潤一郎を見かけたこともあった。

授業中、教科書の影に隠れてドストエフスキーをこっそりと読んでいる小柄で痩せっぽちの康成の存在に、2学期頃から気づいた鈴木彦次郎は、康成が教室であてられると、いかにも読書を中断させられ迷惑そうな顔で嫌々ながら立ち上がる「ニヒルなところ」が印象的で興味を持った。ある日鈴木は思いきって、取っつきの悪い神経質そうな康成に話しかけてみると、同じく文学志望だと知って親しみを感じ、その後だんだんと交際が深まっていった。

石濱金作、鈴木彦次郎と寮の同室となった翌1918年(大正7年)秋、康成は寮の仲間の誰にも告げずに初めての伊豆への旅に向かった。中学時代の寮生活と〈勝手がちがつた〉高校の寮生活が1、2年の間〈ひどく嫌だつた〉ことと、〈私の幼年時代が残した精神の病患ばかりが気になつて、自分を憐れむ念と自分を厭ふ念とに堪へられなかつた〉康成は、10月30日から11月7日までの約8日間、修善寺から下田街道を湯ヶ島へ旅した。この時に岡田文太夫(松沢要)こと、時田かほる(踊子の兄の本名)率いる旅芸人一行と道連れになり、幼い踊子・加藤たみと出会った。下田港からの帰京の賀茂丸では、受験生・後藤孟と乗り合わせた。

彼らの善意や、踊子の〈野の匂ひがある正直な好意〉は、康成の不幸な生い立ちが残した〈精神の疾患〉を癒し解放した。彼らとのやりとりは、その後の草稿『湯ヶ島での思ひ出』、小説『伊豆の踊子』で描かれることになる。この旅以来、湯ヶ島は川端にとって〈第二の故郷〉となり、宿泊した湯ヶ島湯本館(田方郡上狩野村湯ヶ島1656番地)へ毎年10年間通うようになる。幼い時の眼底結核により右目が見えにくく、右半身も時々しびれる持病があった康成には、湯治をも兼ねていた。

伊豆旅行から帰った後から、康成は寮の級友たちともなじむようになり、一緒に白木屋食堂などに行った。三明永無と白木屋の女給・山本ちよを張ったりすることもあった。1919年(大正8年)、池田虎雄を通じて、池田の神戸一中時代の友人・今文武の兄・今東光と知り合い、本郷区西片町(現・文京区西片1丁目12-13)に住んでいた今宅へ寄宿舎からよく遊びに行き、今東光の父・武平(元郵船会社欧州航路の船長)から霊智学(心霊学)、神智学の話に耳を傾けた。康成は、今東光、今日出海兄弟母親から「康さん」と呼ばれ、家族同然に可愛がられていた。6月には、友人で文芸部の氷室吉平から何か書いてみないかと勧められて、一高文芸部の機関誌『校友会雑誌』に、伊豆での旅芸人との体験と絡めて、〈ちよ〉という名の3人の少女(白木屋の女給、親戚の娘、伊豆の踊子)にまつわる奇妙な話を描いた「ちよ」を発表した。この作品も川端は処女作としている。

康成は酒が飲めない性質であったが、石濱、鈴木、三無らとカフェや飲食店によく出かけ、この年の秋頃、本郷区本郷元町2丁目の壱岐坂(現・文京区本郷3丁目)にあるカフェ・エランで、またしても「ちよ」(通称)と呼ばれる可憐な少女女給・伊藤初代と出会った。伊藤初代は、岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区岩谷堂)の農家出身の父・忠吉の長女として1906年(明治39年)に福島県で生れ、幼くして母と死別し父とも離れ、叔母や他人の家を転々として育ち、上京しカフェ・エランのマダム(平出修の義理の甥の元妻)の養女(正式ではない)となっていた13歳の少女であった。しかしマダムの台湾行に伴い店を閉め、初代は翌年9月にマダムの親戚の岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納)の浄土宗西方寺に預けられて行った。

なお、この当時東京帝国大学法学部の学生であった平岡梓は、ある冬の日、帝大正門前の道で同級生の三輪寿壮が見知らぬ一高生(康成)と一緒にいるのに出くわしたという。平岡梓は肉でも食べようと湯島の牛肉屋「江知勝」に三輪を誘うが、今日は連れがいるから駄目だと、少し離れたところに立っている「弊衣破帽で色褪せたぼろぼろのマント」を羽織って、「目玉ばっかりバカでかい貧弱な一高生」を三輪は指さした。そしてその数日後、三輪が平岡の家に遊びに来た時、その一高生・川端康成のことが話題となり、紹介すると言われたが断わったという。

1920年(大正9年)7月に第一高等学校を卒業し、9月に東京帝国大学文学部英文学科に入学。同級に北村喜八、本多顕彰、鈴木彦次郎、石濱金作がいた。しばらくは、東京府豊多摩郡大久保町東大久保181(現・新宿区新宿7丁目13)の中西方に下宿している鈴木彦次郎の部屋に同居した。同年、石濱金作、鈴木彦次郎、酒井真人、今東光と共に同人誌『新思潮』(第6次)の発刊を企画し、先輩の菊池寛に同名の誌名を継承することの諒解を得た。当時、小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)に住んでいた菊池寛を訪問し、これ以降、川端は菊池を通じ芥川龍之介、久米正雄らとも面識を持ち、長く菊池の恩顧を受けることとなる。なお当初、菊池は今東光を同人に入れることに反対したが、川端は今東光を入れないのなら、自分も同人にならないと言ったとされる。11月から川端は、東京市浅草区浅草小島町13の高橋竹次郎方(帽子洗濯修繕屋)の二階に下宿した。

翌1921年(大正10年)2月に第6次『新思潮』を創刊し、「ある婚約」を掲載。4月の第2号には、靖国神社の招魂祭での17歳の曲馬娘〈お光〉を軸に寸景を描いた小説「招魂祭一景」を発表し、菊池寛から〈ヴイジユアリゼイシヨンの力〉を褒められた。久米正雄、水守亀之助、加藤武雄、南部修太郎、中村星湖、小島政二郎、佐佐木茂索、加島正之助、『萬朝報』からも高く評価され、この「招魂祭一景」が、商業雑誌からも原稿依頼を受けるきっかけとなる。5月に浅草小島町72の坂光子方に下宿先を転居した。下宿先はその後、本郷区の根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方、駒込林町227(現・千駄木5-32)の佐々木方、同町11(現・千駄木5-2-3)の永宮志計里方、千駄木町38(現・千駄木1-22)の牧瀬方などに数か月ごとに転々とする。この頃の川端は、菊池寛からプロットの一点書きにしたものを貰い、菊池の『慈悲心鳥』などの作品を手伝っていたとされる。7月の『新思潮』第2号には、父母の死後について描いた自伝的作品「油」を発表した。

この年の夏休みが終わり、康成は9月16日に上京の途上、三明永無と京都駅で落ち合い、岐阜駅で途中下車して2人で伊藤初代(当時15歳)のいる岐阜県を訪ねた。初代と親しくなれた康成は秋に結婚を決意し、10月8日に再び三明永無と共に岐阜に赴き、初代のいる西方寺を訪問して長良川湖畔の宿で初代と結婚の約束を果たし、翌日、岐阜県今沢町9番地の瀬古写真館で婚約記念の写真を撮った。帰京後、川端は初代との婚約を石濱金作ら同人に報告し、「独身送別会」を開いてもらい、友人たちの友情に感涙していたという。その後10月末に、石濱、鈴木、三明と共に岩手県岩谷堂字上堰で小学校の小使いをしている父親・忠吉と学校の宿直室と宿で面会し、初代の婚約記念写真を見て泣いている忠吉から承諾をとった。

川端は、〈十六の少女と一緒になれる〉という〈奇跡のやうに美しい夢〉を持ち、帰京すると、〈若い恋愛の勢ひ〉で菊池寛を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た。その際菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判や事情の詳細追及もせず、近々一年近く自分は洋行するから、留守の家に川端と初代が住んでいいと言った。その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた。川端は、菊池寛の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰ったという。その当時、周囲の人々の好意や恩をよく受けていたことを川端は以下のように語っている。

同年の1921年(大正10年)11月8日、川端は、〈才能のある若い者同士〉を引き合わせようとする菊池寛の家で横光利一と初めて出会い、夕方、3人で本郷区湯島切通坂町2丁目6(現・文京区湯島)の牛肉屋「江知勝」に行き、菊池に牛鍋を奢ってもらった。小説の構想を話しながら〈声高に熟して〉くる横光の話し振りに、〈激しく強い、純潔な凄気〉を川端は感じた。横光が先に帰ると、菊池は〈あれはえらい男だから友達になれ〉と川端に言った。横光とはそれ以後、川端にとり〈恩人〉、〈僕の心の無二の友人〉となり、何かと行動を共にする付き合いが始まった。

その夜、川端が浅草小島町72の下宿の戻ると、岐阜にいる伊藤初代から、「私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです」という婚約破棄の手紙を受け取り読んだ。川端はすぐ電報を打ち、翌日西方寺で初代と会い、その後手紙をやり取りするが、11月24日に永久の「さやうなら」を告げる最後の別れの手紙を受け取り、初代はその後再び東京に戻り、カフェ・パリや浅草のカフェ・アメリカの女給をする。カフェ・アメリカで女給をしていた頃の伊藤初代は、「クイーン」と呼ばれ、「浅草一の大美人」がいると噂されるほどになり、「赤いコール天の足袋をはいたチー坊」の少女の頃とは変っていたと今日出海は述懐している。

〈不可解な裏切り〉にあった川端は、カフェ・パリ、カフェ・アメリカにも行き、様々な努力をするが、初代は川端の前から姿を消してしまった。初代はカフェ・アメリカの支配人の中林忠蔵(初代より13歳上)と結ばれ、結婚することになったのであった。川端と初代の間には肉体関係はなく、恋愛は〈遠い稲妻相手のやうな一人相撲〉に終わり、川端の〈心の波〉は強く揺れ、その後何年も尾を曳くようになる。この初代との体験を元にした作品が、のちの様々な短編や掌の小説などに描かれることになる。菊池寛は、川端の婚約破談の話を石濱らから聞いて薄々知っていたらしいが、川端を気遣いそのことについて何も触れなかった。12月には、『新潮』に「南部氏の作風」を発表し、川端は初めての原稿料10円を得た。

1922年(大正11年)、加藤武雄の好意で『文章倶楽部』1月号・2月号にチェーホフなどの小品翻訳を発表し、同月の『時事新報』には佐佐木茂索の好意により「今月の創作界」を寄稿できた川端は、先ず文芸批評家として文壇に登場した。これがきっかけで以後長年、各誌に文芸批評を書き続けることになる。

6月に英文学科から国文学科へ移籍した。これは、英文科は出席率がやかましかったためと、講義にほとんど出ない川端は試験も受けなかったため、英文科で単位を取れずに転科を決めた。大学に〈一年よけい〉に行くことになった川端は、もっぱら文学活動に専念した。

また、この年の夏には、失恋の痛手を癒すために再び伊豆に赴き、湯ヶ島湯本館で、草稿『湯ヶ島での思ひ出』を原稿用紙107枚執筆し、自分を拒み通した伊藤初代とは違い、無垢に好意を寄せてくれた伊豆の踊子や小笠原義人の思い出を綴った。

1923年(大正12年)1月に菊池寛が創刊した『文藝春秋』に「林金花の憂鬱」を発表した川端は同誌の編集同人となり、第2号から編集に携わった。横光利一や佐々木味津三と共に、『新思潮』同人も『文藝春秋』同人に加わった。5月には、〈葬式の名人〉と従兄にからかわれた時に感じた〈身に負うてゐる寂しさ〉を綴った自伝作品「会葬の名人」(のちに「葬式の名人」と改題)を同誌に発表。7月には、伊藤初代との一件を描いた「南方の火」を『新思潮』(8月号)に発表した。また、この年に犬養健の作品を創作評で取り上げ、それ以降、「篝火」の感想や「来訪を待つ」などの書簡をもらう仲となり、犬養は横光利一とも交流する。

9月1日に、本郷区駒込千駄木町38(現・文京区千駄木1-22)の下宿で関東大震災に遭った川端は、とっさに伊藤初代のことを思い、幾万の避難民の中に彼女を捜し、水とビスケットを携帯して何日も歩いた。今東光と共に芥川龍之介も見舞い、3人で被災した町を廻った。川端らは吉原界隈では、火に焼かれ池に飛び込んだ大勢の娼婦たちの凄惨な〈その最も醜い死〉の姿に衝撃を受けた。

川端は他にも浅草の死体収容所などでも〈幾百幾千或は幾万〉もの死体を見たが、その中でも〈最も心を刺されたのは、出産と同時に死んだ母子の死体であつた〉とし、〈母が死んで子供だけが生きて生れる。人に救はれる。美しく健かに生長す。そして、私は死体の臭気のなかを歩きながらその子が恋をすることを考へた〉と綴った。

震災後は、川端は以前にも増して〈新しい文藝〉への意欲が高まり、〈新進作家の作品は、科学者の詩ではなく、若い娘の踊でなければならぬ。またこの魔は生娘が好きだ〉と論じている。

1924年(大正13年)3月に東京帝国大学国文学科を卒業。川端は大学に1年長く在籍した。最後の大学4年の時から、国許の親類の送金を断わり自活を試みはじめていた。単位が足りなく卒業が危うかったが、主任教授・藤村作の配慮(単位の前借、レポート提出)により卒業できた。大宅壮一が川端と石濱金作を住家に招いて、卒業祝いに鶏を一羽つぶして振る舞ってくれた。卒論『日本小説史小論』の序章を「日本小説史の研究に就て」と題して、同月『芸術解放』に発表。伊藤初代との婚約を題材とした「篝火」も『新小説』に発表した。5月には、郷里の三島郡役所で徴兵検査を受けたが、体重が十貫八百三十匁(約41キログラム)で不合格となった。検査前1か月間、伊豆の温泉で保養し、三島郡の宿屋では毎回の食事に生卵を3個飲んでいたにもかかわらず、〈郡役所の広間で恥をかいた〉思いを川端は抱いた。川端と同じくもう一人不合格となった笹川泰広という人物によると、検査の後2人は残されて、「不合格になったがよい学校を出ているのだから、その方面でお国に尽くせ」と言われたという。

10月には、横光利一、片岡鉄兵、中河与一、佐佐木茂索、今東光ら14人で同人雑誌『文藝時代』を創刊し、さらに岸田国士ら5人も同人に加わった。横光は、劇団を組織することも考えていたが、川端が反対して実現に至らなかったという。主導者の川端は、これからは宗教に代り文芸が人間救済の役割を果たすだろうという気持ちから、この誌名を名付け、「創刊の辞」を書いた。創刊号に掲載された横光の「頭ならびに腹」により、同人は「新感覚派」と評論家・千葉亀雄により命名されるようになった。

ヨーロッパに興ったダダイスムの下に「芸術の革命」が目指されたアバンギャルド運動などに触発された『文藝時代』は、同年6月にプロレタリア文学派により創刊された『文藝戦線』と共に、昭和文学の二大潮流を形成した。川端は『文藝時代』に、「短篇集」「第二短篇集」と題して、掌編小説を掲載することが多かった。これらの小品群(掌の小説)は、未来派やダダイスムの影響により、既成の道徳によらない自在な精神を表現したものが多く、失恋や孤児根性を克服し新しい世界へ飛躍する願望が秘められている。こういった極く短い形式の小説を創ることの喜びが一般化して〈遂に掌篇小説が日本特殊の発達をし、且和歌や俳句や川柳のやうに一般市井人の手によつて無数に創作される日〉が来ることを川端は夢みて、日本人が掌篇小説においても〈小説の最も短い形式〉を完成し得ると確信していた。

1925年(大正14年)、中学3年の時に寝たきりの祖父を描いた看病日記を西成郡豊里村の黒田家の倉から発見し、8月と9月に「十七歳の日記」(のち「十六歳の日記」と改題)として『文藝春秋』に発表した。川端はこの無名時代の日記を、〈文字通りの私の処女作である〉としている。5月に、『文藝時代』同人の菅忠雄(菅虎雄の息子。雑誌『オール讀物』の編集長)の家(新宿区市ヶ谷左内町26)に行った際に、住み込みのお手伝い・松林秀子と初めて会い、その夏に逗子の海に誘った。秀子は川端の第一印象について、「ちょっと陰気で寂しそうな感じの人だなと思いましたが、眼だけはとても生き生きした温かそうな感じがするという印象でした」と語っている。川端は当時、本郷区林町190の豊秀館に下宿していたが、この年の大半は湯ヶ島本館に滞在した。12月には、心霊的な作品「白い満月」を『新小説』に発表し、この頃から作品に神秘性が加味されてきた。この年に、従兄・黒田秀孝が株の失敗で豊里村の家屋敷を手放した。

1926年(大正15年・昭和元年)1月と2月に「伊豆の踊子」「続伊豆の踊子」を『文藝時代』に分載し、一高時代の伊豆の一人旅の思い出を作品化し発表した。当時、川端は麻布区宮村町の大橋鎮方に下宿しつつも、湯ヶ島にいることが多かったが、喘息で胸を悪くした菅忠雄が静養のために鎌倉郡鎌倉町(現・鎌倉市)由比ヶ浜へ帰郷することとなり、川端に留守宅となる市ヶ谷左内町26への居住を誘った。4月から菅忠雄宅へ移住した川端は、住み込みの松林秀子と同じ屋根の下に住み実質的な結婚生活に入った(正式入籍はのち1931年(昭和6年)12月2日)。秀子は、一緒に住むことになった時のことについて以下のように語っている。

6月には、掌編小説(掌の小説)を収録した初の処女作品集『感情装飾』が金星堂より刊行され、友人や先輩ら50人ほどが出席して出版祝賀会が行われた。出席者の顔ぶれには、同人たちをはじめ、大宅壮一、江戸川乱歩、豊島与志雄、尾崎士郎、岡本一平・かの子夫妻などもいた。また、この年の春には、衣笠貞之助、岸田国士、横光利一、片岡鉄兵らと「新感覚派映画聯盟」を結成し、川端は『狂つた一頁』のシナリオを書いた(7月に『映画時代』に発表)。大正モダニズムの成果であるこの作品は9月に公開され、ドイツ表現主義の流れを汲む日本初のアバンギャルド映画として、世界映画百年史の中に位置づけられている。

『狂つた一頁』は、全関西映画連盟から大正15年度の優秀映画に推薦されたが興行的には振るわず、この一作のみで「新感覚派映画聯盟」は立ち消えとなった。なお、この年の夏に横光利一、石濱金作、池谷信三郎、片岡鉄兵らと逗子町324の菊池精米所の裏に家を借りて合宿していたが、9月頃からは再び、湯ヶ島湯本館で生活した。川端は、湯本館を〈理想郷のやうに言つて〉、友人知人に宣伝していたため、その後多くの文士たちが集まって来るようになった。

1927年(昭和2年)正月、前年の大晦日に梶井基次郎が温泉療養に湯ヶ島温泉にやって来たが、旅館の落合楼で嫌な顔をされたため、川端は梶井に湯川屋を紹介した。川端は、度々湯本館に遊びに来る梶井に、『伊豆の踊子』の単行本の校正を手伝ってもらった。川端文学に傾倒していた梶井はその頃まだ同人雑誌作家で、友人たちに誇らしげに川端と一緒にいることを手紙で伝えている。

湯ヶ島には、梶井の同人『青空』の面々(淀野隆三、外村繁、三好達治)、十一谷義三郎、藤沢桓夫、小野勇、保田与重郎、大塚金之助、日夏耿之介、岸田国士、林房雄、中河与一、若山牧水、鈴木信太郎、尾崎士郎、宇野千代、萩原朔太郎らも訪れた。梶井、尾崎、宇野の伊豆湯ヶ島文学は〈私の手柄でもある。あんなに文士が陸続と不便な山の湯を訪れたのは、伊豆としても空前であらう〉と川端は思い出し、幼くして孤児となり家も16歳で無くなった自分だが、〈温かい同情者や友人は身近に絶えた日〉がないと語っている。3月に横光利一ら同人に、永井龍男、久野豊彦、藤沢桓夫らを加えて『一人一頁づつ書く同人雑誌――手帖』を創刊し(11月に「9号」で終刊)、「秋から冬へ」を発表した。

4月5日、上野精養軒で行われる横光利一の結婚式(日向千代との再婚)のため、川端は湯ヶ島から上京し、その後湯ヶ島へは戻らずに、「東京に帰るべし」と忠告した横光らが探した東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家(家主は吉田守一)に4月9日から移住することに決め、急遽湯ヶ島にいる秀子を呼んだ。その家では、原稿料の代りに読売新聞社から貰った桂の碁盤を机代りにしていたが、横光が作家生活で最初に買った花梨の机を譲った。その机は池谷信三郎も横光から貰いうけ使っていたものだが、池谷はその時はもう新しい机があったので、川端のところへ廻ってきた。

同月4月には、短編「美しい!」を『福岡日日新聞』に連載し、5月に「結婚なぞ」を『読売新聞』に連載発表した。まもなく隣家に大宅壮一が越して来て、半年ほどそこに居た。大宅の2度目の妻・近藤愛子(近藤元太郎の娘)と秀子は、偶然同じ青森県三戸郡八戸町(現・八戸市)出身であった。横光との同人誌『文藝時代』は5月に「32号」をもって廃刊した。妊娠していた妻・秀子が、6月頃(7月の芥川龍之介自殺より少し前)、慶応病院で出産するが、子供(女児)はすぐに亡くなった。8月から『中外商業新報』に初の長編新聞小説「海の火祭」を連載開始する。

同年1927年(昭和2年)12月から、家賃は月120円と高かったが、海も見え内湯もある熱海小沢の鳥尾子爵(鳥尾小弥太)の別荘を借りて移り住んだ。林房雄によると川端は、「家賃が高くとも安くとも、どうせ金は残らないのだから、同じですよ」と笑っていたという。川端は当時の自分を、〈私の例の無謀もはなはだしいものであつた〉と振り返っている。この頃は川端や元新感覚派の作家にとって不作不振の時期であった。

当時は、プロレタリア文学が隆盛で、『文藝時代』の同人であった片岡鉄兵が左傾化した。武田麟太郎や藤沢桓夫も、プロレタリア文学運動に加わり、石濱金作が転換、今東光と鈴木彦次郎が旧労農党に加入し、横光利一は極度に迷い動揺した。そんな中、川端はマルクス主義に対して従来とほぼ同じ姿勢で、〈僕は「芸術派」の自由主義者なれども、「戦旗」同人の政治意見を正しとし、いまだ嘗て一度もプロレタリア文学を否定したることなし。とは云へ、笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ〉と語っていた。

翌1928年(昭和3年)、熱海の家に昨年暮から梶井基次郎が遊びに来て毎日のように囲碁などに興じていたが、正月3日に、真夜中に泥棒に入られた。川端は当初、襖を開けて夫婦の寝部屋を覗いていた男を、忘れ物を探しに来た梶井だと思っていたという。枕元に来た泥棒は、布団の中の川端の凝視と眼が合うとギョッとして、「駄目ですか」と言って逃げて行った。その言葉は、〈泥棒には実に意味深長の名句なのだらうと、梶井君と二人で笑つた〉と川端は語り、梶井も友人らに「あの名せりふ」を笑い話として話した。3月には、政府の左翼弾圧・共産党の検挙を逃れた林房雄、村山知義が一時身を寄せに来たこともあった。その後、横光利一が来て、彼らの汽車賃を出して3人で帰っていった。

3月までの予定だった熱海滞在が長引き、家賃滞納し立退きを要求されたため、5月から尾崎士郎に誘われて、荏原郡入新井町大字新井宿字子母澤(のち大森区。現・大田区西馬込3丁目)に移ったが、隣りのラジオ屋の騒音がうるさく執筆できないため、その後すぐ同郡馬込町小宿389の臼田坂近辺(現・南馬込3丁目33)に居住した。子母澤にいる時、犬を一匹飼い始め、「黒牡丹」と名付けた(耳のところが黒い牡丹のような模様だったため)。馬込文士村には尾崎士郎をはじめ、広津和郎、宇野千代、子母沢寛、萩原朔太郎、室生犀星、岡田三郎のほか、川端龍子、小林古径、伊東深水などの画家もいて、彼らと賑やかに交流した。川端は宇野千代と一緒に方々歩いたが、2人を恋人同士と誤解した人もあったという。この年の夏に、妊娠5、6か月だった妻・秀子が風呂の帰りに臼田坂で転倒して流産した。

1929年(昭和4年)4月に岡田三郎らの『近代生活』が創刊され、同人に迎えられた。9月17日には浅草公園近くの下谷区上野桜木町44番地(現・台東区上野桜木2丁目20)に転居し、再び学生時代のように浅草界隈を散策した。この頃から何種類もの多くの小鳥や犬を飼い始めた。こうした動物との生活からのちに『禽獣』が生れる。この頃、秀子の家族(妹・君子、母親、弟・喜八郎)とも同居していた。浅草では7月にレビュー劇場・カジノ・フォーリーが旗揚げされていた。川端は、第2次カジノ・フォーリー(10月に再出発)の文芸部員となり、踊子たちと知り合った。踊子たちは「川端さんのお兄さん」と呼んでいたという。10月に「温泉宿」を『改造』に発表。12月からは、「浅草紅団」を『東京朝日新聞』に連載開始し、これにより浅草ブームが起きた。

また、この頃川端は、〈文壇を跳梁する〉左翼文学の嵐の圧力に純文学が凌駕されている風潮に苦言を呈し始め、「政治上の左翼」と「文学上の左翼」とが混同され過ぎているという堀辰雄の言葉(『文學』発刊の趣意。読売新聞紙上)に触発され、〈今日の左翼作家は、文学上では甚だしい右翼〉だと断じ、その〈退歩を久しい間甘んじて堪へ忍んで来た〉が、〈この頃やうやく厭気が〉がさしてきたと述べ、〈われわれはわれわれの仕事、「文学上の左翼」にのみ、目を転じるべき時であらう〉と10月に表明した。

同じ10月には、堀辰雄、深田久弥、永井龍男、吉村鉄太郎らが創刊した同人誌『文學』に、横光利一、犬養健と共に同人となった。『文學』は、季刊誌『詩と詩論』などと共に、ヴァレリー、ジイド、ジョイス、プルーストなど新心理主義の西欧20世紀文学を積極的に紹介した雑誌で、芸術派の作家たちに強い刺激を与え、堀辰雄の『聖家族』、横光利一の『機械』などが生れるのも翌年である。

1930年(昭和5年)、前年12月に結成された中村武羅夫、尾崎士郎、龍膽寺雄らの「十三人倶楽部」の会合に川端は月一度参加し始めた。「十三人倶楽部」は自ら「芸術派の十字軍」と名のり、文芸を政治的強権の下に置こうとするマルキシズム文芸に飽き足らない作家たちの団体であった。新興芸術派の新人との交遊もあり、川端は〈なんとなく楽しい会合だつた〉と語っている。また同年には、菊池寛の文化学院文学部長就任となり、川端も講師として週一回出講し、日大の講師もした。2月頃には、前年暮に泥棒に入られた家から、上野桜木町49番地へ転居した。この頃は次第に昭和恐慌が広がり、社会不安が高まりつつある時代であった。11月には、ジョイスの影響を反映させ、新心理主義「意識の流れ」の手法を取り入れた「針と硝子と霧」を『文學時代』に発表した。

続いて翌1931年(昭和6年)1月と7月に、同手法の「水晶幻想」を『改造』に発表した。時間や空間を限定しない多元的な表現が駆使されている「水晶幻想」は、これまで様々な実験を試みてきた川端の一つの到達点ともいえる作品となっている。4月から、書生の緑川貢を置くために、同じ上野桜木町36番地の少し広い家に転居した。10月には、カジノ・フォーリーのスターであった踊子・梅園龍子を引き抜いて、洋舞(バレエ)、英会話、音楽を習わせた。梅園を育てるため、この頃から西欧風の舞踊などを多く見て、〈そのつまらなさのゆゑに〉意地になってますます見歩くようになるが、そのバレエ鑑賞が、その後の『雪国』の島村の人物設定や、『舞姫』などに投影されることになる。この年の6月には、画家・古賀春江と知り合った。12月2日には妻・秀子との婚姻届を出した。

1932年(昭和7年)2月に、過去の失恋の痛手を題材とした心霊的な作品「抒情歌」を『中央公論』に発表した。3月初旬、伊藤初代(再婚名・桜井初代)が川端宅を訪れた。約10年ぶりの再会であった。初代は浅草のカフェ・アメリカの支配人・中林忠蔵と1922年(大正11年)に結婚して関東大震災後に仙台市に移住し、中林は高級レストラン「カルトン」の支配人をしていたが、中林と5年前に死別し、再婚相手・桜井との間に儲けた次男(1歳に満たない赤ん坊)がいた(長男は夭折)。家庭生活が思わしくなく、有名になった川端を頼ってきた初代は、中林との間の長女・珠江(9歳)を養女に貰ってほしいと言った。その申し出を断わられた初代はその後二度と訪れることはなかった。この時の体験もその後に種々の作品(『姉の和解』、『母の初恋』)の題材となる。同月24日には親しかった梶井基次郎が死去した(31歳没)。9月から「化粧と口笛」を『朝日新聞』に連載開始する。同年には、梅園龍子の本格的な舞踊活動(パイオニア・クインテット)が行われた。

1933年(昭和8年)2月に『伊豆の踊子』が初めて映画化された(監督・五所平之助)。同月には小林多喜二が殺されて、プロレタリア文学は実質上壊滅する。そして川端は7月に、愛玩動物を多く飼育する虚無的な独身男を主人公にした「禽獣」を『改造』に発表した。この時の編集者は徳廣巌城(上林暁)であった。この作品は、「昭和前期文学の珠玉」と賞讃され、川端が「もつとも知的なものに接近した極限の作品」と位置づけられ、川端の一つの分岐点にある作品だとされている。川端の抒情と非情の眼が描かれた「禽獣」をはじめ、この頃から翌年にかけての作品が最も虚無的傾向が深かった。

それと同時に少女小説を書くことも増え、同月には「夏の宿」を『少女倶楽部』に発表した。この夏は房州の上総興津(現・千葉県勝浦市)で過ごした。9月10日に親しかった画家・古賀春江が死去した(38歳没)。10月には、小林秀雄、林房雄、武田麟太郎、深田久彌、宇野浩二、広津和郎、豊島与志雄らと文芸復興を目指した雑誌『文學界』創刊の同人となった。『文學界』にはその後、横光利一、藤沢桓夫、里見弴らも加わった。世の暗い風潮と大衆文学の氾濫の中で、川端は純文学の自由と権威を擁護する立場をとり、それを発展させることに参加した。

11月は、結びでの悪魔との問答に、〈おれは小説家といふ無期懲役人だ〉という一句が出てくる「散りぬるを」を『改造』に発表、12月には、古賀春江の死に際し執筆した随筆「末期の眼」を『文藝』に発表した。芥川龍之介の遺書に書かれていた〈末期の眼〉という、たえず死を念頭に置くことにより純化・透明化する感覚意識で自然の諸相を捉えて、美を見出そうとする認識方法が、川端の作品の主題の要となっていった時期であった。また、川端は「奇術師」と呼ばれたことについて、〈私は人を化かさうがために、「奇術」を弄んでゐるわけではない。胸の嘆きとか弱く戦つてゐる現れに過ぎぬ。人がなんと名づけようと知つたことではない〉と「末期の眼」で書いた。12月21日には、親しかった池谷信三郎が死去した(33歳没)。この年から川端は、岡本かの子から小説指導を依頼され、どこの雑誌でも歓迎されなかった彼女の原稿に丁寧に目を通して励まし続けた。

1934年(昭和9年)1月に、「文藝懇話会」が結成されて、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、横光利一が名を連ね、川端も会員となった。しかし会に出席してみると、元警保局長・松本学主宰で作られたもので、〈謙虚に辞退すべきであつた〉とも川端は思うが、〈私は風の来るにつれ、水の流すに従ひながら、自分も風であり、水であつた〉としている。そういった思いや、菊池寛や横光利一との出会いのエピソードなどを綴った随筆「文学的自叙伝」を5月に『新潮』に発表した。6月には初めて新潟県の越後湯沢(南魚沼郡湯沢町)に旅した。その後も再訪して高半旅館の19歳の芸者・松栄(本名・小高キク)に会った。これをきっかけに、のちに『雪国』となる連作の執筆に取りかかった。最初の越後行きから帰京後、下谷区谷中坂町79番地(現・台東区谷中)に転居した。

8月に癩病(ハンセン病)の文学青年・北條民雄(本名:七條晃司)から手紙や原稿を受け取り、以後文通が始まった。この当時、川端の文芸時評で認められることは、「勲章」を貰うようなものであったという。川端は新人の文章に触れることについて以下のように語っている。

1935年(昭和10年)1月、「夕景色の鏡」を『文藝春秋』に発表、「白い朝の鏡」を『改造』に発表し、のちに『雪国』となる連作の各誌への断続的掲載が開始された。同月には、芥川賞・直木賞が創設され、横光利一と共に芥川賞の銓衡委員となった。第1回芥川賞の川端の選評をめぐり、賞をほしがっていたが外れた太宰治との間で一騒動があった。6月から8月には発熱などで体調を崩し慶応病院に入院した。入院中の7月5日に、内務省地階の共済会歯科技工室でアルコール缶爆破事故の火傷を負った歯科医と女助手が担ぎ込まれ、翌日に亡くなった。このことを題材にして、のちに『イタリアの歌』を執筆する。11月、〈秩父號一〉という筆名を付けて、北條民雄の「間木老人」を『文學界』に紹介した。また、この年に横光利一が『純粋小説論』で、純文学について論じ話題となり、その反響を文芸時評で取り上げ、川端も文学者本来の精神に立ち返ることを主張し、12月に「純文藝雑誌帰還説」を『読売新聞』に発表した。同月5日には、林房雄の誘いで、神奈川県鎌倉郡鎌倉町浄明寺宅間ヶ谷(現・鎌倉市浄明寺2丁目8-15、17、18のいずれか)に転居し、林と隣り同士となった。

1936年(昭和11年)1月、『文藝懇話会』が創刊されて同人となった。2月5日に北條民雄が鎌倉を訪れ、初めて面会した。同月には川端の推薦により、「いのちの初夜」と名付けられた北条の作品が『文學界』に掲載され、文壇に衝撃を与えた。川端は、〈文壇や世間の批評を聞くな、読むな、月々の文壇文学など断じて見るな、(中略)常に最高の書に親しめ、それらの書が自ら君を批評してくれる〉と北条を励ました。川端は、佐左木俊郎のように真価を知られること無く死んでゆく無名の作家たちの作品を世に知らせることを、文芸批評家としての一つの使命とし、〈常に批評家によつて軽んじられ通して来た作家の味方〉であった。そのような川端を、「発掘の名人」と呼んだ横光は、2月20日に、新聞の特派員として船で渡欧し、川端はそれを神戸港で見送った。5月には越後湯沢に5度目の旅をし、『雪国』の執筆を続けた。

6月には、岡本かの子の「鶴は病みき」を同誌に紹介した。芥川龍之介をモデルにしたこの作品が岡本の文壇デビュー作となった。同月には、川端が学生時代に初めて知り合った作家・南部修太郎が死去した(43歳没)。8月は、『文學界』の広告スポンサーの明治製菓の内田水中亨の斡旋で、神津牧場見物記を明治製菓の雑誌『スヰート』に書くこととなり、初めて長野県北佐久郡軽井沢町を訪れ、藤屋旅館に滞在した。信州への関心が高まり、その後その地を背景とした作品が書かれる。12月からは、盲目の少女を描いた「女性開眼」を『報知新聞』に連載開始し、「夕映少女」を『333』に発表した。

1937年(昭和12年)5月に鎌倉市二階堂325に転居した(家主は詩人・蒲原有明)。6月に書き下ろし部を加えて連作をまとめ『雪国』を創元社より刊行し、第3回文芸懇話会賞を受賞した(執筆はこの後も断続的継続される)。この賞金で川端は旧軽井沢1307番地の別荘を購入した(翌年、隣地1305番地の土地も購入)。同月には、信州を舞台に戦争の時代を描いた「牧歌」を『婦人公論』に連載開始し、「乙女の港」を『少女の友』に連載開始した。「乙女の港」は、川端に師事していた新人主婦作家の佐藤恒子(中里恒子)を執筆指導しながら合作した作品である。この年の7月に支那事変が起き日中戦争が始まった。11月からは別荘に滞在し、戸隠などに行き、出征する兵士を見送る婦人の描写も含む「高原」を『文藝春秋』に断続的に発表を開始する。

同月18日、この軽井沢の別荘を堀辰雄が郵便局に行った帰りに遊びに寄っている間に、堀の滞在宿の油屋旅館が火事になったため、堀は川端が帰った12月以後そこを借りて、『風立ちぬ』の最終章「死のかげの谷」が書き上げられた。12月5日に北條民雄が死去し(23歳没)、東京府北多摩郡東村山村にあるハンセン病療養施設「全生園」に赴き、北条の遺骸と面会した。のちにこの北条の死を題材にした作品『寒風』が書かれる。また、この年の10月28日には、耕治人から是非読んでもらいたいと原稿が送られてきて、翌年から度々訪問してくるようになる。野々宮写真館の主人からコンタックスを譲られたのも、この年頃で、その後写真をよく撮ることが多くなり、ゴルフも時々やるようになる。

1938年(昭和13年)4月から『川端康成選集』全9巻が改造社より刊行開始された。これは横光利一の好意で改造社に口添えして実現したものであったという。7月からは、21世本因坊秀哉名人の引退碁の観戦記を『東京日日新聞』『大阪毎日新聞』に連載した。のちにこの観戦記を元にした小説『名人』の各章が断続的に書かれることになる。この年には、翌年刊行される中央公論社の『模範綴方全集』の選者に、藤田圭雄と共に委託され、多くの小学生、少年少女の文章を翌年にかけて多く読んだ。この時期、豊田正子の『綴方教室』も時評で賞讃した。10月には、「日本文学振興会」「(理事長・菊池寛)の理事に就任した。また、この年に『北條民雄全集』を編集した。

1939年(昭和14年)1月からは、若い女性向け雑誌『新女苑』の投稿欄「コント選評」を始める。2月18日に岡本かの子が死去した(49歳没)。昨年からの少年少女の作品選考をきっかけに、5月、坪田譲治らと「少年文学懇話会」を結成し、小学生の綴方運動に深く関わった。川端は子供の文章について、〈子供の作文を私は殊の外愛読する。一口に言へば、幼児の片言に似た不細工さのうちに、子供の生命を感じるのである〉と述べ、西村アヤの『青い魚』や『山川彌千枝遺稿集』を〈私が常に机辺から離したくない本〉として、〈その幼稚な単純さが、私に与へるものは、実に広大で複雑である。まことに天地の生命に通ずる近道である〉と語り、また、〈すぐれた作家の心には、常に少年が住んでをるべきである〉としている。7月からは、前々年に訪日したヘレン・ケラーに触発されて、三重苦の少女を描いた「美しい旅」を『少女の友』に連載開始した。

1940年(昭和15年)1月に「母の初恋」、「正月三ヶ日」を発表した。同月、「紅葉祭」(尾崎紅葉忌)のために熱海聚楽ホテル滞在。1月16日に熱海のうろこ屋旅館に滞在していた本因坊秀哉名人を訪ね将棋を打って別れた後、本因坊秀哉が体調を崩して急逝。 この死をきっかけに、『名人』が執筆開始されることになる。2月に眼が見えにくくなり、慶応病院に4日間入院した。この時、眼底に過去の結核が治った病痕があり、右眼は網膜の真中なので、視力が損なわれていたことを知る。

5月には、「美しい旅」の取材のため盲学校や聾唖学校を参観した。この時に、橘川ちゑ(秋山ちえ子)という若い女性教師に会い、以後文通をする。10月に「日本文学者会」が設立され、阿部知二、伊藤整らと共に発起人となった。またこの1940年(昭和15年)は、1月から『新女苑』に連載開始した「旅への誘ひ」のために、三島、興津、静岡市と東海道へも旅した。翌年1941年(昭和16年)1月に北條民雄の死を偲んだ「寒風」を『日本評論』に発表した。3月、山口さとのの『わが愛の記』(下半身付随の夫を持つ妻の記録)を「文芸時評」で賞讃した。

1941年(昭和16年)4月には、『満州日日新聞』の招きで囲碁の催しのため、呉清源、村松梢風と共に満州国に赴いた。吉林、奉天など満州各地を廻り、在満州の檀一雄、田中総一郎、緑川貢、北村謙二郎らと座談会をし、新京(現・長春)北郊の寛城寺に住む日本人作家の山田清三郎らに会い、異郷の中国大陸で暮らし苦闘する彼らに川端は〈なにか親しみ〉を感じる。

ハルピンで一行と別れて承徳を経て北京、天津、大連に行った。本土(日本)に帰国後、9月にも関東軍の招きで山本実彦(改造社社長)、高田保、大宅壮一、火野葦平と共に満州に再び渡航し、前回の地のほか、撫順、黒河、ハイラルも巡った。10月からは一人そのまま残り、妻・秀子を呼びよせ自費で滞在し、奉天、北京、大連などを旅行し、開戦間近の極秘情報を須知善一から受け、急遽11月末に日本に帰国した。

川端が帰国後、12月8日にマレー作戦と真珠湾攻撃により、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦となった。開戦の報を聞いた川端は、妻秀子によれば「主人は、軍部をおさえ切れないで勝つ見込みもない戦争にまきこまれてしまった、と慨嘆していました」と戦争の行く末を嘆いていたとされているが、この後、川端は否が応でも戦争に関わっていくこととなる。

1942年(昭和17年)6月に、満州在住の作家たちとの触れ合いから、『満州国各民族創作選集』を編集し、創元社より刊行した。8月には島崎藤村、志賀直哉、武田麟太郎、瀧井孝作らと共に季刊雑誌『八雲』の同人となり、同誌に「名人」を発表し、本因坊秀哉の観戦記を元にしたのちの『名人』の各章の断続的掲載が開始された。10月に「日本文学報国会」の派遣作家として、長野県下伊那郡松尾村(現・飯田市)の農家を訪問した。その取材中に浅草の伯母・田中ソノが死去した。12月8日開戦記念日(太平洋戦争開戦)に際しては、『東京新聞』記者尾崎宏次の依頼により、東京新聞の紙面上で川端が戦没兵士の遺文を読んで感想を書く「英霊の遺文」という連載を引き受けている。この年、ドイツで『伊豆の踊子』がオスカー・ベンル訳で独訳出版された。

1943年(昭和18年)2月、亡き伯母・田中ソノのことを綴った「父の名」を『文藝』に発表した。戦争により日本存亡の危機、家を含めての日本そのものの危機を意識した川端は、「川端家の存続」を強く願い、死んでいった祖父の言葉を振り返る。以前から養女の約束をしていた、母方の従兄・黒田秀孝の三女・麻紗子(戸籍名は政子)を引き取りに、夫婦で3月12日に故郷に赴いた。政子の母親・権野富江と黒田秀孝は離婚し、政子は幼児から母子家庭であった。5月3日に正式に11歳の政子を養女として入籍した川端は、これを題材とした「故園」を5月から『文藝』に連載開始した。この作品には、自身の生い立ちや祖父などのことも書かれた。政子のことはのちにも、『天授の子』『水晶の玉』の題材となる。4月は、梅園龍子と磯沼秀夫の結婚の媒酌をした。8月から『日本評論』に「夕日」(『名人』の断章)を断続的に発表する。

1943年(昭和19年)4月に、「故園」「夕日」などで第6回(戦後最後の)菊池寛賞を受賞した。この年は、戦争が激しくなる中で、時勢に多少反抗する気持ちもありつつ『源氏物語』や中世文人の文学などの文章に親しむことが多かった。7月から「東海道」が『満州日日新聞』に連載開始された。この作品の中で川端は、〈大和魂といふ言葉や、大和心といふ言葉は、平安時代にできたんだよ。しかも女が書いてゐるんだ〉と書いている。12月25日に片岡鉄兵が旅先で死去した(50歳没)。東京駅に片岡の遺骨を迎えて、車中から家屋や橋が爆弾でやられた跡を見ながら川端は荻窪へ向かった。

戦時下の時代には、文芸も完全な統制下に置かれ、谷崎潤一郎の『細雪』や、『源氏物語』などが発禁となっていた。多くの文学者が陸軍・海軍の報道班員として徴用され、なかには進んで自由主義的な作家の摘発に努めた作家もいる中、川端は極端な影響はされずに、暗い時代の流れを見据えながらも、少しずつマイペースで『名人』などの自分の作品を書き継いでいった。まともに執筆活動ができなくなった川端は、収入が途絶し生活費に困窮するようになったので、やむなく軽井沢に所有していた別荘を売却して生活費に充てている。1944年(昭和19年)暮れにはアメリカ軍爆撃機ボーイングB-29による日本本土空襲も開始され、川端はひとり、裏山で防空壕をノミと金づちで拡幅する作業に没頭し、地区の防空班長や隣組長も引き受けている。

時節柄川端も戦争協力を避けることはできず、1942年(昭和17年)12月の開戦記念日に連載が開始された連載「英霊の遺文」は「戦死者の遺文集を読みながら、私は12月8日を迎へる。新聞社から頼まれてのことだが、自分としても、この記念日にふさはしいことだと思ふ。しかし、これらの遺文について、あわただしい感想を書かねばならぬのは、英霊に対する黙禱のつつしみも失ふやうで心静かではない」といった「戦争」や「英霊」を賛美するような川端の言葉で始まり(東京新聞 1942年12月8日)、全20回に渡って同新聞の紙面を飾っている。この記事のなかで川端が熱意をもって論じたのが、1944年10月に開始された神風特別攻撃隊であり、「英霊の遺文」に以下のような感想を述べている。

同年には「日本文学振興会」の制定した「戦記文学賞」の選者にもなっている。この「戦記文学賞」は「大東亜戦争下、我国文人の使命も亦極めて重大にして、一管の筆能く崇高壮大なる聖戦の姿と精神とを把握し、百世に恥ぢざる赫奕たる文勲を樹てざるべからず」といった制定目的にも述べられている通り戦争協力のために作られた賞で、選者となった川端も下記のようにこの賞の目的に沿う決意を書いている。

1945年(昭和20年)4月に志賀直哉の推薦で海軍報道班員(少佐待遇)となり、新田潤、山岡荘八(新田と山岡は大尉待遇)と共に鹿児島県鹿屋航空基地に赴き、1か月滞在して特別攻撃隊神雷部隊を取材した。川端はそのときの心境を〈沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。特攻隊について一行も報道は書かなかつた〉と戦後に振り返っているが、秘密兵器として報道管制されていた特攻兵器桜花が報道解禁された直後の称賛プロパガンダ記事「霹靂の如き一瞬、敵艦ただ死のみ・川端康成氏“神雷兵器”語る」という記事に桜花や特攻への称賛の談話を寄せている(朝日新聞 1945年6月1日)。

山岡はこの取材の体験で作家観が変わるほどの衝撃を受け、死に赴く若い特攻隊員たちの姿を見た川端は、その感慨をのちに『生命の樹』に取り入れている。しかし、短期間で鹿児島を去った川端の印象は、新田、山岡や前から海軍報道班員として従軍していた丹羽文雄と比較すると薄かったようで、同じく鹿児島の特攻隊取材のために、日本映画社カメラマンとして従軍していた山根重視の回想には、丹羽、新田、山岡は登場するが川端だけは登場しない。

川端が鹿児島で特攻の取材をしていた5月1日に、久米正雄、小林秀雄、中山義秀、高見順、大佛次郎ら、鎌倉在住の文士と共に、自分たちの蔵書を元に、貸本屋「鎌倉文庫」を八幡通りに開店した。これは「道楽」ではなく、「食へない文士」が生活のために商っていたのであった。5月末には新田や山岡を置いて一足先に鹿児島から鎌倉へ帰り、8月15日には日本が敗戦した当日はラジオの前で、一家揃って正装して昭和天皇の玉音放送を聞いた。その報は、『源氏物語』の世界に〈恍惚と陶酔して〉いた川端の胸を厳しく打った。川端は終戦のときの状況を下記のように記している。

その2日後の17日、川端は鎌倉養老院で島木健作の死(42歳没)を看取った。11月、川端はそれらについて『新潮』で以下のように語った。

また、川端は夫人に、「これからは、日本の教育が大変なことになるよ。占領軍はまず教育の形を変えさせて、日本をまったく変えてしまおうとするだろう」と話したという。貸本屋・鎌倉文庫は、大同製紙の申し入れで9月に出版社となり、東京丸ビル、のちに日本橋白木屋二階を事務所とした。大同製紙の橋本社長が会長、里見弴が社長、常務が久米正雄、川端も大佛次郎、高見順と共に重役の一員となった。川端は、〈事務の多忙に、敗戦のかなしみをまぎらはすことが出来た〉と述懐している。

1946年(昭和21年)1月に、木村徳三を編集長として鎌倉文庫から、雑誌『人間』を創刊した。同月27日に大学生の三島由紀夫の訪問を受けた。川端は前年2月から『文藝世紀』に掲載されていた三島の『中世』を読み、賞讃を周囲に漏らしていたが、それ以前の学習院時代の三島(平岡公威)の同人誌の詩や、『花ざかりの森』にも注目し才能を見出していた。三島は川端について、「戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。〈私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい〉――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた」と語っている。川端は6月、三島の「煙草」を『人間』に掲載し、三島が戦後の文壇に登場するきっかけを作り、三島の初の長編『盗賊』の執筆原稿を丁寧に推敲指導した。〈同年の無二の師友〉である横光利一に並ぶ、〈年少の無二の師友〉となる三島との出会いであった。三島は、川端の養女・政子の学校の勉強を見てやることもあったという。

同年の3月31日には武田麟太郎が死去し(42歳没)、初めて弔辞を読んだ。これ以降、川端は多くの友人知人の弔辞を読むこととなる。4月には、大佛次郎、岸田国士らと「赤とんぼ会」を結成し、藤田圭雄編集の児童雑誌『赤とんぼ』に協力し、川端は綴方選を担当した。7月に「生命の樹」を『婦人文庫』に発表。一部がGHQにより削除された。10月に鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)に転居し、ここが終生の住いとなる。隣家には、山口正雄(息子は山口瞳)の一家がいた。山口瞳は当時、弟や妹と共に、川端家の養女・政子と日劇や宝塚歌劇を観に行ったり仲が良かった。山口瞳の息子・正介は、父親は川端家の養子になりたかったようだと語っている。

1947年(昭和22年)2月に日本ペンクラブの再建総会が行われ、川端も出席した。10月に、「続雪国」を『小説新潮』に発表。約13年間を経て、ようやく『雪国』が完結された。同月には随筆「哀愁」を『社会』に発表し、以下のように語っている。

12月30日には、〈無二の友人〉で〈恩人〉でもあった横光利一が死去した(49歳没)。〈友人との別魂も私の生涯では横光君の死に極つたであらう〉と川端は嘆いた。この年から川端は、古美術への関心を深め、その後、池大雅・与謝蕪村の『十便十宜』、浦上玉堂の『凍雲篩雪図』などの名品の数々をコレクションすることになる。

1948年(昭和23年)1月に横光利一の弔辞を読み、〈君の骨もまた国破れてくだけたものである。(中略)横光君 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく〉と、その死を悼んだ。3月には、もう一人の恩人であった菊池寛も死去した(60歳没)。5月から『川端康成全集』全16巻の刊行が開始され、各巻の「あとがき」で川端は50年の人生を振り返る(後年1970年にも、まとめて『独影自命』として刊行される)。また同月には、中学時代の同性愛の日記記録を元に、過去を振り返った「少年」を連載開始した。

川端は、相次ぐ友人たちの死と自身の半生を振り返りつつ、〈私は戦後の自分の命を余生とし、余生は自分のものではなく、日本の美の伝統のあらはれであるといふ風に思つて不自然を感じない〉と語った。6月には、志賀直哉のあとを引き継ぎ、第4代日本ペンクラブ会長に就任した。10月に、東方へのあこがれを詠った短編三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)の一編「反橋」を『風雪別冊』に発表した。11月には、東京裁判の判決を傍聴し〈私は東京裁判の最後の日を傍聴して憂鬱であつた〉とし、やはりBC級戦犯として絞首刑となった木村久夫(学徒兵)の遺書を纏めた塩尻公明の著書『或る遺書について』の言葉を引きながら、死刑宣告された7人について〈「奇しき運命の手に依って処刑される廻り合わせになった」のは、学生木村君と大して距たりがないやうに思へた〉と記した。

1949年(昭和24年)1月に「しぐれ」を『文藝往来』に、4月に「住吉物語」(のち「住吉」と改題)を『個性』に発表。5月から、戦後の川端の代表作の一つとなる『千羽鶴』の各章の断続的発表が各誌で開始された。9月からも同様に、『山の音』の各章の断続的発表が開始された。『山の音』は、戦争の時代の傷が色濃く残る時代の家族を描いた名作として、戦後文学の頂点に位置する作品となる。川端はこの時期から充実した創作活動を行い、作家として2度目の多作期に入っていた。同月、イタリアのベニスでの国際ペンクラブ第21回大会に寄せて、日本会長として、〈平和は国境線にはない〉とメッセージを送り、〈戦後四年も経つのに日本の詩人、批評家、作家が(為替事情などのために)一人も外国に行けないのを奇異に感じないか〉と疑問を投げて、朝鮮動乱直前のアジア危機に触れつつ、〈政治の対立は平和をも対立させるかと憂えられる。われわれ(日本ペンクラブ)が西と東との相互の理解と批評との未来の橋となり得るならば、幸いこれに過ぎるものはない〉と伝えた。10月に、祖父の火葬を題材とした少年時代の執筆作「骨拾ひ」を『文藝往来』に発表した。11月には広島市に招かれ、豊島与志雄、青野季吉と3人で原爆被災地を視察した。この月、衰弱していた秀子は3、4か月の子を流産した。

1950年(昭和25年)2月、養女・政子を題材とした「天授の子」を『文學界』に発表した。4月には、ペンクラブ会員らと共に、再び原爆被災地の広島・長崎を慰問して廻り、広島では「日本ペンクラブ広島の会」を持ち、平和宣言を行なった。川端は、〈原子爆弾による広島の悲劇は、私に平和を希ふ心をかためた〉、〈私は広島で平和のために生きようと新に思つたのであつた〉としている。長崎では、『この子を残して』の著者・永井隆を見舞った。旅の後、川端は京都に立ち寄り、相反する二つの都(広島、京都)に思いを馳せた。そして、焼失したと聞かされていた『凍雲篩雪図』(浦上玉堂の代表作)と奇遇し、すぐさま購入した。川端はお金を用意するよう妻へ懇願する手紙の中で、〈気味が悪いやうなめぐりあはせだ〉、〈何としても買ひたい。焼けたといふ事で埋もれ、行方不明になるのは勿体ない。玉堂の霊が僕にこの奇遇をさせたやうなものだ〉と書いている。8月、国際ペンクラブ大会に初の日本代表を送るため、スコットランドのエジンバラでの大会に募金のアピールを書き送った。『千羽鶴』『山の音』連作のかたわら、12月から「舞姫」を『朝日新聞』に連載開始する。この年、鎌倉文庫が倒産した。

1951年(昭和26年)2月27日、伊藤初代が44歳で死去した。初代の妹・マキの次女の紀子から川端へ手紙が来て、それを知った。初代の死については、のちに随筆『水郷』で書かれる。5月に「たまゆら」を『別冊文藝春秋』に発表した。6月に林芙美子が死去し、葬儀の委員長を務めた。この年、親善来日したユーディ・メニューイン訪日公演を三島由紀夫らと観に行った。1952年(昭和27年)1月に「岩に菊」を『文藝』に発表し、同月には「日も月も」を『婦人公論』に連載開始した。2月に単行本『千羽鶴』(『山の音』の既発表分と併せ収録)が筑摩書房より刊行され、これにより昭和26年度芸術院賞を受賞した。授賞式で昭和天皇と対面し、川端が言葉につまっていると、「(『千羽鶴』が)劇にやつてゐるね」と、ラジオで連続ドラマをやっていることについて天皇が声をかけたという。6月に林房雄の夫人・後藤繁子が自殺し、その通夜の席で三島由紀夫が川端夫人に、政子と結婚したいと申し出をしたが、秀子は川端に相談することなく、その場で断った。10月に大分県の招きで、竹田町(現・竹田市)九重高原を知人の画家・高田力蔵の案内で旅した(翌年6月にも再訪)。この旅が、『千羽鶴』の続編『波千鳥』の背景として生かされることとなる。法華院温泉に同宿していた作家志望の熊本の学生から、小説の勉強はどうしたらいいかを訊ねられた川端は、「自分の両親を写生しなさい」と答えたという。

1953年(昭和28年)1月から「川のある下町の話」を『婦人画報』に連載開始。4月からは、『千羽鶴』の続編となる『波千鳥』の各章の断続的発表が『小説新潮』で開始された。5月に堀辰雄が死去し(48歳没)、葬儀委員長を務めた。9月に、名古屋西川流「名古屋をどり」舞台台本「船遊女」を書き、二世西川鯉三郎の振付で上演された。11月には、永井荷風、小川未明らと共に芸術院会員に選出された。

1954年(昭和29年)3月、新設された新潮社文学賞の審査委員に就任する。4月には、『山の音』の単行本が筑摩書房より刊行され、これにより第7回野間文芸賞を受賞した。しかし川端は、一般的に成功作とされている『千羽鶴』『山の音』、また『雪国』について、〈一回の短編で終るはず〉のものを〈余情が残つたのを汲み続けたといふだけ〉とし、〈このやうなひきのばしではなく、初めから長編の骨格と主題とを備へた小説を、私はやがて書けるとなぐさめてゐる〉と語り、〈ほんたうに書きたい作品が一つも出来ないで、間に合はせの作品ばかり書き散らして、世を去つてゆくこと〉になりはしないかという危惧を痛感しながら、〈敗戦から七年を経、全集十六巻を出し終つて、今は変りたいと切に願つてゐる〉と語った。

そして川端は、『山の音』が刊行された同年の1月から、醜い足を持つ偏執狂の男を主人公にした「みづうみ」を『新潮』に連載開始する。この作品の心理描写の超現実的な新しい手法と「魔界」が注目された。この実験的作品は、以前の『水晶幻想』や、のちの『眠れる美女』に繋がっていくことになる。5月からは、「東京の人」を『中部日本新聞』などに連載開始した。

1955年(昭和30年)1月から「ある人の生のなかに」を『文藝』に断続的に連載開始。同月には、西川流舞踊劇台本の第二弾「古里の音」を書き下ろし、新橋演舞場で上演された。同月、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で「伊豆の踊子」が『アトランティック・マンスリィ』1月・日本特集号に掲載された。同年6月、ウィーンで行われた国際ペンクラブの大会に北村喜八と芳賀檀が日本代表として参加したが、芳賀の独断で1957年度の大会主催に日本が立候補することになり、開催するかで非常にもめたが、翌1956年(昭和31年)3月の日本ペンクラブ評議員会で、当時日本ペンクラブ会長だった川端が決断し、実際に開催することになった。

1956年(昭和31年)1月から『川端康成選集』全10巻が新潮社より刊行開始された。3月から「女であること」を『朝日新聞』に連載開始した。この年、エドワード・G・サイデンステッカーの英訳で『雪国』がアメリカで出版された(発売は翌年1月)。この『雪国』の英訳は、翻訳の困難な川端の感覚的な描写表現を苦心しながら巧く訳した名訳とされている。

1957年(昭和32年)3月22日に松岡洋子と共に、国際ペンクラブ執行委員会(ロンドンで開催)の出席のため羽田から渡欧した。会の終了後は、東京大会出席要請願いにフランスをはじめ、ヨーロッパ各国を廻り、モーリアック、エリオット、シローネらと会った。5月に帰国したが、その疲労で川端はやつれて、作品執筆がなくなってしまった。4月には『雪国』が映画化された(監督・豊田四郎)。9月2日、日本において第29回国際ペンクラブ東京大会(京都と東京)が開催された。資金集めから人集めの労苦を担った川端は、8日の京都での閉会式まで、主催国の会長として大役を果たした。川端は、東京開催までにこぎつける2年間を、〈この期間は私の生涯で、きはだつて不思議な時間であつた〉と振り返り、〈ロンドンの執行委員会から帰へてのち、私の中には私が消えてゐたらしい。いや、私の中に、別の私が生きてゐたと言つてもいい〉と語った。

1958年(昭和33年)2月、国際ペン執行委員会の満場一致の推薦で、国際ペンクラブ副会長に選出され、3月には、「国際ペン大会日本開催への努力と功績」により、戦後復活第6回(1958年)菊池寛賞を受賞した。6月には視察のため沖縄に赴いた。体調を崩し、8月に胆嚢が腫れていると診断されたが、そのまま放置したため、心配した藤田圭雄らが10月21日に冲中重雄医師に鎌倉まで来てもらい、11月から胆石(胆嚢炎)のため東大病院に入院し、12月には秀子夫人も病気で同入院した。翌1959年(昭和34年)4月に東大病院を退院した後、5月に、西ドイツのフランクフルト市から文化功労者としてゲーテ・メダルを贈られることが決まり、7月に、同市で開催の第30回国際ペンクラブ大会に出席し、メダルを受賞した。11月から第2弾の『川端康成全集』全12巻が新潮社より刊行開始された。この年は永い作家生活の中で、初めて小説の発表が一編もなかった。

1960年(昭和35年)1月から「眠れる美女」を『新潮』に連載開始した。この作品は川端の「魔界」をより明確に展開させたものとして、以前の『みづうみ』や、その後の『片腕』の世界観に繋がり、老年となっても芸術家として新たな創造に向かう精進の姿勢がうかがわれるものとなった。5月にアメリカ国務省の招待で渡米し、7月にはブラジルのサンパウロでの第31回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席した。8月に帰国し、随筆「日本文学の紹介――未来の国ブラジルへ――ニューヨークで」を『朝日新聞』に発表した。この年、フランス政府からは、オルドル・デザール・エ・デ・レトル勲章の芸術文化勲章(オフィシエ勲章)を贈られた。

1961年(昭和36年)執筆取材のため数度、京都に旅行し、左京区下鴨泉川町25番地に家(武市龍雄方)を借りて滞在し、1月から「美しさと哀しみと」を『婦人公論』に連載開始する。5月には、ノーベル文学賞への推薦文を三島由紀夫に依頼した。10月からは、伝統を継ぎながら新しく生きる京都の人々を背景に双子の姉妹の数奇な運命を描いた「古都」を『朝日新聞』に連載開始した。この作品で描かれたことにより、京都で育まれている伝統林業の北山杉が注目された。「古都」執筆の頃、以前よりも多量に睡眠薬を常用することが多かった。11月には第21回文化勲章を受章した。

1962年(昭和37年)、睡眠薬の禁断症状により、2月に東大冲中内科に入院した。10日間ほど意識不明状態が続いたという。入院中に、東山魁夷から文化勲章のお祝いに、京洛四季シリーズの北山杉の絵『冬の花』が贈られた。10月には、世界平和アピール七人委員会に参加し、湯川秀樹、茅誠司らとベトナム戦争でのアメリカの北爆に対する反対声明を出した。11月に単行本『眠れる美女』が新潮社より刊行され、これにより第16回毎日出版文化賞を受賞した。同月には、掌の小説「秋の雨」「手紙」を『朝日新聞』PR版に発表。随筆「秋風高原――落花流水」を『風景』に連載開始した。

1963年(昭和38年)4月に財団法人日本近代文学館が発足し、監事に就任した。さらに、近代文学博物館委員長となった。5月1日には、大ファンであった吉永小百合主演の『伊豆の踊子』の映画ロケ見学のため伊豆に出かけた。クランクイン前日に川端宅を訪ねていた吉永小百合は、原作の大事な部分(踊子が「いい人ね」と何度も言うところ)が、映画の台本に無いことにショックを受け、それを川端に話そうかと迷ったが言えなかったという。川端はその後、吉永に手紙を書いたり20歳の誕生日パーティーなどに出席している。7月に「かささぎ」「不死」を『朝日新聞』PR版に発表。8月から「片腕」を『新潮』に連載開始した。1964年(昭和39年)1月には、「ある人の生のなかに」を『文藝』に発表した。2月に尾崎士郎、5月に佐藤春夫が死去し、訃報が相次いだ。6月から「たんぽぽ」を『新潮』に断続的連載を開始する(未完)。同月には、ノルウェーのオスロでの第32回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、ヨーロッパを廻って8月に帰国した。

1965年(昭和40年)4月から1年間、NHKの連続テレビ小説で書き下ろしの『たまゆら』が放映開始された。7月に伊藤初代の死を明かした随筆「水郷」を『週刊朝日』に発表した。8月に高見順が死去し、葬儀委員長を務めた。10月に日本ペンクラブ会長を辞任し、芹沢光治良に後をゆずった。11月12日、伊豆湯ヶ島温泉に『伊豆の踊子』の文学碑が建立された。この除幕式では、作中の最後に登場する受験生の〈少年〉のモデルである後藤孟と47年ぶりに再会した。後藤は、蔵前高工(現・東京工大)受験のために下田港から「賀茂丸」に乗船し、一高生であった川端と乗り合わせ、作中で描かれた受験生であった。1966年(昭和41年)1月から3月まで肝臓炎のため、東大病院中尾内科に入院した。4月18日には、日本ペンクラブ総会の席上において、多年の功績に対し胸像(製作・高田博厚)が贈られた。

1967年(昭和42年)2月28日、三島由紀夫、安部公房、石川淳らと共に帝国ホテルで記者会見し、中国文化大革命は学問芸術の自由を圧殺しているとする抗議声明を出した(声明文の日付は3月1日)。4月には、日本近代文学館が開館され、同館の名誉顧問に就任した。5月から随筆「一草一花」を『風景』に連載開始した。7月に養女・政子が山本香男里と結婚し、山本を入り婿に迎えて川端家を継がせた。川端は政子の縁談話や見合いがあっても脇で黙って何も言わなかったが、いざ結婚が具体化すると、「娘を川端家から出すわけにはいかない」として強い語気で相手方に告げたという。8月に、日本万国博覧会政府出展懇談会委員となった。12月には、政子夫婦の新居を見に北海道札幌に旅行するが帰宅後の11日に政子が初期流産したと聞き、再び札幌へ飛び、政子の無事を確認して帰京した。

1968年(昭和43年)2月に、「非核武装に関する国会議員達への懇願」に署名した。6月には、日本文化会議に参加した。6月から7月にかけては、参議院選挙に立候補した今東光の選挙事務長を務め、街頭演説も行なった。10月17日、日本人として初のノーベル文学賞受賞が決定した。その後19日に、アルムクイスト・スウェーデン大使が川端宅を訪れ、受賞通知と授賞式招待状を手渡した。受賞理由は、「日本人の心の精髄を、すぐれた感受性をもって表現、世界の人々に深い感銘を与えたため:"for his narrative mastery, which with great sensibility expresses the essence of the Japanese mind."」で、対象作品は『雪国』『千羽鶴』『古都』と、短編『水月』『ほくろの手紙』などであった。1961年(昭和36年)に最初に候補者となってから7年かかっての受賞であり(2012年の情報開示)、1966年(昭和41年)まで毎年候補者となっていたことが、2017年(平成29年)時点の情報開示で明らかになっている。川端は報道陣のインタビューに、〈運がよかった〉とし、〈翻訳者のおかげ〉の他に、〈三島由紀夫君が若すぎるということのおかげです〉と謙遜して答えた。

翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビ、NHKラジオで放送された。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「鈴」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している。

12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった。この講演は、道元、明恵、西行、良寛、一休などの和歌や詩句が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。川端は、ルチア祭の翌日13日に疲労で倒れて食事もせず15日の夜まで眠っていたという。帰途に寄ったパリでは、キスリングの『少女』を購入した。同12月には、郷里の茨木市名誉市民となった。なお、川端はこの頃、『源氏物語』の現代語訳の準備を着々と進めていた。

1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪、福岡、名古屋でも開催)。

6月には鎌倉市の名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。10月26日には、母校・大阪府立茨木中学校(現・大阪府立茨木高等学校)の文学碑「以文会友」の除幕式が行われた。11月に伊藤整が死去し、葬儀委員長を務めた。川端は伊藤の死の数日前から自身の体にも違和を感じていたという。同月から、第3弾の『川端康成全集』全19巻が新潮社より刊行開始された。この年は小説の発表がなかった。

1970年(昭和45年)5月9日に、久松潜一を会長とする「川端文学研究会」が設立され、豊島公会堂で設立総会・発会記念講演会が開催された。13日に長野県南安曇郡穂高町(現・安曇野市)の招聘で、井上靖、東山魁夷と共に同地を訪れ、国道糸魚川線(旧糸魚川街道)の脇にある植木屋の養父を持つ鹿沢縫子(仮名)と出会った。植木屋は川端家に盆栽を贈り、それを縫子が車で配達していた。

6月15日から5日間の日程で中華民国を訪問。台北での台湾ペンクラブ主催の「第三回アジア作家会議」に出席して講演を行なった。続いて、京城(韓国のソウル。この時は「京城」大会と呼称)での第38回国際ペンクラブ大会にゲスト・オブ・オーナーとして出席し、7月2日に漢陽大学校から名誉文学博士号を贈られ、『以文会友』の記念講演を行なった。この時、大江健三郎、小田切秀雄らは、朴正煕の軍事独裁政権下での開催に反対し、ペンクラブを退会した。11月5日から鹿沢縫子が6か月間の約束でお手伝いとして川端家に来た。その話が穂高町に広まった時、縫子に関して「生みの親も知らぬ孤児」「養家は部落の家系」などといった110通もの中傷の投書が川端の元へ舞い込んだ。

1971年(昭和46年)1月24日、築地本願寺で行われた三島の葬儀・告別式では葬儀委員長を務めた。3月から4月にかけては、東京都知事選挙に立候補した秦野章の応援に立った。この時は一銭の報酬も受け取らず、ホテル宿泊代も自腹であった。5月に、「川端康成書の個展」を日本橋「壺中居」で開催した。9月4日に世界平和アピール七人委員会から、日中国交正常化の要望書を提出した。10月9日には2番目の孫・明成(男児)が誕生した。同月21日に志賀直哉が死去し、25日には立野信之の臨終に立ち会った。立野からは、翌年の11月に京都で開催される「ジャパノロジー国際会議」(日本文化研究国際会議)の運動準備を託された。川端は年末にかけて、京都国際会館の確保の準備や政界財界への協力依頼、募金活動に奔走し、健康を害した。11月に最後の小説「隅田川」を『新潮』に発表し、12月から同誌に随筆「志賀直哉」を連載開始した(未完)。謡曲『隅田川』に拠った「隅田川」は、戦後直後に発表された三部作(「反橋」「しぐれ」「住吉」)に連なる作品で、〈あなたはどこにおいでなのでせうか〉という共通の書き出しとなり、「母」なるものへの渇望、旅心が通底している。

同11月には、世界平和アピール七人委員会が四次防反対の声明を出した。同じく11月には伊達宗克から『裁判記録「三島由紀夫事件」』の序文依頼を受けて12月20日に直接伊達と会った際に「書きますよ」と返答していた。孫の明成を可愛がっていた川端は、この年の暮にふと政子に、「ぼくが死んでもこの子は50までお小遣いぐらいあるね」と、自分の死後の著作権期間を暗示するような不吉なことを口にしたという。

1972年(昭和47年)1月2日にフジテレビのビジョン討論会「日本の美を考える」に出席し、草柳大蔵、飛鳥田一雄、山崎正和と語り合った。同月21日には、前年に依頼されていた歌碑(万葉の碑)への揮毫のために奈良県桜井市を保田與重郎と共に訪問し三輪山の麓の檜原神社の井寺池に赴き、倭建命の絶唱である「大和は国のまほろば たたなづく 青かき山ごもれる 大和し美し」を選んだ。2月25日に親しかった従兄・秋岡義愛が急死し、葬儀に参列した。同月に『文藝春秋』創刊50年記念号に発表した随筆「夢 幻の如くなり」では、〈友みなのいのちはすでにほろびたり、われの生くるは火中の蓮華〉という句を記し、〈織田信長が歌ひ舞つたやうに、私も出陣の覚悟を新にしなければならぬ〉と結んだ。また最後の講演では、〈私もまだ、新人でありたい〉という言葉で終了した。3月7日に急性盲腸炎のために入院手術し、15日に退院した。同3月、1月に決めた揮毫の約束を急に断わった。川端は、自分のような者は古代の英雄・倭建命の格調高い歌を書くのは相応しくはないと、暗く沈んだ声で言ったという。4月12日に、吉野秀雄の長男・陽一がガス自殺し、その弔問に出かけた。

4月16日の午前11時頃、しゃがみこんで郵便物や寄贈本などに目を通していた川端に、婿の香男里が「おはようございます」と声をかけると、川端は会釈して書斎に引き上げていった。2時頃、川端と秀子夫人はお手伝いの鹿沢縫子を呼び、働く期間を11月まで延長してほしいと頼んだが、縫子は「予定通り4月までで穂高に帰ります」と答え、川端は「駄目ですか。…そうですか」と小さく言った。2時45分過ぎ頃、川端は「散歩に行く」と家人に告げ、鎌倉の自宅を出てハイヤーを拾い(運転手は枝並二男)、同年1月7日に仕事場用に購入していた神奈川県逗子市の逗子マリーナ本館の部屋(417号室)に午後3時過ぎに到着した。夜になっても自宅に戻らないので、手伝いの嶋守敏恵と鹿沢縫子が午後9時45分過ぎに逗子マリーナを訪れ、異変に気づいた。

マンションの自室で、長さ1.5メートルのガス管を咥えた川端が絶命しているのが発見され、ガス自殺と報じられた(秀子夫人は、ガス管は咥えていないとしている)。72歳で永眠。死亡推定時刻は午後6時頃でガス中毒死であった。洗面所の中に敷布団と掛布団が持ち込まれ、入り口のガスストーブの栓からガス管を引いて、薄い掛布団を胸までかけて眠っているかのように死んでいた。常用していた睡眠薬(ハイミナール)中毒の症状があり、書斎から睡眠薬の空瓶が見つかった。部屋には〈異常な才能〉と高評価して前年に購入した村上肥出夫の絵『キャナル・グランデ』が飾られ、枕元には、封を切ったばかりの飲みかけのウイスキー(ジョニーウォーカー)の瓶とコップがあり、遺書らしきものはなかったという。その突然の死は国内外に衝撃を与えた。

鎌倉の自宅書斎には、『岡本かの子全集』(冬樹社版)の「序文」の1枚目と2枚目の11行まで書いた原稿用紙と、1枚目の書き直しが8枚あった。これは以前に川端が書いたものを冬樹社がアレンジして作った下書きが気に入らなくて、書き直そうとしたものだという。またその後に、書斎の手文庫(小箱)の中からは、B6判ぐらいの大きさの千代紙の表紙のついた和綴じの、和紙でできたノート2冊が発見された。そのノートには『雪国抄』一、二と題されていた。前年11月に伊達宗克から依頼されていた『裁判記録「三島由紀夫事件」』の序文は、3月の盲腸手術もあってゲラ刷りも遅れたこともあり、この4月16日か17日に弟子の北條誠が出来上がった文章を川端から受け取って伊達に渡す予定日になっていたが叶うことはなかった。

翌17日に通夜をし、高田博厚が来てデスマスクをとった。18日に密葬が自宅で行われた。政府から正三位に叙位され、勲一等旭日大綬章を叙勲された。5月27日には、日本ペンクラブ、日本文芸家協会、日本近代文学館の三団体葬により、「川端康成・葬」が芹沢光治良葬儀委員長のもと青山葬儀所で執り行われた。戒名は「文鏡院殿孤山康成大居士」(今東光が名付けた)。6月3日、鎌倉霊園に埋葬された。この日は偶然にも伊藤初代の遺骨が、仮埋葬されていた文京区向丘2丁目29-1の十方寺から鎌倉霊園に移されていた日であった。霊園の事務所で初めてその事実を知った川端香男里は、「(川端と初代は)最後まで不思議な御縁があった」と語っている。

8月に遺稿の「雪国抄」が『サンデー毎日』に掲載された。9月から日本近代文学館主催の「川端康成展」が全国各地で巡回開催された。10月に財団法人「川端康成記念会」が創設され、井上靖が理事長となった。11月、日本近代文学館に「川端康成記念室」が設置された。同月には、3月に川端が断った揮毫を完成させるために、『美しい日本の私―その序説』の川端の字から集字して、奈良県桜井市にある日本最古の古道「山の辺の道」に川端揮毫の倭建命の歌碑「万葉の碑」が完成された。

1973年(昭和48年)3月、財団法人「川端康成記念会」によって川端康成文学賞が創設された。

1974年(昭和49年)4月16日の三回忌に、伊藤初代の父親・忠吉の郷里の岩手県江刺郡岩谷堂(現・奥州市江刺区)の増沢盆地を見下ろす向山公園の高台に、「川端康成ゆかりの地」の記念碑が建立された(題字は長谷川泉で、裏側の銘文は鈴木彦次郎)。

1976年(昭和51年)5月に、鎌倉市長谷264番地(現・長谷1丁目12-5)の川端家の敷地内に「川端康成記念館」が落成して披露された。

1981年(昭和56年)5月20日、大阪の住吉神社境内に、『反橋』の文学碑が建立された。6月には、長野県上水内郡鬼無里村(現・長野市鬼無里)松巌寺境内に、『牧歌』の一節と、川端自筆の道元禅師の「本来の面目」――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり――が刻まれた文学碑が建立された。この文学碑を建てることを発案した川俣従道は、1936年(昭和11年)11月23日の新嘗祭の学校の式の帰り、この地の鬼女紅葉伝説の跡を歩いていた川端に道を聞かれた小学生であった。川俣は中学校では、酒井真人(川端の旧友)の教え子となり、それがきっかけでその後、川端と再会したという。

同年1981年(昭和56年)5月1日には、伊豆の湯ヶ島の水生地に、川端の毛筆書きによる『伊豆の踊子』の冒頭文を刻んだ新しい文学碑が建てられ除幕式が行われた。左半分の碑面には川端の顔のブロンズのレリーフがはめこまれている。

1985年(昭和60年)5月に、茨木市立川端康成文学館が開館した。

生誕110年の年に当たる2009年(平成21年)11月14日に、岐阜県岐阜市湊町397-2のホテルパークから鵜飼観覧船乗り場に行く途中のポケットパーク名水に、小説『篝火』にちなんだ「篝火の像」(長良川に向い、鵜飼船の篝火を眺める川端と伊藤初代が並んだ像)が建立され除幕式が行われた。

2014年(平成26年)に、川端が伊藤初代に宛てた未投函書簡1通と、初代から川端に宛てた書簡10通が川端の旧宅から発見された。

2018年(平成30年)茨木市によって川端康成青春文学賞が創設された。

生誕120年となる2019年には、姫路市立美術館と姫路文学館で「生誕120年 文豪川端康成と美のコレクション展」が開催され、川端が収集した美術品や直筆原稿、書簡など約280点が公開された。

没後50年となる2022年、日本近代文学館では4月2日から6月11日に「没後50年・日本近代文学館開館55周年 川端康成展 ―人を愛し、人に愛された人―」が開催された。編集委員は坂上弘と中島国彦がつとめた。川端康成文学館では5月に特別展が開催された。神奈川近代文学館では10月1日から11月27日に特別展「没後50年 川端康成展 虹をつむぐ人」が開催され、約400点の資料が展示された。編集委員は荻野アンナがつとめた。ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画もあった。

創作の主題・源流

川端は、自身の文学創作に関して、〈恋心が何よりの命の綱である〉とし、作品テーマや理想に関するものを語ったものとして、以下のような言葉がある。

2024/05/16 20:04更新

kawabata yasunari


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(かわばた たかゆき)
1960年2月9日 大阪

2月9日生まれwiki情報なし(2024/05/17 08:57時点)

川端 絵美
(かわばた えみ)
1970年2月13日 北海道

川端 絵美(かわばた えみ、1970年2月13日 - 、現姓・北島)は、日本の元アルペンスキー競技の選手。アルペンスキー解説者。北海道札幌市出身。現役時代はKDD(現・KDDI)所属。 日本の女子ア…

川端 健嗣
(かわばた けんじ)
1962年2月21日 東京

川端 健嗣(かわばた けんじ、1962年(昭和37年)2月21日 - )は、フジテレビ秘書室役員待遇会長秘書チーフで、元同局アナウンサー。 既婚。 東京都中央区銀座出身。立教小学校、立教中学校(現…

川畑 強
(かわばた つよし)
1920年3月17日 鹿児島

3月17日生まれwiki情報なし(2024/05/17 05:26時点)

川端 順
(かわばた じゅん)
1960年3月19日 徳島

川端 順(かわばた じゅん、1960年3月19日 - )は、徳島県板野郡松茂町出身の元プロ野球選手(投手)・コーチ、政治家。松茂町議会議員(1期)。 鳴門高時代は「徳島屈指の本格派投手」と言われ、…

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